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第一章
1
「相沢さん、お早うございま~す」
ボンヤリと目を開くと、薄いグリーンのシャツを着た男が、上から真次郎の顔を覗き込んでいる。
真次郎には今その男から相沢さんと呼ばれ、眠りから起こされた自分が誰なのか解らない。自分が今いるところが何処なのかも解らない。
男は掛け布団を剥がすと、横向きに寝ている真次郎の腰に手を掛け「オムツを替えますからね、寝間着を降ろしますよ」と言いながらパジャマのズボンを降ろそうとする。だが真次郎の身体は横になっているので、上になっている左側の尻半分だけが腿の辺りまでズリ下げられ、オムツをした尻の左半分が露わになる。
男は上になっている真次郎の左の肩と膝に手を掛け、力を入れてグリンと仰向けにする。すると曲がったまま拘縮している右膝が立った格好になる。
シャツの男は真次郎の左足の膝も立て、両膝を揃えようとする。だが骨の浮き出た股間や膝は固まっており、なかなか思う様に揃えられない。力を入れて足を曲げ、やっと両膝を立てた状態にする。
真次郎は訳も解らないまま、されるがままになっている。シャツの男が身体をつかむ感触だけは伝わっている。
そのまま身体を反対側に倒すと、今度は右側が上になる。尻の左半分だけ下がっていたパジャマのズボンの右側を下げると、オムツをした尻全体が丸出しになる。そのままもう一度仰向けに倒し、腿の辺りまで下がっているズボンを揃え、立っている膝を乗り越えさせる。そして足首までズリ下げてしまう。陰部を覆っている紙製のオムツが露わになる。
「はい、オムツを替えて綺麗にしますからね」
と言いながら慣れた手つきで腰の両側からバリバリとマジックテープを剥がし、オムツを開いていく。
「あ、今日はいいウンチが出てますね」
股の下から排泄物の付着した紙パットを引き出し、丸めてポリバケツの中へ放り込む。そして湿り気のある布で陰部を拭き取る。それからヒリヒリする薬を浸した布を擦り付けると、新しいパットを当て、またオムツを締め直していく。
その間真次郎は虚ろな目を天井に向け、何を見るでもなくボ~っとしている。
自分はベッドに寝かされ、若い男にオムツを替えて貰っている……そのくらいのことまでは頭の何処かで理解している。でもその他のことは解らない。そもそも真次郎は何も考えていない。既に考えるという概念もない。
シャツの男は作業を終えると元通りに真次郎を寝かせ、布団を掛けると部屋を出て行く。
暫くするとまた別の男が入って来る。その男もやはりグリーンのシャツを着ている。
「相沢さん、朝ご飯食べに行きましょうか。さぁ起きますよ」
と言ってまた布団を剥がす。真次郎の背中に手を回し、痩せ細った両足の下に手を入れる。そしてグイと力を入れて上半身を起こすと同時に両足を回し、ベッドの縁に足を降ろす。
真次郎はベッドの縁に座った格好になる。男はぶら下がった真次郎の足にサンダルを履かせる。
「さぁ相沢さん。頑張って立ちましょう」と促すと、真次郎の左手を持ち、ベッドの脇に置いた車椅子の肘に捕まらせる。そして弾みをつけて左足だけで立ち上がらせると、そのまま身体を半転させ、ドシンと車椅子に座らせる。
車椅子の前部にあるペダルを水平に倒し、真次郎の両足を乗せる。シャツの男は車椅子の取っ手を握ると向きを変えてドアへ向かい、そのまま押して部屋を出る。
車椅子は押されて廊下を進む。真次郎はボンヤリと前方を見ている。すると走る自動車に乗っている様な気分になってくる。
真次郎は運転席でハンドルを握っている。左手をハンドルを握る形にして、車椅子が角を曲がるとグルグルと見えないハンドルを回す。
本当は両手でハンドルを握りたいのだが、右腕は麻痺しており、膝の上に放り出されたまま動かすことが出来ない。
そんな真次郎のことを、シャツの男は気にも止めずに車椅子を押して行く。
車椅子は進み、広いフロアーへと連れて来られる。そこに並んでいるテーブルには、トレイに乗ったたくさんの食事が並べられており、それぞれに名前の書かれた立札が置かれている。その中から「相沢真次郎様」と書かれた札のある席に車椅子が着く。
「はい、じゃ相沢さん、前掛けしますからね」
と言って男は真次郎の首にエプロンを付ける。そして車椅子の隣に椅子を置いて座る。
「それじゃお茶から飲みましょうか」
と言って真次郎の口元にマグカップを持ってくる。
カップの縁が唇に着くと、反射的に口が開き、口の中に入ってくる生温かい液体を喉が勝手にゴクゴクと飲み込んでいく。だが口も右半分は麻痺して動かないので、右端からダラダラと漏れてしまう。
男はティッシュを使い、慣れた手つきで真次郎の口元を拭うとスプーンを取る。
「最初はご飯を食べますよ」
男がスプーンに白米を乗せ、真次郎の唇に当てると、また口は自動的に開き、入ってきたご飯をモグモグと食べる。だがやはり口の右端から半分くらいこぼれてしまう。
見ると他のテーブルでも車椅子に乗った老人たちが、同じグリーンのシャツを着た男や、同じデザインだが薄いピンクのシャツを着た女にご飯やオカズを食べさせて貰っている。
シャツの男はほぐした魚の白身と白米とを交互にスプーンに乗せ、真次郎の口に入れていく。
真次郎にも食べている物の味は解る。だがそれが何なのかは解らない。ただ口に入れられてきた物に対して反射的に反応し、自動的にアゴが動いてモグモグと咀嚼する。
シャツの男は食べる合間にお椀を取って味噌汁も飲ませてくれる。
そしてあらかた食べてしまうと「もうご馳走様でいいですか?」と問い掛ける。真次郎は黙っているが、男は構わずに「じゃ相沢さん。お薬を飲みますからね」と言って真次郎の頬を親指と人差し指で挟み、縦に開けさせる。もう片方の手で口の中に錠剤を入れ、吸飲みの尖った口を咥えさせ、水を流し込む。
ゴク……ゴクッ……水と一緒に錠剤を飲んでしまう。何を飲んだのかは解らない。ちゃんと口の中から錠剤が無くなっているか、男は真次郎の口を開けて確認する。
「はい、じゃ洗面所に行って歯を磨きましょう」と言って車椅子を引くとテーブルを離れ、そのまま洗面所へと連れて行く。
洗面台の前に車椅子を止めると、シャツの男は手に薄いビニールの手袋を付け「はいお口を開けて下さい」と言い、口の中へ手を入れてくる。上アゴから入れ歯を外す。それから口に歯ブラシを入れると、半分くらい残っている下の歯をゴシゴシと磨く。
それが終わるとまた入れ歯をはめられ、車椅子を押されて元の部屋へと連れて来られる。そして車椅子に乗り移った時とは逆の手順で、またベッドに寝かされる。
シャツの男は真次郎に毛布をかけると「はい、では相沢さん、暫く休んでて下さいね」と言って部屋を出て行く。
それからどれくらい時間が経ったろうか、目を開くと天井が見える。いや目に天井が映っているというだけで、真次郎にはそれが天井だと認識出来ている訳ではない。
「相沢さん。お風呂の順番がきましたので、お連れしますね」
と言ってまた現れたシャツの男は、真次郎の身体を起こして車椅子に乗せる。
車椅子を押されて浴室へと向かう。真次郎の意識はまたハンドルを握り、車を運転している。
角を曲がると窓に面した長い廊下がある。ハンドルを握りながら窓ガラスの外を景色が流れていくのを見る。それは真次郎の中で車道を走るトラックのフロントガラスになる。
真次郎はハンドルを握り、運転している。エンジンの振動が身体に伝わってくる。それは何処か遠くまで運ぶ大切な荷物を積んだトラックである。何処へ行くのかは解らない、何を運んでいるのかも解らない。でも真次郎はトラックを運転している。それはいつしか海辺の道路になり、少し開いた窓から吹き込んでくる潮風さえも感じられる。
そのまま車椅子は温かい部屋へと入り、決められた位置に着くとシャーッシャーッと音を立てて四方がカーテンに仕切られる「それじゃ寝間着を脱ぐお手伝いをしますからね」と言ってシャツの男はパジャマを脱がせにかかる。
真次郎は自分の左手と左足は動かすことが出来るが、右手と右足は麻痺しており、自分ではピクリとも動かすことが出来ない。だがシャツの男が持って力を入れると右腕も右足も関節が曲がる。
男は手際良く袖を抜き取り、真次郎からパジャマも肌着のシャツも脱がせてしまう。アバラ骨に薄い皮が張っているだけの上半身が露わになる。
シャツの男は「さぁ相沢さん、前の手すりに捕まって立ちますよ」と言って真次郎の背中に手を回し、前に押して前傾の姿勢を取らせる。真次郎の左腕を伸ばして手すりを握らせ、左足だけで立つことを促す。
「はいじゃ立ちますよ」と尻を持ち上げられ、真次郎はヨロヨロと立ち上がる。
「はい、そのまましっかりお立ちになってて下さいよ」
と男は念を押してからパジャマのズボンをズリ降ろし、バリバリとオムツも外す。真次郎が全裸になると後から車椅子と入れ換わりに入浴用の特殊な椅子があてがわれ、真次郎を座らせる。
男は防水用のエプロンを着けると「それじゃ行きましょう」と言ってガチャガチャと音を立てるその椅子を押して浴室に入る。
男は真次郎の身体にシャワーで湯をかける「それじゃ髪の毛にかけますからね、目を瞑ってて下さいね」と言われると、真次郎は眼を瞑る。頭の上からジャバジャバと湯がかけられていく。
男は細長い網目のタオルに洗剤を付けて泡を立てると、真次郎の身体をゴシゴシと洗っていく。
痩せ細った自分の腕を、足を、干乾びた胴体を洗われているのを、真次郎はまるで他人事の様にボンヤリ眺めている。
「はい、それじゃシャワーで流していきますね」と言って身体についた泡を流していく。
全身を洗い流すと、男は椅子を押してシャワーの前を離れる。向きを変えると前方に大きなボックス状の機械がある。
「それじゃ湯船に入りますよ」
男に押された椅子はそのまま機械の中へと進み、ガシャンと音を立ててドッキングする。ドア状になっている後方の枠を閉めると、それは密閉された湯船になる。
「はい、じゃお湯いれますからね~」と言って男がスイッチを入れる。下から温かい湯が湧き上がってきて、みるみる真次郎の身体を浸していく。
「はい、じゃ相沢さん、ゆっくり温まりましょうね、今泡を出しますからね」と言ってシャツの男がまた別のスイッチを入れる。するとボバババ~と前からジェットの泡が噴き出して、痩せた身体が包み込まれていく。そのまま自分が後へ流されてしまいそうな感覚になる。
その瞬間、真次郎の目に濁流が広がってくる。真次郎は流れる川の中にいる。目の前を過っていく濁った水と、ジャングルの木々が見える。今にも身体ごと流されてしまいそうになりながら、足の先だけがギリギリ川底に着いている。真次郎は向こう岸に渡ろうとしている。でも流れが速く川幅が広い。
「頑張れ! 頑張れーっつ!」
その声に目をやると、向こう岸でボロ布のような軍服をまとった戦友たちが声をかけてくる。どの男も身体中汚れており、殆ど裸である。
「わあっ、わああああ~~~~~~~っつ」
振り向くと断末魔の叫び声をあげて、戦友がみるみる流れの中に消えていく。
濁流に押し流されそうになりながらも、真次郎は少しずつだが向こう岸へと近づいている。もう少し……あと少しだ。
もう何日も草の根や木の芽しか食べていない。手足は痩せ細り、胸にはアバラ骨が浮き、顔はゲッソリとやつれている。
もう一歩も前へ進む気力はない。それでも流される寸前で真次郎を喰い止めているのはただ「日本に帰りたい」という一心である。
「うおっ、うおおお~~っつ!」
今にも流されそうな恐ろしさから身をよじり、呻き声を上げる。
「相沢さん、大丈夫ですよ。動かないで、じっとして下さい」
気が付くと防水エプロンを着けた男が、真次郎を宥める様に話しかけている。
訳の分からないまま真次郎は、湯船の中で泡の流れに抗おうと左側の手足をバタバタと動かしている。
シャツの男が機械のスイッチを切ると、前方から噴き出ていた泡が止まり、溺れかけていた川も消えていく。真次郎は次第に落ち着きを取り戻し、同時にまた虚ろになっていく。
シャツの男が機械を操作すると湯船からザバザバと湯が流れ出ていく。
ガシャガシャン……と音を立てて椅子が後へ動き、そのまま湯船から引き出される。元の脱衣所に戻って身体を拭かれる。そしてまた片手で手すりにつかまって立つことを促され、普通の車椅子へと乗り移る。そして下着と寝間着を着せられて、外の廊下へと押して行かれる。
「それじゃ相沢さん。髪の毛をドライヤーで乾かしますからね」
浴室を出て、フロアーの脇にあるスペースへ連れてこられると、そこに待っていたピンクのシャツの女が真次郎の髪の毛にドライヤーを当て始める。
ブォーと音を立て、温かい風が当てられると、真次郎の目には、細かいオガクズが粉雪の様に舞い散っていくのが見える。そして目の前には大きな作業場の様な光景が広がっている。真次郎は作業服を着て、機械を操作している。
周りにも作業服を着た男たちがいて、それぞれに自分の担当する機械の前で作業している。
長い木の板を機械にセットして、押していく。板はブィーンという音と共に機械に飲み込まれていき、横の吹き出し口から中空に木の粉を噴き上げていく。
押された板は機械の反対側から表面がスベスベになって出てくる。それをもう一人の作業服を着た男が受け取り、持ち上げると脇に運んで行く。
一本の板が出来上がると、脇に積まれた板の山から次の板を取り、位置を確かめてまた削り機に掛ける。
ブィーン……真次郎は熟練した手付きで板を削る作業を繰り返しながら「これでいい……これでいいんだ」と呟いている。
何が「これでいい」のかは解らない。何故自分がその言葉を呟いているのかも、自分が何処にいるのかも解らない。
前に座っている制服の男が真次郎に向って「おい、一五七番、ブツブツ言うのやめろ!」と怒鳴る。真次郎は「す、すみ……ませ、ん……」と謝る。
「どうしました相沢さん? 何も謝ることなんかないんですよ」
見るとピンクのシャツの女がドライヤーをかけながら、真次郎の顔を覗きこんでいる。
「大丈夫ですよ。もう少しで終わりますからね」
「……」
髪を乾かし終わると、車椅子を押され、再び広いフロアーへと連れて来られる。
気が付くと、自分の口の右端からヨダレが垂れ下がっている。黙っていても口の右側が垂れ下がってしまうので、ヨダレが垂れる。だがそれを恥ずかしいとも思っていない。
ヨダレを拭ってくれる人もなく、そのままただ座っている。そうして宙を見つめていると、何処からかキュルキュルと車輪の回る音が響いてくる。
その音が近づくに連れ、真次郎の周囲に熱帯のジャングルが広がってくる。
バシャバシャと雨が降っている。真次郎は息をひそめ、木々の茂みに身を隠している。姿は見えないがキュルキュルと音を立て、木々を踏み潰して敵の戦車が近付いている。
近くで砲弾が炸裂し、ドカン! ドカン! と黒い土が空高く舞い上がっていく。
真次郎は他の戦友たちと濡れた木の葉をかき分けて夢中で走っている。暫く行くと茂みの中に腹ばいになり、身を隠す。
木の葉の間からそっと覗き、逃げて来た方を見ると、名も知らぬ戦友が足を負傷したらしく、途中で倒れたまま起き上がれなくなっている。
助けに行こうとするのだが、足が前へ出ない。
倒れた戦友の後方から、木々の茂みをかき分けて鉄の固まりが現れる。
タタタン……タタタタンと砲塔から突き出た機銃で銃弾を辺りに撒き散らしている。
キュルキュルとキャタピラを軋ませて木々を踏み潰してくる。見つかれば撃ち殺される。全身が恐怖に縮み上がる。
キャタピラが倒れた戦友の後からのし掛かり、足から踏み潰していく。バリバリバリバリ「うおー……」。
戦車は当たり前のように戦友の身体を踏み潰し、何事も無かった様に進んで来る。
キュルキュル……キュルキュル……キュルキュル……キュル……。
音が途絶える。ジャングルは消え、真次郎の世界はまたフロアーに戻っている。
車輪の音は調理室からフロアーへと昼食を運んで来たワゴンのタイヤが立てている音だった。フロアーに食事が到着し、その音も消える。
2
ガリガリ……ガリガリ……ガリ……。
真次郎のベッドのある部屋で、その音が響いている。
真次郎はベッドに横になりながら、ステンレス製のスプーンをベッドの柵に擦り付けて削っている。
なるべく音を立てない様に気を付けながら。少しずつ削る。でもこうして僅かでも毎日削っていれば、いつかきっと先が尖がって、ナイフの様になる筈だと思っている。
真次郎はそうすることに何かの思いを込めている。それが何なのかは解からない。でもコレをやることが自分の使命である様に感じている。
「何してるんですか」
他の老人の車椅子を押して入って来た男が言う。そう言われて初めて自分のしていることに気が付き、真次郎はスプーンを見る。
自分の意志ではない。自分の手は何故そうしているのか、そのスプーンを何処で手に入れたのかも解かっていない。ただ無意識にそれをしていた。
スプーンを持った左手を男に捕まれると、真次郎は怯えた目で男を見る。
「す、すみま、せん! 申し……訳、ありま……せん……ごめん、ごめんな、さい……」
男は真次郎の指を広げ、スプーンを取り上げる。
「どうかしました?」とまた別の男が車椅子を押して入って来る。
「見て下さいこのスプーン。さっき夕食の時に寝間着に隠して持って来たんですよ。食事の時気をつけないと、相沢さんはスプーンをポケットとか服の中に入れて盗んできて、自分の部屋でベッドとかに擦り着けて削るんですよ」と説明しながらスプーンを見せる。スプーンは先端が削られてギザギザになっている。
「今までにもう何本もやられてますから、気を付けて下さい」
「そうですか、解りました。今度から気をつけます」
男は車椅子に乗せて来た老人をベッドに寝かせると、もう一人の男と一緒に部屋を出て行く。
既に今起こったことも理解していない真次郎は、ただポカンとしている。
……願いまーす願いまーす。用便願いまーす。
脳裏に言葉がこだましている。目を開くと真次郎は暗い中に寝かされている。仰向けのままキョロキョロと辺りを見回すと、いつもの常夜灯の光があるのを見つけ、自分がいつもの場所にいることが解り、ほっとする。
どうやら繰り返し耳に聞こえていた言葉は自分の口から出ていたらしい「願……い、まーす……願いま……す……」夢の中ではスラスラと出ていた言葉が、現実には口の右半分が麻痺しているので、たどたどしく発音される。
便意を感じている。だがどうやらこのお尻の下の感触は、既に排泄物がオムツの中に広がっている様である。
また自分の口が勝手に繰り返す「願…いまー……す、願い……まーす……」
暫くしてパタパタとスリッパの音がして、グリーンのシャツの男がドアを開けて入って来る。ベッドを囲んでいるカーテンを開くと臭気を感じたらしく、ウッと表情を変える。そして真次郎の上から顔を覗き込む。
「相沢さん、朝になったらまたオムツ交換しますからね、それまで静かに寝ていて下さいよ、いいですね」と有無を言わせぬ厳しい口調で言う。そして部屋を出て行く。
自分の臭気に包まれながら、真次郎はボ~っと天井を見ている。
真次郎には毎日同じ日常が繰り返されている。朝起こされ、オムツを替えて貰い、朝昼晩の食事を貰い、週に二回風呂に入る。
そして今日もまた同じ日常を繰り返し、気が付けば夕食の時間になっている。
真次郎はテーブルにつき、グリーンとピンクのシャツを着た男女が夕食を配るのをボンヤリ見ている。
男女たちは慌しく食事の乗った皿やお椀をテーブルに配っている。ふと真次郎の視線が引き付けられる。真次郎の目はピンクのシャツを着た女たちの中に、その一人を見付け、見つめている。その横顔、振り向いた表情、他の男女たちと言葉を交わし、少し微笑んだ顔。
真次郎の口が動く「マ……リ……」
そう発音した瞬間、不意にドックン……ドックン……と胸の中で鼓動が激しくなってくる。
「マ……リ、マ……マリ……マ、リッ……」
真次郎はその女に呼び掛けている。何故その女に呼び掛けているのか、自分で言いながらマリという女が誰なのかも解っていない。
ただ胸の中にいい知れぬ懐かしさと愛おしさが込み上げてくる。忙しく働いているその女はなかなか自分の方を振り向いてくれない。そのことが余計に真次郎の感情を高ぶらせていく。口は半分動かない、呂律も回らず、言葉を明瞭に発することも出来ない。それでも必死に呼び掛ける。
