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それから僕は何度も何度もその人に会いに行った。
『ねえ、りんごちょうだい?』
『ダメです。百円と交換です』
『ちぇっ。じゃあいいや』
そうして僕はいつも隣に座っては、少し背の高いその人の横顔を下から眺めていた。
無表情。無感情。抑揚も変わらない。
子供の僕はそんな言葉は知らなかったが、心のどこかで感じていた。
僕はいつの頃からか、決して笑わないその人を笑わせたいと思うようになった。
『りんごちょうだい』
僕は手に持っていた百円をその人に渡した。その人は頭を下げて両手で丁寧に受け取って隣にあった箱――レジだと思う――に入れていた。
『待ってください』
僕が勝手にリンゴを取ろうとすると、制止された。
『え、なんで?』
『袋に入れますから』
そう言ってその人は、小さいビニール袋に、トングでりんごを一つ入れて渡してくれた。
『どうせ、いまたべるんだからいいのに』
僕は受け取りながらその人の隣に座った。
『これはどんなお客様にも、と言われているので』
でも、百円と交換とはいえ、はじめてその人からプレゼントをもらったような気持ちになって、僕は嬉しくなった。
『ありがとうございました』
リンゴ売りをしているから、当然お客さんが来ることもあった。頻度は少なかったけど。
でも、誰に対してもその人は相変わらず表情も抑揚も変えずに無機質な声で応答していた。
ずっと笑わないその人に、僕はとうとう聞いてみたくなった。
『ねえ』
『何ですか?』
『おねえちゃんってさ、ずっとりんごうってるけど、りんごうるの、たのしくないの?』
今まで聞いたことがなかった。それは、もしかしたらどこかで漠然と感じていた不安のせいかもしれない。
『私には楽しいという感情がありません』
『かんじょう? かんじょうってなに?』
『感情というのは、喜怒哀楽などが中心の……』
『きどあいらく?』
『喜んだり怒ったり悲しんだり楽しんだりする気持ちのこと、だそうです』
僕は、理解しているようで理解したくなかった。
『そのたのしいってかんじょうが、ないの?』
『はい。楽しいだけでなく、喜びも怒りも悲しみも。感情そのものがありません』
僕は多分、認めたくなかった。だから試していった。
『え、じゃあさ。なんでりんごうってるの? たのしくないのに?』
『これは、私の役目ですから』
その人はリンゴを無表情で見つめながら言った。
『やくめ?』
『できるだけ多くの人に、美味しいりんごを売ることが私に与えられた役目です』
『……ふーん』
楽しくもないのに何でそんなことをするのか。今でもわからない。
『で、でもさでもさ。ぼくとおはなしするのは? たのしいよね?』
楽しくないわけない。僕は期待した。
だって、何だかんだと言ってこの人は僕と話をしてくれる。僕の言うことに耳を傾けてくれる。僕が隣にいるといっても嫌な顔一つしない。
でもそれって、それは、この人が……。
『私には楽しいという感情はありません』
僕の期待は、たった一言で打ち砕かれた。
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