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1.聖なる朝
12月も中旬を過ぎ、テレビをつければやたらとクリスマスが喧伝され、街の片隅で起こる凄惨な事件など、まるで無かったことになっているかのようである。
スウェットパンツに半袖のTシャツいう姿のまま、霧生久紀はのんびり二階からリビングに下りた。吹き抜けの階上からも、弟の光樹が飾り付けた大きなクリスマスツリーが鎮座しているのが見える。四谷署組織対策犯罪課課長・ノンキャリアながら警部にして32歳。ついでに言うなら警視庁管区抱かれたい男6年連続第一位。当然ながらツリーを見てワクワクするような柄ではない。
「ったく、ガキかよ」
と文句を言いながらも、久紀は飾られているオーナメントを懐かしそうに一つ一つ手に取った。どれもが、末弟の和貴が幼稚園時代や小学校時代に作ったものばかりだ。紙粘土でできた星、セロファンでできたステンドグラス風のカード、モールでできたマスコット……6歳の時には両親を失っていた和貴には、こうした制作を喜んでくれるのは3人の兄以外になかった。
「幾ら休みだからって、お天道様はとっくに真上ですよ。夏輝お兄様と和貴坊っちゃまが呆れながら出かけていきました」
そんな古臭い言い回しをしながら、リビングの南一面ガラス張りの向こうから、弟の光樹がガーデニングを終えた姿で窓を開けて入ってきた。何のことはないデニムに、何のことはないVネックの紺ニット。肩のあたりまでの髪を一つに束ねているだけなのに、女優の朝のような優雅さを漂わせているのは、そのジェンダーレスな美貌故である。幼い頃から見慣れている筈ではあるが、こんな風に飾らない普段着でスッピンで微笑む光樹が、久紀には最も美しく思える。
「だってさぁ、二週間ぶりだぜ、こんなにゆっくり休めるのって」
「まぁね、転属して間も無く課長補佐から課長にスライドしちゃって、おまけに無自覚お色気爆弾みたいなお姫様が係長に赴任してきて大変なんでしょ」
「あちらさんはキャリア様だしなぁ……逸彦に安請け合いするんじゃなかったよ。デキるのはわかるが、ゴリラどもが言う事聞きゃしねぇんだもん」
南一面ガラス窓のこのリビングの向こうには、祖父がリタイア後に夢中になった家庭菜園と、光樹が丹精するイングリッシュガーデンが広がる。いや、広がる、という程ではない。多忙を極めた両親に放置された状態の孫たちを一緒に住まわせるために、霧生の祖父がここを建直す際に広大な庭の大部分を売却してしまったからだ。両親の後を追うように祖父も無くなったが、四兄弟は今も、祖父の愛が詰まったこの家を何より大切にしている。
「珍しい、そんな愚痴言うなんて」
光樹は素早くアイランドキッチンで手を洗うと、いそいそと久紀の朝食を支度し始めた。半分まだ寝ぼけ眼のまま、久紀はフライパンに卵を落とした光樹の細い腰を後ろから抱きしめた。
「ちょっとぉ」
「今日の逸彦の結婚パーティ、一緒に行けるんだっけ」
「私はタッキーの付き人。新婦のメイクとか支度とか全部私がやるから、お昼食べたらすぐ行かなきゃ。久紀はゆっくり休んでから来て」
「女装はするなよ、お堅い席だからな」
「わかってる。めちゃめちゃセクスィーな、黒子に徹するから」
「なんだそりゃ」
光樹の首筋に、久紀はキスをした。
それぞれ連れ合いに先立たれた者同士の両親。光樹は母の連れ子で、父の連れ子である夏樹と久紀とは血の繋がらない兄弟。末っ子の和貴だけが、唯一の両親の実子である。
兄弟以上の関係になったのは、光樹がまだ中2、久紀は高2の時であった。
両親の突然の事故死の後、自分だけが他人になってしまったこの家で、長兄の夏輝の世話になる事に後ろめたさを感じた光樹が、一人で生きていこうと家出をし、夜の街で一生消えることのない、凄惨な傷を負って帰ってきたのだった。