「マ……リ! マ……リ!」
必死に呼んでいる真次郎に気付いたその女が振り向いた。それは二十歳くらいの、可愛らしい感じの女である。だが真次郎を見てハッとした様な表情を浮かべると、慌てて顔を隠し、そそくさと走って行く。
「マ……リ、俺……だよマ……リ、マリ! 何処に行く、んだ! マリ……マリーっ! マリー……」
女は振り返らずに廊下を走って行ってしまう。そのまま視界から消える。
それから三秒くらいが過ぎる。真次郎はそのままそこにいて、宙をみている。今起きたことも、自分が言ったことも忘れている。ただ心には強烈な悲しさが残っている。今何があったのかも、どうしたのかも解らない。
周囲では何事も無かった様にシャツの男女が配膳の準備を進めている。
3
気が付くと真次郎は病院の診察室の様なところにいる。真次郎の車椅子の前に白衣を着た中年の男が座っている。胸に首から吊るした名札を下げており、それには「川柳」という名前が書いてある。その名前の上には小さく「嘱託医」という肩書きがついている。
そして真次郎の横には、紺の背広を着た男が座っており、同じく胸に下げた名札には「野崎孝雄」と書かれており、肩書きには「施設長」と書かれている。
ただポカンとして宙を見ている真次郎を余所に、嘱託医の川柳が施設長の野崎に説明している。
「施設長、相沢さんの場合、認知を発症したのは脳梗塞で半身麻痺になったのがきっかけですので、脳血管性の認知症であることは間違いないのですが、先日のCTの結果を見ると、どうも側頭葉の内側にある海馬が萎縮しているんです。しかし海馬の周りには脳梗塞が起きた兆候は無いんですよね」
聞いている施設長の野崎は、川柳の説明がさっぱり解らないという風に無表情である。
「と言いますと、それはどういうことなんですか?」と川柳に質問する。
「つまりですね、相沢さんの場合、脳血管性の認知だけじゃなくて、アルツハイマー型との複合型だったのではないかという疑いがあるんですよ」
「はぁ……」
「ですから今までは脳血管性の認知症に効く薬しか投与していなかったのですが、アルツハイマーとの混合型ということであれば、新薬のアリセプトを使うことで効果を期待することが出来ると思うんです」
「そうですか」
と答える野崎の返答には少しも感情がこもっていない、まるでそんなことはどうでも良いという反応である。
「なので相沢さんに対して、これまで投与してきたグラマリールの量を減らしてアリセプトを併用して投与してみようかと思うんですが、許可して頂けますでしょうか」
「はぁ……」
「何か問題がありますか?」
「あ、まぁ、いえ……でもただ、もうそんな必要があるのかなぁと」
「どういうことですか?」
「いえ、もう相沢さんも来年は九十歳になりますし、今更少し症状が改善したところで……」
投げ遣りにも聞こえる野崎の物言いに、川柳はちょっとムッとした表情をして言葉を強める。
「医者としては少しでも患者さんの症状が改善されるなら、その為に努力するのは当然のことだと思っておりますが」
「……そうですか、解りました。では、はい、許可いたします」と野崎は表情を変えずに答える。
「それでは、明日の朝から、最初は少量の1.25㎎から初めてみたいと思いますので。宜しいですね」
「分かりました。担当のケアマネージャーの方には私から報告しておきます」と言って野崎はさっさと席を立って行く。
川柳は手にした書類にサラサラとボールペンで数値を書き込んでいく。
真次郎はただぼ~っとしたまま。相変わらず何も見えていない目を宙に躍らせている。
翌日の朝食の後、シャツの男は「はい、じゃお薬飲みますのでね。相沢さん。今日から新しくお薬が増えたんですね」と言って真次郎の口に色の違う二種類の錠剤を入れ、吸飲みの先を咥えさせ、水と一緒に流し込んでいく。ゴク……ゴクッ。条件反射で喉が反応し、流し込まれた水を錠剤と一緒に飲み下していく。
真次郎には何をされているのかも、今自分が薬を飲み込んだことさえ解らない。
その日の夕食が終わった後、フロアーに置かれた大画面テレビの周囲を囲む様に車椅子が置かれ、それぞれに座った老人たちがボンヤリとテレビの画面を眺めている。
それぞれの瞳には画面の光が反射しているが、その目で何を見ているのか、テレビに映っているものが何なのかを理解している者はほとんどいない。
そんな中に真次郎もいて、見るともなく視界に画面を捉えている。ふと真次郎の左手が思いがけず俊敏に動き、車椅子の脇を通ろうとしたピンクのシャツを着た女の腕をつかんでいる。
ハッと振り向いた顔は、先日真次郎が見つめていたあの若い女である。
「マ、リ……マリ……」
驚いた女は咄嗟に真次郎の腕を解こうとするが、真次郎のつかむ力が強く、解くことが出来ない。
「……マリ、じゃ……ないか! 会いたか、った……よ、俺は……ずっと、会いたかった、んだ……よ」
「相沢さん、違いますって。私はマリさんじゃありませんて」
女は真次郎に訴える。その顔を見ていると真次郎の胸に懐かしさが込み上げてくる。どことなく関西の訛りがあるのもあの頃のマリのままだ。心がドキドキと弾んでくる。
「や、やっぱ……りっ、マ、マ、マリ! マリじゃ……ないか! マ、リ!」
真次郎は動かすことの出来る左手で女の手を握り、右半分が麻痺している口で呼びかける。
その女と自分は何処で会ったのか、何故相手を知っているのかも解らない、ただ口が勝手に話し掛ける。
「マリ……マリ……」女の唇は真次郎が長年慣れ親しんだ唇だった。いつもキスしてお互いの唇をなすりつけ合っていた。
この女の首筋も、身体も、全て、指の一本一本からつま先まで、真次郎が舐めていないところは無い。あの温もりが蘇える。裸になってギュウギュウ身体を絡ませ合った感触が蘇える。
真次郎はその女をもっと自分に引き寄せたいと思い、グイグイ引っ張る。
「相沢さん、どしたんです、ちょっと、やめて下さいよ……」
「やっと……会えた、ね、マリ、きっと会える、と、思って……たよいつ……か会える、と思って……たから、だ、から、俺、は……生きて、ることが……出来た……んだよ」
ビュウウ~と辺りに風が吹き始める。真次郎と女の周りを風が流れている。真次郎はマリと二人、山の高台の展望台にいる。
遥か遠方に海が広がり、真下には港の風景が見える。夕暮れが近い、他には人もまばらで、真次郎はマリの腕を引き寄せ、自分の顔を近付けようとしている。
「ダメ……いけないわよ真次郎さん……」
俯いたマリの項も、腕にかかる息遣いも、真次郎の頭の中に鮮明に再生されている。
「マリ……好きだ、よ……」
しかし真次郎には右腕が動かせない。両手でマリを自分の胸に抱き寄せることが出来ない。そのもどかしさが一層マリの腕をつかむ左手に力を入れさせる。
「相沢さん、相沢さん……」
女は狂おしい瞳で真次郎を見つめている。
「相沢さん。私はマリさんじゃないですよ。私は沙奈っていう名前なんです」
女を見つめる真次郎の目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。
「いいん……だ、よ、お前……は何も言わな、くて……も、また、お前、に会えるな……んて、夢……みたい……だ。ずっと、思って、た、んだよ。お前、のこと……」
「でも相沢さん……」
女は必死になって真次郎の左手を解こうとするのだが、やはり解くことが出来ない。
「今まで……どうしてた? の、幸せでいた……のか、い? 愛してるよ、お前、のこと、今も……俺はお前……のこと、忘れ、た……こと、なんて、なか……った、んだぁ、よ。いつもぅ、心配して、た……ん……だよ俺は、謝らな……きゃ、ならないと、思ってたん……だよ、ごめ…んな、本当、に……」
自分がどうしてこの言葉を喋っているのか、何を謝ろうとしているのかも解らない。ただ感情が熱くなり、口が勝手に次々と言葉を吐き出していく。
「……酷いこと……ばか、りして、悪かった、な。懐かし、い……な。大好き、だ、った……よ。あの頃……俺、は生まれ、て、良かった……って思っ、たんだぁ……よ。本当だ……よ」
真次郎の執拗な言葉に女も顔を赤らめてしまう。
「そうですか、そんな大事な方だったんですね、すみません相沢さん。私がその方だったら良かったんですけど」
「謝らな、きゃ、なら、ないの……は、俺、の方、なん、だよ……」
「吉田さん、どうしました」
二人の様子を見つけたシャツの男が駆け寄って来る。
「ああ、すいません。相沢さんが手を放して下さらなくて」と女が振り向くと、男は「総務の村井さんが呼んでますよ」と言い、女を手伝って真次郎の腕を離そうとする。
「ちっ、何て強い力なんだ……」
と真次郎の握力の強さに戸惑いながら指を引き剥がしに掛かる。
「ちょっと、相沢さん。すみません。私は他に用事があるので行って来ますから、ちょっと、待ってて下さい」
だが真次郎は絶対に離すまいとして、つかんだ腕を揺すぶる。
「あ、相沢さん、離して下さい。私はマリさんじゃないんです。私は沙奈っていうんです!」
「どうしました?」
とまた別の男が駆け寄ってきて、三人掛かりで真次郎の腕を離しに掛かる。
「相沢さんに顔を見せちゃいけないって言ったじゃないですか」
「すみません。ここにいるって気が付かなかったので。相沢さん、離して下さい、痛いですよ……」
「マ……リ、マリ……何処に、行く、んだ」
真次郎は身をよじり、女の腕をつかんだまま左足で車椅子から立ち上がろうとする。
「マ、マリ! せ……せ、先生、先生っ……お願……いします! 先生っ! マリ……を、マ、リを引き留め、て……くださいっ! 先、生!」
「この人はマリさんじゃありません。マリさんていう人はここにはいないんですよ。ちょっと落ち着きましょうね」
男は力づくで真次郎の指を一本ずつ引き剥がしていく。
「マ、リ、マリ……っ! マリーっ!」
遂に女の腕から左手が離される。その瞬間、真次郎は女の首をつかむ。柔らかい肌に爪を喰い込ませ、喚き散らす。
「コイ、ツっ、殺す! 殺し……て、やるーっ!」
「痛いっ、痛いっ! キャアーッ!」
女が叫び声を上げる。瞬間その声に重なって真次郎の脳裏に「きゃー」という凄まじい少女の叫び声が響く。
中学生くらいだろうか、真次郎の目の前にいる少女の顔に、シャワーが掛けられるみたいに真っ赤な鮮血が浴びせ掛かっていく。バシャバシャバシャバシャ……。
「きゃあーーーーー!!!」あらん限りの声を張り上げて少女は叫んでいる
真次郎はビクリとして動きを止める。
気が付くと、目の前にいるマリの姿が、別人の姿に入れ替わって行く。真次郎の脳裏で、ボケていたピントがキュッと引き絞られる様に、世界の輪郭がハッキリしてくる。
気がつくとその女は真次郎の手を握って涙を浮かべている。真次郎は唖然とする。
……これは……これはどういうことなんだ? なんだ……この娘は、マリとは違う……。
真次郎にはマリという女が誰なのかは解らない。だが今目の前にいる女が、自分の思っているマリとは似ているが違う人間であることが解ってくる。それは視界を覆っていた濃い霧が晴れて行く様な感覚である。
見ると女の白い首から血が出ている。真次郎が爪を立てて強く握ったので、ひっかき傷になってしまったらしい。
「……」
頭の中に、不意に筋道を立てた考えが浮かんでくる。真次郎の中に正気が、理性が戻ってくる。
……これは……俺が、やったのか……この人は、マリではない。違う、知らない人じゃないか……そうだ……俺は、そのマリという女と深い関係だったんだ……でもその女は、きっと俺とそう歳も変わらないだろうから、今ではきっと、お婆さんになっているに違いないんだ。だから……こんなに若い娘のはずがない。
……それにこの子の胸に付いている名札には「吉田沙奈」って書いてあるじゃないか。思い出した、そうだマリは……マリって呼んでいたけれど、正しくは麻里恵という名前だった……俺は、勘違いしてたんだ……。
……でも、それじゃ麻里恵ってのは誰なんだ? 麻里恵という名前を思い出すことは出来たけど、麻里恵という女が誰だったのかは解らない……やはり思い出せない……。
真次郎は静かになり、ただ呆然とした表情で女の顔を見つめている。
やっと真次郎から解放された女も、じっと真次郎を見ている。首筋から血が流れている。女も今真次郎の様子が変わったことに気付いている。
心配そうに女を見ていたシャツの男が言う。
「血が出てるじゃないか、吉田さんすぐ医務室に行って、消毒して貰ってきなさいよ」
「はい、すいません」
と言って女は小走りに去って行く。
真次郎が落ち着きを取り戻すと、辺りはまた老人たちが眺めているテレビの音だけになり、何事もなかった様に元に戻っている。
「相沢さん」
真次郎の指を引き剥がしたシャツの男が車椅子の脇にしゃがみ込み、真次郎を見て語りかける。
「いいですか、今度また今みたいなことをする様でしたら、もうお部屋から外へ出られなくなりますからね」
「……分かり……まし、た」
「えっ?」
「……どうも、すみません……でし、た……」
思いがけず、真次郎の口からちゃんとした謝罪の言葉が出てきたことに、男は驚いた様子で真次郎を見る。
そして何か気味の悪い物でも見たかの様に立ち上がり、そそくさと歩いて行く。
残された真次郎は、またぼ~っとテレビの画面を見るともなく眺めている。だが心の中では、先ほどの出来事と、シャツの女が叫んだ瞬間頭の中に投影された女の子の、顔に血を浴びて叫んでいる姿が繰り返し再生されている。
あれは……さっき見たあれは一体何だったのだろう。そして、マリ、正しくは麻里恵という女は誰なんだ。俺にとって、とても大事な存在なのだと思うが、何も思い出せない……。
不意に車椅子のブレーキが解かれ、後に引かれて動き出す。
あっと驚いて見ると「相沢さん、ちょっとお話させてもらってもいいですか?」と車椅子を引いたのは先ほど真次郎が首に怪我をさせてしまった吉田沙奈という女である。手当をして来たのか首にはガーゼと絆創膏が貼られている。
その女は真次郎をフロアーの隅に連れて来ると、車椅子の脇にしゃがみ込み、真次郎の顔を見つめてくる。何と可愛らしく、優しそうな瞳だろうと思う。
……そうだ、この顔立ちも雰囲気も、きっと俺が若い頃に知っていた麻里恵という女にそっくりなんだ。
「相沢さん?」
「……」
真次郎には、もうこの女が麻里恵ではないということが解っている。
「私が誰だか分かりますか?」
真次郎は改めて女の胸に付けられているネームプレートを見る。
「よ、吉田、さ……沙奈さん……」
「そうです」
女はじっと真次郎を見つめる。今は真次郎を見るこの吉田沙奈という女の表情も違う。
……きっとこの子にも、俺がこの子のことを他の女と間違えてたことに気付いた……ということが分かってるんだ。しかし何てこったろう……恥かしい。俺はこんな若い女の子に向って、あんな赤裸々な言葉を語り掛けてたというのか……自分の女と間違えて、口説き文句まで並べ立てて……。
「……吉田……さん。ごめん、なさい、俺は……他の、人と、間違えて、たんだ、よ……」
真次郎はお詫びの言葉を口にする。だが、首に血の出る程の怪我をさせてしまったというのに、その吉田沙奈という女は全く気にしていない様に、優しい眼差しで真次郎を見ている。
「いいんですよ相沢さん。私こんなの全然平気ですから、気にしないで下さい」
「……だけど、俺……は……」
「凄い相沢さん。こんな風にお話出来るなんて、初めてですよね。今日から川柳先生が新しいお薬を処方したから、その効果なんですかね」
そう言われても真次郎には、毎日ただ与えられる物を飲まされているだけなので、薬のことは解らない。
「私で良かったら、何でもお話して下さいね。今まで私のこと、誰か相沢さんの大切な方と間違えてらしたんですよね。でも私なんかじゃ、とてもその人の代わりになれないかもしれないけど、でも少しでも気持ちを晴らして貰えるんでしたら。なんでもお話して下さっていいですよ」
真次郎の心に、それまでの幻想の世界ではない、現実の世界の暖かみというものが広がってくる。
「あ……りが、とう……こ、んな……老いぼれ、た、半分死んで、るみたい、な男……にそんな、に優し……くして、くれて……」
「とんでもないですよ」
何かサラサラとした感触があるかと思うと、干乾びた頬に涙が流れている。
……おお、俺にも涙が、涙が流れるなんて。俺の身体の中にも、まだこんなに水分が残っているのか。
吉田沙奈という女は真次郎の涙を手で拭い、ポケットからハンカチを出して自分の指を拭う。そして真次郎の頬を拭く。
吉田沙奈はもうすっかり大人の様だが、顔は幼く、表情によってはまだ少女の様な面影がある。
「私、マリさんていう人が、羨ましいです。前から相沢さんが私のことを、他の人と勘違いなさってることは解ってたんですけど、相沢さんのお話聞きながら、私も一度でいいから、こんな風に男の人から思われてみたいなって、思ってたんですよ」
「……マリ」
真次郎の瞳はまた時空を超えるように遠くを見つめる。だが今度は目の前にいる沙奈という女と、自分の記憶の中にいる麻里恵という女とが、違う人間なのだということを理解している。今度は真次郎は、麻里恵ではなく沙奈に語り掛ける。
「き、み、は何歳……なの?」
「三二歳です」
それを聞いて真次郎は驚く。思わず「えっ……ほんと、う?」と聞き返してしまう。真次郎の目にはまだ二十歳くらいの印象だった。
「ご主人……は、いる、の?」
「いえ、まだ独身なんです。相沢さんの時代には、こんな歳になっても結婚しない人なんていなかったでしょうね」
「恋人、は、い……る、の……?」
「はい、好きな人はいるんですけど……」
沙奈はそこで言葉を切って、黙ってしまう。
「どう、した……の? 何か、心配ごと……なの、かい」
「私、誰にも言えなかったんですけど、相沢さんだけに打ち明けますから、他の人には内緒にして下さいね」
「……ああ」
「私の好きな人は、ここの施設長の、野崎さんなんです。ここで働き始めた頃から素敵だなって思ってて、でも施設長は結婚してて、お子さんもいるし、諦めなくちゃしょうがないな……って思ってたんですけど」
と言って沙奈は憂いを込めた顔をして俯く。するとその瞬間、その顔がまた麻里恵に見えてくる……。
「実は、この前。施設長さんから今度食事に行こうって誘われてて、どうしようかなって、悩んでるんですけど」
「……」
「そりゃ正直なところは、嬉しいんですけど、でもそれって不倫になっちゃうし……でも、自分の気持ちも抑えられなくて……」
それを聞いている真次郎は、沙奈の言葉を理解しているのかいないのか、ただ呆然とした顔をしている。
「でもやっぱり、奥さんのいる人を好きになっちゃいけませんよね……」
その言葉に麻里恵の声が重なって聞こえる「夫のいる私を好きになっちゃいけないわ……」そう言って麻里恵は真次郎の顔を避けようとする。
……あの時、山の高台にある展望台で、あそこで麻里恵は俺にそう言ったんだ……それがいつのことなのかは分からない。でも、あの時、あの場所で確かに麻里恵は、俺にそう言った。
4
「貴方のお名前を仰ってみて下さい」
「あ、あいざ……わ、しん……じ、ろう……」
川柳が目を大きく見開き、驚きの表情で真次郎の顔を覗き込んでいる。
「相沢さん。凄いですよ。ご自分のお名前が言えるなんて。これまでは何をお伺いしても、お返事もして下さらなかったのに……」
次に川柳は、真次郎の前に大きな画用紙を置き、それに描かれている絵を見せる。
「さぁ相沢さん。この絵に描かれている物は何だか解かりますか?」
真次郎は絵を眺める。それは……何なのか。目に映っている絵の情報が脳に伝わり、脳からそれを表す言葉が発信され、口から音声になって出てくる。
「と、り……鳥。コレは、鳥……」
「はい、その通りです。では次のコレは何ですか」
「……」
絵を見つめる。それが何なのかは頭の中では解っている。だが中々言葉が出てこない。もどかしさに顔が震える。
「落ち着いて思い出して下さい。相沢さんは必ずコレを見たことがある筈なんです。ヒントを言いましょうか、コレはお掃除に使う物ですよ」
「……ほう、き……ほうき、ほうき!」
「その通りです!」
……解る……俺には解るぞ!
