10.

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一時間後帰宅すると凪悠がテレビで流れているサッカーの試合に夢中になって見ていたところで声をかけると上機嫌になりながら手を振っておかえりと言ってきた。 夕飯を一緒に作ろうと声をかけて僕が率先して台所に立った。事前に彼女がスーパーで買って来てくれた(さば)いた(あじ)があったので、専用の鍋に油を入れて衣をつけたところで調理に取りかかった。 隣で彼女がキャベツを千切りにして皿に盛り付けている時に僕に話しかけてきた。 「なんか良いことでもあった?」 「何が?」 「依那さん。ランチ楽しかったの?」 「ああ。久々に年下の人と長話ができてさ。彼女接客の仕事しているだろう?色んな客がいて毎日が楽しいって話していてさ。こっちも聞いていて会話術の勉強になったなぁって」 「確かにあの子、裏表ないわよね。誰かさんよりも人ができていて見直してほしいくらいだよ」 「お前、今日ご飯山盛りにしてやるからな」 「やめてよ、これ以上太らせないで」 冗談半分の会話のやりとりがお互いの点を紡いでいくようで軽やかだ。凪悠も顔色が良くてこちらとしても夫婦という絆も線を平行に並べて居心地の良さを思い知る。ただ彼女以外の女性とのセックスがこれほど満たされる思いになるのかと考えると、僕は偽善者にも感じてしまう。テーブルに料理を並べて早速鯵のフライを口にすると続けて衣の音を立てながら美味しそうに頬張る凪悠の姿を見た僕は幼児っぽいと告げると昼食を軽く済ませたのでお腹がすいていたからかぶりついたのだと言い放った。 少しだけ無言が続いた後彼女は僕に何か気づかないかと言ってきたので顔をよく見ると、目元にブラウンのアイシャドウをつけていた。数日前に依那のいるデパートへ行き以前から欲しかった商品を選んでもらい購入したという。 薄くラメも入っていてすっきりしていて似合っていると言うと少し照れ臭そうにしていた。 やはり彼女も女性だ。男は盲点になりやすい性分だからこそ気づいてほしいと言われたいのが女性特有の根拠もあるのだ。 食事を終えて凪悠が食器を片付けている間僕は浴室でシャワーを浴び、上がろうとしてドアを開けて瞬間彼女が脱衣所に立っているのに驚いて腰に巻いていたタオルを床に落としてしまった。どうしたのかと訊くと僕の身体をしばらく眺めては一言、腹に余計な贅肉がついたなと告げてリビングへ戻っていった。 大したことのないやり取りだったが腰回りを見ているうちに異様に腹立たしくなりつつも瞬時に冷静になったところで服を着た。 書斎へ入りパソコンに向かい原稿の文章の途中で書き足したところを推敲すいこうし、削除しては追記していくように書き綴っていった。 その途中で僕は昼間に依那と交わした情事について思い返しては、彼女の仕草やソファに寝そべる体位、肌の感触が鼻に残る匂いとともにかぐわしさと濃厚な時間の儚さを蘇らせていた。 けれど、はっきりとした肌触りが手の中に残っていない。それほど強欲でもないのに、冷めた温もりが筒抜けしていくように自分の身体が空洞化しているのだ。 僕は依那に対して傲慢(ごうまん)だろうか。 もっと彼女が欲しいと(はや)る気持ちでやりきれなくなる。凪悠を置いてけぼりにしていいのだろうか。距離を裂いていき逃げようとしているのは明らかに僕の方だ。しかし自分も凪悠を敬いここまでともに歩んできているのに、周囲の期待とは裏腹に実情がざわめいて不利を引き起こしているのは夫婦お互いさまなのだ。 なぜ僕がこれほど嘆くようになっているのかというと、実はこの数日前の深夜に目が覚めてリビングへ行った時、テーブルの上に凪悠のスマートフォンの着信が光っているのを覗いて開いて見たら見知らぬ男性からメールが届いていた。液晶画面のロックを解除したままだったのでたまたま開く事ができたのだが、本文を読んでいくとそこには彼女の体調の事や泊まったホテルでの出来事、しまいは僕への当てつけや蔑さげすむ内容まで詳しく会話している文面が綴ってあった。 彼女もまたその男性を必要としている秘情があるのだと思い知った時、夫婦の亀裂が既に入り込んでいるのを察知して僕は依那に寄り添いたいと意図的に行動を取るように考えたのだった。このようにお互いが他者を信頼してよりどころを求める気持ちになるのはわからなくもないが、異性間の性の不釣り合いを言い訳にしている僕らは何者なのだろうと考える。 セックスが上手くできなくとも別の解決策だっていくらでもあるのに、僕らはまだまだ未熟で罪な欲深い人間なのかもしれない。そして夫婦としての二人の誓約した本則はどこへ行ってしまったのだろうかと手探りしては巣の中へ戻ってくる日々を過ごすようになっていった。 何かの書籍で読んだ言葉の中に目に留まった項目がある。 アンコンシャス・バイアス。 無意識の思い込みや歪み、偏見により人間や物事の見方の固定概念が問題視されている世俗的な課題があるという。そしてそれらを排除して新たな思考で社会と対等に向き合っていく理論が世間では飛び交っているという。 僕はこの言葉が今の自分に当てはまる意中の人間だと考えている。できれば僕も凪悠も自分たちの歪みが均衡になる日を望んでいるがどちらも現時点では理想に届くことが難しい狭間で揺れ動いているのだ。 数週間後の木曜日の日中に、外出している凪悠から電話が来て高校時代の友人と夕飯を取ることになったので帰りが夜遅くになると告げてきた。僕は唐突に依那の事を思い浮かべて彼女に会いたいとメールをし、折り返し返信が来て承諾をしてくれたので待ち合わせ場所と時間を決めてその日がくるまで彼女へと思いを募らせていた。
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