36.もっと早く

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36.もっと早く

 ふっと脳裏を過ったのはあのときの椋の様子だ。高槻都との対談について打診したとき、彼にしては珍しく歯切れが悪かった。  いまさら話すことないし、向こうもきっとそうだから、と確かに彼はそう言った。 「今度は私が訊くわね」  彼女が机にグラスを戻す、かたん、という音がやけに響いた。 「あなたは椋とのこと、どうするつもりなの? 椋はメディアでの露出も多いし、女性ファンも多い。その椋が担当編集と、しかも男の編集と付き合ってるとなると騒がられる可能性は高い。そういうのあなたは覚悟の上で付き合ってるわけ」  覚悟。  言葉をなくした啓を冷めた目で眺めてから、彼女は乾いた声で命じた。 「椋じゃ埒が明かないし、あなたに言うわね。どちらにもデメリットしかない付き合いなんておやめなさい。傷つくだけよ」 「それは」  思わず口を開くと、彼女の強い眼差しがこちらを射る。とっさに口を噤んで啓は自分自身に問いかけた。  今、なにを自分は言うつもりだったのだろう。  彼女の言うことは正論だ。間違いなんてどこにもない。まして今の自分のような人間には当然言われても仕方がないような言葉だ。  それなのに、自分はなにを言おうとした? 「あなたは……椋のことをどう思っているんですか」  動揺を押し殺してそう問うと、彼女は少し黙ってからぶっきらぼうに答えた。 「大事に思ってる。幸せになってほしいの。それだけよ」 「そう、ですか」  それしか言えなかった。彼の幸せ。その言葉は啓を打ちのめしていた。だって自分と一緒にいて彼が幸せになれるわけなんてないのだから。  この場にこのまま座り続けることも辛くて腰を上げたとき、ふいにテーブル越しに腕を掴まれた。 「あなた、椋のこと、本気なのね」  こちらを見上げる強い視線に驚いた。  本気もなにも、と言いかけて啓は言葉を呑み込む。  自分が好きな人は遠藤京介だ。それは絶対で揺るがないはずだった。  椋は寂しさを癒してくれる相手。自分は彼を好きなんかじゃない。好きなんかじゃないはずだったのに。  でもふと気づく。ここ数日、遠藤のことを思い出しもしなかったことを。 脳裏に繰り返し繰り返し姿を現していたのは彼じゃなかったことを。  簡単なことだったのに。どうして自分は気づこうとしなかったんだろう。  抱きしめられて安心して、傍にいないと不安になって。電話の声に温かくなって。口づけされて切なくなった。  そんなこと、好きな相手じゃなければあり得ない感情だったのに。  もっと早く気づいていればよかったのに。 「いいえ」  啓はその場に座り直し、彼女の手をそっとはずして微笑んだ。 「本気なんかじゃありません。ただの遊びです」
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