真次郎は興奮している。真次郎にとって「解る」というこの感覚は、暫く忘れていた感覚である。
続けて川柳は画用紙を捲っていき、次々と真次郎に違う絵を見せていく。
「コレ……はひ、飛行機。コレが……象で、コレは……コレは、ああ……犬、犬だ!」
「そうです、その通りです!」
……俺には解る。そうだ。動物、乗物、道具……みんなこの世界にあったモノだ。そうか、俺は、ここにいたんだ。俺には解る。解るぞ、そうだ、世界が解る。俺は今この世界にいるんだ……。
真次郎のあまりの回復ぶりに川柳は改めて驚嘆した様子を見せ、真次郎に語り掛ける。
「この効果は、やはり先週から新しく飲み始めたお薬の効果だと思うんです。でも前から飲んでいるお薬もやはり一緒に飲まなくてはならないんですが。私が思うに、前に飲んでいた脳血管性のお薬と、新しく飲み始めたアルツハイマーのお薬との分量の比率を変えてみることで、より一層の効果が期待できるんじゃないかと思うんです」
「……」
真次郎にはこの男が何を言っているのかサッパリ理解出来ていない。だが川柳は嬉々として説明を続ける。
「相沢さん。今回の結果を踏まえて、次は二種類のお薬の比率をまた少し変えてみたいと思うんです。それでまた検査をしてみて、その時の様子からまたお薬の比率を検討していきたいと思うんです」
そう言って川柳は「相沢真次郎様」と書かれた処方箋の投薬分量の項目に、サラサラとボールペンを走らせて新しい数値を書き込んでいく。
それまで前後不覚で何も解らなかった真次郎の感覚に、劇的な変化が起こっている。霧が掛かっていた景色が姿を現わしてくるように。緩んでいた神経が引き絞られ、物事の並びがハッキリと見えてくる。
……そうか、今俺がいるここは……施設なんだ。身体が弱って自分で動けなくなったり、頭がボケて前後不覚になった年寄りを収容して、世話をしているところ。いわゆる老人ホームというヤツだ。
……そして、いつも俺たちの側にいていろいろと世話をしてくれるグリーンとピンクのシャツを着た男と女たちは、ここで働いている職員なんだ。職員たちがベッドで俺のオムツを替えたり風呂に入れて身体を洗ったり、俺の世話を焼いているのは、きっとずっと前から、毎日そうされてきたのだろう。
今まではただ見るともなく勝手に瞳に映っていた物が、全て意味を持って目に映る。
……ここは俺が毎日寝ている部屋だ……そして部屋の壁……寝てる時に目を開けるといつも見える天井……窓……窓の外には、大きな木が並んで、その向こうにはいろんな家が並んでいる。この窓は、この眺めからすると、四階か、五階くらいだろうか、かなり高いところにあるみたいだ。
この部屋は四人部屋で、男だか女だかも解らないが、同じような半分寝たきりの年寄りが俺の他に三人いる。
そして今肌や五感に感じている空気も解る。今までは何も感じなかった雰囲気も、他人の息遣いも、全てがビビットに伝わってくる。
だが、真次郎には今自分が置かれている状況が解ってくるのと同時に、その他の解らない部分への疑問が沸き上がってくる。
……ここが老いぼれて死に掛かっている様な年寄りたちを世話しているところだということは解った。では俺は、一体いつからここにいるんだ……この施設に来る前は、まだ自分の足で歩けていただろう若い頃は、何処で何をしてたんだ……それはさっぱり思い出せない。
今目の前にある物への認識力は戻ってきたが、過去については全く思い出すことが出来ない。もう思い出すことは出来ないのだろうか。だが頭の中から全ての記憶が消し去られている訳でもないと思う。
……だって沙奈という娘のことを麻里恵という女と間違えていたことや、何かの拍子に突然目の前に戦場のジャングルが広がってくること等は、きっと俺が過去に何処かで目にしてきた光景に違いないんだ。
……つまりこういうことではないだろうか。俺の前で何かきっかけになるようなことが起これば、それに刺激された記憶が呼び覚まされて目の前に再生される……。
真次郎がまともに話が出来る様になる前までは、沙奈は真次郎に見つかるとその度に愛の告白をされ、絡まれてしまうので、上司から真次郎とはなるべく顔を合せない様にしなさいと言われていた。
だが、真次郎が川柳医師から新薬の処方を受けてからは、沙奈を見ても以前の様に誰かと勘違いして騒ぎ出すことは無くなった。
それ以来沙奈は気軽に真次郎と言葉を交わす様になり、身の上の相談事なども、真次郎が全てを理解することは出来ないにしても、何でも話して聞かせる様になっている。
「相沢さん、私この間、遂に施設長と食事に行ったんですよ。そしたら施設長が私と、秘密で付き合ってもいいって言って下さったんです!」
ときめいて話す沙奈の表情を見ていると、何か真次郎の中にも呼応する記憶があるのだが、それが頭の何処に入っているのか、取り出して見たいと思うのだが、記憶のありかが解らない。そのもどかしさに顔を歪めながら、それでも楽しそうに語る沙奈の顔を見ている。
「相沢さん。大丈夫ですか? お具合でも悪いんですか? それとも私の話、詰まらないですか?」
「……い、いや、そんな……こ、と、ないんだよ。ごめん……ね、自分……のこと……なん、だよ……」
「そうですか、何かお辛いことがあるんでしたら、仰って下さいね。私何でもお力になりたいと思ってるんですよ」
と言って真次郎の動かない右手を取り、自分の両手で包んでくれる。
「あ、りが……とう、あり……が、とう」
……俺にもこの娘の様に、若い時があったんだ。だからその時、この娘の様な女と恋をして、そして今この娘が感じている様に、嬉しいこともあったんだ。ただそのことを思い出せないだけなんだ……。
真次郎は笑顔になって涙を流している。それを見る沙奈にも物悲しさが移ってしまい、瞳に涙が浮かんでくる。
「吉田さん」
と男の声がする。沙奈が声のした方を見ると、施設長の野崎が歩いてくる。
沙奈は「は、はい」とちょっと緊張した様に答える。
「君の担当だった日の書類に記入漏れがあるからさ、ちょっと僕の部屋まで来てくれるかい」
と言って野崎は何か目配せするような表情を見せる。
「あ、でも今相沢さんが」
「一緒にお連れしてもいいから」といって歩いていく。
沙奈は立ち上がり、真次郎の車椅子を野崎の歩いて行った方へ押して行く。
プレートに「施設長室」と書かれた部屋の前へ来ると「失礼します」と言ってドアを開き、車椅子を押して入る。
「ああ」
と言って野崎は真次郎と沙奈の後ろを回ってドアへ行き、鍵を掛ける。そして真次郎のことはまるで目に入らない様に沙奈に近付き、肩に手を当てて顔を見る。
「首の傷はどう? もう大分良くなったかい?」
「はい、全然平気です」
「近くで見せてごらん」
と言いながら野崎は沙奈に顔を近付け「可哀相に」と言いながら唇にキスする。
沙奈は咄嗟に顔を離し「ダメですよ施設長、こんなところで……」という。
「どうして? いいじゃない、好きなんだよ」
「でも、相沢さんが見てますから」
「見てたって解らないんだから大丈夫だよ」
「そんなことありません……」
「解ったってどうせ何も覚えてないし、他の人に話したって誰も信用しないだろう」
「でも、あっ……」
グイと沙奈の身体を抱き寄せて、野崎は強く唇を塞いでしまう。
「んっ……んっ……」
激しく粘膜の擦れる音がして二人は身をよじらせる。
「……ん、はぁ……いけない……施設長、ああ……」
野崎の顔を振り解こうとするのをまた抱き寄せ、口を覆ってしまう。
「んん……ん……」
切なく喘ぐ沙奈のくぐもった声が、真次郎の脳裏に電流の様に流れてくる。
「いけない……いけないよ真次郎さん……」
真次郎の腕の中で抗っているのは麻里恵だ。逃れようとする麻里恵を抱きすくめて、真次郎は執拗に唇を吸い続けている。
「いけない、いけない……」と言いながら麻里恵の力が抜けて、真次郎に応じてくる。遂には真次郎の唇を受け入れて、差し込んだ舌に自分の舌を絡めてくる。
合間に漏れる麻里恵の熱い吐息が真次郎の情熱に火を点けていく。
「ああ……マリ、マリ、好きだよ……」
「ちょっと、施設長……」
下半身に伸ばしてきた野崎の手を振り解いて、沙奈はちょっと大きな声を出す。
「ダメですよ、ホラ。相沢さんが見てますから」
振り放された野崎は荒い息をしながら沙奈を見つめる。
「ねぇ……君はどうしてそう相沢さんにばかりこだわってるの?」
「……相沢さんは、昔愛してた人と、私のことを間違えてたんです」
「本当なのか? 何か妄想でも見てるんじゃないの」
「違います。マリさんは本当にいたんです」
「そっか、でも、君が代わりになってあげるって訳にもいかないだろう」
「それはそうですけど、代わりになってあげられたら良かったんですけど」
「そんな、まさか君は俺よりもこんなジイサンの方が良いって言うんじゃないだろうな」
「そりゃ本当にお付き合いする訳じゃないですけど、でも相沢さんみたいに何十年経っても、自分の好きだった人のことを思ってるなんて、憧れますよ」
「ふぅん」
「施設長も、私のことそんな風にいつまでも思って下さいますか」
「勿論だよ」
「本当ですか?」
「本当だよ」
……本当に本当?……そう聞いたのは麻里恵の声だった。あの時……そう、六畳一間の布団の中で、裸の麻里恵は真次郎の顔を見てそう言った「勿論本当だよ」と真次郎は答える。そして麻里恵の身体をギュウっと抱き締める。
ブチュウ……野崎は沙奈の身体を抱きすくめて唇を吸う。そのまま沙奈の着ているシャツをずり上げ、スラックスの中へ手を入れ、ホックをはずし、ずり下げて行く。
「んっ……んっ……」といいながら沙奈は逆らうこともせず、そのまま野崎に引き摺られる様にして応接セットの長椅子に倒れ込んでいく。
野崎は沙奈の服を脱がせにかかる。
「ああ、ダメ……ダメです……施設長……」
「俺のこと、好きじゃないのか」
「好きです……でも」
「好きなんだろう」
野崎は沙奈のシャツをたくし上げるとブラジャーのホックを外し、露わになった乳房に舌を出したままの顔を擦りつける。
「ああっ……はぁぁ……っっ……」
沙奈が鼻に掛かった喘ぎ声を漏らす。
真次郎も今、麻里恵とセックスしている。それは六畳の部屋に敷かれた布団の上である。
野崎は沙奈の中へ割って入り、激しく腰を打ち付け始める。
「ああっ、ああっ、ああっ、はああ~~~~っ……」
真次郎も今切羽詰まった様に麻里恵の身体をかき抱いている。麻里恵の身体に情熱をぶつけている。もう他には何もない、生きる意味も、生きる価値も、麻里恵にこうして激情をぶつけること意外には何もない。今麻里恵とこうしていることが真次郎の全てなのだ。
そんな真次郎を麻里恵の身体がひっしと受け止めている。突き入れられる度に身体を仰け反らせ、受け止めきれない激情に呻き声をあげながら、身体をガクガクと震わせている。
ソファの上で野崎の身体を挟んでV字に上げた脚をビクビクと震わせて、沙奈は絶頂を迎える。
「はあああーーーーーーっっっ」
真次郎の瞳に、恍惚とした麻里恵の顔が映る。マリ……その時麻里恵は満ち足りている。麻里恵は真次郎で満ちている。そして真次郎も。麻里恵が真次郎の全てになり、真次郎が麻里恵の全てになる。
「施設長……」
ぐったりした沙奈が口を開く。
「うん?」
「私のこと……好きですか?」
「当たり前だろ」
「本当ですか」
「ああ」
「でも……」
先行きのことを心配する様な顔をして野崎を見つめる沙奈の顔を、野崎が優しく撫ぜ、顔を近付けてそっとキスする。
「何も心配しなくて大丈夫だよ」
……何も心配しなくて大丈夫だよ……一字一句同じセリフを、真次郎も今、麻里恵に向って呟いている。
5
嘱託医の川柳は真次郎の前に白い画用紙と鉛筆を置く。
「相沢さん。今日はこの紙に時計の絵を描いてみて欲しいんですけど。お願いできますか?」
と言って、真次郎の左手に鉛筆を持たせる。
「相沢さんは元々は右利きだったのかな。それじゃ左手じゃ描き難いかもしれませんけど、出来る範囲で構いませんので、描いてみて欲しいんです」
「と……けい? ですか……」
「はい、時計です。時間を見る為の物ですね。お願いします」
と促された真次郎は鉛筆を持ち、画用紙に向う。
時計……漠然としたイメージはある。確か満月の様な丸か、お盆の様に四角い枠に、数字が並んでいて、その数字を今何時なのかを知る為の針が差し示している物だ。
時計、時計……何か花畑の様に花が咲いている中に、長い時計の針が動いて行く光景が思い浮かぶ。それは過去に何処かで見た物なのかもしれないが、よく解からない。
ブルブルと震える手でぎこちなく円を描いていく。そしてその中に数字を並べて書く、確か円の周りに数字が散らばって、1、2……だが真次郎には数字の順番も分らない。思いつくままの数字を4、9、3……と書いていく。上手く円状に書くことが出来ず、枠からはみ出してしまう。
それでも川柳は描いていく真次郎を見て驚きの表情を浮かべる。
「相沢さん。凄いですよ。ちょっと前まではお話しをしても全く反応も無くて、自分で考えて何かを描くなんてことは絶対出来なかったのに」
「……」
そう言われても、真次郎には何をそんなに褒められているのか、それとも褒められているのではなく、何かそれ程自分が驚かせるようなことをしたというのか、解らないまま川柳を見る。
「相沢さん。これは本当に、予想以上の効果が現れて私も非常に驚いています」
見ると川柳の横には、もう一人川柳とは違う形の白衣を着た若い男が座っている。
真次郎には解っている。自分は既に衰えた老人で、頭が呆けてしまっている。これまでは自分が何処でどうしているのかも解らなかったのが、この医師の処方した薬のお陰で自分の意志や、認識力が戻ったのだということも。
しかし過去の自分の人生については全く解らない。だが少なくとも今この瞬間は解る。この部屋、この建物、そしてこの川柳という医師や職員たち。自分がまだ生きているという実感が戻っている。
「それでですね、相沢さん。意識の方がここまでしっかりされてきているのであれば、身体のリハビリを行うことも可能だと思うんですよ。お身体の機能を活性化させれば、相互作用で脳の働きも活発になっていくんです。今は車椅子ですけど、まだお身体の左側はご自分の意志で動かすことが出来ますから、練習すれば杖を使って歩ける様にもなるんじゃないかと思うんですよね」
「は、はい……」
……練習すれば杖を使って歩ける……その言葉がジンと真次郎の胸に響く。
「それでですね、こちらにいらっしゃる理学療法士の原先生にリハビリの方をお願いしてみようと思うんですが、どうでしょうか?」
「……お、お願い……しま……す。是非とも……」
口が勝手に喋っているのではない、真次郎の意志がそう言っている。頭がハッキリして来たのだから、自分の足で歩ける様にもなりたい。
理学療法士の原先生に連れて来られたその部屋は、広い板張りのフロアーになっており、自転車のペダルの様な物が付いた機械や、鉄棒にロープが付いて引っ張ったりする機械等が並んで置いてある。
「それでは相沢さん。最初は歩行器に捕まって、歩く練習をすることから始めたいと思います」
と原先生が車椅子に座った真次郎に言う。
「コレが歩行器ですよ」
と言って原先生が押して来たそれは、キャスターがついた脚部から半円柱の形にフレームが立ち上っており、肘の高さのところに水平に半円状の浮き輪の様なシートが付いている。訓練をする者はそれにもたれて身体を支えながら、脚で地面を押すとキャスターで前に進むことが出来る仕組みになっている。
原先生は車椅子の横に立ち、真次郎の左手と腰を支えながら、前に置いた歩行器につかまって立ち上がらせようとする。
「さぁ、相沢さん、いきますよ、立ちましょう」
真次郎は原先生の手で伸ばされた左手で歩行器のシートの縁をつかむと、力を入れて立ち上がろうとするのだが、シートの縁は入浴の時につかまる手すりやベッドの柵よりも高い位置にあり、手すりの様に握って引くことも出来ないので、思う様に力が入らない。
どうにかして車椅子から身体を引っ張り上げようとするのだが、右半身の重みを左手一本で持ち上げることが出来ない。
「ち、くしょう……」
「慌てなくても大丈夫ですから、ゆっくりやりましょう」
真次郎の焦る気持ちを察したのか、原先生は労わる様に声を掛ける。
「それじゃ、せーので私が相沢さんの腰を持ち上げますから、相沢さんは左手に力を入れて、弾みをつけて立ってみましょう」
と言って原先生は横から真次郎の尻の下に両手を入れ、持ち上げる格好になる。
「いいですか、それじゃせーのでいきますからね、いきますよ。せーのっ!」
原先生が真次郎の尻を持ち上げるのと同時に、グイと歩行器をつかんだ左手に力を入れ、身体を引き上げる。少し腰が浮いたが、またドシンと車椅子に落ち込んでしまう。
「相沢さん頑張って、さぁもう一度いきますよ。せーのっ」
真次郎も左腕に力を入れる……だがまたドシンと車椅子に戻ってしまう。
……ちくしょう……なんてこった。俺の身体は、こんなにもポンコツになっちまったのか。自分で立ち上がることも出来ないなんて。なんて情けないんだ……ちくしょう。
「大丈夫ですよ相沢さん。コツがつかめればきっと立てますから、さぁ諦めないでいきましょう。いーですか、いきますよ、せーのっ!」
弾みをつけてグイと身体を前に倒すのと同時に左腕に力を入れる。同時に原先生が尻を持ち上げて、真次郎の身体は車椅子を離れ、歩行器にもたれ掛かってどうにか立ち上がる。
立った左足はガクガクと震えているが、なんとか立っている。歩行器のシートに身体をもたせかけ、下を見ると自分が床から凄く高いところにいる様に見える。まるで宙に浮いている様な感覚である。
「ほら、出来たじゃないですか相沢さん。いいですよ、しっかり捕まってて下さいね」
どうにか立ってはいるが、歩行器がなければすぐに倒れてしまうだろう。
「それじゃ相沢さん。歩行器のストッパーを外しますからね、いいですか」
原先生は真次郎の腰に手を回して支えながら、もう片方の手を下に伸ばし、キャスターについているレバーをストップからオープンの方へひねる。
「さぁ相沢さん。これで前へ進めますからね、ゆっくり左足に力を入れて、前へ進むようにしてみて下さい」
後ろから腰の両側を原先生に支えてもらいながら、やっと立っている左足に力を入れて、身体を前へ押す様にする。
グラリ……遥か下に見える床が動いて、四角いタイルの線が後ろへ流れる。
……動いた……。
全く動かすことの出来ない右足はただ引き摺られて、後ろに身体を戻そうとする。真次郎は縁をつかんでいる左手に力を入れて左足を身体に引き付けるとともに、もう一度後ろへ力を入れて歩行器を前へ押し出す。また床のタイルがグラリと揺れて後方へ流れる。
「いいですよ、その感じです。さぁ頑張って、出来るだけ前へ進む様にしましょう」
と腰を支えたまま原先生が応援するように言う。
真次郎は下を向いて白い床を見ている。右足を引き摺りながら、左足だけで一歩、また一歩と歩行器を進めていく。
「あ~い~うぅ~え~おぉ~」「はい、もう一度」「あぁ~い~う~えぇ~おお~」
左半分しか動かない口で明瞭に言葉を発する為の練習も始める。身体を動かすことで脳の働きも活性化されてきている効果なのか、頭の中で言葉を考えて話す速度も増してきており、以前よりもずっとスムーズに言葉が出て来る様になったと感じる。
真次郎の生活には毎日リバビリの日程が組まれる様になり、それまでには無かった張り合いを感じている。
「それじゃ今日は外へ出て、中庭を歩いてみましょうか」
原先生によるリハビリが始まって何日か経った時、歩行器を使って歩くことにも大分慣れて来たので、原先生から中庭へ出てみようと提案される。
原先生は歩行器で歩く真次郎を誘導していく。
真次郎が寝起きしている部屋のある廊下を通り過ぎて、職員たちの詰所になっている部屋を過ぎたところにあるエレベーターホールまで連れて来る。
二つの大きなドアがあり、その上に数字が並んでいる。以前真次郎がエレベーターに乗ったのはいつのことだったろうか。
エレベーターというものがあったことは覚えている。だが前に乗ったのがいつだったのかは分からない。しかし自分がここにいるということは、かつてコレに乗って来たに違いないのだろうと思う。
原先生はドアの脇にあるボタンを押す。ドアの上に並んでいる数字のひとつが光っており、その光が横に移動していく。やがてその光が4のところまで来た時、チーンと音がしてドアが左右に開く。
……そうか、ここは建物の四階なんだな。
原先生に気遣われながら歩行器を進め、エレベーターの中へ入ってしまうと、原先生はドア脇に並んだ数字ボタンの①を押す。ドアが閉まり、グィンと揺れて下に落ちて行く感じがする。
一階に着いてエレベーターを降りると、四階と同じガラス窓の並んだ廊下を歩き、中庭に面したドアへ来る。
ドアは老人たちが勝手に外に出てしまうと危険だから、という配慮からだろうか、施錠されており、その脇に数字の並んだ機械が設置されている。
原先生はその数字版を指で押す「1、2、3、4、E」と押していくと、ピーッと音がして施錠が解ける。原先生はレバーをひねってドアを開ける。
「さぁ行きましょう相沢さん」と原先生が開け放ってくれたドアを抜けて、真次郎は外へ歩行器を押して出る。途端に外の空気に身体が包まれる。
……外だ。俺が外に出るのはどれくらい振りなんだろうか。分らないけど、何か懐かしい匂いがする。微かな風と、土と、植物の匂いがする。
周りを施設の建物に囲まれた中庭には、丸い花壇に無数の花が咲き乱れており、その周囲が煉瓦色をした石畳になっている。
建物の脇に植えられている緑の草木を見ながら、真次郎は歩行器を押していると、ふと眼下を流れて行く石畳が、草の生えた地面に変わっていく。
ゲートルを巻いた自分の細い足がヨタヨタと地面を歩いている。真次郎はボロボロの軍服を着て、本土へ帰る船に乗る為に、船着き場を目指してジャングルの中を歩いている。
果たしてこの道で合っているのかも分からない。もう何日もこうしてさ迷う様に歩いている。自分は生きて帰れるのか。沢山いた仲間の兵隊たちは殆どいなくなってしまった。
自分の意識も朦朧とし始めている。いつ倒れてもおかしくない。倒れたらそのまま気を失って、もう二度と立ち上がれなくなるのではないか……と思いながら、それでも一歩、また一歩と歩き続ける。
そして頭の中のもう一方で、真次郎には解っている。今自分の目に見えているそのジャングルは、現実ではない。
かつて自分が体験した記憶の中にある物なのだろう。それが何時のことで、何処にいたのかは解らない。どうしてその状況になっているのかも解らない。でも確かにそれは、自分が過去に経験した事なのだろうと思う。
「あ~え~い~お~う~……私の、名前は、相沢、真次郎……です……」
理学療法士の原先生の指導により、毎日セッセとリハビリに勤しんでいるお陰で、真次郎は以前と比べてかなりスムーズに歩行器を使って歩ける様になってきており、言葉を話すことも以前とは比較にならないくらい明瞭に出来る様になっている。
それでもここでの生活パターンは前と変わっていない。朝起こされて、オムツを替えて貰い、車椅子に乗って朝食を食べに行く。そして歯磨き、週に二回の入浴、昼食、団欒の時間、夕食、就寝……。
真次郎の生活は変わっていないが、真次郎自身は凄く変わっている。以前の様に全てがなされるままに、自分が誰なのかも何をされているのかも分らなかった状態とは違い、今の真次郎には、自分の今いる状況が理解出来ている。
「さぁ相沢さん。今日もゆっくり温まりましょうね。それじゃ前から泡が出てきますけど、大丈夫ですからね」
と言って職員の男がスイッチを押すと、湯船の前からボバババーーとジェットの泡が噴き出してくる。
身体が後へ流される感覚に包まれると、途端に湯の流れが濁流に変わり、視界にはジャングルの中を流れる河が広がってくる。
「うぉっ、うぉぉぉ……」
「大丈夫ですよ相沢さん。溺れませんよ、小さなお風呂ですよ」
職員に肩をつかまれて我に返る……真次郎の認識が戻ってくる。そうだ……コレは只の風呂なのだ。
ジェットの泡を浴びて揺らめいている自分の手足を見る。それは何と皺くちゃで痩せ細っていることか。
「相沢さん、お湯加減はどうですか?」
と職員の男は優しい目をして真次郎を覗き込んでくる。真次郎はこの若い男を見ていて、よくもこんな年寄りの面倒を看てくれるもんだ……と感心してしまう。
ぼ~っとした目でその顔を眺めていると、男は真次郎の耳に顔を近付け、他の者には聞こえないようにモゴモゴと口を動かし、泡の音に紛れさせながら小声で話しかけてくる。
「……おい、くたばり損ないが今日は静かにしてんじゃねぇかよ、くせぇ糞ばっかりしやがって、お前なんかもう生きてたって何も出来ねぇんだからよ、早く死ねよ」
真次郎には驚きも違和感も無い。多分この男は前から真次郎を風呂に入れる度に、こうやって小声で悪態をついていたのだろう。
……俺には何よりそう言いたくなるコイツの気持ちが解る。そりゃそうだ。それでこそ人間てもんだ……こんな文字通りくたばり損ないの年寄りの面倒を看る仕事なんか、俺が若い頃だったらごめんこうむるところだ……といって、俺が若い頃どんなだったのかも解らねぇがな……。
等と思っていると、真次郎は可笑しくなってしまい、自嘲する様に顔がニヤケる。
そんな真次郎の様子をいまいましく思ったのか、職員の男はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまう。
昼食の時間になり、いつもの様に職員が真次郎の口にスプーンでご飯を食べさせようとする。だが、真次郎が左手で職員の手からスプーンを取り、容器から自分でご飯をすくって口に運ぶのを見て仰天する。
「あ、相沢さん。凄い、自分で食べられる様になったんですか……」
