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39.生きてほしい
看護師と別れ、中庭のベンチに座ってふっと目を上げるとその彼の姿が病棟の一つの窓に見えた。窓によりかかってぼんやりしている彼のその顔はやっぱり不機嫌そうで、造作が綺麗なだけにまるで冷たく凍った花のように見えた。
気づいてはいた。彼がいつも一人でいることに。家族や友人が入れ替わり立ち代わり病室を訪れてはいたけれど、それ以外の時間、彼はいつも一人で不機嫌な顔をしていた。レクリエーションがあっても一切顔を出さず、ああして病室にこもっていた。
看護師や医師とも打ち解ける様子はなく、彼が発する言葉は足を切るのは嫌だ、というそればかりだった。
足を失う苦しみ、それは自分にはわからない。命と引き換えにしても足だけは失いたくない、そう叫んだ彼の気持ちがわかるなんて言えるものではなかった。
でも思っていた。このまま放っておけば彼は遠くない未来に死ぬ。まだ十代の彼が見据え続ける未来として、それはあまりにひどすぎる気がした。
次のボランティアの日、思い切って彼の病室を訪ねると、彼はやはり窓の外をぼんやりと眺めていた。
「澤木くん」
呼びかけると、胡乱そうに彼が振り向く。一ボランティアの顏なんて覚えてもいないだろう彼に啓は微笑んでみせた。
「はじめまして。中川啓といいます。よろしく」
「あんた、なに?」
面倒臭そうに尋ねる声に一瞬心がくじけそうになったけれど、啓は思い切って前に進み出た。
「一ノ瀬大学の四年。ときどきボランティアでこの病院に手伝いに来てて」
説明しかけて、ああ、多分彼が訊きたいのはこういうことじゃないな、と啓は悟った。
「いつも退屈そうにしてるから。よかったらこれ、どうかなって」
鞄の中から、小説を数冊出して見せると、彼はその綺麗なはしばみ色の目で本と啓を見比べてからふいと顔を背けた。
「いらない」
それきりこちらを見ようともしない。まあ予想通りの反応だ。言葉を重ねようとしたけれど思うような台詞も出なくて、啓は手にした本をベッド脇にある机に置いた。
「気が向いたらでいいから読んでみて。それじゃあ」
戸口でもう一度振り向いてみたけれど彼は顔を背けたままで、結局こちらを見ることはなかった。
余計なことをしているという自覚はあった。でもなんだか放っておけなかった。
次のボランティアの日も、また次のときも、啓は本を持って彼を訪ねた。彼はやっぱりこちらを向くことなんてなく、たまにこちらを向いても、お節介の偽善者、と暴言を吐くばかりで、啓の持ってきた本はただ机の上に積まれる一方だった。
さすがに迷惑かもしれない。でも口下手な自分がわかりもしないのに彼を慰めることなんてできるわけがない。自分よりもよっぽど本の力のほうが彼を勇気づける。そう思っていたのだけれど。
心が折れそうになりながら彼の病室を訪れた啓はそこで思いもよらない光景を目の当たりにして立ち尽くした。
彼が、泣いていた。
夕日が差し込む部屋で、ベッドに半身を起こした彼は一冊の本を手にしてぼろぼろと泣いていた。
白い頬を滑った涙が、窓からの夕日を透かして金色に輝いて落ちる。
声をかけることもできなくて立ち尽くしたとき、はっと彼が顔を上げた。
ぎょっとしたようにこちらを凝視した彼は、乱暴に目をパジャマの袖で拭った。
「あんた……なんでこんな本持ってくるんだよ……」
ごしごしと音がしそうなほど目をこすりながら彼は怒鳴った。
「気まぐれで読んだだけなのに、はずみで泣いちゃったじゃないか」
ああ、むかつく、そううめいた彼の手にあったのは昔映画にもなった「ハラスのいた日々」という愛されて生きた犬の生涯をつづった本だった。
「ごめんね」
そっと返すと、腕を下ろして彼がこちらを見る。彼の真っ赤な目を見て啓は微笑んだ。
届くかどうかはわからない。でも、少しでも彼が自分の病以外のものに目を向けてくれたことがそのとき、うれしいと感じた。
生きてほしいと、そう思った。
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