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お隣の寺沢さん
6時半のアラームが鳴る。寝ぼけた目でアラームを止めて立ち上がる。
……体がだるい。
二日酔いだろうか?
いや、缶チューハイ半分ほどで二日酔いなど今までしたことがない。
ペン立てに差してある体温計で熱をはかる。
37度3分あった。微妙だ。
身体はだるいし微熱もあるし会社を休んでしまおうか。
いやいやだめだ。納期が迫っている製品がいくつかあるし予定に穴はあけたくない。
なけなしの責任感で会社へ行く準備を進める。
いつものように朝食は食べずにメイクや着替えなど身支度を整え部屋を出る。玄関の鍵を閉めているとき、めまいがして扉にもたれかかる。
「大丈夫ですか?」
心配そうな声がして左側に目を向けるとお隣の部屋に住む寺沢さんが居た。
「あ、大丈夫です。ありがとうございます……」
「本当に大丈夫ですか?無理をされてるんじゃ……」
そう言って彼は近寄ってきた。心配そうに様子を伺っている。
「お仕事は休まれたほうがいいんじゃないですか?」
「大丈夫ですから。ありがとうございます」
今日は行くと決めたのだから行く。私はそそくさとその場を立ち去った。
「おっはよ藍川さん。今日はいつにも増して早いね」
「おはようございます」
自分のデスクにつきパソコンを眺めていた倉田主任が顔を上げる。
「昨日言い忘れちゃったんだけど」
「産業医ですよね。大原さんから聞きました」
「さすが大原さん!」
「主任と違って仕事ができる」
ひどい!と倉田主任は泣きまねをする。
それをスルーしてふらふらと自分の椅子に向かう。いつもの軽口は叩くが相手をするのもしんどい。
始業のチャイムが鳴り仕事を始めて数分、早々に応接室に呼ばれた。産業医との面談とやららしい。
控えめに応接室のドアをノックするとすぐに「お入りください」と声がする。ドアを開けて現れた人物に私は目を丸くする。
「寺沢さん……?」
「おや、藍川さん」
寺沢さんはもとからの眠たげな眼を少しだけ大きくして私を見上げる。
彼はアパートの他の住人とは少し違い、社交的で人当たりがよく挨拶を交わすときは決まって「今日はいい天気ですね」とか「寒くなってきましたね」とか必ず添えてくれる。
ゆるふわの天然パーマを軽くかきながら私を椅子に座るよう促す。
「やっぱり熱っぽいですね。つらいでしょう」
「寺沢さん、お医者さんだったんですね。ていうか、うちの産業医だったんですね……」
「実は前こちらで産業医を務めていた先生が親の介護で休職したらしいんです。そして僕に声がかかりまして」
すごい偶然もあるものだと感心してしまう。
「とりあえず藍川さん、今日はおとなしく早退してください。上司には僕から言っておきますので。それと、よければ僕の働くクリニックに来てください。診察とお薬を処方しますので」
「え、今処方してもらえるんじゃないんですか?」
てっきり、今飲み薬をもらえるのかと思っていた。私の言葉に申し訳なさそうに寺沢さんは返す。
「今の僕にはそこまでの権限はないんです。産業医はあくまで、従業員の皆さんの健康管理をするだけのものなので」
そういうと寺沢さんはクリニックの住所が書かれたメモを私に渡してくれた。
倉田主任たちには悪いことをしてしまったが、挨拶だけでもしようと作業場に寄ったら、大原さんに早く病院に行くよう急かされてしまった。倉田主任も普段は気弱でお調子者のくせにこういうときだけは親のように心配してくれる。
うちの課は人数が多いわけではないし、人が欠けたら困るだろうにみんな嫌な顔一つせず労わってくれる。いい人たちだなぁ。
帰りの身支度を済ませ、すれ違う社員さんたちに挨拶しつつ車に乗り込む。カーナビにメモの住所を入力して目的地に設定した。
辿り着いた病院は内科や小児科、消化器科などを専門とする小さなクリニック。患者さんはだいぶ多く、しばらく待つことになりそうだったが、熱があるからか、比較的優先的に案内された。
案内された診察室に入ると、寺沢さんがパソコンを見ていた顔を体ごとこちらに向けてくれた。
「さっきぶりですね、体調はどうですか?」
「のどが痛くて体がだるいです。」
「ちょっと失礼しますね」
服の上から聴診器を当てている。お医者さんがよくやるやつだ。寺沢さんすごいなぁ。普段はのほほんとした表情が、今は真剣な目付きで胸の音を聴いている。
口を開けるように促され、大きく口を開く。舌圧子で舌を押さえてのどの奥を診られる。
「少し腫れてますね。炎症を抑えるお薬と熱を下げるお薬出しますので、最後まで飲み切ってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
「お大事にしてください」
さっきまでの真剣な表情とは打って変わって人懐っこい笑顔を向けられる。
隣の薬局で薬をもらい再び車に乗り込む。このときだいぶ体がつらくなっていたので買い物は諦めて帰路につく。
処方された飲み薬を飲んでベッドに横になるとひどく孤独を感じた。母の顔を思い出し、柄にもなく泣きそうになる。体が弱ると誰かの優しさが恋しくなるのは大人になったからなおさらかもしれない。
気付いたら眠りに落ちていたらしく目が覚めるとあたりは暗くスマホを見ればもう18時を回っていた。家に着いたのが午前中のはずだからかれこれ6時間は寝ていたことになる。
びっしょり汗をかいていたので洗濯物の山から着替えを引っ張り出す。喉も渇いた。何か飲もう。
冷蔵庫に向かう途中で、インターフォンが鳴る。誰だろうか、荷物は何も届かないはず。恐る恐る玄関に向かう。
「どちらさまですか?」
「隣の寺沢です。こんばんは」
寺沢さん、仕事終わるのいつもより早かったんだな。いつもは20時頃静かながらも玄関の鍵を開ける音が聞こえるのに。
私は寺沢さんなら、と急いでドアを開けた。
「具合悪いのに出てきてくれてありがとうございます。これ、よかったら」
そう言って差し出されたのはスーパーのレジ袋だった。見えるのは、スポーツドリンクやカップでできる雑炊のようなもの。
「買い物行くの大変かと思って」
「そんな、わざわざ悪いです」
私は差し出された袋を両手で押し返した。厚意を無下にするのはかえって失礼かもしれないが、ただの隣人にしてもらうには申し訳なかった。
しかし、押し返した手に半ば無理矢理袋を握らされた。
「僕がしたくてしたことですから、気にしないでください」
「……なら、せめてお金」
「要りません」
寺沢さんは穏やかに微笑む。その優しい笑顔とは裏腹に袋を握らせる手は力強かった。
「それでは。お大事にしてください」
そう言うと、ドアを半強制的に閉められてしまった。
どうしていいか分からず立ち尽くしていると急に吐き気が襲ってきたので急いでトイレに駆け込む。
何も食べていないので結局何も戻さなかった。先ほど頂いたスポーツドリンクとカップ雑炊に目が行く。
「お腹すいた」
『お大事にしてください』
風邪をひいて体が弱っているせいで何気ないその一言が身に沁み涙ぐむ。
素直に甘えよう。
ケトルでお湯を沸かしカップにお湯を注ぐ。スポーツドリンクを一口含めば渇いた喉が潤う感覚がした。
「優しいなぁ寺沢さん」
食卓の椅子にもたれかかり天井を見上げながら呟いた言葉は一人暮らしの部屋に寂しく響く。
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