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1-7 ああ、これでよかったんだ。
「お嬢。本当に、これでよかったんですか?」
「……よかったもなにも、こうする以外にどうしろと言うのです」
「どうって……。ジョンズワート様の求婚を、受け入れてもよかったのではありませんか?」
「……こんな形で、あの人を縛りたくありません」
「ですが……。俺には、ジョンズワート様は、怪我のことなど関係なく、あなたとの結婚を望んでいるように見えました」
「……」
チェストリーは、彼女の従者として、常に、と言っていいほどカレンの近くにいる。
だから、ジョンズワートがカレンに向ける好意も、よく知っていた。
ジョンズワートがカレンを見る瞳には、優しさと愛おしさが宿っており。なんとも思っていない相手に、あんな顔をしないだろう。
自身も男だから、余計に、ジョンズワートがカレンに向ける愛情がよくわかる。
ジョンズワートは、怪我のことなど関係なく、カレンを妻に迎えたいと思っているはずだ。
だから、本当にこれでいいのか、彼はあなたとの結婚を望んでいるはずだ、と口にしたのだが……。
カレンからの返事は、なかった。
ふとカレンが立ち止まり、後ろを歩くチェストリーの方を振り返る。
彼女の瞳に溜まった涙が、動きに合わせてこぼれていった。
緑の瞳を涙でいっぱいにして、苦しそうに、悲しそうに、けれど気丈に自分を睨みつける主人を前にして、なにも言えなくなってしまった。
彼はカレンの従者なのだ。それも、カレンに人生を救われている。
彼を引き取りたいという貴族は、少なくなかった。けれど、その多くがチェストリーの見目を気に入り、玩具にすることを望む者ばかりで。
まだ幼いカレンが手を伸ばしてくれなかったら、チェストリーはどんな目に遭っていたかわからない。
綺麗な服が着られるのも。必要な教育を受けられるのも。従者として、伯爵家にいられるのも。
全て、カレンのおかげなのだ。
だから、カレンがそう決めたなら。カレンがそう望むなら。カレンが、苦しんでいるのなら。
チェストリーは、カレンの意思を尊重する。
……たとえ、思うところが、あったとしても。
***
ジョンズワートはひどく落ち込んだ。
公爵家に戻ったあと、食事が喉を通らなかったほどだ。
ずっと前から好きだった子に婚約を拒否されたうえに、すっかり嫌われてしまった。
それも当たり前だろう。
カレンが馬に乗るのは初めてだと、知っていた。なのに自分の不注意のせいで、彼女に怪我をさせてしまった。
カレンの言う通りだ。こんな自分と一緒にいたら、カレンはこの先も怪我をし続けるだろう。
傷のことだってそうだ。責任をとって結婚すれば、傷がなくなるわけではない。
ジョンズワートにとってカレンは特別大事な人だから、そりゃあもう、彼女がとても愛らしく見えている。
だが、ジョンズワートの視界を通さなくても、カレンはとびきりの美少女だった。
腰まで届く亜麻色の髪は美しく、優しい緑の瞳は人を惹きつける。
次期公爵が近くにいるから目立った動きが少ないだけで、カレンとの結婚を望む者はいくらでもいる。
そんな彼女に、傷をつけたのだ。その相手が公爵家の自分ともなれば、カレンの婚姻の妨げとなるだろう。
謝って済む問題ではないのだ。
だからこその婚約だったのだが――ジョンズワートが愚かなせいで、こっぴどくフラれてしまった。
カレンは、ジョンズワートのことを「ワート様」と呼んでいた。
これは、ジョンズワートと親しい者にのみ許された呼び方だ。
デュライト公爵家の者は、ジョージ、ジョンソン、ジョセフィーヌ等、名前に同じ文字が入っていることが多い。
だから、親族との差別化をした愛称となると、「ワート」の方からとることになるのだ。
ジョンズワートが望んだから、カレンも親しみを込めて「ワート様」と呼んでくれていた。
しかし、婚約を拒否したときの彼女は――
「ジョンズワート様、か……」
自室で一人、ジョンズワートは、力なく呟いた。確かにあのとき、彼女はそう言っていた。
呼び方1つでも、彼女の心が離れてしまったことがわかる。
すぐには持ち直すことができなかったが、少し落ちついた頃、ジョンズワートはカレンへの接触を試みた。
けれど、もう。前のように会ってもらうことは、できなかった。
こうして、カレンとジョンズワートは、互いに想い合う幼馴染から、公爵家の跡取りと、領地が隣接するだけの伯爵家の娘となった。
初めのうちはジョンズワートからの誘いもあったが、カレンは全て断った。
そうするうちに、すっかり疎遠になって。
数年が経過する頃には、行儀見習いの女性とジョンズワートが懇意にしている、といった噂も流れるようになった。
男爵家の次女、サラ・ラルフラウ。
ジョンズワートの妹の侍女として、デュライト公爵家に仕える者だ。
年齢も、ジョンズワートと同じらしい。
その話を聞いたカレンは、涙を流しながらも、安心した。
ああ。あのとき、彼の求婚を断ってよかった、と。
責任なんかじゃない。彼には、本当に大事な人ができたのだ。
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