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5.今のあんたとは
「…………は?」
変わってない、と聞こえた。聞き違いだろうか、と啓は首を傾げたまま問い返した。
「すみません、いま、なんと?」
葵は再び黙りこくる。思った以上に気難しい人のようだ。さてどうしよう、と思ったとき、唐突に彼は眉をひそめた。
「ようするに記憶がないと」
「あの……」
「ああ、まったく」
吐き散らすようなため息に、え、と目を上げた啓の前で、葵は片肘で頬杖をついて啓から目を背けた。
「我ながら、馬鹿馬鹿しい」
「先生?」
呼びかけると、綺麗なはしばみ色の目が剣呑な眼差しを投げてくる。なんだ? とたじろぐ啓に葵は苛立ったように前髪をかきあげた。
「あんた、俺の担当してくれるらしいけど、恋愛小説家だよ、俺」
「はい」
神妙に頷く。彼は頬杖をついたままそんな啓を流し見た。
「恋愛、不得手だろ、あんた」
「…………否定はしません。ですがなぜそのようなことを?」
「だって」
葵はついと目を逸らして吐き捨てた。
「人間観察も仕事のうちだし。そもそも恋愛なんて感情を表現し合って相手の中に入っていくことだろ。あんたいつだってその顔なんじゃないの。本当はいろいろ思ってることも感じてることもあるくせに、なんにも感じてないみたいな涼しい顔でさ」
ずけずけついてくる。ああ、なるほど、噂にたがわぬ性格の悪さらしい。内心呆れながら啓は笑顔を作った。
「確かに感情表現は苦手です。でも一生懸命務めさせていただきたいと思っております」
「一生懸命、ね」
ぼそりと呟いてから、葵はちらりと視線を上げる。
「一生懸命、務めないと俺とは会話も難しいわけか」
「そういうわけでは……。すみません」
本当に気難しい。言葉に詰まりつつ頭を下げると、葵はすいっと視線を逸らす。
「そういう顔が見たかったわけじゃないのに」
「先生?」
わけがわからない。途方に暮れて呼びかけると、ふいに葵は頬杖を解いた。がたん、と音を立てて立ち上がった彼は険しい目つきでこちらを一瞥した。
「先生とかやめろよ」
厳しい声を啓に投げつけ、葵は足元に置いていた鞄を持ち上げて会議室の出口へ向かう。啓の横を通り過ぎざま彼はきっぱりと言った。
「大御所じゃあるまいし。あんた俺より年上だろ。こそばゆくて死にそうなんだよ」
隣りに並ぶと啓より頭半分以上背が高い。呆然と見上げる啓に、葵は不機嫌そうに唇を歪めてみせた。
「感情表現の一つもまともにできないヒューマノイドみたいな編集者はいらないんだよ。俺の担当になるつもりならとりあえず嘘の笑顔一切やめて。素のあんたの顔見せられるようになるまでこれも返すから」
つい、と名刺が啓のスーツの胸ポケットに差し込まれる。先生、と呼び止めかけた啓をちらっと振り向き葵はぴしゃりと遮った。
「呼ぶなって言ってるだろ」
「申し訳ありません」
とっさに頭を下げた啓を置き去りに葵はドアを開ける。慌てて後を追おうとしたとたん、不機嫌丸出しの声が浴びせられた。
「義務感で追いかけて来るな。今のあんたとは話すことないんだから」
言いたいことだけ言って葵はドアの向こうに姿を消した。ばたん、と大きな音を立てて閉じたドアを見送り、啓はのろのろとスーツのポケットに手を伸ばす。
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