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37.恋愛じゃない
彼女が驚いたように目を見開く。その彼女にゆっくりと頭を下げて啓は囁いた。
「ご心配なく。もうちゃんと終わらせます。彼には小説を書いてもらわなければならない。それが僕の仕事ですから」
そう。気づいたからと言って、気づいてしまったからこそ、何食わぬ顔をして彼の隣にあることなどできない。
自分は彼を利用した。ただ寂しいというその思いだけで彼の腕に甘えた。彼の気持ちも振り返らずに。それなのに、いまさら好きなんて言えない。
そんな虫のいいこと、言うわけにはいかない。
彼女の言う通り、彼を愛し彼の傍にいたとして彼のためになんてならない。自分の存在は彼の未来を刈り取るものにしかならない。
彼に必要なのは、自分じゃない。
「失礼します」
そっと立ち上がったとき、待って、と呼び止められた。
振り向いた啓をまっすぐに見つめ、彼女は静かに尋ねた。
「訊いておきたいんだけど。あなた、十年くらい前、西応大学病院にいなかった?」
「は?」
質問の意図が読めず首を傾げると、彼女は迷うように首を振った。
「あなたの名前見たときから、なんだか以前からあなたを知っているような気がずっとしていたの。だけど今日あなたを見て確信した。あなた椋とも昔西応大学病院で会ってるわよね」
「西応大学病院って……確かに大学のころ、ボランティアでよく出入りしましたけど、そんなはずは……」
中川さん。
言いかけた啓の耳をふっと誰かの声が過る。過った声を頭の中で呼び起こし、啓は口元を覆った。
時折蘇るその声。
その声を、自分は確かに聞いている。十年前、確かに。
「あなたは覚えてなくても椋は覚えてたってことか。まあ、椋にしてみれば忘れられるはずなんてないものね。あなたは恩人だもの」
「それ……まさか……」
言いかけた啓を覗き込み、彼女はゆっくりと告げた。
「椋はあなたと会っていなければ死んでいたのよ。あなた気づかなかった? 椋の右足義足なの」
言われて思い出す。彼の足に触れたときの違和感を。
呆然と彼女を見返したとき、ポケットに入れたままのスマホが振動した。名前を見るまでもなく椋のような気がした。
彼がここに来る。
「高槻さん」
そっと名前を呼ぶと彼女は軽く首を傾げる。その彼女に啓はそっと微笑みかけた。
「たとえ、十年前に会っていたとしても、それは過去のことです。彼は……勘違いしているだけだ。彼の僕への気持ちは恋愛じゃない。今、やっとわかりました」
ゆっくりと席を立ち、啓は彼女に一礼した。
「失礼します」
営業用の微笑を浮かべ、啓は部屋を出た。ちょっと、と彼女が背中で呼んだ気がしたけれど構わず扉を閉め、通りがかった女将に啓は笑顔で頼んだ。
「僕を訪ねてもうすぐ人が来ますから、その人、奥へ通してあげてください」
「あ、ええ。わかりましたけど。中川さんは?」
問いかけられたが啓は笑って会釈だけし、店を出た。
冷たい夜風に頬を撫でられながら啓はふっと空を仰ぐ。
やっと思い出した。
時折過ったあの声の正体を。今の今まで忘れていた彼のことを。
椋が自分の傍に頑なに居続けた理由。それはこれだったのだ。
記憶の底から浮かび上がってきたのは十年前のあの日々。不機嫌な顔ばかりをしていた彼の姿だった。
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