何度も何度も死のうとする光樹に、生きる希望を根気よく伝え続け支えたのが久紀だった。癒えぬ体の記憶を久紀の手で上書きされることを望んだ光樹に、久紀は一生守ると誓った。傷の一つ一つにキスを捧げ、呪いを解くようにして優しく抱いたのだった。
やがて呪いが解けた時、光樹は正に『アジアの美神』と呼ばれるに相応しい生命力に満ちた笑顔を見せたのだ。親の再婚から一度も笑うことのなかった光樹の笑顔を、夏樹と久紀は二度と失うまいと心に決めたのだった。
今日の結婚パーティの主役である深海逸彦は、久紀の高校時代の同級生なだけに、二人の密やかな関係を知っている。何しろ、年上の女キラーとして散々浮名を流していた久紀が、突然弟を側から一時も離さないようになったのだから。かと言って、逸彦は久紀との付き合い方を変えるような男ではなかった。
「んもう、焦げる……」
光樹が振り向くと、憎らしい程の男前が笑っていた。昨日もずっと二人で肌を重ねて夜を過ごしたというのに、目の前にいるのに離れているのは耐えられないとばかりに、二人は抱き合った。
「本当は一緒に並んで座りたいな」
「おまえは黒子。自分で言い出したんだろ」
「わかってる……けど……」
「今日は兄弟に徹しろよ。二人に迷惑がかかるからな」
警察関係や友人関係は、一週間後に別のカジュアルなレストランでのパーティを企画しているという事だった。今日は、ごく身内の披露パーティであるが、逸彦は既に両親もなく親戚も少ない。多岐絵の両親を安心させるためにも、兄弟同然の付き合いをしていると久紀を何としても紹介したいと、頭を下げられたのであった。ならばと、新婦の多岐絵と姉妹のような付き合いをしている光樹も、自ら多岐絵の支度と付き添いを申し出たのであった。
「わかってるぅ、んもう……ちょっとぉ……」
「だから、今のうちに、イチャイチャしとく」
またぁ? と満更でもない様子で久紀の腰に光樹が艶めかしく手を回した時、久紀のスマホがけたたましく鳴った。
「今日は、流石に出ないよね」
「も、もちろん」
久紀が引きつった顔で頷くが、目はもう、スマホが気になって仕方がない。
「出るなよ」
光樹が凄む。久紀の目が泳ぐ。
「出るんじゃねえぞ、コルァ」
光樹が目を怒らせて下から睨みつける。
「すまんっ」
とうとう、久紀はキッチンから駆け出してソファにダイブするようにしてカフェテーブルに放り出してあったスマホをキャッチしてしまった。
「はい、霧生……取引は今日だぁ?……鸞が一人でパクってきたシャブ中が……三水組の山名だったのか……当たり前だっ、やるんだよっ」
四谷署組織対策犯罪課課長の面目躍如とばかりに、久紀が声を荒げた。
「クソッ、何だってこんな日に! 」
久紀がブチっとばかりに通話を切ってスマホをソファに叩きつけた。
「はい、俺の勝ちぃ」
ん? と正気に戻って光樹を見ると、両腰に手を当てて顎を突き上げるようにして久紀を睨みつけていた。
「仕事で呼び出される方に賭けといて正解だったわ」
「賭けって……誰と」
「夏輝兄さん。今度ジャージャー園の焼肉特ランクコース奢ってもらうから。どーもぉ、ご馳走になりますぅっ……クソッ」
焦げたフライパンの中身毎流し台に叩きつけ、光樹はエプロンを放り投げて二階に上がってしまった。
急いで仕事用のスーツに着替え、シャツの袖口のボタンを留めながら階段を駆け下りると、玄関脇のコート掛けに、久紀用のタキシードがスーツカバーに大切に覆われて掛けられていた。持っていくかどうか逡巡していると、いつの間にか後ろで光樹が壁に寄りかかるようにして腕を組んで立っていた。
「早く行けよ。俺が会場に向かうついでに署に届けてやる」
殊更硬派な男言葉でモノを言うときは、光樹が怒髪天を突く2秒前である。
「パーティには絶対間に合うから、頼むぞ」
三十六計、逃げるに如かず。久紀は靴を引っ掛けながら慌てて飛び出したのであった。
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