4.変わってない

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4.変わってない

 「花の谷」。それは不思議な小説だった。舞台はとある村落。そこでは人が死ぬと花の谷へお骨を投げ入れるという奇妙な風習があった。花の谷が極楽浄土の入口という信仰があるからだ。その村で育ち、都会に出ていっていた主人公の青年は父が亡くなり葬儀のためにこの村へ戻ってくる。葬儀の日、父を慣習通り谷へと埋葬した夜、彼は学生時代の恋人と再会する。美しく成長した彼女に青年は夢中になり、彼女も青年を受け入れ、二人は体を重ねる。けれど彼女と別れて家に戻ってから母に彼女のことを話すと、母は驚く。彼女は一月ほど前に病気で亡くなっているというのだ。青年は信じられない気持ちを抱え、生者が立ち入ってはならないと言われている花の谷へ彼女の遺骨があるかどうかを確かめに向かう。  正直、恋愛小説か? と首を傾げる内容ではある。が、この後、花の谷で死者の彼女と再会したものの彼女に乞われ、生者の世界へ戻っていく青年と死者である彼女の別れの描写など心の芯を抉り出されるような描き方で、確かに根底にあるのは恋愛なのだなと思う。  悲しくなるほど綺麗な文章だ。一体、実態はどんな人なんだろう。本から目を上げ窓際の彼に目をやったときだった。  軽く彼が身じろぎする。長い睫毛を瞬かせそっと目を開いてから、彼はゆっくりとこちらを見た。  はしばみ色といおうか、淡い色彩の瞳が啓の上で止まる。そのまま動かない視線に啓は慌てて椅子から立ち上がった。 「お待たせしてしまって申し訳ありませんでした、澤守先生」  澤守葵は無言でこちらを見ている。眠っているときはただ美しい青年だなと思ったけれど、まっすぐにこちらを見る目に宿る強い光のせいか、美しいというよりも冷たいと言ったほうがいいような尖った空気が彼を包んでいた。 「申し遅れました。保科からメールでご連絡させていただいておりましたが、私が今度から先生を担当させていただくこととなりました。中川と申します。よろしくお願いします」  葵に近づき名刺入れから名刺を抜き取って彼に差し出すと、彼は長い指で受け取った。もっとぞんざいな手つきで受け取るかと思ったが、思ったよりもその手つきは丁寧で、啓はおや、と思う。  噂よりまともな人かもしれない。 「中川、啓?」  ゆっくりと啓の名前を彼は発音する。はしばみ色の目がまっすぐに啓を見つめる。啓は営業用の笑顔で微笑んだ。 「はい。よろしくお願いします」  葵はやはり押し黙ったままだ。啓が首を傾げると、葵は啓から受け取った名刺をそうっと机に置いてから言った。 「驚いた。中川ってあんたのことだったんだ」  俯いた拍子に柔らかそうな髪が頬に落ちる。それにしてもかっこいい人だなとぼんやりと思ったとき、ふっと彼は顔を上げた。 「全然、変わってない」
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