恋が始まる予感

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 「失礼します」  ノックをして応接室に入る。見慣れた天然パーマが、まだ見慣れない白衣姿をして椅子に腰かけている。  「藍川さん、おはようございます。お仕事忙しいのにすみません」  「いえ、大丈夫ですよ」  申し訳なさそうな顔をする寺沢さんを安心させたくてわずかだが微笑んでおく。そうすると彼は、ありがとうございますと頭を下げた。律儀な人だなぁ。  「あれから、体の調子はどうですか?」  ああ。そういうことか、呼ばれたのは。  「おかげさまで、すっかり元気です」  「それはよかった」  あれから心配してくれてたのだとしたら、ずいぶん仕事熱心な人だ。産業医とはいえ、一従業員の体調を気にかけて会社に来てくれたのだとしたら感謝しかない。  「ご心配ありがとうございます」  こういうとき、気の利いた一言が思い浮かばないのは昔からだ。当たり障りのない一言で片づけてしまう自分がもどかしい。  「とんでもない。あまり、無理はしないでくださいね。……彼氏さんも心配しますし」  「は?」  間抜けな声を出してしまった。私の反応を見て寺沢さんは少し焦ったように言葉を足した。  「あ、すみません。余計なお世話でした」  「いや、そうじゃなくて。……いませんけど、彼氏なんて」  「え?」  今度間抜けな声を出すのは寺沢さんの番だった。普段眠たげな目をぱちくりさせて私を見つめてくる。そして恐る恐るといった様子で私に問いかけてきた。  「今朝の方は彼氏さんではないんですか?」  「今朝……、ああ。幸助のことですか?弟です」  そう私が言うと、寺沢さんは一瞬目を大きく見開きすぐに微笑んだ。  「そうでしたか、よかった……」  「え?」  「あ、いえ。なんでもありません。あ、なんでもなくはないんですがなんでもないんです」  ……???  にっこり笑顔を向ける寺沢さんに困惑していると、彼は思い出したように言った。  「あ、お仕事の邪魔をしてしまってすみません。頑張りすぎずにファイトです」  「あ、ありがとうございます」  訳が分からないまま応接室を後にする。彼の言葉を反芻しながら仕事場に向かう。  よかった、とはどういうことだろうか。私に彼氏がいなくてよかった、と思う心理……。寺沢さんも彼女がいなくて、色気のない隣人に先を越されるのが癪だった?……いやそんな器の小さい人ではないはず。それに今日から身だしなみには気を使い始めた(つもり)。  ……もしかしてだけど。自意識過剰でうぬぼれているだけかもしれないけど。  私のこと……。  そう考えるとつじつまが合ってしまうような気がして。ただの隣人にスーパーで買い物をしてきてくれたり、彼氏がいないという私に嬉し気だったり。  けど、確信を持つには薄い。  それでも恋愛経験の浅い私にとって、彼を意識するには充分な材料だった。彼がしたたかな策士でないことを願う自分がいた。      
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