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「そんなこと言ったら、役に嵌められちゃうわよ……」
突然放たれた母の言葉に言葉を呑み込んだ。冗談のような訳のわからない母の言葉は一体何を説明したいのか理解ができずに、動きが止まってしまう。ただ、今まで母へ向けていた怒りをひそめさせながら目の前の母親を見つめた。その表情からは本気でそう思っているのが伝わってくる。
哀しみとどこか怒り。そして恐怖を含んだ複雑な顔色に彼女、山城杏里もただただ混乱してしまう。
「なに……、役にはめられるって、」
そんな表情の母を見て聞かずにはいられないのは、当然のことだろう。思わず言葉を漏らしてみれば母はハッとした様子で視線を杏里に向ける。だが、その瞳には悲しみだけが残り、すぐにもその視線は足元へと落とされてしまった。
「……連れていかれちゃうよ、あんた……
悪いこはね、そうなの……親を嫌った悪い子は、影を探しにきた “ あの子 ” に気に入られて連れてかれるのよ……」
目を逸らしたまま、ゆっくりと気分が沈むようにソファに腰を沈めながら言葉を呟く母親にただただ困惑を覚えた。母親がそんな冗談を言うような人ではないことをよく知っているし、別に母が嫌いなわけではない。
この年齢になると起きてしまう特有の行動なのだ。理解もしているし、そうなっている自分に後々嫌気がさすのだがそれでも止められない。原理はわからないが、何を言われてもされても苛立ちを覚えて反抗してしまうのだ。
今までならもっと言い返してきた母が、突然電池が切れたオモチャのように無気力に、こちらを見向きもしないので杏里は少し心配になってしまい、一歩母に近づこうとした。だが、母はまるで何かに怯えるように腕を抱いたまま俯いてしまっていて。その姿は、親に怒られた子どものようで。
俯いてしまった顔から表情は見えないが、母親がかすかに震えているのが目に見える。それがどうしてもいつも見る母とは違う、全くの別人にしか見えなかった。
「おねがい……」
震えた声にハッとして母に意識を向けたのと同時に強い力で肩を掴まれた。思わずのことで驚いたがそれ以上に母の顔に身を引いた。怒りとは違う、だが怒りに似た何か。今まで向けられたことのないその顔に、恐怖以外の感情が消え失せ、顔から血の気が引いたのを感じる。
「杏里、わるいこにだけは、ならないで」
母親の悲痛な声に、彼女はただただ口を閉ざすことしかできなかった。
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