驚いている職員を余所に、真次郎は黙々と食事を続ける。スプーンで口に放り込み、ムシャムシャと咀嚼する。
だが右側が麻痺しているので唇が思う様に動かない。口の右端から食べ物がボロボロとこぼれてしまう。気にせずに食べ続けると職員がこぼれた食べ物をティッシュで拾う。
食べながらふと、手にしているスプーンを見つめている。
……俺はこのスプーンを盗んで持って行こうと思ってる。何故そう思うのかは解らないが、そうしなければならないと思っている。どうやって隠して持って行こうかと考えている。
周りを見ると、他のテーブルでも同じように職員たちが、それぞれにヨボヨボの年寄りたちの食事を手伝っている。皆自分と同じ様な、前後も左右も解らなくなっている年寄りたちである。
ホールの端にはテーブルに着かずに、車椅子を円形に並べて座っている年寄りたちがいる。その中心には職員の男がいて、鳥にエサをやるように年寄りたちの口に端からスプーンを突っ込んでいく。口にスプーンを突っ込まれた老人たちは、入ってきた食べ物を反射的に口をモグモグ動かして食べる。
中にはスプーンではなく、注射器の形をした器具を口に差し入れられ、注入される流動食を顎を動かして飲み込んでいる者もいる。
年寄りたちは男も女も皆無言で萎びた顔をしている。そして白や緑に濁った虚ろな眼をして宙を見ている。
よく見るとその老人たちは、それぞれが皆見覚えのある顔をしている。
……俺は毎日ここで、この連中と顔を合せていたのだろう。ただ、俺も今までは何も認識することが出来ていなかったんだ。目を開いてはいても、何も見てはいなかったんだ。
昼食が終わると一端居室に戻り、職員にベッドに寝かされる。そして休んでいるとまた三時におやつの時間となり、起こされ、従業員はまた真次郎を車椅子へと乗り移らせ、フロアーへと連れて来る。
一日に五回のオムツ交換。それに朝食の時、入浴の時、昼食の時、おやつの時、夕食の時……その度にベッドから車椅子へ、車椅子からベッドへと移乗させる作業の繰り返しで職員たちはクタクタになっている。
皆ニコやかに老人たちに接してはいても、腹の中ではあの風呂場で悪態をついたあの男の様に思っているのだろう。
そりゃ無理もないことだと思う。この老人たちの人数に比べれば職員たちの数が余りにも少ない。一体職員はひとりで何人の老人を受け持っているのか。
それに真次郎は思う、職員たちが大変そうなのは解るが、どんなに世話をしようとも、ここにいる老人たちは何も理解していない。
そりゃ一日中ベッドに寝かせたままでいるのではなく、朝・昼・晩と着替えたり、テーブルに着いて食事やお茶の時間を持つことで人間的な生活をしているという考えは分かる。だがそんなことをされていても、完全に呆けちまっている老人たちが楽しんでいるとはとても思えない。
そんなことを考えながら、フロアーの風景を眺め回してみる。パタパタとテーブルを叩いて拍子をとりながらお経を唱えている老婆がいる。その言葉は「ナンミョーレンギョウ、ナンミョーレンギョウ……」と繰り返しているだけで、恐らく自分が何を言っているのかも解っていないだろう。
隣に座っている老人に一心に話し掛けている老婆は、のべつ幕無しに喋り続けているが、東北の訛りがあるのか、ズズ……ズズとまるでフランス語を話している様でサッパリ聞き取ることが出来ない。
他にも誰にともなくブツブツと文句を言っている者。黙って宙を見つめている者。ただ目を瞑っている者……。決して完成することのない折り紙を折り続けている者。友人が皆戦争に行って死んでしまい、自分だけが生き残ったという話をしている者……。
今の真次郎には、それ等の光景が全て今自分のいる現実なのだということが理解出来ている。
……ここは酷い……こいつ等はまるで生ける屍じゃないか。こんなことで、生きているといえるのか。そして俺もこの中のひとりなんだ。俺もくたばり損ないだ。でもどうすることも出来ない。もうヨボヨボでこんな半身麻痺の身体じゃどうにもならねぇ……。
ふと見ると、パジャマの裾の下に入っていた自分の左手が、食事の時に使っていたスプーンを握っている。
……やっぱり俺は盗んだんだ。何故こんなことをするのかは解らない。だがそれは俺にとって、やらなければならないことである様な気がする。
夕食が終わり、フロアーでの "団欒の時間" も終わり、また自分の居室へと連れて来られる。真次郎の部屋は四人部屋で、四つのベッドをそれぞれ囲む様にカーテンで仕切られている。
車椅子からベッドへと真次郎の身体を移乗させる為に、職員の男が真次郎に立つことを促そうとするのを、真次郎が左手を伸ばしてベッド脇の柵を持ち、自分でスッと立ち上がったのを見て職員の男が驚く。
「凄いですね相沢さん。リハビリの成果なんですか」
といいながら真次郎をベッドに寝かせると布団を掛け、車椅子を畳んでベッドの脇に置く。そして部屋を出て行く。
職員が行ってしまったのを見計らい、真次郎はそっとパジャマのポケットからスプーンを取り出す。そして当たり前の様にベッドの柵に擦りつける。
見るとそのベッドの柵には、丁度今スプーンを擦り着けている位置が無数の傷になっており、きっと今までにもこうしてスプーンをここに擦って削っていたのであろうことが解る。
……ギー……ギギ……ゴリゴリゴリ……同じ部屋にいる老人たちは何も言わないが、職員に見つかると取り上げられてしまうので、あまり音がしない様に気を付けながら、スプーンの先を尖らせる様に削っていく。
自分が何故そうしているのか、何故それをしなければならないのかは解らない。でもスプーンを削らなければならないと思っている。それはどうしてなのか、きっと何か理由がある筈である。思い出したい。そして、自分はこの先を尖らせたスプーンで何をしようというのか。
削りながらそんな疑問に苛まれて、ふとベッドから身を起こし、周りを見回してみる。今身に着けている物の他に何か自分の持物は無かったのか。見るとベッドの横に小さな戸棚の様な物があり、その上には小さなライトのスタンドが立ててある。そして棚の一番上には引出しがついている。
左手で取っ手をつかみ、引出しを引いてみる。スルスルと開いた引出しの中に、一冊のノートが入っている。
取って布団の上に置き、開いてみると、ページの上に日付が書いてあり、どうやら自分で書いたらしい文字がウニャウニャと並んでいる。全く覚えてはいないが、きっと左手で書いたのであろう。字の乱れが酷い。
最初のページから目を凝らしてその文字をどうにか読んでみると「この日記は、今日一日のことを忘れてしまわない為に、自分のしたことを思い出せる様に書くものである」と読める。
きっと毎日その日のことを忘れてしまうので、まだ今程には記憶力が無くなってしまう前に、何も解らなくなってしまうことを恐れた自分が、未来の自分の為に書き留めておいた物なのだろう。
……そうだ。俺だって確かに今まで長い年月を生きて来た人間なのだから、俺にだってちゃんと人生があったはずなんだ。しかし俺は、どんな人間だったのか、何処で何をして、どんな人生を送って来たのか……。
次のページには……六月八日、ボランティアの演奏の人たちが来て「慕情」や「エデンの東」の映画音楽を演奏してくれた……と書いてある。そうだ「慕情」も「エデンの東」も何となく聞き覚えのある題名じゃないか。きっと俺が若い頃に観た映画なんだ。
翌日真次郎は、オムツを替えに来た職員の男に訪ねてみると、確かに以前、楽器を演奏するボランティアの人たちが来て、それ等の映画音楽を演奏してくれたことがあったのだと言う。
真次郎は狂喜する。始めて自分の人生を知る手掛かりになるものを見つけたのだ。夢中になって過去に自分が書いたであろう日記を読み進める。そして遂に最期のページに辿り着いた。そこにはこう書いてある。
「これ以上生きていても、もう俺には何も解らない。何も覚えていないし、自分が誰なのかも解らない。もう俺には生きている意味はない。最早こうなったからには、早く死んでしまいたいだけだ……」
この文章が書かれた日付は、一年くらい前のことらしい。真次郎は日記帳を壁に投げつける。
日記の書かれている最初の日付は、職員に聞いたところによると、四年くらい前らしい。ということは、少なくとも真次郎は四年前にはこの施設にいたことになる。だがその前のことは何も知ることは出来ない。せっかく見つけた日記帳なのに、殆ど役に立たないということか。
夜眠っていると、夢の中で、目の前を板が機械に掛けられていく。ブィーンと木屑を巻き上げながら、反対側からスベスベになって出てくる。
真次郎は「これでいいんだ……これでいいんだ……」と呟きながら作業を続けている。
「願い、まーす……願いまーす……」
気が付くと闇に向って声を上げている。下腹部から小便がオムツの中へ広がっていく。
グリーンのシャツを着た男が入って来る。
「どうしました相沢さん。もう少ししたらオムツ交換の時間ですからね、それまで待ってて下さいよ」
と言って部屋を出て行く。出て行った職員が他の職員と喋っている声が聞こえてくる。
「オムツ換えてあげなくていいんですか?」
「いいんだよ、定時の交換以外にそんなことしてたら手が回らなくなっちゃうよ」
「相沢さんって独特ですよね、なんで願いまーすって言うんですかね」
「昔刑務所に入ってたんじゃないかって噂だよ」
「刑務所ですか、何やったんですかね、なんか怖いッスね……」
真次郎には、今自分が夢を見ていたのだという自覚がある。
……そうだ。俺は毎晩の様にこの夢を見ている。あの木材を機械に掛けている場所は、刑務所なんだろうか……俺は、刑務所にいたのだろうか、だとすれば、何か犯罪を犯して捕まったということなのか。だとしたら俺は一体何をしたというのか……そうだ、あの吉田沙奈さんに聞いてみよう。沙奈さんなら、何か教えてくれるかもしれない。
朝食の後、テーブルの食器を片付けている沙奈を見つけて、真次郎は話し掛ける。
「ねぇ、沙奈さ、ん。俺は……刑務所、にいた……んじゃ、ないか……と思う、んだけど……」
「えっ、刑務所ですか? どうしてそんなこと思うんですか」
「時々、夢を、見る……んだ」
「夢?」
「う、ん。刑務……所の……」
「刑務所の、夢ですか?」
「そ、うなん、だ。俺……は、知り、たい。教えて欲し……い」
「……そうですか、分かりました。それじゃ今度利用者さんたちの家族状況とかが書かれたケースファイルを見てみますね」
それから二~三日が経った頃、沙奈は「解りましたよ相沢さん」と言って話してくれる。
「相沢さんのケースファイルには刑務所のこととかは書いてなかったんですけど、施設長さんに聞いたら教えてくれました」
「そ、そう……そ、それで? ど、どうだっ……たの?」
「……はい、相沢さんは確かに、ここに来る前、服役なさってたみたいですね……でもそれは医療刑務所です」
「医療……刑務所?」
「はい、普通の刑務所の中で大きな病気とか怪我をして、普通の服役生活が出来なくなった人が移されるところだそうです。相沢さんは最初にいた刑務所で脳梗塞になられて、身体の片側に麻痺が残ってしまったので、そちらに移されてたみたいです」
「そ、それ……は、いつ頃?」
「え~っと、十年くらい前です。そして、医療刑務所に入ってから二年くらいした時に、認知の症状が出て、それで刑期が執行停止になって、この施設に移されて来たらしいです。それは八年くらい前です」
「俺は……今、何歳な、の?」
「相沢さんは、生まれたのが大正十四年ですから、今年で八九歳です」
……このしわくちゃな手を見れば、ここにいる人たちと同じ、俺がヨボヨボの老人であることは分かる。八九歳……そうか、俺は、そんなに長いこと生きたのか。
「俺は……何をやって、捕まっ、た……んだろう?」
そう言われて沙奈は言葉に詰まってしまう。
「それは、私がお教えしてしまって良いのかどうか、解からないんですけど」
「教えて……くれ、自分……の人生を知る、のは俺……の権利、じゃない……か」
「……そうですよね、これは確かに相沢さん自身のことなんですもんね」
「……」
じっと見つめている真次郎を見て、沙奈は決心したように口を開く。
「それじゃ、お教えしますね。相沢さんが刑務所に入った理由は、殺人だったみたいです」
「殺人……」
真次郎はショックを受けてしばし呆然としてしまう。
「だ、誰……を? なんで、なんで……殺したの?」
「それは、どんな事情があって、誰を殺してしまったのかまでは、施設長も知らないみたいです」
ショックを受けている真次郎の気持ちを取り繕うように、沙奈は説明して聞かせる。
「でもきっと、何か止むを得ない事情があったとか、そんなつもりはなかったのに弾みでそうなってしまったとか、そんなことじゃないかと思いますよ……だって相沢さんがそんなことしたなんて信じられないですもん」
真次郎はしばし口を開くことが出来ない。でも他にも聞きたいことは山ほどある。
「俺には、家族……は、いない……の?」
「結婚はされてなかったみたいですね、兄弟もいないし、でも相沢さんの貯金とかを管理してる後見人になられてる方がいますよ。遠い親戚の人みたいですけど、たまに面会に来られてるみたいですから、今度来た時にいろいろ聞いてみると良いんじゃないですか」
「そう……それか、ら……俺、は戦争、に行った……のかな」
「そうですね、解らないけど、でも年齢的には行っててもおかしくないと思いますよ」
「……そう、それで、刑務所に、は何年くらい、いた……の?」
「相沢さんは、逮捕されたのが、三六歳の時で、刑期が執行停止になったのが八年前で、その時八一歳ですから……三六歳から、八一歳まで……四五年間です」
「!……そ、そんな……四五年間! 俺は、そんな……に、長い間……刑務所にいた、のか……」
しかし真次郎の胸中では、確かにそのことに違和感はない。
……俺は人を殺したのか。誰を? 何故? 俺は、若い頃に戦争に行った。そして、日本に帰って来た。おそらくその後、誰かを殺して刑務所に入ったんだ。俺の人生は、戦争の他は、殆どがあの木工の作業だったような気がする。
そして、俺は刑務所にいる間ずっと、麻里恵という女のことを思っていた「これでいいんだ……これでいいんだ」と呟きながら。何がこれでよかったのかは解らない。俺が殺したという相手が、殺しても仕方のない人間だったとでもいうのか?
……麻里恵……もし、俺の記憶の中にいる麻里恵という女に会うことができれば、教えてくれるだろうか。
……麻里恵は、きっと俺と深い関係があったんだ。だから、麻里恵は俺のことをよく知っている筈なんだ。でも、俺には、麻里恵がどういう女なのかも、何処でどうしているのかも分からない。俺には何も思い出すことができない。そもそも麻里恵という女がまだ生きているのかも分らない……。
……麻里恵という女は俺のことをどう思っていたんだろう。まだ生きているのなら、俺が刑務所を出て、ここにいることを知らないのか? 俺がこうして麻里恵のことを忘れずにいる様に、麻里恵は俺のことを覚えていてはくれないのか。
……俺はどうして人殺しなんてしたんだ? 俺はそんなに悪い男だったのか? そうだ、沙奈さんが言う様に、何か理由があった筈だ。止むを得ない理由がなければ、俺がそんなことをする訳がない。根拠はないけれど、ただそう思う……しかし。
……解らない、何も解らない、ああ、もどかしくて気が狂いそうだ……。
「わああーー!」叫んで頭をかきむしると、目の前で真っ赤な血のシャワーを浴びた少女の顔が叫ぶ「きゃあーーーーー」瞬間真次郎は沈黙する。
「大丈夫ですか相沢さん! 相沢さん……」
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
心配そうな顔をして沙奈が見つめている。その顔がまた麻里恵の顔にだぶって見える。それは確かに、麻里恵の顔なのだ。若い頃の。
……俺には解らない……あの少女は誰なんだ!
そもそも俺は「何も解らない」ということが解るようになっちまったから、こんなに苦しむことになったんだ。なんでこんなことになっちまったんだ。今までは、自分の過去のことなんて知りたいとも思わなかったのに。
でも解ってしまった。俺には、解ってしまった……そう、俺の人生は、思い出す価値もないってことが。俺は人殺しで、人生の半分以上も刑務所にいたってことが。
6
「はい、じゃあ相沢さん。今日もお風呂に入って温まりますよ~」
と言って、この前真次郎に小声で悪態をついた職員が笑顔で車椅子を押していく。見ると今日はもうひとり、どうやら新人らしい見知らぬ若い職員がついて来る。
「今日は初めてだから俺のやり方をよく見ておけよ」と偉そうに新人の職員に言う。
「はい」
と新人の職員は少し緊張した面持ちで頷く。車椅子はいつもの脱衣所に入っていくと、シャッシャッと周りをカーテンで囲まれる。
職員は新人に手伝わせながら真次郎を全裸にすると、入浴用の椅子に座らせる。
そして浴室に入ると新人に手伝わせながら身体を洗う。洗い終わると椅子を移動し、浴槽へ向かう。
「さぁ、相沢さん、今日もお風呂で暖まりましょうねぇ~」
ガシャンと音を立てて椅子を浴槽に合体させると、機械を操作する。足元からみるみる湯が沸き上がってくる。職員は新人に耳打ちする様に小声で話す。
「いいか、ここからよく見とけよ、この人ジェットバス入れると助けてくれ~って暴れるからヨ」と面白がって言う。
「はい……」と新人が答える。
「はい、それじゃ相沢さん。前から泡が噴き出しますからねぇ」
と言ってスイッチを入れる。途端に前からズボボボ~と泡が噴きかかってくる。
しかし、真次郎はもう前の様に暴れたりはしない。今の真次郎には、コレがジャングルの濁流などではなく、ただの風呂だということが解っている。
「……」
職員は、自分が言った様に真次郎が暴れないことが癪に障ったのか、新人に向って吐き捨てる様に言う。
「……ふん、もうこんな、自分が何をされてるのかも、何処にいるのかも、何を喰わされてるのかも解らなくなってよぉ、コレで生きてるって言えるか? 俺だったら、もうこんなになったら殺してくれって家族に頼んで書いとくけどな」
……そうとも、俺だってそう思う。だが俺にはそう頼んでおく家族もいないんだ。若造、分かってるなら今すぐ俺の息の根を止めてくれよ……そうだ。今ここで湯の中に身体を沈めてそのまま溺れ死ぬことは出来ないだろうか。それにもしそうなればコイツの責任になってクビになるかもしれない。そうなればザマァ見ろじゃないか……。
真次郎は膝を曲げ、椅子に座った状態の身体が前にズリ下がる様にする。上半身が前へずり下がり、顔が泡立つ湯の中に沈んでいく。そうすることに何の迷いもない。ただ単に、今こうすることが至極当然のことの様に頭を湯の中に沈めてしまう。
ゴボゴボゴボゴボ……。
途端にザバァーっと脇の下から身体をつかまれて引き上げられる。
「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ、ゲホーッ、ハアッ、ハアッ……」
途端に真次郎はむせてしまう。
「冗談じゃねぇよジジイ! お前みたいなくたばり損ないでもな、死んじまったら俺等の責任なんだぞ、一応人殺しになんだからなぁ」
慌てふためいた様子で職員は真次郎を怒鳴りつける。
真次郎は何の感情も沸かない目をして職員を見つめる。
……ふん。若造、なんだかんだ言っても気の小せぇヤツだな。
真次郎には、自分の命が存在する価値があるとは全く思えない。人を殺して、人生の半分以上も刑務所にいて。今はもう自分では歩くことも出来ない。文字通りのくたばり損ないなのだ。
家族もいないし、大切な物など何も残ってはいない。早く死んでしまった方が良い。こんな自分には、死ぬことにさえ意味が無い様に思える。
……俺が今ここにいても、誰にも何も意味は無い。どうやったら死ねるだろうか。いや、死ぬというのは正しくない。消えるとでもいおうか。消したい、無くなればいい。俺はただ無くなればいい。
その方法をあれこれと考えてみる。近頃のリハビリの効果により、その気になれば人の手を借りなくても一人でベッドから立ち上がり、左手で壁を伝わって歩くことは出来るだろう。
ここは建物の四階である。窓から外へ飛び降りれば死ねると思うが、それを見越してなのかサッシにはストッパーが付けられていて、人の身体が通る程には開かないようになっている。
右足を引きずりながら歩くことが出来るのだから、この部屋を出て、歩いて廊下の端まで行って、階段から落ちれば……でもそれでは首の骨を折るとか、よほど上手い落ち方をしなければ、大怪我をしたとしても確実に死ぬのは難しい気がする。
そうだ、職員の目を盗んでエレベーターに乗り、屋上に行くことが出来れば、そこから飛び降りることが出来るかもしれない。理学療法士の原先生に連れられて一階まで降りた時に乗ったエレベーターは、浴室に行く時に通る廊下の先、職員たちの詰所の様な部屋の向うにある。そうだ、それが良い……。
そう思いつくと、今すぐにでも行きたいと思う。三時のおやつが終わったところなので、夕食に職員が迎えに来るまでにはまだ時間がある。その間に屋上まで行ってしまえばいいのだ。
思い立つと真次郎は左手でベッドの柵をつかみ、グイと力を入れて上半身を起こす。そして動かすことの出来る左足の膝を立て、動かない右足を左手で持ち上げる。左足を動かしてベッドの脇に両足が下りるように身体を回す。
ベッドの縁に両足を下げて座っている様な格好になる。足元にはスリッパが置かれている。左手で柵を持ち、左足を床に降ろしてスリッパを履く。右足は多分スリッパを履いても引き摺ってしまうので途中で取れてしまうだろうと思い、履かなくても良いと思う。
左足に力を入れて、右足も床に降ろし、左手でベッドの柵をつかんで立った格好になる。それから左手で柵を握って徐々に移動させながら、動かない右足に体重を掛けて少しだけ左足を前へ踏み出す。そうして一歩、また一歩……とベッドの端まで身体を移動させる。
ベッドの端まで来ると、柵を握っていた左手をパッと離し、身体の重心を壁の方に傾けて、ドンと左手を壁につく。そのまま左手で壁を伝わりながら、動かない右足と動く左足で一歩ずつ入口のドアへ近付いていく。
入口の側まで来るとドアの取っ手を握り、スライド式のドアを押して開く。同じ部屋にいる老人たちは何も言わずに黙っている。
スライドドアをいっぱいに開けたまま、左手で壁を伝い、身体を外へ出す。廊下には何かを台車に乗せて運んでいる職員の姿もあるが、足腰が丈夫な老人がフラフラと歩いている姿もある。誰も特に真次郎に気付いたり感心を寄せる様子は無い。
そのまま壁を伝わって、エレベーターのある方へと歩いて行く。一歩歩く度に右足を引きずって引き寄せながら、左足だけで少しずつ進んで行く。
エレベーターのところまで行くには、浴室へ向かう角を通り過ぎて、職員たちの詰所になっている部屋を通り過ぎなければならない。
もし誰かに見つかったら「自分のリハビリの為に練習してるんです」と言い訳しようと思っている。
エレベーターに乗って、屋上へ出ることが出来れば、そして縁まで行って、そこから飛び降りることが出来れば、全ては終わる。
もう何も思い悩むことはない、俺なんか誰でもいい。ただ面倒臭い、今ここで、こうしていることはただ面倒臭いだけなのだ。コレが消えればそれでいい。
やっと職員たちの詰所になっている部屋の前まで来る。その部屋は廊下に面して大きなガラス窓になっており、中から外のフロアーの様子が見える様になっている。見ると休憩しているのか、テーブルでお茶を飲んだり雑誌を見たりしている職員たちがいる。その奥にはカーテンで仕切られた中にロッカーが立ち並んでいる。
どうやら沙奈の姿は無いようだ。他の職員たちも壁を伝って通り過ぎる真次郎に注意を向ける者はいない。
詰所を通り過ぎて、エレベーターの前まで来る。原先生がしていた様にボタンを押して待つ。もしエレベーターが着いてドアが開いた時、誰か職員が乗っていれば止められてしまうかもしれない「屋上で少し新鮮な空気を吸いたいんです」等と言ってもきっと連れ戻されてしまうか、もしくはその職員が一緒について来てしまうだろう。そうなれば飛び降りることは出来なくなってしまう。
どうか、誰も乗っていませんように……と祈っているとエレベーターは到着し、ドアが開く。誰も乗っていない……。
左手で壁を伝い、途中で閉まりそうになるドアを左足で遮りながら、乗り込むことに成功する。
真次郎にも、それは当然刑務所に入る前のことなのだろうが。きっと遠い昔にエレベーターというものに乗ったことがあるのだろう。何処で乗ったのかは解らないが、昔のエレベーターには操作する専門の女性が乗っていた様な気がする。だが今のコレは自分でボタンを操作するものなのだということは解かっている。この前原先生がボタンを押しているのを見ていた。あの時原先生は「1」のボタンを押した。そしてエレベーターは一階に降りた。
1、2、3……と数字が並んでいるのは、一階、二階……ということなのだ。だから一番大きな数字の書かれているボタンの上にある「R」と書かれたところがおそらく屋上ということなのだろう。
今ボタンが光っているのが「4」なので、真次郎のいる階は四階なのだ。迷わず数字の一番上にある「R」を押して動き出すのを待つ。途中で誰か職員が乗って来てしまえば、屋上まで行くことは出来ないだろうと思いながら、上がって行くのを待っている。
ドアの上に表示されている数字の光が、一階上がって行くごとに移動して行く。一番大きな数字は「6」で、その次が「R」。
エレベーターは「R」に着いた。ドアが開くと小さな部屋になっており、ドアがあって外に出られる様になっている。エレベーターを降りるとドアの脇から壁を伝い、外へ出るドアに近付く。
