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2-14 嫉妬と、焦りと、惨めさと。
二人の「デート」から数日が経過した。
ここのところ、カレンは笑顔を見せることが多かった。
ジョンズワートと楽しい時間を過ごし、妻としても少し自信がついたからだ。
あの日の最後、キスをしてもらえなかったことは、ちょっとだけ残念に思っていたが……。
自分が酔っていたから、ジョンズワートは手を出すことをためらったのかもしれない、と受け止めていた。
今まで、ジョンズワートがなにを考えているのかも、周囲の人々が言っていることの意味も、よくわからなかった。
でも、先日のデートで彼との距離を縮めたことで、みなにもらった言葉を信じる気持ちも生まれていた。
もしかしたら、自分は彼に愛されているのではないかと。
チェストリーやサラが言う、ジョンズワートが自分を求めていたという話も本当なのではないかと。
そう、思えるようになったのだ。
今日もカレンは上機嫌に、公爵家2階の廊下を歩いていた。
この場所からは、デュライト公爵邸の中庭がよく見える。
やっぱりきれいだなあ、とカレンは足をとめ、晴々とした気持ちで庭を眺めた。
しかし、庭に見慣れた人影を見つけた途端、どくん、と心臓が嫌な音をたてた。
「ワート様と……。サラ?」
なにかを話しながら、二人が庭に立っていたのである。
デートを経て、少し自信がついたカレンであったが、サラとジョンズワートの仲に対する不安の全てが払拭されたわけではなく。
二人が一緒にいるところを見ると、心がざわついてしまう。
「どうして、二人で」
カレンがいる位置からは見えなかったが、他の者も近くに控えている。
二人で逢瀬していた、なんて噂がたたないようにするためだ。
カレンの目に、二人きりであるように見えてしまったのは、運が悪かったとしか言いようがない。
公爵家の当主と、その妻の侍女が二人きりで会っているなんて。やはり彼らは恋仲なのだろうか。
今まではたまたま見なくて済んだだけで、二人はこうして逢瀬を重ねていたのだろうか。
そんな風にも思ってしまったけれど、きっと、カレンの考えすぎだ。
離れていた期間が長すぎて、不必要に彼を疑うようになってしまったのだろう。
だって、一緒に出かけたときのジョンズワートは、あんなにも嬉しそうだった。
あれでカレンのことはなんとも思っていなくて、本当に愛しているのはサラだなんて言われたら、ジョンズワートは相当な役者だ。
サラはジョンズワートとの付き合いが長く、今はカレンの侍女も務めている。
彼女に聞きたいこと、話したいことはたくさんあるだろう。
ジョンズワートもサラも、自分が公爵家で不便していないかどうか、よく聞いてくれるから。
カレンについて話している可能性だってある。
カレンは、祈るような気持ちで二人を見つめていた。
家の主人と妻の侍女として話しているだけであって欲しい。
しかし、カレンの願いもむなしく。
「あ……」
ジョンズワートとサラが近づき――二人の影が、重なった。
カレンには、二人がキスをしているように見えた。
妻である自分には、そんなことしてこないのに。求められたのは、初夜の一度きりだというのに。
デートのときだって、自分にはそんなことしなかったのに。
ジョンズワートは、サラにキスをしたのだ。
これは誤解であり、あまり他の者に聞かれたくない内容だったため、小声でも聞こえるよう近づいただけ。
話していた内容も、カレンのためになにをしたらいいか、というものだった。
しかし、カレンがいた角度からは、二人がキスをしたように見えてしまった。
ついこのあいだ、夜景の見えるレストランで、キスをしてもらえなかった一件があったから。余計に「キス」という行為を意識してしまったのだろう。
その日の晩。カレンはジョンズワートの寝室へ向かった。
二人がキスする場面を見てしまったカレンは、もう我慢できなかった。
