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最終話
アルバート宛てにイデアから書簡が届いたのは、あれから二日後のことだった。
亡くなる日の前日に投函されたらしいそれには、父デセオの不正に対する告発と、五年前の事件に対する自白が綴られていた。
すべては、彼の母の死に端を発した〝歪んだ家族愛〟なのだと。
彼が幼いころに母は病死し、それを嘆いた父は心を病んだ。屈折した愛情の矛先は妹へと向けられ、妹は自宅でおよそ十年間監禁されたすえに自殺。その結果、壊れた父の執着心は、最後に息子へと辿り着いた。
イデアを、母と妹と同じ姿にするため、デセオはラナを利用して例の薬を開発したらしい。明言はされていなかったが、母と妹はラナと同じだったとも綴られていた。
薬の副作用により、イデアは服用直後の七日間で十名を殺害。殺害した日時と場所、状況も、当時の捜査資料と合致した。よって、特別警備隊は、イデアが五年前の事件の犯人であると断定。内々で処理した。
公表すれば社会的な混乱を免れないとの苦渋の決断だったが、アルバートは何よりもラナたちを守ることを優先したのだ。公表すればどうなるか……おぞましくて想像もしたくない。
被疑者二名の死亡をもって、一連の事件は幕を下ろした。
当事者の心に、けっして癒えることのない傷を残して。
◆ ◆ ◆
「大きい……!」
港に接岸した巨大な帆船に、ラナは思わず感嘆の声を上げた。
悠然と水面に浮かぶ、しなやかな船体。三本の帆柱に掲げられた真白い帆が、青空に美しく映えている。
船を見るのも初めてだが、実は海に来ること自体が初めてだ。潮の香りも、カモメの鳴き声も、感じるものすべてが新鮮だった。
「船の中も広いから、はぐれんなよ」
「うん。気をつける」
アルバートの忠告に力強く頷く。
彼に、他の乗客に、迷惑をかけないようにと自身を戒めた。が、湧き上がる船旅への高揚感に、どうしても胸が躍ってしまう。
そんなラナに、アルバートはやれやれと苦笑した。十日間という、短いようで長い航海は、彼女の百面相のおかげで退屈せずに済みそうだ。
ラナと出会って二月。
特別警備隊を退職したアルバートは、予定どおり故郷へ帰ることとなった。まさか誰かを同伴することになるとは夢にも思わなかったが、この子と離れたくないと思ってしまったから仕方がない。この子も、それを望んでくれたから。
父親には、事前に知らせてある。詳細は告げていないが、おそらく大丈夫だろう。むしろ心配なのは、父親と対面したときのラナの反応だ。父親は、ある意味あの雑貨商の彼より個性が濃ゆい。
「船酔いすると大変だから、一応これ持っときな」
見送りに来てくれたジェニーが、ラナに酔い止めの粉薬を差し出した。苦そうな臭いが、微かにラナの鼻を刺激する。「ありがとう」と受け取るも、これを飲まずに済みますようにと、ラナは心の中で切に願った。
ジェニーの手伝いをしたことで、ラナは医療——とりわけ薬——に関して興味を抱くようになった。鞄には、ジェニーに貰った専門書が三冊入っている。あちらでの生活が落ち着いたら、本格的に勉強を始めるつもりだ。
「道中気をつけて。向こうに着いたら、連絡ちょうだい」
「ああ。いろいろ世話んなったな」
「それはこっちの台詞。……ありがとね。ほんとのこと、教えてくれて」
アビシオン家を巡る一連の事件について。
現段階で何一つ公表されておらず、今後公表される予定もない。しかし、悩みに悩んだすえ、アルバートはジェニーにだけ真実を伝えることにした。
到底納得できるものではない。その気持ちは、アルバート自身誰よりも理解している。だが、彼女は、ただただ静かにすべてを受け止めた。そのうえで、一番傷ついたのはラナだと心を痛めたのである。