ガチャガチャ……左手でドアノブを握り、回してみるが、どうやら鍵が掛かっているらしい。ドアの横に数字がならんだ小さな箱状の機械が取り付けられている。
この前原先生と中庭に出ようとした時、ドアの脇にあったのと同じ機械だ。原先生はボタンを押していた。それは確か「1、2、3、4」と数字を押して、それから左下にあるアルファベットの「E」だ。
同じ様に押せば開くだろうか「1、2、3、4、E」……ピーッ、ガチャッ! 音がして鍵が外されたようである。
ドアノブを回してみると、すんなりと回る。そのまま前へ押すと外に向ってドアが開く。
やった……途端に風が吹いてくる。先日原先生と中庭に出た時にも感じたが、今また外に出たということが、何か特別なことの様に感じられる。コレは何なのだろうか。
……きっと俺は、ずっと長いこと刑務所にいたり病院にいたり、そして今はこの施設に閉じ込められて、こうして自分で歩いて外の空気を吸うということが何年も、いや何十年も無かったから。だからこうして外に出るということには、特別な感慨を持つのかもしれない。
踏み出して行くと、建物が大きいだけにかなり広い屋上が広がっている。物干し台が立ち並び、収容されている老人たちの物であろう寝間着や下着、シーツ等が干してあり、風になびいてパタパタと音を立てている。
出て来た塔屋の壁を伝い、そのまま端の欄干につかまって歩いて行く。嬉しくて顔が綻んでしまう。
……でももう、俺には何も意味がないんだ。俺にはもう、こんなことを感じていても、この瞬間に自分が生きているのだという実感があったとしても。それ以外には何もない。過去がない。自分が誰なのかも解らない、生きていてもその意味が解らない。だからもう未来も無い。
さっさと飛び降りよう。この左手と、左足だけで、あそこに欄干の前に置かれたベンチがある。アレの上に乗ることが出来れば、上半身を欄干の外に倒れさせて、下へ落ちることが出来そうじゃないか。なんとかあそこまで行ってベンチに登り、欄干を乗り越えるのだ。そうすれば、全て終わる。終わりにすることが出来る。この意味もない瞬間を……。
左手で欄干を伝い、右足を引き摺って歩きながら、どうにかベンチのあるところまで来ることが出来た。身体を欄干にもたせ掛け、動かない右足の膝の下に左手を入れ、グイと持ち上げてベンチに乗せる。そしてまた左手で欄干を握り、身体全体を持ち上げる様にして左足もベンチの上に乗せる。
やった……ベンチに登ると欄干は腰より少し高い位置にまで低くなった。あとは、上半身を欄干の外へ出して、そのまま前に倒れれば……。
背後でガチャガチャと扉のノブを回す音がする。ドアが開き、誰かが出て来た様子である。
「ちょっと! 何してるんですか!」
バタバタと慌てて走って来た女性の職員が真次郎の身体をつかみ、ベンチから引きずり降ろし、そのまま自分もろともコンクリの床に倒れ込んでしまう。
「あ、相沢さん! 貴方何考えてるんですか! ちょっと、誰か、誰か来てぇーっ!」
その職員の大声を聞き付けた他の職員たちも現れて、真次郎は抱き抱えられる様にして四階の居室へと連れ戻される。
その時脳裏に同じ体験が重なっている。真次郎は身体の自由を奪う拘束服を着せられて、紺色の服を着た四~五人の屈強な男たちに手足をつかまれ、そのままズルズルと廊下を引き摺られている。
真次郎は叫んでいる「や、やめろっ……放せ、放せぇーーーーーーっつ!」
だが誰も真次郎の叫びに耳を貸す者はいない。男たちは有無を言わせず真次郎を引き摺って行く。
真次郎は居室に戻され、ベッドの上に乱暴に寝かされる。
そこへ騒ぎを聞き付けたのか沙奈が入ってくる。
「相沢さん」
「……」
沙奈が声を掛けても真次郎は眼を合わそうともしない。
「相沢さん。どうしたんですか」
「うる、さい」
「えっ?」
「うるさい! うるさい! 放っといて、くれ……」
「でも……」
「だから……放っといて……くれっ! って、言ってんじゃ、ねぇかぁ!」
「……」
まるで取り付く島も無い。沙奈は悲しい顔をして真次郎を見つめるばかりで、何も言えなくなってしまう。
だが真次郎はまだ、この世から消えるという希望を失った訳ではない。
前回は昼間にやろうとしたので失敗した。だが今度は職員が屋上に来る可能性のない夜中に実行すれば、きっと飛び降りることが出来るのではないかと思う。
その日から真次郎は、夜中に職員が見回りに来る時間を測ろうと思う。今までの感覚だと九時の就寝から朝七時の起床時間まで、四~五回くらい部屋に職員が見回りに来ている感覚である。
だとすれば、九時から朝の七時までの間が十時間だから、少なくとも一回の見回りから次の見回りまで二時間くらいの間が開く計算である。夜中眠らずに起きておいて、職員が見回りに来た後に部屋を出れば、屋上へ出て飛び降りるには充分な時間がある筈ではないか。
躊躇う理由は何も無い。今夜実行しようと思う。
夜九時の就寝時間が来て、職員たちが詰所へと引き上げて行く。真次郎は毛布を被って寝たフリをしているが、眼をしっかりと見開いたまま、眠る気は全くない。
今すぐにはまだ、職員たちが何か片付けをしたり、詰所で仕事をしている可能性がある。だが次の見回りが来る頃にはかなり夜遅くになっている筈である。その時間にはさすがに当直の職員たちも休んだり、眠ったりするのではないかと思う。その頃がチャンスだと思っている。
毛布にくるまったまま、じっと待っている。一体どれくらいの時間が過ぎたのか、時間の感覚はつかめない。
やがてパタパタと廊下を歩く音が聞こえて、ガラガラと扉が開く。入って来た職員が他のベッドのカーテンをシャッと開け、眠っている老人たちを確認していく。
他の三人を見回った後、真次郎の寝ているベッドのカーテンを開け、上から覗き込んでいる気配がする。真次郎は頭を少し毛布から出して、じっと目を瞑っている。
やがて職員はドアを閉めて出て行き、隣の部屋のドアを開ける音が聞こえてくる。そのドアが閉まると、またひとつ向こうのドアが開かれる音が小さく聞こえる。それを何度か繰り返すうちに音は聞こえなくなり、シンと静まり返ったまま何の物音もしてこなくなる。
今だと思い、真次郎はそっと毛布を持ち上げ、ベッドの柵を握る。力を入れて上半身を起こしていつもの手順で両足を縁に降ろし、左足にスリッパを履かせる。そして柵を握った左手で重心を取りながら、左足だけでベッドから床に降り立つ。
その時遠くから何かパタパタと走って来る様な音がしたかと思うと、途端にガラガラとドアが開き、職員の男が入って来る。
「相沢さん。どうしましたか?」
「……」
瞬間真次郎には何が起こったのか分からない。何故だ? 何故今職員が来てしまったのか。また捕まって廊下を引き摺られた恐怖が蘇える。
「い、いや……俺、は、何も……」
誤魔化す言葉が何も思い浮かばない。
「勝手にベッドから離れてはいけませんよ。解かりましたか!」
いつになく強い口調で職員は言う。
「さ、ベッドに戻って下さい、まだ起床の時間じゃありませんからね」
職員は腕をつかむと、痛いくらいに力を入れて、真次郎をベッドに戻してしまう。
真次郎は訳の分からないまま元の様に寝かされ、毛布を掛けられる。
職員はシャッとカーテンを閉めると、ガラガラとドアを閉めて出て行く。
……部屋から出てもいないのに、どうして職員に分かったのか……。
考えてみると、何か部屋の中に仕掛けがしてあるとしか思えない。もしかしたら真次郎がベッドから起き出したのを察した同じ部屋に寝ている誰かが、無線でも使って連絡したのだろうか。とも考えたが、この部屋にいる老人たちにそんなことが出来るとは思えない。
だとすれば、このベッドに何か仕掛けがあるのだろうか……。
ふと真次郎は、ベッドの布団をめくり上げてみると、布団とマットレスの間に灰色をした分厚い板の様な物が敷かれている。それには端から電気のコードの様な物が繋がっている。
ははぁ……きっとコレなのだと思う。真次郎がベッドから降りた途端に、物音も立てていないのに職員が走って来たのはコレのせいなのだ。多分この板は、その上に寝ている人がいなくなると、コードで繋がっているところに知らせる仕組みになっているのだ。
それはきっと人間の重みに反応する様に出来ているのだ。寝ている人の重みが無くなって軽くなると反応する仕組みになっているのだろう。
……きっと俺が屋上から飛び降りようとした時に、また俺が勝手に部屋を出て行かない様に職員たちがベッドに仕掛けたのだ。
次の日の朝食の後、職員がいつもの様に真次郎の口を開かせ、処方されている錠剤を飲ませようとする。だが真次郎は口を真一文字に結んだまま開こうとしない。
「どうしたんですか相沢さん。さぁお薬ですよ」
「……」
真次郎は職員の手を振り払い、口を引き結んだまま無言である。
「しょうがないですねぇ相沢さん。折角川柳先生が処方して下さったのに、どうしてお飲みにならないんですか」
「……」
職員は諦めたのか錠剤を容器に戻し、そのまま車椅子を押して川柳の診察室へと真次郎を連れて行く。
「川柳先生すみません」
「はい」と机に向ったままの川柳が答える。
「相沢さんが朝のお薬をお飲みになってくれないんですが」
「あら……そうですか、どうしたんでしょう」
と言って川柳は椅子を回転させて真次郎の方を向く。
「どうしたんですか相沢さん」
問いかける川柳に真次郎はしっかりと答える。
「もう……飲まない……」
「はい?」
「もう薬……は、飲まない」
真次郎の顔を覗き込んで川柳は不思議そうな顔をする。
「どうしてですか? 相沢さん。このお薬のお陰でこんなに回復なさったのに、私にも信じられないくらいなんですよ。だからこうしてお話まで出来るようになったんじゃないですか、なのに……」
「その薬……のせいで、苦しんで、るんだ…もう頭なんて……ハッキリしない方が、いい……」
「どうしてです、症状がこんなに改善されて」
「改善……しなくて、いい!」
「どうしてですか?」
「……何も、解りたくな…い。ま……た、何も……分からなくなった方、がいい……」
「でも……」
「俺、はもう……薬は、飲まない……」
余りに断固とした真次郎の態度に、川柳も唖然としてしまう。
「でもそれじゃ、ヒハビリの方はどうするんですか」
「やらない……もぅ、やらなくて……いい……」
「……」
午後の団欒の時間になり、老人たちはフロアーに集まり、テレビの画面を眺めている。
昨日まで真次郎は原先生についてリハビリに励んでいたのだが、止めてしまったので時間を持て余してしまい、フロアーの隅でぽつんと座っている。
そこへ通り掛かった沙奈が真次郎を見つけ、側へ歩いて来る。
「相沢さん……」
「……」
真次郎は沙奈の顔を見ても、もう何の感情も沸かずにぼ~っとしている。
沙奈は心配そうな顔をして真次郎を見つめる。
「……朝のお薬を飲まなくなっちゃったって聞きましたけど」
「……」
「ねぇ、相沢さんどうしちゃったんですか?」
真次郎は何も見ていないかの様にただ宙に目を泳がせている。
「相沢さん……」
「いいんだ……もう」
「えっ?」
「俺なん……かもう、死んだ方、が良い……」
「ええっ?」
「生きて、いて……も意味がな……いから……」
「そんな、何言ってるんですか、そんなことないですよ。生きていれば楽しいことだってありますよ」
「いい……加減な、こと言うな!」
急に怒鳴ったので沙奈は驚いてしまい、涙目になって真次郎を見る。
「そんなこと仰らないで下さいよ。相沢さんにそんなこと言われたら、私だって悲しくなるじゃないですか」
「……」
「……そりゃ、こんなところで申し訳ないと思うけど、人手不足でいき渡らないところもあると思うけど。でも私にとってはこれが仕事で、頑張ってやってるんですよ」
そう言って沙奈が余りにも悲しそうな顔をするので、真次郎も少し狼狽してしまう。
「そ、そうじゃ……ないよ、沙奈さんに……は感謝してるよ……」
「あのね相沢さん。私なんかに、偉そうなことなんて言えないですけど、でも……」
沙奈は言葉に詰まってしまい、どう言えば真次郎に解って貰えるだろうと考えている様子である。
「ねぇ、相沢さん。ここで働いている職員の生き甲斐は、相沢さんの様な利用者さんに幸せを感じて貰うことだけなんですよ。生きていて良かったって、感じて貰うことだけなんですよ。それなのにそんなこと言われたら、私だってもう、頑張ろうっていう気が無くなるじゃないですか」
「いや……そうじゃない。ごめん……よ君には感謝してる、んだ……よ、いつもありがとう……よ、こんな老いぼ……れの相手、をしてくれて……」
「私たちもここの利用者さんたちの暮らしをもっと良くしてあげたいとは思ってるんです。でもこれ以上職員の数を増やすことは出来ないらしくて、いつもギリギリの人数でやっていくしかないんですよ。でもどうしても手が回らなくて、利用者さんたちにしてみれば、雑に扱われたり、放ったらかしにされてるみたいに思われるのかもしれないけど」
「いや……俺はそんなこと言ってる……んじゃない…んだよ……」
確かにここにいる老人たちは、自分も含めて、まるで物の様に扱われていると思う。でも、それは仕方のないことなのだと真次郎は思っている。
必ずしも職員たちが老人を物の様に扱っているという訳ではない。実際ここにいる老人たちは物に近いのだ。
それは沙奈が苦しむべき問題ではないと真次郎は思う。誰が、何が悪いというのでもない、これは必然的にある現実なのだろう。
「でも君は、どうし……てそんな……に俺のことを?」
「だって私、相沢さんみたいな人に会えて、この仕事して良かったって思ったんです」
「ど、うして……?」
「どうしてかな……それは、人のことが信じられる様になったっていうか……」
「……?」
真次郎は沙奈の言っていることが理解出来ずに、ただ沙奈の顔を見つめている。
沙奈の表情が思い詰めた様になっていく。真次郎にはその顔が酷く悲しそうに見える。
「施設長が最近、二人で会ってくれないんです。私……施設長のこと好きだけど、やっぱり施設長は、奥さんや子供と別れてまで私と一緒になりたいとは思ってないと思うんです。だから相沢さんみたいに、マリさんて人のことを生涯愛してたって話を聞くと、憧れるんです。私もそんな恋愛がしてみたいって思うんです。一度でいいから、そんな風に男の人に思われてみたいなって。人を愛するっていうけど、それってどういうことなのか、本当に人から愛されるってどんな気持ちなのか、私も感じてみたいです」
「……」
「相沢さん。私、いけないことだって解ってても、施設長を好きになっても幸せにはなれないってことも解ってても、でも気持ちが凄く魅かれてしまうんです。辛いです。でも、これが人を好きになるっていう気持ちなんですかね。私、こんなに男の人を好きになったの初めてなんです」
その言葉が真次郎の脳裏にこだまする。
「……私、こんなに男の人を好きになったの初めてよ」
そう言ったのが麻里恵であることは間違いない。そしてその言葉の後に麻里恵はこう続けた。
「私、真次郎さんのところに行っちゃおうかな……」
真次郎は沙奈の顔を見て話す。
「でも俺……はその相手、が誰だっ、たのかも……思い出せない、んだよ……情けないよ……」と自分の頭を叩く。
「相沢さん。いいんですよ、もう、いいじゃないですか、相沢さんの中に今でもそんな強い思いが残ってるってだけでも素敵じゃないですか。だからもう無理に思い出さなくてもいいじゃないですか」
だが、沙奈にそう言われても、真次郎の中にはどうしても思い出したいという強烈な衝動がある。
「ねぇ相沢さん。生きててもつまんないなんて言うけど、私だって、どうやって生きたらいいか解らなくって、ジタバタあがいてるんですよ。相沢さんと同じなんですよ」
その言葉に真次郎は不思議そうな顔をして沙奈を見る。
……こんなに若くて、可愛らしい顔をして、それで一体何が詰まらないというのか……。
「相沢さん、私まだこの仕事を始めてから二年目なんです。その前はOLをしてたんですけど、その会社が倒産しちゃって、仕方なくてこの仕事を始めたんです。元々何がしたいとか、ハッキリした目標があって生きて来た訳じゃないですけど、気が付いたらこんな良い歳になっちゃってて、まだ自分が本当にやりたい事もなくて、でも取りあえずこの仕事に就いたから、今は頑張ってやるしかないって感じで」
「……」
真次郎は沙奈が何故自分にそんな話をするのか理解出来ない。キョトンとしている。
「ねぇ相沢さん。私ね、元々は兵庫県の宝塚市に住んでたんです。知ってますか? 神戸の近くです」
「……」
「そこで短大を出た時、ひとりで東京に来たんです。私の実家は古い温泉旅館をしていて、両親は離婚して、旅館は母が社長になってるんですけど、母とはあんまり仲が良くなくて……」
沙奈が話すのは、きっとそうすることで真次郎が死にたいと言う気持ちを少しでも慰めようとしてくれているのではないかと思う。
でも、そんなことは意味の無いことなのだ。真次郎が死にたいと思うのは、生きることに希望を持とうとか、まだ楽しいことがあるかもしれないとか、そんな次元で解決出来ることではない。
「でも私……正直に言って、もう死にたいなんて言う相沢さんの気持ちも解るんです……」
「……」
「本当はこんなこと利用者さんに話しては絶対にいけないと思うけど。実は、私も思ったことがあって、認知症になってもう自分では右も左も分らなくなって、身体も動かせずに自分でご飯を食べることも出来なくなってしまったら、こんな風に、まるで植物みたいに生きてるくらいなら、尊厳死させて上げた方がずっと救いになるんじゃないか……って。思ってしまうこともあるんです」
……そうだよ、それは、その通りだ。
「これから先、もっと高齢化が進んで、介護職員の数はどんどん足りなくなるんだから、利用者さんたちは今よりもっと酷い扱いになるって、そんなこと私たちが心配しててもどうにもならないって上の人たちは言うんですけど。でもきっと利用者さんたちの家族は、一日でも長く親御さんたちに生きていて欲しいと思ってると思うんです」
「俺……にゃもう家族なんて、いない、俺に生きて、て欲しいなんて、思ってる人……は誰も……いない……」
「でも、ここに私がいるじゃないですか、それに何処にいるか解らないけどマリさんていう人だって、まだ何処かで真次郎さんのこと思って生きてるのかもしれないじゃないですか!」
「……」
沙奈も珍しく語気を荒げる。どうしてそこまで熱を入れて語ってくれるのかと思う。そのことにはずっと忘れていた人の温もりの様な物を感じる。
「さ、沙奈……さん……」
「何ですか」
「お母さ……んとは、連絡……してないの?」
「時々電話だけはしてます。仲悪いけど、元気でいることだけは知らせとかなきゃと思って。私の両親は、私が小さい頃に離婚して、ずっと母子家庭だったんです」
「そう……でも、なんで、お母さん……と、仲が悪い……の?」
「母は男性に対して凄く疑り深い人で、父のことを、他に女がいるんじゃないかって、凄く疑ってて、私は父は浮気なんかしてなかったと思うんですけど、母は信じなくて、そんな母に父は我慢出来なくなって、出て行っちゃったんです」
「ふぅん……」
「そんな母も、子供の頃に戦争で父親を亡くしてて、旅館の女将だった祖母と二人だけで暮らしてきたらしいんですけど」
そんな沙奈の話を聞きながら、真次郎にはずっと引っ掛かっている物がある……さっき沙奈の言った言葉が脳裏にこだましている。それは宝塚市……神戸の近く……という言葉である。でもそれが何だというのかは解らない。
「それで地元の短大を出た時に、父は母と離婚して東京に住んでたので、私は母の元から離れたかったのと、父のことが可哀相だと思ってたので、東京に行こうと思ったんです。それでこっちにあった会社に就職して、そこで十年も働いてたんですけど、倒産しちゃったんで、職業安定所に行ったら、良い仕事はあんまり無かったんだけど、介護の仕事にだけは沢山の募集が来てて、それじゃやってみようかなって。私がこの仕事に就いたのは、そんな風に、本当にたまたまだったんです」
「……」
「だから私、前から介護の仕事がやりたかった訳じゃないけど、でも私にもまだ地元で元気に暮してるお祖母ちゃんがいて、私母とは仲が悪いけど、お祖母ちゃんのことは大好きなんです。小さい頃から、母に怒られて落ち込んでる時も、お祖母ちゃんはいつも優しくて、慰めてくれたんです。だから私、もしこの先お祖母ちゃんに介護が必要になったら、旅館を継ぐのは嫌だけど、神戸に戻って、お祖母ちゃんの面倒は看てあげたいなぁと思ってるんです」
「おばあ、ちゃん、は何歳……なの?」
「来年九十歳になるんです。あ、ちょうど相沢さんと同い年ですね」
「ま、まだ元気……なの?」
「はい、今でも旅館で働いてるんですよ。もう女将は引退したんですけど、女将の仕事は母に譲って、今でも仲居さんをしてるんです。でも昔からのお客さんからは、祖母は大女将って言われてて、地元じゃちょっと有名なんですよ」
「そう……」
「そうそう、そう言えば相沢さんの大切な人はマリさんて言うんですよね、私の祖母はマリエっていうんですよ」
「!……マ、マリ、エ……マリエっていう……のか? 君のお祖母……ちゃん、も」
「そうですけど、それが何か?」
キョトンとした顔をして、沙奈は真次郎を見ている。だが真次郎は慌てふためいた様に問い質す。
「そ、その字……を書い……て、名前を……漢字で、書いて……」
「あ、はい、いいですけど……」
沙奈は胸のポケットからメモ帳を取り出すと、新しいページを開き、ボールペンで出来るだけ大きく文字を書き、真次郎に見せる。
「麻里恵」
!……真次郎の目が見開かれる。
「麻里、恵……!? 沙奈さんの……お祖母ちゃん、は、麻里恵って、言う……の?」
「はい、そうですよ」
「今、何歳……な、の?」
「だから相沢さんと同じ八九歳です」
「……」
「……どうしたんですか?」
愕然とした様に真次郎は宙を固視する。それはまるで遠く時空を超えたところを見据えている様な目をして。
「……それ……はマリ、じゃないのか!……いやそ、れはマリ……だ。解った。麻里恵、それは、麻里恵……なんだよ、それ……は……」
「えっ、相沢さんのいうマリさんも、麻里恵っていうんですか、でもそんな、相沢さんのいつも言ってるマリさんが私のお祖母ちゃんだっていうんですか? そんなことはないですよ」
確かに何の根拠もない。たまたま同い年で同じ名前だったというだけなのかもしれない。だが何の疑問もなく、真次郎には沙奈の祖母だという麻里恵が、自分の記憶の中にいる麻里恵に間違いないのだと信じられてしまう。
……麻里恵……お前は生きていたのか、麻里恵……そうか……この子は麻里恵の孫だったのか、だからこんなに似てたのか……。
「ね……ぇ、お祖母ちゃんの……こと聞かせ、て……どんな……お祖母ちゃん……なのか」
「お祖母ちゃんは、ずっと宝塚市に住んでましたけど」
「宝塚っていう……それは、何処なの」
「兵庫県ですけど」
「兵庫、県……」
「兵庫県は、大阪と京都の隣にある県です」
「それじゃ、ここは……ここは何処なの……」
「この施設があるところですか、ここは東京の杉並区っていうところですよ」
「東京……杉並」
どの地名にも聞き覚えがある。かつて真次郎はその地名のどれをも良く知っていたに違いない。だが今はそれらの場所が何処にあって、どれくらいの距離なのかも、全く思い浮かべることが出来ない。
「それに、相沢さんの覚えてる麻里恵さんて、苗字は何ていうんですか?」
「苗字……は、苗字は……分ら、ない……」
「それじゃ何処でお知り合いになったんですか……それも分らないか……」
「……」
「うちのお祖母ちゃんは、一度結婚したけど、私のお母さんを生んだ後すぐに戦争でご主人を亡くして、それから実家に戻ってずっと、母と二人で旅館を切り盛りしながら暮らして来たって言ってました。それ以来宝塚市から出たことは一度もないはずですけど。相沢さんも神戸の方にいらしたことがあるんですか?」
神戸……宝塚市……温泉旅館……それ等の言葉に引っ掛かるものを感じるのは確かなのだが、それが何なのかは解からない。
「う……うう……」
やはり真次郎にはただ、唸り声を上げて頭を抱えることしか出来ない。
「戦時中に祖母は地元の作り酒屋の息子さんだった人と結婚して、その方は戦争に行って亡くなられたって言ってました。今は旧姓に戻って三浦っていう名前ですけど」
「三浦……」
「はい、私は母が離婚してもそのまま父の名前で通してきたので吉田ですけど」
「どんな……お祖母ちゃん。どんな……人なの?」
「お祖母ちゃんは……」
ちょっと考える顔をして、沙奈は思い出している。真次郎の方から尋ねる。
「いつ……も優しくて、弱弱し……い感じがして……人に何か……強く言われると、逆らえない……」
「……はい、確かにそんな感じはあると思いますけど……」
……そうだ。麻里恵は弱弱しい女だった。俺がどんな理不尽なことも、横暴なことを言っても逆らいやしない、ちょっと大きな声を出しただけでも涙ぐんでやがった……。
「私が母と喧嘩した時も、お祖母ちゃんは優しくて、いつも慰めてくれました。私にとっては、フカフカの綿みたいに優しいお祖母ちゃんでした」
「よく……泣いて、なかった……かい?」
そう言われて沙奈も何かに気付いたのか、ちょっと気味が悪そうな表情を見せる。
「……は、はい、確かにお祖母ちゃんは、私が相談に行くといつも優しくて、ニコニコしてくれるんですけど、でも仕事を休んでる時とか、一人でいる時は、なんだか物悲しい感じっていうか、普段から黙っていると泣いてるみたいな顔してて……旅館の敷地にある離れで寝起きしてるんですけど、夜中に時々シクシク泣いてる様な声が聞こえたりしてました」
……シクシク声を殺して泣いている!