カレンはサラに嫉妬していたし、焦ってもいた。
昼間の件について追求する勇気はなかったが……。自分にだって触れて欲しい、求めて欲しいという思いが、爆発した。
ジョンズワートがカレンに触れようとしないなら、カレンの方から誘えばいいのである。
恥ずかしくてたまらないし、なんだか惨めな気持ちにもなったが、これ以上、ただ待っているだけではいられなかった。
何度も深呼吸してから扉をノックし、名乗る。
ジョンズワートは少し驚いた様子だったが、カレンを部屋に招き入れてくれた。
「どうしたんだい、こんな時間に」
仕事も終わり、もう休んでいたのだろう。ジョンズワートは、就寝前の楽な装いで。
寝衣をまとったジョンズワートを見るのは、初めてだった。
こんな時間、と彼は言うけれど。夫婦であれば、夜を共にするのはなにもおかしいことではない。
これまで夜の営みがなかった事実を突きつけられたような気がして、カレンは俯いた。
この部屋には彼のベッドがあるというのに、カレンが座らされたのはソファ。
ベッドには、あげてくれないのだろうか。
もう、このまま逃げ帰ってしまいたい。でも、意を決してここまで来たのだ。なにもせず引き下がりたくなかった。
先日のデートは、自分だけでなくジョンズワートも楽しんでくれたと思っている。
ああやって過ごすことができた今なら、彼もカレンのことを受け入れてくれるかもしれない。
ぐっと顔を上げ、向かいに座るジョンズワートを真っすぐに見つめて、彼の名を呼んだ。
「ワート様」
それからすっと立ち上がり、ジョンズワートに近づく。
彼の前までたどり着いたら、身にまとっていた夜着を、はらりと落とした。
「私に、妻としての役目を果たさせてください」
下着だけを身につけたカレンは、彼の顔に胸を近づけた。
ある茶会で知った、男性が好む香水まで使っている。
夫を誘惑するために、意図して女を強調していた。
経験の乏しいカレンが。女性である自分が。ここまでやったのだ。
流石のジョンズワートも、カレンの誘いに乗ってくれると思いたかった。
ジョンズワートは、無言でカレンの肩に触れた。
このまま、引き寄せてもらえるのだろうか。その腕で、抱きしめてもらえるのだろうか。
そう期待できた時間は、ほんの少しで。
「……っ!」
ジョンズワートの腕は、カレンを遠ざけるように動いた。
「わーと、さま」
腕の中にしまわれるどころか、ぐっと距離を作られてしまったのだ。
この行動から読み取れる、彼の意思は――拒絶。
「どうして、ですか」
「……きみが無理をする必要はないよ」
「無理、だなんて。そんなこと……」
「いいんだ。きみは、無理をしなくていいんだよ」
「…………」
カレンから手を離し、ジョンズワートは彼女が脱いだ夜着を肩にかけ直した。
「カレン。……ごめん。こんなことをさせて、ごめん」
そう言うと、ジョンズワートはカレンから離れていく。
それなりの距離ができた頃、彼はカレンに背を向けたまま、こう告げた。
「……風邪を引くよ。温かくして、もう寝るといい」
「………………はい」
カレンを心配している風ではあるが、言外に含まれた意味も、行動も、はっきりとカレンを拒んでいた。
ここまでやってもダメだったのだ。
ジョンズワートは、カレンと夜を共にする気はないのだろう。
あのときキスをしなかったのも、カレンが酔っているから遠慮したのではなく、単にしたくなかっただけなのだろうか。
もしかしたら彼は、カレンとの間に子を作りたくないのかもしれない。
子を作ってしまったら、今度こそ、彼はカレンから逃げられないのだから。
ジョンズワートのことを、信じたかった。愛されていると、思いたかった。
でも、彼に拒絶された事実が、ここにある。
「……失礼、しました」
こぼれ落ちそうになる涙をこらえながら、声を震わせて。
カレンは、ジョンズワートの部屋から逃げ出した。
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