出会って十余年。ジェニー・イアートという人物には、本当に感服するばかりだ。
「ラナも……元気でね」
「ありがとう、ジェニー。……手紙、書いてもいい?」
「もちろん。アルバートに泣かされたら言いな。あたしが迎えに行ったげる」
「おい」
「ってのは冗談だけど。……ほんと、いつでも帰っておいで。診療所は、何年経っても、あんたの家だから」
ジェニーの言葉が、ラナの心の琴線をはじく。目頭が熱くなり、鼻の奥がつんと痛んだ。ありったけの感謝の気持ちを込めて抱きつけば、ジェニーもそれに応えてくれた。
これで最後じゃない。また会える。そうわかっていても、胸に迫るものを押し返すことはできなかった。
「ありがとう、ジェニー! ありがとう……っ!」
海風を受け、ゆっくりと動き出した帆船。
その上から、ラナは弧を描くように大きく高く手を振った。ジェニーの姿が見えなくなるまで、身を乗り出すようにして精一杯腕を動かす。
相変わらず目頭は熱いままだったけれど、ぐっと堪えた。涙は流したくない。彼女の姿を、向日葵のような笑顔を、しっかり焼きつけておくために。
うねる波の間を、船が滑るように走る。
豪快に水しぶきをあげながら、徐々に加速度を増して。
「お母さんが……」
「ん?」
「お母さんが生きてたら、あんな感じ、だったのかな」
ぽつりとラナが呟く。
ジェニーと過ごした時間を、亡き母と過ごした時間を、それぞれ噛み締めるように回顧した。
「……お前のお袋さん、あんなアグレッシブだったのか?」
「怒ると、怖かったよ。でも、すごく優しかった」
ふふっと笑い、困惑気味のアルバートに答える。
ラナは、デセオに拉致される十歳まで、母と二人で暮らしていた。地図にも載っていないような、山間の小さな村で。
けっして長いとは言えない時間。でも、それでも、ラナにとってその十年はかけがえのないものであった。
「わたし、ジェニーに出会えて、良かった。アルバートに出会えて、本当に良かった。……ありがとう。いっぱい助けてくれて」
母と過ごした日々は幸せだった。けれど、診療所で過ごした日々も、幸せで特別だった。
三人で囲んだ食卓も、買ってもらった星見時計も。形があるものも、ないものも、与えてくれたすべてが大切な宝物となった。
「……」
不意に曇ったラナの表情。欄干に置かれた両手に力がこもる。
ラナの心情を的確に汲み取ったアルバートは、小さな体を片手で抱き寄せると、慰撫するようにそっと頭を撫でた。
「ルグレは、幸せだったのかな……」
「どうだろうな。今となっちゃわかんねぇけど……最後にお前に言った言葉が、すべてだったんじゃないか」
後悔という偽名。そこに込められた彼の過去は、察するに余りある。だが、ラナの前では、ありのままの自分でいられたのだ。きっと。
彼が闇の中に一筋の光を見出したのだとしたら、それは間違いなくラナだろう。
「最後の最後まで、あいつにとってお前は大切な妹だったんだよ」
彼の最後の言葉が耳に蘇り、ラナはきゅっと唇を引き結んだ。鼻をすすり、滲む両目をごしごしとこする。
万感を込めて短く溜息を吐けば、胸につかえていたものを少しだけ潮風が攫ってくれた。
「……ねえ、アルバート」
生きることは難しい。
ときに痛みを伴い、ときに恐怖に襲われ、ときに苦しみに突き落とされる。
それでも、生きたいと願うのは、帰りたい場所があるから。
選びたい道があるから。
「一緒に……生きてもいい?」
大切な人が、隣にいるから。
「何言ってんだ、当たり前だろ。……言ったじゃねぇか。『お前は俺が絶対守る』って」
風を感じて。たまに振り返って。
草花を愛でて。少し休んで。
星空を仰いで。精一杯笑って。
生きていこう。
一緒に。
<了>
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