その言葉に、真次郎の胸の奥で呼応する記憶がある、それは何なのかは解らない、だが酷く懐かしい様な感情が込み上げてくる。
「それで気になって次の日に、昨夜は何を泣いてたのって聞いてみても、お祖母ちゃんは悲しそうに笑うだけで、教えてくれないんです」
「マリだ……そ、れはやっぱり、麻里恵だ、それは……」
「でもそんな偶然って……」
「いや、ま、間違い、ない……」
「でも、じゃ何処で知り合ったんですか? お祖母ちゃんはずっと宝塚市にいて、戦争で亡くなったご主人がいたんですよ、相沢さんとはどんな関係だったんですか」
「……それ……が、分からな、いんだよう、うう~ああ~何なん……だ! 何だ……っていう、んだ! うううううー」
ブィーーーンンンンン……。
途端に材木を削っていく電気カンナから木屑が噴き上がる。
そして顔面に血しぶきを浴びて絶叫する少女「きゃあああああーーーーーーー」だが、今回はその映像に、血飛沫を噴き出して倒れて行く人間の影が見える。少女に噴きかかる血液は、その倒れていく人の胸元から噴き出している。
真次郎はカッと目を見開く。
……俺は、一体何をしたんだ……。
自分の左手を開いて見つめる。
真次郎は、沙奈の祖母が自分の記憶にある麻里恵であるということを確信している。だが、それを沙奈に信じて貰える様に説明することは出来ない。
何一つ麻里恵との具体的な関わりを思い出すことが出来ない。だから何をどう説明すれば良いのかも解らない。自分自身にさえ麻里恵がどういう存在だったのか分からない。
「お祖母……ちゃん、は、今何処……にい、るの?」
「神戸の近くの宝塚市の武田尾温泉っていうところにある桜華園っていう旅館ですけど」
「おう……か……?」
「……えん。桜の、華の、園、って書いて桜華園です」
「桜……の、華の……園、神戸の近く、宝塚市……に、ある……」
今真次郎の胸の奥に、ポッと小さな炎が点いた様な熱さが宿る。
第二章
1
「先生……あの薬……を、もう、一度、飲ませて、下さい……」
「はい、分かりました。相沢さんがその気になられたのならそれに越したことはないですけど、でもなんでまた急に気が変わったんですか? 何か心境が変わることでもあったんですか?」
「もっと、思い出……したいから……記憶が戻るか……もしれない、から……」
「……そうですか、では挑戦してみましょう。でもこれだけは申し上げておきますが、この薬は飽くまでも症状を緩和したり、認知症の進行を抑える効果はありますが、相沢さんがいくら思い出したいことがあるとしても、死んでしまった脳細胞はもう元には戻りませんからね。完全に失われてしまっている記憶を思い出すことは出来ないんですよ」
「……はい」
それでも、真次郎は信じている。頭の中にはまだ記憶が残っている。絶対に。
断片的にではあるが、時折頭の中を過って行く数々の光景は、自分の中にそれらの記憶がまだ残っているという証拠なのだと思う。
「それでは前回中断してしまった時に試そうと思っていた薬の比率配分にして、また再開したいと思います。私が思うには今度こそ、グラマリールとアリセプトの比率が一番良い比率になると思うんです。これならきっと、今までよりも一層の回復が見込めると思いますからね」
と言って川柳は張り切った様子で処方箋の用紙にサラサラとボールペンを走らせ、数値を記入していく。
真次郎は先日壁に投げつけたままベッドの下に放置されていた日記帳を拾い上げる。
ベッドの脇にある台の上でシワを伸ばし、ページを開く。そしてボールペンを取り、左手で苦労しながら最後の日に書かれている「死にたい」という言葉に線を引いて消す。
そして、新しいページの上にさっき職員に教えて貰った今日の日付けを「平成二六年九月十七日」と書く。左手はブルブルと震えて上手く書けないが、真次郎はゆっくりと、時間を掛けて、一文字一文字を書き入れていく。
今日から自分について、分かったことを書いて行こうと思っている。
「俺の名前は相沢真次郎である。
今八九歳である。
若い頃、戦争で何処か外国の島に行っていた。
帰国してから誰かを殺してしまい、長い間刑務所に入っていた。
十年くらい前に刑務所で脳梗塞を起こし、医療刑務所へ移され、そこで頭がボケてしまい、この施設へ移されて来たのが八年前。
俺には後見人になっているという遠い親戚がいる。たまに俺と面会に来ているらしい。
俺の人生には麻里恵という女がいた。しかし麻里恵は俺の妻ではなく、戦争で死んだ他の男と結婚していたらしい。
ここの職員の吉田沙奈さんは、きっと麻里恵の孫娘であると思う。
麻里恵は未だ健在で、神戸の武田尾温泉というところにある桜華園という旅館で仲居をしているらしい。
俺がいまいるこの施設は東京の杉並区というところにある。
頭の中に時折り、俺が殺した人から噴き出したと思われる血を顔に浴びて絶叫している少女の顔が見える」
2
その日真次郎は、今までには入った覚えのない「応接室」というプレートが掲示された部屋へ連れて来られる。
職員に車椅子を押されて入って行くと、そこには施設長の野崎と、もう一人見知らぬ男がソファに座っている。
「相沢さん。今日は相沢さんの後見人をして下さっている町倉さんがいらして下さいましたよ」
と野崎がその男を紹介する。
「こんにちは相沢さん」
「……」
年齢は四十代くらいだろうか、じっと見ても、その顔には一向に記憶がない。
「あ、貴方……は、誰……ですか」
真次郎がハッキリとそう言葉を掛けたことに、町倉という男は驚いた顔をして真次郎を見る。
「相沢さん……」
黙っている真次郎に代わって、野崎が答える。
「最近うちの嘱託医が相沢さんの飲まれている薬の処方を変えたのはご存じですよね」
「はい、ケアマネージャーさんから伺いましたが」
「どうもその薬が凄い効果を発揮したらしくって、私たちも驚いてるんです」
「そ、そうですか……」
その町倉という男は何故か狼狽した様子で真次郎を見つめる。真次郎は訊ねる。
「あ、貴方……は誰、なんだ……?」
「この方は相沢さんの成年後見人をして下さっている方なんですよ」
ともう一度野崎が説明する。
「せ、成年、後見人……って何だ」
「相沢さんの代わりに、相沢さんがお持ちになってる財産を管理して下さってる方です」
「ざ、財産……俺に、財産……がある、のか?」
その質問には後見人だという町倉が答える。
「はい、それは心配しなくても。私がしっかり守って管理してますから大丈夫ですよ」
「貴方と、俺と……は、どういう関係……なんだ?」
「私は、相沢さんの従妹に当たる人の、義理の息子です。八年くらい前に家庭裁判所の方から依頼がありまして、それからずっと相沢さんの後見人をさせて頂いてます」
「……」
そう言われても、真次郎には俄かには理解出来ない。
「俺は、アンタに、教えて……欲しい」
「はい、何でしょうか」
身を乗り出して質問する真次郎に、町倉は少し圧倒された様に身構える。
「お、俺には家族……はいたのか?」
「はい、それはいましたよ。相沢さんにはご両親と、妹さんがいました」
「そ、それ……はどうなった、の?」
「それは、その頃相沢さんの御家族は神戸に住んでいたんですが、戦争で空襲にあって、全員亡くなられたと聞いています」
「こ、神戸……でぜ、全員……死んだ……」
……神戸……やはり、俺も、神戸にいたのか……。
「はい。その時相沢さんは戦争に行っていて、終戦になってから復員して来たと聞いてます」
……戦争……。
真次郎の中で何か自分の記憶の、離れていた断片が少しだが、繋がっていく様な気がする。真次郎は尚も町倉に問い詰める。
「それから……俺は、刑務所……にいた、んだろう?」
「はい、そうですよ」
「お……教え、て欲しい……俺は、誰を殺……したんだ?」
「はい?」
町倉は再び驚いた顔をして真次郎を見る。そして野崎と顔を見合わせる。
「……だから、どうして、誰を……殺したんだ? アンタ、知って……るんだろ……う」
「覚えてらっしゃらないんですか?」
「思い……出せない、だから、聞いてる……」
俄に町倉の表情が真剣になる。
「本気で言ってるんですか?」
「ああ……」
「自分のしたことを忘れてしまったんですか?」
「だか、ら……教えてくれって……言ってんじゃ、ねぇか」
「今更そんなこと、もう思い出さない方が良いんじゃないですか」
「なんで、だ……?」
「もういいんですよ相沢さん。貴方は長いこと刑務所に入って、立派に罪を償われたんですから。もう安らかな日々をお過ごしになって良いんです。忘れてしまわれたのなら、それで良いじゃないですか」
「……」
……どうやらこの男は、それについては教えてくれないつもりらしい。
町倉はそんなことよりも早く自分の用事を済ませてしまいたいと思っているのか、真次郎の問い掛けには答えず話題を変えてしまう。
「それでですね、相沢さん。施設長さんから今度貴方が身体のリハビリをお始めになったということを伺ったものですから、今日はそのお話をしに伺ったんですよ。というのはですね、こちらの施設の中に、相沢さんのお金でリハビリに使う専用の道具を買って置いて貰おうと思っているんです」
「俺の……金でリハビリ……の道具?」
「はい、そうです。こちらの理学療法士の先生とも相談してですね」
「そ、それは、幾ら……なん、だ?」
「はい、それはこちらできちんと管理してお支払いもしておきますので、ご心配なさらなくても大丈夫なんですよ」
「幾ら……なんだ? 俺の金……なんだろ」
「……ですからそれはですね」
「俺……の金は幾ら、幾らある……んだ?」
「それは、こちらでちゃんと管理していますので、お気になさらなくてもいいんですよ」
「いい、幾ら……ある! って聞いてん、じゃ……ねぇか!」
そう言われて町倉は鞄から預金通帳らしき物を出しかけるが、ちょっと困った顔をして野崎を見る。
真次郎は左手でバーンとテーブルを叩く。町倉は大きな音に驚く。
「見せろ! 見せろっ……俺の金を、見せろ……」
真次郎は左手を伸ばし、町倉の持っている通帳を渡せとせがむ。
町倉が野崎を見ると、野崎が仕方ないという風に頷いたので、真次郎に通帳を渡す。
真次郎は通帳を受け取って見る。表紙に「相沢真次郎様」と記載されている。開いて見る。
細かな数字が並んでいる。一番最後に記載されている数字が今の残金なのだということは無意識に分っている。
最後に並んだ数字の列の、数の位を数えていく、一、十、百、千、万、十万……それは五百万円を超える金額になっている。
通帳の最初の金額は六百万円を超えており、そこから幾らかずつが引き落とされて現在の金額に至っている。
真次郎の金銭感覚は逮捕される以前の、昭和三十年代のままである。当時の物価からすれば、五百万円は途方もない金額である。
……こんなに金があるのか、俺の金が、これは刑務所で四五年間働いていた賃金なのか、こんなにあるというのか。
「……な、なんでこんなに……こんなに俺に、金が、あるんだ……俺は、何をして、こんなに金を、溜めたのか……」
驚いている真次郎に町倉が説明する。
「私も事情はよく知りませんが、五十年前に相沢さんが捕まって刑務所に入られた時に、持っていらした預金通帳に二百万円の貯金があったそうです……」
……逮捕された時、俺に二百万円も貯金があっただと?……一体俺は、どうやってそんな大金を貯金することが出来たんだ。それとも、俺が犯した殺人と、その金とは何か関係あるのか。
「それを長い間銀行に預けているうちに利息がついて、バブルの頃は景気が良かったですから倍くらいになって……」
……バブルって? それは何だ?
「……それと相沢さんが長年勤められた刑務所での作業報奨金というのが二百三十万円くらいあったんです」
町倉の話を聞いている真次郎は、放心した様に考えに浸っている。
「相沢さん。私は家庭裁判所の方から命令を受けて貴方の財産を管理していますから、貴方の為に必要な経費だけをそこから出して大切に使ってるんです。ですからご心配なさらなくても大丈夫なんですよ」
その言葉が真次郎には何か全く胡散臭い、信用出来ない言葉に聞こえてくる。
「は、判子……は?」
「はい?」
「判子だ。ここに……押して、ある。コレと……同じ判子」
と真次郎は通帳の最初のページに押してある届け出印の印影を指差して言う。
この通帳の金を管理するには、ここに押してある印影と同じ印鑑がなければならないということを潜在的に覚えている。
「それは……」
「何処? にある……? 判子はある、のか……?」
「は、はい、そりゃありますけど」
「見せろ」
「はい?」
「見せろ……よ、俺のだろ?」
「いえ、でも」
「早……く判子を、出せ」
真次郎は左手を出して催促する。
「いや、大丈夫ですよ。相沢さん。判子は私が持ってますから」
「いいから! 出せよ!」
「……」
「出せ! 判子を! 出せよ……コラァーっ!」
まるでヤクザが恫喝している様に叫び、激しくテーブルを叩く。バン! バン! バーン! そうしながら、そんな自分に驚いてもいる。
……コレも俺なのか。俺の中に、こんな俺もいるのか……。
だがそれと同時に、自分の中から蘇えってくるエネルギーの様な物を感じている。それは生命の炎とでも言った物だろうか。
思いがけない真次郎の迫力に圧倒された町倉は、仕方なく鞄の中から印鑑の入ったケースを取り出し、真次郎に渡す。
真次郎はそれをもぎ取るとテーブルに押し付けながら左手で器用に開き、印鑑を取り出す。それは年季の入った、見るからに何十年も前に作られた印鑑だということが分かる。顔に近付け、その印面と通帳の印影とを比べて見る。
「……どうですか、同じ判子でしょう? 納得されましたか?」
と言って町倉が真次郎から印鑑を返して貰おうとすると、真次郎はその手を跳ね除ける。そして通帳と一緒にパジャマの懐に入れてしまう。
「ちょっと、相沢さん。それは大事な物なんですよ。失くしたりしたら大変ですから。ねっ、私が保管しておきますから、ね、返して下さいよ」
取り戻そうとする町倉の手をバシバシと叩く。
「うるせぇ……俺の……俺の金だろう! ふざけんな……俺のだ!」
「ちょっと、相沢さん」
取り戻そうとする町倉は真次郎の左手をつかみ、真次郎はそれを払いのけようとして暴れ、町倉の手を叩く。二人はつかみ合いになる。
「まさか、こんなに回復するなんて、ちょっと野崎さん」
「いいです。大丈夫ですよ町倉さん」
と言って野崎は側に来ると、無理に取り上げようとする町倉の手を制する。
「快復したといっても、飽くまで一時的なことですから。そう長くは続きませんから。今は薬が効いて停滞していますけど、もう少し経てば認知がもっと進行して、そうしたらもういくら薬を飲んでも効果はなくなりますから。お金のことも解らなくなってしまいますよ」
「そうですか……」
野崎の言葉に町倉は諦めて手を放すと、まるで今までとは別人を見ている様な目で真次郎を見つめ、改めて真次郎の快復ぶりに驚いている様子である。
真次郎は思う……刑務所の労働が四五年間で二百三十万円。でもその前に、刑務所に入る前に自分がしていたという貯金が二百万円……それは何をして稼いだ金なんだろう? 俺は大会社の社長でもしていたというのか……。
しかし、この後見人の町倉という男は怪しい。今まで俺が何も分からなくなっているのを良いことにして、俺の金を管理していると言いいながら勝手に俺の金を自由にしてきたのではないのか……。
そう思うと、何かメラメラと腹の立つ思いが沸き上がってくる。これも暫く忘れていた感覚である。
「もう俺の金を……お前の……好き勝手に、させないからな!」
「……はい? 何を言ってるんですか、好き勝手になんて出来る訳ないでしょう? いいですか相沢さん。私は裁判所から依頼されてですねぇ……」
「冗談じゃねぇ……テメェ、人の金かすめ……取ろうと思いやがって、老いぼれと……思って、舐めんじゃねぇぞ!」
その言葉にはさすがにムッとした様に町倉は目付きを厳しくして言う。
「ちょっと、落ち着いて下さいよ。いいですか、私はこんなことしても何の得にもならないんですよ。それなのに……」
「帰れっ、バカ野郎! 俺の金だ……お前なんかに……ビタ一文、やらねぇからな!」
そんな乱暴な物言いが、自然に口から流れ出てくる。
今までろくに話も出来なかった真次郎が、まるでゴロツキかヤクザの様に啖呵を切るのを見て、町倉はついにポカンと口を開けたまま黙ってしまう。
そう言いながら真次郎自身も、そんな言葉を吐きだしている自分に驚いている。
「町倉さん。今日のところは仕方がないですから……」
と野崎が声を掛け、町倉に帰る様に促す。
「は、はぁ……」
と言いながら町倉が席を立つと、野崎が真次郎に背を向けて、聞こえない様に小声で話す。
「大丈夫ですよ。また折を見て取りあげておきますので……」
「そうですか、解かりました。それじゃ、宜しくお願いします」
と言うと、町倉を連れて野崎も部屋を出て行く。
真次郎はそれらの会話を全て理解している。
「俺には、今五百万円の貯金がある」
新たに真次郎の日記帳に書かれる項目が増えた。しかし何故刑務所に入る前に二百万円もの大金を持っていたのかは分からない。それまでに働いて溜めていたのか? では一体どんな仕事をしていたと言うのか。五十年前の当時にそんな大金を溜めるには、それこそ会社の社長か何かをしていたとしか考えられない。
刑務所に入る以前にしていた仕事の記憶と言えば、何か荷物を積んでトラックを運転していたことくらいしか思い浮かばない。だがトラックの運転手ごときでそんな大金が稼げるとは到底思えない。そうではないとすれば、一体何をして手に入れた金なのか。
……もしかしたら……俺は誰かを殺して、その時に金を奪い、逮捕される前にその金を銀行に入れていた……ということなのかもしれない。
俺はそんなに悪い奴だったのか……でもだとしたら、どうして警察に捕まった時にその金は没収されなかったのか……何か上手い手を使って誤魔化したとでもいうのか……解からない。
だがいずれにしても、コレが今俺の金であるということは紛れも無い事実なのだ。コレは俺にとって有力な力になる筈だ。もう絶対に奪われてはならない。取られない様に大切に持っていなければ……。
真次郎は、これからはその通帳と印鑑を常にパジャマの懐へ入れて、片時も離さずに持っていようと思う。夕食の時も、ベッドへ入ってからもずっと懐の中に入れておくことにする。
その日の深夜、何か違和感を感じて目を開けると、暗い中で何者かが、恐らく職員が掛布団を剥がし、パジャマの懐に手を入れようとしている。
「何すんだー! ふざける、なぁ……泥棒ー!」
真次郎は左手でその男の手を払いのけ、叩いてやろうと手を振り回すが届かずに宙を切ってしまう。
「チッ……」
と舌を鳴らすと職員の男は諦めて部屋を出て行く。
危なかった……通帳と印鑑が無事なのを確かめて、懐をかき合わせ、掛布団を被って身を丸くする。
その翌日は週二回の入浴のある日である。真次郎は脱衣室へと車椅子を押して行かれ、いつもの様にパジャマを脱がされていく。
だが、職員がパジャマの上着を脱がせようとしても、真次郎はそこに入っている通帳と印鑑を守る為に、頑なに胸を抑えた左手を外そうとしない。
「さぁ、相沢さん。お風呂に入りますからね、寝間着を脱がないと入れませんよ」
「……」
「相沢さん……」
「入ら……無い、風呂は、入らなくていい……」
「そんなこと言って、入らなかったら不潔になりますよ、さぁダダ捏ねてないで手を離して下さいよ」
強情な真次郎に苛立ってきたのか、職員の語調が厳しくなり、真次郎の左手を外そうとする手に力が入る。
「さぁその手を離して! 相沢さん!」
「う、う~~止めろ! 泥棒~泥棒~!」
意地でも手を放そうとしない真次郎は、左手を引き剥がそうとする職員の手に噛み付いていく。
「痛っっ……ったく。もう本当にお風呂入れなくなりますよ!」
そこへ騒ぎを聞き付けた沙奈が入ってくる。
「相沢さん、どうしたんですか?」
駆け込んで来た沙奈に、真次郎に手を噛まれた職員が答える。
「この業突く張りのジイサンがよ、どうしても通帳と印鑑を離そうとしないんだよ」
「相沢さん」
と沙奈に見つめられると、真次郎には無視することが出来ない。
「相沢さん、そんなに大事な物なんでしたら。お風呂に入ってる間は私が預かっておきますから、それでどうですか?」
「……」
「それで、お風呂から出て来たらもう一度お返ししますから、お約束しますから。私のこと信じて貰えませんか?」
「……」
真次郎は考える。沙奈の言うことは信じることが出来る。しかし、沙奈に預けている間に、他の職員が沙奈から取り上げてしまうということも考えられるではないか。
逡巡しながら沙奈を見つめていると、何か思い立ったのか沙奈は部屋の隅の棚へ行き、スーパー等で商品を入れるビニール袋を持ってくる。
「それじゃ、相沢さんの通帳と印鑑をこのビニールに入れて、水が入らない様にしっかり口を縛っておきますから、それに紐をつけて首から下げておいたらどうですか? それなら入浴の時もずっとご自分で持っていることが出来るじゃないですか」
「……」
暫く考えて、沙奈の顔を見て真次郎は頷く。懐から通帳と印鑑ケースを出し、差し出されている沙奈の手に乗せる。
沙奈はそれをビニール袋に入れると口を堅く綴じ、紐で縛って真次郎の首に下げる。
そのまま職員は真次郎のパジャマを脱がせ、下着のランニングも剥ぎ取る。
「はいはい、良かったね相沢さん。これで誰も貴方のお金は取れませんからね」
と忌々し気に言いながら、全裸になった真次郎を入浴用の椅子に移乗させ、ガチャガチャと音を立てて浴室へと押して入って行く。
3
真次郎は沙奈に車椅子を押されながら施設長室に連れて来られる。
「どうしたんですか施設長。ここに呼んでくれるなんて久しぶりじゃないですか」
野崎は黙って微笑むとドアに鍵を掛ける。そして沙奈の側へ来て肩を抱くと、顔を近付けてキスしようとする。
咄嗟に沙奈が顔を避ける。
「あれ、どうしたの?」
と野崎は不思議そうに沙奈の顔を見る。
「だって、相沢さんがいるし」
「またそれか、心配するなって大丈夫だよ」
「だって本当に最近は意識がハッキリしてるから。周りのことも全部理解してるんですよ」
そんな沙奈の言葉にひるみもせず、野崎は沙奈の両肩を抱いて顔を近付けてくる。
