平穏、柔和、黄昏時

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平穏、柔和、黄昏時

 雪治が家に帰ると門の前に志信がいた。勝手に入っていいと言ってあるのに、志信だけはいつも門の前で家主を待っている。帰ってきた雪治に気が付くと軽く片手を上げた。  「入ってていいのに」  「緊急の時はそうしよう」  門を開けて家へ招き入れると志信は手に持っていた細長い紙袋を雪治に渡す。重さのあるそれは開けずとも酒だとわかった。  「土産だ」  「地酒?ありがとう」  「雪治には酒だろうと思ってな」  「大正解」  酒、と聞こえたのか物陰から妖たちが顔を覗かせる。後で一緒に呑もうと目配せをして、雪治は酒瓶を居間の棚に仕舞う。その背に観察するような志信の視線を感じ、心臓がざわついた。  志信は優矢と違って雪治の背負うものを聞きはしない。だが、だからこそ、優矢に見られたあの時に一緒にいた志信が治癒力を見ていたのか見ていなかったのか、何を考えているのかがわからず、雪治は不安を払拭するために静かに長く息を吐いた。  「優矢とは仲直りしたらしいな」  「んぇ?ああ、うん……仲直りっていうか……俺が勝手に不安になって逃げただけなんだけどね」  「そうか」  志信がすっと目を細め、雪治の頭に手を乗せた。雪治の胸の内から不安が消えていった。真っすぐ目を合わせて笑みを浮かべる姿は、雪治と同い年ながら、どこか父親然としている。  「志信って本当に同い年?」  「身分証でも提示するか?」  「免許証とか?」  「免許は持ってないな」  「知ってる」  意外だよね、と雪治はちらと志信を見た。ゴールド免許歴数十年のような落ち着きと貫禄があるにも関わらず、志信は免許を取得しようとすらしたことがなかった。雪治の口から小さく笑みが零れた。志信が見ていたのかも何を考えているのかも、もうよかった。  ただ志信が友人として少なからず大事に思ってくれていることを自覚でき、雪治はそれだけで安堵し、充足した幸福を得ることができた。  「そういえば今日はいないのか」  「何が?」  「ほらあの、半鬼の」  「ああ、蘇芳兄(すおうにい)か」  蘇芳(すおう)というのは半人半鬼の、井上家に住む者の名であり、雪治は彼を兄のように慕っている。志信は妖が視えるわけではないが、半人半鬼の蘇芳のことは視える口だった。  「家の中にいる気配はあるよ」  「呼んだか?」  雪治が答えた直後、当の蘇芳が居間に顔を出した。雪治が名を口にしたのが聞こえたようだった。蘇芳と志信は互いの姿を視認するとにやりと笑った。  「やるか」  「是非」  家主を置いてふたり連れ立って縁側の方へ去っていく。居間に置いてけぼりにされた雪治は付喪神たちと目を合わせては肩を竦め、ゆったりとした足取りでふたりの後を追う。  雪治が縁側に着いた時には既にチェス盤の用意が終わっていた。井上家のような日本家屋の縁側でやるなら将棋か囲碁の方が合う気もするが、人の趣味に口出しするほど雪治も野暮ではない。雪治は次第に集まってきた"人ならざるもの"達と共に、茶を啜りながら対局を眺めていた。  「ふむ」  呟いた蘇芳が懐から煙管を取り出し、紫煙を燻らせる。鬼は煙を嫌うとよく言うが、半分人間だからか、蘇芳には平気なようだった。此処に芳乃がいれば鬼なのに煙が平気なのかと興奮したかも知れないが、雪治は昔から蘇芳を見て育っているためその珍しさには気が付かない。  「……好きだなぁ」  ふと雪治が零した。いつの間にか隣に座っていた梅が雪治を見上げる。  「何がなの」  「こういう時間とか、この家の雰囲気とかがね。穏やかで、自由で、暖かい」  雪治はうっそりと目を細めて微笑む。その表情も声色も、どこまでも穏和だ。そこには人でなくなることへの動揺や不安も、身勝手な神々への怒りも、戦いの最中の激しさも、何ひとつない。そこにはただ幸せな環境で育った青年がいた。梅が可愛らしい満面の笑みを浮かべる。  「うむ。おらも好きなの」  
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