34.約束

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34.約束

 歩道橋の階段を足早に下り、啓はちらりと時計に目を走らせる。  遅刻だ。  もっとも彼のことだから、そんなに慌てることないのに、と笑ってくれそうな気はするけれど。  昼間は汗ばむくらいの陽気だったのに、そよぐ風にまだ冷たさを覚える金曜日の夜、いつも夕飯を作らせてばかりでは申し訳なくて、たまには外食をしようと誘ったのは自分だ。なのに、その自分が遅刻するなんて。  歩道橋を下り切ったところでスマホを引っ張り出す。発信ボタンを押そうとした瞬間、震えだした。椋からのメッセージだ。  電車が遅れてる。少し待たせるかも。ごめん。  呼び出してかえって申し訳ない気分になりつつ、啓は返信した。  もし大変そうなら今日は大丈夫だよ。また行こう。  ポケットに戻したとたん、すぐに震えだしたスマホを再び取り出し啓は苦笑した。 ──もうちょっとだし。待ってて。会いたい。 「馬鹿」  小声で呟いて啓は立ち止まってスマホを操作した。近所の小料理屋に席を予約していたのだけれども、少し遅れることを電話しておいたほうがいいだろう。 『はい、杜若です』 「あ、すみません、中川ですが」 『ああ、中川さん。どうなさいました?』  この店は時折ぶらりと寄るので顔なじみだ。啓はすたすたと歩き出しながら時計を見た。 「すみません、八時半に予約をしていたのですが少し遅れてしまいそうで」  そう言ったとたん、あら、と電話の向こうで女将は楽しそうに笑った。 『お連れの方、もういらっしゃってますよ。だめですよ、女性をお待たせしちゃ』 「え?」  思わず足を止めて尋ね返すが、女将はくすくすと笑って提案してきた。
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