旅立ちの前に

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旅立ちの前に

 半月が経ち、満月の日。雪治は道場を休みとし、花浅葱色の着物を着流して神社にいた。いつもの神社ではない。友人である坂本輝(さかもとあきら)と共に別の神社のあじさい祭りに来ていた。こうしていると学生時代を思い出す、と懐かしみながら雪治はチョコバナナを頬張る。  「雪治がチョコバナナ食ってるといかがわしく見えるな」  「チョコバナナに失礼だぞお前」  暫くの間、気心が知れ過ぎてセクハラ紛いの冗談を言い合ったり軽口を叩きあったりして過ごしていると、そこへ茶髪のショートカットの女性がやってくる。彼女は松本瑛梨(まつもとえり)と言い、国際弁護士を目指す雪治の友人である。  「お待たせ」  「お、来たな」  「ありがとね、来てくれて」  瑛梨は数日後に日本を立つことが決まっている。今日の招集は、渡米してからはなかなか帰って来られないだろうと考えた瑛梨の発案だった。仕事帰りに合流する予定の皆が集まるまでにはまだまだ時間がある。ひとまず屋台でも楽しもうと3人連れ立って歩きだす。  「例大祭とは違って祭りと言っても屋台も控えめだね」  「あじさい祭りだからな」  「これでも規模が大きい方だと思うよ」  歴史があり大きさもあるいつもの神社の例大祭くらいにしか行かない雪治が境内を見渡して呟いた。大規模な祭りしか知らず少々感覚のズレている雪治に、輝と瑛梨は肩を竦め苦笑した。  途中でフルーツ飴やイカ焼きなど、各々好きな物を買って食べながら、屋台の並ぶ道を抜けて山道に入る。いろんな色のいろんな品種の紫陽花が、道の両側に並んでいる。あじさい祭りと言いつつも、多くの人々の目当ては屋台らしく、山道には人は疎らだ。丘程度の小さな山とはいえ、大抵の人はあまり登りたくないのかも知れない。  「ここまで来ると静かね」  「んだね」  屋台の方の喧騒を見て呟くように言った瑛梨の声がどこか切なげに揺れた。雪治の同意を最後に、不快ではない沈黙が訪れた。徐々に喧騒が遠くなっていく。  山道も中腹を越えた頃、紫陽花に囲まれた東屋に誰からともなく腰掛けた。登ってきた坂に並ぶ紫陽花も見える上、屋台の方の鮮やかな色合いも見える。絶好の紫陽花スポットのはずだが、ここで止まる人は案外おらず、東屋は貸切状態である。  「皆ここまで登って来られるかな」  「志信は平気だろ」  「なつと優矢は死にそうね」  ぜぇはぁ息を切らしながら上がってくるふたりを想像し、輝がふっと吹き出したのを皮切りに3人の口から笑みが溢れる。決して運動が苦手なのを嘲笑っている訳ではない。ただ想像に易すぎて面白く、互いの笑い声につられ、少しの間止まらなかった。  笑いの波が引くと東屋が沈黙に包まれる。それは心地好く穏やかな沈黙だった。遠くで賑わう屋台群に視線を向けた雪治が眩しそうに目を細める。今この時代にこうして人々が笑っていられるということ。そこにほんの少しは自分も貢献しているような気がして、じわりと胸の奥底が温まる。  「あ、志信そろそろ仕事終わりそうだって」  屋台で買った焼きそばを食べながら輝が合間に言った。座っている横にスマホが置かれている。雪治が境内の賑わいに思いを馳せている間にチャットが来ていたようだ。  「優矢となつは私達が合流した話にも既読すら付いてないわね」  「志信も今日は上手いことやってるみたいだけど普段は深夜にちょっと返信くるだけだし、やっぱ法曹界は大変そうだな」  「そうね……私は企業勤めだからまだいいけど……」  学生時代、あれだけ毎日会って話していた相手でも卒業するとなかなか時間が合わなくなるものだ。それぞれの道へと進む仲間の、頑張っているからこその没交渉。各々それに寂しさなどを覚えないわけでもないが、同時に励みにもなっている。  「みんな頑張ってるなぁ」  のんびりと呟いた雪治を、いちご飴を銜えた瑛梨が呆れ目で見つめる。学生時代から仕事をしていた雪治の姿が、周りにどれだけの好影響を与えてきたか。無自覚にのほほんとしている雪治に、けれど彼女は「アンタのおかげ」とは言えない(たち)だ。  「雪治も頑張ってるじゃん」  その点輝はさらっと返すが、当の雪治はきょとんとする。いつもそうだ。雪治は人の頑張りにはよく気が付くにも関わらず、自分自身の頑張りには鈍感で、決まって「俺はそんな頑張ってないよ」と返ってくる。今回もまたそうだろうとふたりは思っていた。しかし。  「……まあね」  ふたりの予想に反して、雪治は眉を下げて力なく笑った。瑛梨と輝は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして視線を交わす。突っ込んで聞くべきか否か、無言で会議をしたふたりは結局何も聞かないことにした。瑛梨も輝も、雪治が持て余すような事情をどうこうできる自信はなかった。  
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