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去年の十二月に付き合い始めて、今日は六月。一月を一ヶ月目と数えれば、確かにそうだ。なんだかチヒロと過ごすことが普通になっていて、気づけば忘れてしまっていた。
チヒロのほうがよっぽど、あたしとの恋愛をはっきりと認識していたことに愕然としてしまう。確かに、カップルって誕生日だけを祝うわけじゃないし。あたしの中での「普通」なんて、所詮はそんなもんだったんだな。
そう考えると、昨日の夜に「赤点取りたくなかったら、不安な科目の教科書を持ってきなさい」としか連絡していなかったあたしは、とんだ鈍感女だ。「今月で……」とかならまだしも、今日だよ。六月七日。付き合って半年。そんな日に、ここまであたしたちの過ごした時間でなく、太古の昔に名を馳せた歌人の作品ばかり追わせてしまったことを、心から恥じた。
青くさい草のにおいの中で、チヒロがつけている香水の甘めなマリンの香りが、鼻先をくすぐっていった。
「……ごめん」
あたしには、それしか言えなかった。もしも涙が流れたら、このまま目の前の小川に飛び込んでやりたかった。
木の葉を隠すなら森の中だ。情けなくて泣いているだなんて思われたくなかったから。
「なにがだよ。わかんねえ」
そう言ってチヒロは笑い飛ばした。いや、笑い飛ばそうとしてくれていた。鈍感だとは言ったけれど、ここぞという時にはよく気づいてくれる人だった。
実際のところ全然鈍感なんかじゃなくて、あたしのことを気にかけてくれて、大事にしてくれる人が、すぐ隣にいる。そのことに気づけないあたしのほうが、よっぽど面の皮が厚い鈍感女。
だめだ。泣いてしまいそうだ。この森が本当に真っ暗だったら、あたしはなんの躊躇もなく、静かに雫を落とすことができたのに。蛍の瞬きがぼんやりと、チヒロの笑い顔を照らしている。泣いてしまったら、簡単にばれてしまう。唇を噛んだ。
「おれさあ。これからすげえ、サオリが嫌がること言う」
何を言われても構わない。
記念日なのに無限に漢文の読み下しとかさせてごめんなさい。
記念日に恋文のひとつも用意できない、つまらない彼女でごめんなさい。
沈黙にそんな念を込めた。
「おれら、三年生だからもう少しで進路決めなきゃなんない」
ここからは何をしなさい……と明確に線が引かれている点で、あたしたちは大人ではない。
あと一歩のところまできているけれど、全てを躊躇なく決められるほど、大人にはなれていない。
「うん」
「それでも、おれ、なんとなく思うんだけど」
「うん」
「きっとこれからも、サオリとは、そう簡単に離れることはないと思うんだよ」
うるさいんだよ。
わかってるよ。
あたしが「ずっと、なんてあり得ない」「人間いつか死ぬし」「ユウとサトミっていつ別れると思う?」とか平気で言う可愛げのない女子だからこそ、最初のエクスキューズがあったんでしょ。
なんの憂いもなく永遠を信じることができないってわかってるから、あんたは「ずっと一緒にいたい」とか言わないんでしょ。
なんならあたしはめったに「大好き」とも言わないし。本当は好きなくせに。
でも、こんなんじゃ、あたし信じちゃうんだよ。ばかだから。単純だから。
この人となら「原則」から外れられるかも……って思っちゃうんだよ。
責任取れよ、ばかやろう。
「だから、これからも、よろしく」
無理。
これからも、なんて二重線で消してやる。なんなら訂正のハンコも捺す。
「ずっと」よろしくしてくれなきゃ、許せない。
短く息を吸い込んだ。
「それじゃ、あたしと一緒の大学、行こうね」
「ウゲー無理。サオリと違って、おれ文系科目てんでダメなの知ってるだろ」
「あれ? じゃあ理系科目なら余裕ってことだよね。期待してるよ、次のテストの点数」
「かーっ。まったく敵に回したくないやつだな」
「そうだよ?」
言いさま、チヒロの肩に頭をもたれた。伝わってくる温度は、あたしよりもほんの少しぬるかった。自分が緊張しているのはわかってる。でもきっと、チヒロだって驚いているはずだ。こんなこと、あたしが自分からすることはほとんどなかったから。
でも、今しか言えなかった。数えきれないほどの淡い緑色の明かりが、あたしの気持ちを後押ししてくれるうちに。敢えてカーテンを閉めていた心の中に生まれた光が、あたしの本心を裸にしてくれているこの隙に。
ちゃんと言葉にしなきゃいけない。
強く、強くそう思った。
「これからも敵じゃなくて、彼女だと思ってくれなきゃ、嫌だ」
浮かびあがっても消えていかない気持ちを唇にのせた。
うん、とチヒロは短く答えて、あたしの肩を抱く。
しばらくの間、あたしたちは何も言わずに、揺れる蛍火たちをじっと見つめていた。
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