「ふん、そんなの本当に解かってたって、気にしなくたって平気だよ」
「それに……施設長は暫く私のこと避けてたじゃないですか」
「そんなことないよ」
「じゃ、今日はどうして急に呼び出して下さったんですか」
「……」
「やっぱり何か特別な用事があったからなんですよね」
「……まぁね、君にしか頼めないことがあったから」
「何ですか?」
「こないだ相沢さんが後見人の人から通帳と印鑑を取り上げちゃって、それからずっと自分で持ったまま取ろうとすると暴れるだろ。それでこの施設の利用費とか相沢さんの為に必要な経費の支払いが出来ずに困ってるんだよ。でも沙奈ちゃんの言うことなら相沢さんも聞き入れてくれるんだろう? だから君から相沢さんによくお話して、通帳と印鑑をこちらに戻してくれる様に頼んで欲しいんだよ」
「そんな、相沢さんのお金を取ってどうするつもりなんですか?」
「取るって? ヘンな言い方するなよ。何も横取りする訳じゃないんだから」
「だってこの前、後見人の人と何か相談してたじゃないですか」
「相談って、そりゃこの施設の相沢さんの利用費だってあの通帳から払って貰わなきゃならないんだから」
「それならここでちゃんと相沢さんに説明すれば解って貰えるんじゃないですか。最近相沢さんは物事をちゃんと理解出来るようになってるんですから」
「そんなの川柳先生が薬の処方を変えたからだろう。一時的にそうなってるだけだよ。どんな薬だって認知症の進行を止めることは出来ないんだから」
「でも今は解るんだから、きちんと説明して理解して貰えば良いじゃないですか」
「そんなの無理だよ。だって相沢さん、コレは俺の金だから誰にも渡さないって、その一点張りだからな」
「相沢さんは、施設長と後見人の人が一緒に考えてることくらい薄々気が付いてるんですよ」
「何だよ考えてることって」
「……それじゃ言いますけど、施設長は後見人の人と相談して、介護の経費とか言って相沢さんの通帳から沢山お金を使わせて、途中で金額を操作して差額を取ってるんじゃないんですか?」
「な、何言ってんだよ、そんなことしたら只じゃ済まないだろう」
慌ててそう答える野崎の様子には、明らかに狼狽した様子が伺える。
「……」
「なぁ、俺がそんなことする訳ないじゃないか」
「だって、信じられないんだもん」
「どうしてだよ」
「……施設長は、本当に奥さんと別れて私と結婚してくれる気あるんですか?」
「何で急にそんな話になるんだよ」
「だって、全然その話進めてくれないじゃないですか」
「それと今話してることとは関係ないだろう」
「……」
「いいかい沙奈ちゃん。離婚して君と一緒になるにしても、その為にはお金が必要なんだよ。女房に慰謝料だって払わなきゃならないし。子供だって離婚したらそれでハイさよならって訳にもいかないんだから。成人するまでは養育費とかも払わなくちゃならないんだからね」
「だからその為に相沢さんの持ってるお金を使おうっていうんですか?」
「そんなこと言ってないだろう」
「でも相沢さんの為に必要な経費だとか言って、後見人の人と結託して実際に掛かる費用に上乗せして差額を盗んでるんじゃないんですか」
「人聞きの悪いこと言うなよ」
「だって、施設長には今だって借金があるんでしょう」
「それはあるよ、でもそれとこれとは別問題だろう。まぁでも確かに、それを先に解決しないと離婚の話も先へ進めることは出来ないけどな」
「やっぱり狡い」
「どうして!」
「だって私が相沢さんから通帳を取り上げないと、私との関係も終わってしまうって脅迫してるみたいじゃないですか」
「そんなこと言ってないよ」
「言ってる」
「言ってないっ!」
「嘘……」
「嘘なんかついてない」
「いいえ、私解ってます」
「だったら何て言えば良いんだよ!」
「……」
「それなら沙奈ちゃんの方こそ、もう俺と一緒になろうって気はないっていうのか?」
そう言われて、沙奈は言葉に詰まってしまう。
「いいかい、それでなくとも今俺は大変なんだよ。二年前に起こした事故の賠償金があと二百万円。それは金融業者に借りてて女房にも内緒にしてる」
「それだってどうせ奥さんに言えない様な状況で事故を起こしちゃったから内緒にしてるんじゃないんですか? 誰か奥さんに秘密の女の人と一緒にいる時に事故っちゃったから内緒なんでしょう?」
「……」
野崎は忌々しそうに頭を掻きむしりながら、遂には開き直った様に溜め息をつく。
「だからどうだって言うんだよ、施設長って言ってもねぇ、他の職業に比べたら給料が安くてどうにもならないんだよ。兎に角もう支払いがギリギリで間に合わなくなりそうだし。もし間に合わなくなったら君との結婚どころじゃない、大変なことになってしまうんだよ。いいかい、コレは全く俺の不運なんだよ。何で俺がこんな目に遭わなきゃならないんだって思うよ……」
野崎の言葉が真次郎の脳裏に響く「何で俺がこんな目に遭わなければならないんだ……」真次郎もいつかそう吐き捨てた。そしてその横では麻里恵が、悲しそうな顔をして真次郎を見つめている。
「いいかい、もし相沢さんが亡くなれば、残ったお金は全てこの施設に寄付するってことで話はついてるんだ。そうなればどうにでもして俺が自由に出来る金になるんだよ。そうすれば事故の賠償金だって返せるし」
そう話す野崎の顔を沙奈は凄い目をして睨んでいる。
そんな沙奈に訴える様に野崎が言葉を繋ぐ。
「だってこんな稼ぎの少ない仕事じゃ何年経ったって借金なんて返せっこないんだぜ。正直なところ早く相沢さんの認知が進んで死んでくれれば良いと思うよ」
「!……そんな、酷いですよ」
「ふん。だってね、沙奈ちゃんよく考えてごらんよ。そもそも今あるこの相沢さんのお金だって、半分は刑務所に入る前に持ってたものなんだぞ。今から五十年も前の二百万っていったら物凄い大金だぞ、そんなの相沢さんが悪いことして誰かから取ったに決まってるじゃないか」
「だからってそれを野崎さんが取ってもいいってことにはならないでしょう」
「だからそんなことしないって、飽くまでも施設の為に寄付して貰うんだから」
「酷い……」
「もう話にならないな」
「やっぱり……嘘なんですよね、奥さんと別れて私と結婚しようだなんてこと、考えてないですよね」
「もうやめてくれよ、ウンザリなんだよ!」
「最初は相沢さんみたいに優しかったのに。もう奥さんとは別れたいって、私と一緒になりたいって言ったのに。私のことず~っと好きだって言ったのに!」
その声は麻里恵の言葉として真次郎の胸に突き刺さってくる「私のこと、ず~っと好きでいるって言ったのに!」
「ふっ……子供じゃあるまいし、何をいつまでも解んないこと言ってんだよ。いずれにしたって、相沢さんが通帳握ったまま施設の利用費を払わないって言うんなら、ここから出て行って貰うしかないんだからな」
「そんなことしないでしょう」
「なんで?」
「だって、施設長は元受刑者で認知症になった相沢さんを受け入れたことで、この施設の評判を良くしたかったんでしょう? 全部計算づくでやってるのに、施設にとってマイナスになることなんかする訳ないじゃないですか。それに一番の目当ては相沢さんの持ってるお金なんだから……」
そう言われて野崎の顔がみるみる怒りに震えてくる。
「うるせんだよ! もう黙ってろ!」
そう怒鳴ると野崎は乱暴にドアを開くとバンと叩き着け、部屋を出て行ってしまう。
瞬間シンとしたかと思うと、真次郎の耳にうううううう~とくぐもった声が響いてくる……麻里恵が泣いている……いや違う。泣いているのは麻里恵じゃない、沙奈だ。でも真次郎の中では麻里恵が泣いている……六畳一間のアパートで、麻里恵は真次郎に背を向けて泣いている。小刻みに肩を震わせて。
……可哀相に、俺が泣かせたんだ……ごめんよ麻里恵、ごめんよ。俺はちっとも優しくなかったね。麻里恵のこと泣かせてばかりいて、俺は悪い男だったね……そうだ。悪いのは俺だ……解ってる。解かってるんだよ……でも、男には譲れない時もあるじゃないか……ごめんよ麻里恵。お願いだよ。もう泣かないでおくれよ、お願いだから……。
やがて麻里恵の泣き声は、また現実の沙奈が泣いている声に戻っていく。
「沙奈、沙奈ちゃ……ん。どうした、の? 大丈夫かい? 可哀相に……大丈夫、かい?」
「……うっ……うっ……うう……やっぱりそうだった。ずっと好きでいるって言ってたのに……やっぱり嘘だった……そんなの分かってた。でもやっぱりハッキリ言われると、悲しいですよね……あんなに優しかったのに……あんなに優しくしてくれたのに……ううううううう~……」それはまた時空を超えて、真次郎の中で麻里恵の言葉になっていく。
畳に座り、顔をうつむけて麻里恵が泣いている。
「……酷いわよ真次郎さん……あんなに優しかったのに、もう私のこと何とも思ってないんでしょう? 私のこと、捨てないでよ、捨てないでよう。うっうっうっううううう~」
可哀相に、俺が泣かせた。俺のせいだ……。
「……ごめんよ、泣かない、で……もう、泣かない……で、おくれよ、俺……が、悪か……ったんだよ、ごめんよ……」
と言いながら真次郎は左手で沙奈の背中を摩っている。
「沙奈さん……俺はね、君に、お世話になったから、恩返しが、したいと思って……るんだよ、俺は、もうこの……先、長くないから、自分の、持ってる、お金を使って、しまいたい、んだよ……だから、君の……お祖母ちゃんの為に……俺の金を、使って欲しい……」
「えっ? そんな、どうしてですか?」
「俺には……家族も無いから……君と、お祖母ちゃんの、力になりたい、んだ……。もう命が、短い、俺……の願いを、聞いてくれ、よ」
「そんなのいけませんよ相沢さん」
「どうして……だい?」
「だって、そのお金はこれから先まだ相沢さんが生きて行くのに必要なお金じゃないですか」
「俺……はもう、生きて、いたいと……思わない……俺は……麻里恵に、酷いこと、を……して、しまったから……麻里恵に、罪滅ぼし……を、したいから……」
「でもね相沢さん。私のお祖母ちゃんは相沢さんの思っているマリさんとは違うんですよ。この前実家の母に電話してみたんです。もし相沢さんの言うことが本当なら、母が相沢さんのこと何か知ってるかもしれないと思って。それからお祖母ちゃんにも、相沢真次郎さんっていう人のこと知ってるかどうか聞いてみてって、そしたらお祖母ちゃんもそんな人のことは知らないって言ったらしいですから」
「……え、そんな」
そう言われてしまっては返す言葉もない。だが真次郎の心の中には、そんなことでは誤魔化されない確信がある。何故そう思うのかと問われても、説明する術もないのだが。
「だって、相沢さんのいう麻里恵さんて、苗字も分からないんでしょう? 何処で知り合ったのかも覚えてないんでしょう? お祖母ちゃんは産まれてからずっと宝塚市で暮らしてましたけど、相沢さんもあの辺りにいたことあるんですか?」
「あ、ああ……それは、こないだ、後見人の人……が言ってた。俺……の家族も、神戸にいた……って」
「本当ですか? でも神戸って言っても広いですからね、やっぱり人違いだと思いますよ。だって相沢さんがそんなに強烈に覚えてるなら、もしうちの祖母がその麻里恵さんなんだとしたら、祖母も相沢さんのこと覚えてる筈じゃないですか」
「……」
「だからやっぱり、違う人なんだと思いますよ」
「そ、それで……も、いい。それでも、いいんだ……君のお祖母ちゃん……が、麻里恵……じゃなくても。俺は君に……お世話に、なった……お礼がしたい……から、俺の金を……お祖母ちゃんの為……に使って欲し……いから。頼むから、お願いを聞いて、くれよ……」
「そんなこと……」
「でも……それには、ひとつ、お願いが……ある。俺を、君のお祖母ちゃんの……ところへ、連れて行って。会わせて……欲しい」
「えっ」
「お願い……だよ沙奈さん。俺は……麻里恵に、会いたい。俺は……行きたい。神戸、桜華園……お願いだから……連れて行って……おくれよ……」
「そんな、何言ってるんですか、今の状態で相沢さんを神戸までお連れするなんて、どんなに大変なことだと思います? 私にそんなこと出来る訳ないじゃないですか。それに施設の外出許可だって取れないと思いますよ」
「……」
4
……俺は、どうしても生きてるうちに麻里恵に会わなければならない。それには、沙奈さんが連れて行ってくれない以上、自分で行くしかない。それには、ここを抜け出してひとりで行くしかない。
……それにしても、俺は一体、どんな男だったのだろう。昔何処で何をして、どんな仕事をしていたのか……思い出すことは出来ない。でもこう思う。俺は、自分の意志がハッキリしてさえいれば、どんなことだろうと一人で行動出来る。根拠はないが、俺はそういう男なのではないかと思う。
麻里恵に会うことさえ出来れば、俺が誰を殺して刑務所に入ったのかも、何故殺さなければならなかったのかも、全てが解るような気がする。
いずれにしても、このままここで生活していても何も変わることはない、そのうち朽ち果てて死んでお終いになるだけだ。でも俺はまだ、辛うじて歩ける。この施設の廊下を歩けるということは、外へ出たって歩けるってことだ。それに俺には今五百万の金がある。
この足と、金があれば……行けるかもしれない、神戸まで。でもその前に、ここから出なければならない。でも普通に「俺はここを出ます」と言っても、ここの連中は誰も俺を一人で行かせてはくれないだろう。
だから……逃げるしかない。誰にも見つからずに。でも、そんなことが出来るだろうか。
まず第一に、神戸の近くにあるという桜華園という旅館の住所を調べなければならない。沙奈さんに聞いても教えてくれないかもしれない。ではどうすれば良いか、それは電話を掛けて聞くのが良いと思う。昔もあった、電話番号案内というものに掛けて、それから神戸の桜華園という名前を言えば教えて貰えるのではないだろうか。
電話番号案内の番号は何番だったか……警察は百十番。救急車は百十九番、確か番号案内の番号もそんな三ケタの数字だった気がする。だが思い出せない。コレは誰か職員に聞いて教えて貰うしかない。
そして、その電話を何処で掛けるかが問題だ。施設の廊下には公衆電話が置いてあるが、電話に入れる小銭が無い。若い職員がよくポケットから出してコチョコチョいじっているのはどうも無線の電話機らしいのだが、アレを貸して貰うことは出来ないだろうか。
そうだ、沙奈さんとは全く接点のない職員を捕まえて、個人的に思い出があって、どうしても桜華園という旅館の電話番号を調べたいのだと言えば、貸してくれるかもしれない。
真次郎は若くて比較的いつも優しくしてくれている男性の職員を捕まえて、その旨を頼んでみる。
するとその職員は「ええ? 住所が知りたいんですか、でもそんなの知ってどうするんですか?」と訊ねてくる。
「は、ハガキを、出したい……から」と真次郎は言う。
「へぇ~ハガキですか、良いですよ解りました。え~と神戸の近くにある……桜華園……ですね」
と言って、その職員は電話を掛けるのではなく、その小さなメモ帳の様な機械の画面を指でなぞったり指先でチョンチョンと突ついたりするうちに「ハイ、コレですね」と言って真次郎の前に画面を出して見せる。
どうやらその小さな画面に桜華園という旅館の写真や住所が載っているらしいのだが、真次郎には小さすぎてよく見えない。
「あ、あの、お願い……住所を、教えて……貰えない、だろうか」
「住所ですか、え~とねぇ、兵庫県宝塚市玉瀬……神戸って言っても宝塚市の山の中の方みたいですね」
「あ、ありが……とう。住所……を、メモに……」
と言って真次郎は用意しておいた紙とボールペンを取り出し、桜華園の住所を書いてもらう。
「兵庫県、宝塚市……玉瀬……」
……ここに、桜華園という旅館があって、麻里恵が今も働いている……いや、別人かもしれない。でも、そうかもしれない。確信はない……でも、俺はどうしても、ここに行かなければならない。他に選択の余地は無い。
しかし、果たしてひとりでそこに辿り着くことが出来るのか。俺のこの身体で、行けるだろうか……全く自信がない、というより無理ではないのか。いや、それでも俺は、行くしかない。
「は、原先生、お願い……しま、す。またリハビリ……をして、下さい……」
「分かりました。相沢さん。またやる気になられたんですね。良かったですよ」
「お、俺は……もっと自分、で歩ける……ように、なりたい……」
「はい、それは頑張って毎日続ければきっとなれると思いますよ」
「は、はい……頑張ります……」
その日から真次郎は、理学療法士の原先生の元で、再び熱心にリハビリに励むことにする。
原先生が言うには、頑張れば壁に手を着いたり歩行器を使ったりもせずに、杖を使って一人で歩ける様になるというのだ。
……俺はどうしても、一人で歩ける様にならなくては、ひとりで何処へでも行ける身体にならなければならない。そして遠くまで行ける体力を養うのだ。
沙奈の祖母が本当に麻里恵であるという保障は何も無い。やはり単なる思い込みなのかもしれない。でも行かずにはおれない。
……麻里恵という女はきっと、俺の人生だったのだ。そうに違いない、でなければ、今こんなに強い衝動に駆られる訳がないんだ。
ここから脱走する計画は周到に用意しなくてはならない。またこの前の屋上の時の様なことになれば、更に俺に対する警戒が厳重になって、それこそ身動きが取れなくなってしまうに違いない。
ではどうすれば良いのか、取りあえずは職員たちが、俺が脱走なんていうことを考えているとは思いもしない様に、また前の様に何も解らないフリをして、油断する様にしておこう。
決行するのはやはり夜中が良いと思う。職員たちに見つからずに部屋を出て、エレベーターに乗って一階に降り、表へ出るのだ。
どうにかして通過しなければならない難関は沢山ある。まずは屋上から飛び降りようとして見つかって以来、真次郎のベッドに敷かれているセンサー付きのマットだ。コレは寝ている状態でスイッチを入れられると、起き上がった時に作動して何処かへ知らせる様になっている物だから、夜中でもベッドから離れればすぐに職員が飛んで来てしまう。
電源を抜いてしまえば作動しなくなるのかもしれないが、勝手に抜くとバレてしまうかもしれない。
もうひとつの手としては、寝ている人間の重みが無くなることで反応すると思われるので、自分に変わる何か重みを乗せて、起きてもまだ人間が寝ている様に機械が勘違いさせることが出来れば良いのではないかと思う。
夜中に見回りに来る職員のことは、一度見回りに来ると次の見回りまで二時間くらいの間があることは分かっている。その来ない間のタイミングを見計らって外へ出れば良い。
そして、コレが一番難しいと思われるのは、真次郎はここではいつも着の身着のままでパジャマしか着ていないので、このまま外へ出たのでは往来の人に見られると不審に思われるかもしれないということだ。
なので出来れば、外から通って来ている職員の着替えが置いてあるらしい詰所に入って、ロッカーから職員の着て来た私服を盗んで行くことが出来ないだろうかと思う。
夜中とは言えいつも二人の職員が常駐している。だがきっと昼間と違って、人数は少ないし、ずっと起きているのはどちらか一人だけなのではないだろうか、ならば側に隠れてチャンスを見計らって忍び込み、ロッカーから衣服を盗んで行くことが出来るかもしれない。だが、もしそれが無理だとしたら、パジャマのまま外へ出て行くしかないと思う。
もし外へ出て銀行に行くことが出来れば、この通帳と印鑑で金を下ろすことが出来るだろう。そうすれば何処か洋服を売っている店に行って服を買うことが出来る。
まず誰にも見つからずにエレベーターに乗ることが出来れば、一階までは行くことは出来る。そして、リハビリの為に中庭に出た時に通ったドアへ行く。
ドアは原先生が機械の数字を押すのを見ていた「1234E」の番号を押せば開けることが出来る。中庭に出ることが出来れば、リハビリで歩いた時周りに建っている建物の間に外側へ出る道が見えたから、あそこを通って行けば。敷地の外へ出られるに違いない。
しかし、そこにはまだ行ってみないと解からない点が幾つかある。まずは、職員に見つからずに一階まで降りられたとしても、夜中に一階のフロアーの様子がどうなっているのか解らない。もしかしたらずっと電気が点いて警備員等がいるのかもしれない。
そして建物の外に出られたとしても、この施設の敷地の広さがどれくらいなのか解からないから、敷地を出るまでどれくらいの距離があるのかも分からない。
それに、敷地の出入り口にはきっと門がある筈だ。高い門が閉まったまま鍵が掛けられていれば、外へ出ることは出来ないかもしれない。
考えてみると、決行するには無謀な要素が多すぎるのではないかと思う。でも一度失敗したとしても、また次があるはずだ。そうだ。例え何年掛かったとしても……。
何年掛かったとしても……その感覚に、真次郎は何か合致する深い記憶を感じる。いや記憶というよりは、長年持っていた感覚といおうか。何年掛かったとしても、きっといつか……そうだ。俺は何かをずっとそう思って生きて来た気がする。でもそれが具体的にどういうことだったのかは解からない……でもソレもコレも、神戸へ行って麻里恵に会うことが出来れば。解るのではないかという気がしている。
何を根拠にといわれても解からない。本当にそうなのかという確信も無い。そもそもこんな脱走計画が成功する筈は無いのかもしれない。でも、もう火が点いてしまった衝動を止めることは出来ない。
俺はこのまま進んで行く。それより他は無い。でも何か、俺の中に生きているということが戻って来た気がする。
真次郎は熱心にリハビリに励む。歩行器につかまっての歩行は、かなりの早足でも進める様になり、歩幅も広くなってきている。そんな様子を見た原先生は「それでは次は杖を使って歩く練習をしてみましょう」と仰る。
初めの杖は地面に突くのが一本ではなく、杖の先が4本に枝別れしており、安定性の高い「四点杖」というものを使ってみるという。
その杖は左手一本で体重を掛けてもかなり安定性がある。そこへしっかり体重を掛け、左足を前へ踏み出す。そして後ろに残った右足をズルズルと引き寄せ、杖を突き出す。また左足を前へ踏み出し、右足を引き寄せる。それを繰り返して、どうにか一歩ずつヨロヨロと歩く。
