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35.なぜ
『いらっしゃるまでなにか適当に出しておきましょうか。あとどれくらいでいらっしゃいます?』
「ええと……十分ほどで……」
思わず答えてから、いやいや、なにか勘違いしているな、と思い問いかけようとした啓を、女将はいつものはつらつとした様子で遮った。
『じゃあ急いでいらしてくださいな』
電話の向こうでがらがら、と引き戸が開く音が聞こえ、いらっしゃい、と店員の声が輪唱する。ちょっと、と言いかけた啓を置いてきぼりに電話は切れた。
女将は誰かと勘違いしているのだろうか。
多分そうだろう。椋はまだ電車だと言っていたし今このタイミングで店にいるのは早すぎる。
首をひねりつつ杜若に到着した啓は、満面の笑みを浮かべた女将に迎えられた。
「お連れ様、いらっしゃってますよ。奥の座敷です」
「あの、それ僕の連れじゃないかも。女性ですよね」
「あら? だけど、中川さんってお名前おっしゃってましたよ?」
ますますもってわからない。怪訝に思いながら案内された奥の個室の引き戸を開けた啓を、室内にいた人物がゆっくりと見た。
「中川さん?」
語尾を少し上げ、確かめるように啓の名を呼ぶ彼女が最初誰なのか一瞬わからなかった。いや、わかっていたけれどなんで自分の名前をこの人物が口にしているのかさっぱり理解できないでいた。
少し暗めの照明の下でも色あせない完璧な笑顔で、栗色の緩くウェーブのかかった髪をさらりと耳にかけ、彼女、高槻都はゆっくりと口を開いた。
「中川啓さんですよね」
「そうですが……、あの、なぜ……」
なぜここにいるのか。なぜ自分の名前を知っているのか。
複数のなぜを言葉にできず呆然と問うと、彼女は品の良いピンクベージュの唇をほころばせた。
「とりあえず座りません? 少しお話してみたいと思っていたので。椋のことで」
ふっと血の気が失せるのを感じた。目を見張った啓の前で、高槻都はアーモンド形の目を細めた。
「座ってください」
才女と名高い彼女の冷静な声に促され、啓は彼女の向かいの席に腰を下ろした。が、そのまま数秒彼女は口を開く様子がない。そっと彼女を見返すと、彼女は長い睫毛を瞬いた。
「綺麗な顔してるんですね。最初は冗談かと思ったけど。まあ、顔だけで言えば椋と釣り合ってないこともないわね」
呟きながら彼女は目の前のグラスを取り上げる。琥珀色の液体がグラスの中で揺れた。
「なにか、頼まれません?」
「いえ」
ようよう首を振ると、彼女は軽く首を傾げてから笑い出した。
「怯えないでください。別にあなたになにかしようってわけでもないし」
グラスに唇を当て、彼女は薄く笑んだまま上目づかいにこちらを見据えた。
「興味があったんです。あの椋がずいぶん入れ込んでる相手。しかも男の。どんなことになってそんなことになったんだか知りたくて」
問う声が耳をしびれさせていく。啓はそっと呼吸を整える。
「あの、なにか勘違いされていらっしゃるようですが、椋さんとはただの友人で」
「しらを切ってもだめ。知ってるわ。毎週毎週あなたの家に通ってるんでしょ。あの椋が」
啓の否定の言葉を一笑のうちに遮り、彼女は机の向こうから身を乗り出した。
「知ってる? 彼、これまで誰と付き合ってもそんなことしなかったのよ。そもそも追いかけられることはあっても追いかけることなんてしない。それが椋だったの。でもあなたには違う」
彼女の大きな目がずいと迫る。思わず背筋を伸ばした啓に、彼女は囁いた。
「彼、本気よ。一体どんな魔法でたらしこんだの」
敬語の消えた彼女の声を反芻し、啓は膝の上で拳を握る。
彼女は知っている。ごまかしても無駄だろう。
息を一度吸って吐いてから、啓はゆっくりと目を上げた。
「あなたは、なぜそれを? そもそも、なぜここに?」
「見たから。椋のスマホ」
罪の呵責など微塵もない様子で言われ啓は絶句する。彼女は長い髪を軽く弄びながら面白そうに続けた。
「びっくりしちゃった。あの椋があんな情熱的なLINE送るなんてね。私にもあんなの送ってきたことないのに」
「あの……あなたは……」
必死で声を絞り出すと、彼女は笑みを顔に貼りつけたまま、どこか挑むように目に力を込めた。
「彼女。少し前の、だけど」
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