ヨロめいて、バランスを崩しそうになると原先生がガッシと抱き抱えてくれる。
「大丈夫ですか? 最初は少し杖の感覚を覚えるだけでも良いんですよ」
原先生が忠告しても、真次郎は額に汗をかいたまま拭おうともせず、再び杖に力を入れてバランスを取り直し、ブルブルと震えながら一歩、またもう一歩と杖を突き出し、左足を前へ進めて行く。
ガッチャッと杖を突き、左足をタッと踏み出す、そして右足を引き寄せる、ズズ~ッ……。
ガチャッ、タッ、ズズ~ッ……ガチャッ、タッ、ズズ~ッ……。
額に汗を浮かべながら、真次郎は必死の形相で前へ前へと進んで行く。
「もうそんなに無理しない方が良いんじゃありませんか」
余りにも頑張る真次郎の様子を心配して、原先生が声を掛ける。だが真次郎はまるで耳に入らないという様に続ける。杖を前に突き出しては歩いて行く。
……行かなければ、俺は行かなければならない……。
原先生はそれを半ば呆れる思いで見つめている。
左腕を鍛えることにも努力する。左半身しか身体を動かすことは出来ない。だから歩くことも、洋服を着替えたり、物を持ったり、物を食べたり、その他の生活の何もかもを左手と左足だけで出来る様にならなければならない。それは自分を取り戻す為に、ひとりで麻里恵に会いに行く為に。
真次郎は時間は掛かるがトイレへもひとりで行き、自分で用を足すことが出来る様になった。
前まではオムツの中に垂れ流すに任せており、職員にオムツを替えて貰っていたのだが、今はオムツではなく紙で出来ている吸水性の高いリハビリパンツと呼ばれる物を履くようになり、失禁することも無くなった。そのことにも職員たちは驚かされる。
川柳医師が処方する薬の新しい比率の効果なのか、並行して行っているリハビリによる身体活動の活発化が脳の機能をも活性化させているのか。真次郎の頭脳は以前より一層の明晰さを取り戻している。身の回りで職員たちが会話している内容や、フロアーで観るテレビのニュースの内容等もほぼ理解出来る様になっている。
そこで見せられているテレビの画像には驚かされることばかりである。
その画面の大きさは、昔の映画館を思い出させる。映像は写真の様に鮮明であり、まるで自分もそこにいる様な臨場感がある。
そこに映し出されている街並みや走る自動車。若者たちの姿や言動を見ていると、何か見知らぬ未来の世界に来たような感覚である。
ただ、真次郎にはそれがテレビであるということが分り、そこに映っているのが同じ日本人で、話している内容も理解出来ている。なので驚かされることが多くとも、コレはかつて自分が生きて来た時代と地続きにある現代なのだということも理解している。
そして、何より真次郎がテレビの画面から知ろうとしていることは、この施設の外の世界の様子である。自分が病院で頭が呆けてしまい、正気を失っていたのは十年くらいの間のことなのだろうということは解かっている。だがその前に四五年間という、世間とは隔絶された刑務所暮しの期間がある。その間に自分は世の中の移り変わりから取り残されていたのである。
その間に世の中はどう変わっていたのか、普通の人たちは今どんな暮らしをしているのか……。そんな興味で真次郎はテレビに見入っている。
何より一番に着目するのはニュースやドキュメンタリー番組で流れる一般の人々の様子や、ドラマで描写される生活の様子である。
親や兄妹がいて家で一緒に暮らしている。父親は仕事に行き、子供は学校に行く。そこには友達がいたり、恋人が出来たりする。
それ等はきっと、真次郎が刑務所に入る前に暮らしていた頃と基本的には変わっていないのだと思う。見ていると懐かしい感じがする。確かに外の世界はこんなだったと思う。
真次郎は原先生を呆れさせる程の執念でリハビリに打ち込み、遂には練習を続けていた四点杖を卒業し、一般的な一点杖で歩けるまでに回復する。そして毎日の職員たちの行動をつぶさに観察し、誰にも見つからずに施設を出る方法を考えている。
真次郎は出来る限り周到に計画を立てる。そしてその計画は実行に移せるまでに出来上がった。後はいつ実行するかである。
出来れば職員の私服を盗んで行きたいと思う。背丈が自分とほぼ同じくらいだと思われる職員の男に狙いをつけ、その男が大体何日置きに夜勤に入っているのか目星を付けている。実行する日はその男が夜勤に入っている夜にしようと思っている。
そして最も重要なのは天候である。外へ出ればひとりで杖を突いて歩いて行かなければならない。傘等は勿論持つことは出来ない。なので決行するのは雨の降らない、天気の良い夜でなければならない。
夕方の団欒の時間にフロアーで見ることの出来るテレビの天気予報に注目している。九月も終わり十月に入っても台風が発生して、日本に近付いているという予報が続いている。
台風が去るまでは待たなければならない。だがあまり延ばしていても冬になってしまう。まだ温かく軽装で身体も動き易い季節のうちに行かなければと思う。
5
そして遂にその夜が来た。台風も行ってしまい、もう新たな台風が発生しているという予報はない。今晩はずっと良い天気で雨の降る確率はゼロパーセント。そして洋服を盗む為に目を付けておいた浜矢という名前の職員が今日夜勤に入ることも確認している。
真次郎は全ての準備を整えて、毛布を被り、寝たフリをして職員が最初の見回りにくるのをじっと待っている。
九時の就寝から二時間くらいが過ぎたのだろうか、パタパタと足音がして、職員が今夜最初の見回りに来る。ガラガラとドアを開けて入って来ると、懐中電灯の光が壁を過る。職員は歩いてカーテンの仕切りをそっと開きながら、それぞれのベッドに眠っている老人たちの様子を確かめていく。
当直の職員は二人いる。見回りはそれぞれが分担する部屋をひとりで回っている。入って来たのはそのうちのどちらかなのだろうが、真次郎は毛布を被っていなければならないので、それがあの真次郎と体型の似ている浜矢という名札を付けた男なのか、それとも他の職員なのか、男なのか女なのかも解からない。
その職員は他の三人の老人たちの様子を確かめると、真次郎のところへも来る。真次郎はじっと寝たフリをしている。スーッとカーテンを開けるとそっと毛布の縁を持ち上げ、真次郎の様子を確かめるとまた毛布を被せ、部屋を出て行く。
隣の部屋のドアを開ける音が聞こえてくる。少ししてそのドアが閉まると、またひとつ向こうのドアが開かれる音が小さく聞こえる。それを何度か繰り返すうちに音は聞こえなくなり、何の物音もしてこなくなる。
真次郎はそっと起き上がる。掛けていた毛布を左足で蹴り、足元へ押しやる。うっかりベッドから腰を浮かせるとシーツの下に敷いてあるセンサーが作動してしまうので、そのまま左手でベッドの脇に用意しておいた折りたたみ椅子を持ち上げる。真次郎の左腕は原先生にリハビリの時に掛かる負荷を上げて貰い、鍛えた成果でかなり力が入る様になっている。
持ち上げたパイプ椅子の縁とベッドの柵が当たってカーンと音が鳴る。ハッとして耳を澄ませるが、他の老人たちは静まり返ったまま反応はない。
そっと身体を脇へずらし、寝ていた場所に折りたたみ椅子を寝かせる。でもこれだけでは重みが足りないと思われるので、そっと腹ばいになってベッドの下に手を突っ込み、隠しておいた二つの水枕を引っ張り出す。それは部屋の入口脇にある戸棚にあるのを見つけ、水道の水をいっぱいに入れておいたのだ。タプタプと音を立てる二つのそれを、寝かせた折りたたみ椅子の上に乗せる。
それからそっと腰をずらしてベッドの縁に両足を降ろす。このまま腰を浮かせてベッドから降りた時、センサーが反応してしまえばそれまでである。
左足を伸ばして床においてあるサンダルを履き、ベッドの柵に立て掛けておいた杖を手に取る。原先生からもう普通のステッキ状の一点杖でも充分に歩くことが出来るとお墨付きを貰っている。この杖は施設からお借りしている物だが、このまま持って行こうと思う。
床に杖を突き、ベッドに座っている自分の体重を杖の方へと傾けていく。
ここでセンサーが反応すれば、警報を聞いた職員が飛んで来るだろう……心を決めるとベッドから腰を浮かせる。脇に立ったまま暫く待つ。
……誰もやって来る気配はない。どうやら折りたたみ椅子と水枕の重みとで誤魔化せたのだろうか。動かない右足を引き摺ってサンダルを履かせると、体勢を変えてもう一度ベッドの下に手を入れ、これも戸棚から盗んでおいた予備の毛布を引っぱり出す。
その毛布をベッドの折りたたみ椅子と水枕の上に乗せ、人型に盛り上がる様にして、その上から自分が被っていた毛布を被せる。全ての作業を左手だけで、しかも物音を立てない様に注意してやらなければならないので時間が掛かる。だが今度見つかればそれこそ何処かに監禁されてしまい、身動きが取れなくなってしまうだろう。そう思うとやはり慎重に行動しなければと思う。
これでパッと見には真次郎が毛布を被って寝ている様に見える。毛布を被って寝ていることを職員が不自然に感じない様に、ここ最近真次郎は毎晩寝る時に顔を出さず、毛布をスッポリ被って寝るようにしていた。
首からヒモで下げているビニール袋の中の通帳と印鑑を確かめる。それと若い職員に書いて貰った麻里恵が働いている旅館「桜華園」の住所が書かれたメモ。そして何故かは解らないが、気が付くといつも何処からか盗んではガリガリと削っているスプーンは、どうしても持って行かなければならないものだと思っている。何故かは解からないが、それが自分にとってとても大事な物の様に思えるのだ。なのでそれも一緒に首の袋に入れる。
今夜は真次郎と体型の似ているあの浜矢という職員が当直している筈なのだ。だから今職員詰所のロッカーには浜矢の私服が入っている筈だ。これからこの部屋を出て廊下を歩き、始めは職員たちの詰所へ行って、浜矢の衣服を盗むのだ。
ヨロヨロと杖を突きながら、ベッドの脇を離れてドアの側へ来る。なるべく音を立てない様に注意しながらそっとスライド式のドアを開く。
ガラ……ガラガラ……。
ドアの隙間から顔を出し、暗い廊下の両側を見る。誰も人影が無いのを確認し、自分が出られるくらいにまでドアを開く。
まず杖の先端を外へ出し、体重を支えながら左足を外へ踏み出す。
身体の全部が外へ出る。辺りは暗く、天井に等間隔に付いている常夜灯だけが小さく光っている。ドアを閉める。
職員の詰所のある方へ一歩ずつ歩みを進める。先に杖を突き、左足を踏み出し、後に残った右足を引き摺って引き寄せる。
コツン……タッ、ズズズ、コツン……タッ、ズズズ……。
音を立てない様に気を付けても、辺りがシンと静まっているので音が響いている様に感じる。
暫く進み、角を曲がると長い廊下に出る。その先に明るく電気の点いている部屋がある。アレが職員の詰所だ。あそこへ行くまでに職員が廊下に出て来てしまえば、その場で見つかってしまう。しかしもうこの期に及んではイチかバチか進んで行くしかない。
コツン……タッ、ズズズ、コツン……タッ、ズズズ……。
詰所の前まで来る。廊下に面した大きな窓の枠に近付き、縁からそっと覗いて見る……職員が一人椅子に座ったまま眠っている。そしてもう一人、それは確かにあの浜矢という職員である。浜矢はテーブルに書類の様な物を広げて一心に何か書き込んでいる。
職員の私服が入っているロッカーは部屋のテーブルの奥にある。この状態ではとてもあの職員に見つからずに奥へ取りに行くことは出来ないだろう。
だが浜矢は何か集中して書いているので、気付かれずにそっと窓の前を通過することは出来るかもしれない。洋服は諦めるか……。
先ほどの見回りからどれくらい時間が経っているのだろう。次の見回りの時間になれば二人ともこの部屋から出て行くのかもしれない。それまで見つからない様に近くで隠れていることが出来れば……。
詰所を通り過ぎた向こうにエレベーターのある場所があり、ここからは窪んで死角になっている。あそこへ行って隠れていることが出来れば、次の見回りの時、二人が出て行った間にこの部屋に忍び込んで衣服を盗むことが出来るかもしれない。
よしと決心して歩き始める。詰所の大きな窓の前を歩く。職員の一人は眠っており、浜矢は書類を書くことに集中しているので、こちらに顔を向けない限りは見つからないのではないか。音を立てない様に、細心の注意を払いながら、少しずつ歩く。
詰所の窓を通過してしまうとエレベーターホールになっている。その一番奥の隅まで行き、暗がりの中に身を潜める。しかしここには身を隠す物が何もない。暗いので前の廊下を誰かが通っても見えないかもしれないが、誰かがエレベーターから降りて来れば見つかってしまうだろう。そうならないことを願いながら暗い中に身を潜めている。
どれくらい時間が過ぎたろうか、意識もボンヤリし始めて、今いるここは本当にこの世のことなのかと思い始めた頃、不意にガチャリとドアの開く音がして、懐中電灯の光が床や壁にチラチラと走る。そして無造作な足音がスタスタと近づいて来る。ドキリとして息を潜めていると、詰所にいた二人の職員が、それぞれの手に懐中電灯を持ってエレベーターホールの前を通り過ぎて行く。暗がりにいる真次郎には気付かない様子だ。
今だ……杖を突き出し、右足を引き摺って歩き出す。職員たちの足音は角を曲がって遠ざかっている。この施設はかなり広いし、何十人もの老人たちが眠っているのだ、そんなに早くは帰って来れない筈である。
詰所の窓からそっと中を見る。誰もいない。ドアを開いて中へ入る。浜矢が座って作業していたテーブルを通り過ぎ、部屋の奥に並んでいるロッカーへ行く。
端から扉に付いた名札を見ていくが、名札の付いていないロッカーもある。焦る気持ちを宥めながら見ていくと、あった。マジックの汚い文字で "浜矢" と書いてある。しかし鍵が掛かっていればそれまでだろう。カシャン……開いた。
中にシャツとズボンがハンガーで吊るされている。ズボンは青い色をしたジーパンで、シャツは薄いオレンジ色で襟の付いた半袖である。如何にも若い男が着そうな感じの物だが、そんなことは言ってられない。
それを左手で引っ張り出して自分の肩に掛け、扉を閉める。さぁ外へ出なければと杖を突き、右足を引き摺って出口へと向かう。職員たちが何か忘れ物でもして戻って来たら……もしくは部屋のベッドの細工がバレてしまったら……と思う気持ちを抑え、詰所を出て廊下を歩き出す。
職員たちの影は何処にもない。エレベーターホールへ向かい、下へ降りるボタンを押す。エレベーターの横に表示された数字の列の一階に光が灯っている。その光が二階、三階と登ってくる。
早く、早く来い……頼むから、あの男たちが戻って来る前に……。
エレベーターは四階に辿り着き、チンと音がしてシャーっと扉が開く。途端に中から光が溢れ出て一気に辺りが照らされる。焦って杖を突くと転んでしまうので、気を付けながら急いで乗り込み、すかさず扉を閉めるボタンを押す。扉がしまると、一階のボタンを押す。
見つからなかったろうか……エレベーターの扉が開閉した音を聞かれなかったろうか……。
三階、二階と表示は下り、一階に着くとシャーっと音を立てて扉が開く。扉の外は真っ暗である。辺りを確認しようにも真っ暗なので何も見えない、とにかく外へ出なければと歩き出す。リハビリで原先生と中庭へ出た時の、外へ出るあのドアのある方へと歩いて行く。
背後でエレベーターの扉が閉まると完全な暗闇に包まれてしまう。自分の歩いている脚さえ見えない。平衡感覚も失われてフラフラとよろけそうになりながら、それでもなんとか進んで行く。
コツン……タッ、ズズズ、コツン……タッ、ズズズ……。
暗闇に目が慣れてくると、中庭へ出るドアがあると思われる辺りのもっと先に、明かりの灯った部屋がある。警備員か誰かが常駐しているのかもしれない。とにかく前へ行くしかないと歩を進めて行く。
四階の詰所で盗んだ浜矢の洋服は肩に掛けたままだ。着替えるのは何処か誰にも見つからない場所に行ってからにしようと思う。
左側に中庭に面した窓を見ながら歩いて行く。なかなかドアが見つからない。まだかまだかと歩いて、やっと見つける。ドアの脇に取り付けられた機械を開くと、文字盤が明るく光る。
「1、2、3、4、E」ボタンを押すとジーッ、ガチャッ! と音がしてロックが解かれる。杖をドアの脇に立てかけ、ドアノブをひねり、外へ押して開くと、外の空気が流れ込んでくる。
ドアを開いたまま身体で押さえ、杖を取り、外へ突きだして左足を踏み出す。支えていた身体を離すとドアが自動的に戻り、ガチャッと音を立てて閉じる。
ドアの閉まる音に気付いた誰かが追って来るのではないか。早く遠くへ歩いて行かなければ。と杖を前へ突き出して行く。コツッ……左足を踏み出し、ザッ、右足を引き付ける、ズズ……また杖を突く、コツッ……夜の闇に包まれている中庭を歩く。
良かった……そう寒くはない。もう十月も終わりに近いのだが、まだ冷え込んでいく気配はなく、清々しい空気に身体の細胞が蘇えっていく感じだ。
見上げると建物の遥か頭上にまん丸だが小さな月が光っており、辺りを照らしてくれている「ああ、月だ……」と言葉を漏らしながら、真次郎は先を急ぐ。
コツッ、ザッ、ズズ……コツッ、ザッ、ズズ……。
暗くてよく見えないが、ここは地面が煉瓦を敷き詰めたような石畳になっており、左足を出す時になるべく宙に浮かせて踏み出さないと僅かな凹凸にサンダルを履いた足を引っ掛けてしまいそうになる。
中庭の真ん中が大きな丸い花壇になっている周囲を回り、建物の切れ目になっているところを目指して歩く。真次郎が出てきた建物と別棟の建物の間に通路があり、通れる様になっているのだ。
コツン……ザッ、ズズ……コツン……ザッ、ズズ……。
石畳の地面に杖を突く度に音が響く。もし左右にそびえ建っている施設の窓から誰かが見下ろせば、真次郎が歩いているのを見つけてしまうだろう。
早く、もっと早く……と急いだ余り、石畳の凹凸に左足を引っ掛けてバランスを崩してしまい、倒れそうになる。マズイと思って態勢を立て直そうとするのだが、なかなか重心が整ってくれない。あっと思う間もなく左足でケンケンするように脇の植え込みに近付き、そのまま低い仕切りを超えて頭から植込みの中に倒れ込んでしまう。
ドサーッ……瞬時に顔が草と土にまみれる。草の臭いが鼻を突く。それは記憶の中にある臭いだ。そうだ、コレはジャングルを歩いた時の臭い……。
……くそう、早く立ち上がらなくては、こんなところで寝ている訳にはいかないんだ。俺は、行く……何としても、俺は起きなければならない。
ガサゴソと地面に左手を突きながら、どうにか上体を起き上がらせる。浜矢から盗んで肩に掛けていたシャツとズボンにも、汚れて土が付いてしまった。拾い上げると振るい、足にぶつけて土を払い、また肩に掛ける。
乗り越えてしまった植込みの仕切りの外に左足を出し、左手で地面を押して立ち上がろうとする。だが上手くバランスが取れない。
ヨイショ、ヨイショと身体を揺すりながら、ようやくバランスを取って身体が持ちあがる。植込みの外に身体を出して石畳にゴロンと転がる。
地面に腰を降ろした格好になる。さぁここから立ち上がらなければならない。杖を使って身体を引き上げるのだ。杖をつかんだ左手に力を入れ、弾みを付けて立ち上がろうとする。
ヨイショ、ヨイショ……せーの! それっ……。
グラグラとよろめきながら、何とか左足一本で立ち上がる。バランスを取って呼吸を整える。前方へ杖を突き出し、左足を前へ踏み出す。そして後に残った右足を引き寄せ、また杖を突き出す。コツン……ザッ、ズズ……コツン……ザッ、ズズ……一歩、また一歩……。
やっと中庭を過ぎ、建物と建物の間にある通路へと来る。石畳は終わり、ここからは舗装されたコンクリートの地面になる。
建物の間を抜けると、施設の玄関に車を乗り付ける為のエントランスへ続く道があり、その先に門が見える。そこまではまだ遠く、二十~三十メートルはありそうである。門は閉まっている様だが、ここからは鍵が掛けられているのかどうかまでは見えない。とにかく行くしかない。倒れない様に気を付けながら歩いて行く。
ベッドのある居室を出てからここまで来るのにどれくらいの時間が掛かったろうか。エレベーターの脇に隠れていた時間も含めて、少なくとも職員たちが二回の見回りに来る間が過ぎているのだから、二時間以上は掛かっているだろう。
振り返って見ても施設の中はひっそりと静まり返っている。この様子だと真次郎が寝ている様に施したベッドの細工はまだ見つかっていないらしい。
でもそういえば、職員が最初の見回りに来た時は、寝たフリをしている真次郎の毛布を持ち上げて確認していた。次の見回りではアレをしなかったのだろうか。
もう見回りで発見されることが無いのだとすれば、このまま朝七時の起床時間まで誤魔化せるのかもしれない。そう思うと、初めてまんまとしてやったりという様な気持ちが湧き上がってくる。
……でも、まだまだ喜ぶのは早いぞ。あの門を出なくては。どうか鍵が掛かっていないように……。
ズルズル……ガチッ、ズザッ。ズルズル……ガチッ、ズザッ……。
急がなければと思うが、焦ればまたバランスを崩して倒れてしまう。真次郎にはこのスピードで精一杯なのだ。落ち着いて、確実に一歩ずつ足を進めながら、急いで行くしかない。
ようやく門のところまで辿り着く。想像していた様な、真ん中から左右へ開く観音扉の様な門ではなく、アコーディオンの様に横に伸び縮みするスライド式の門になっている。
鍵は掛かっているのか、近くへ来て、門の左端に着いているレバーの様な物を操作してみると、カチャンと音がしてロックが外れる、そのまま左手で右の方へ押しやると、すんなりと開き、人が通れるくらいの隙間が出来る。
真次郎は門の外へ一歩を踏み出す。夜の闇の中に見知らぬ街が広がっている……なんだ? 身体の中から、何か大きな興奮がせり上がってくる。
空気が変わった。真次郎の身体を包み込むこの空気は……「娑婆」という言葉が頭に浮かぶ。そうだ、コレは長く捕らわれの身だった自分が、初めて解放された気分なのだ。
ビュウーと風が吹き抜ける。踊り出しそうなくらい胸の中が弾んでいる。自分の足で、こうして施設の外を自由に歩くのは何年振りなのだろう。
……沙奈さんの言うには、俺はこの施設に来る前、四五年間も刑務所にいたのだと言う。それからボケてしまって、ここへ来てから八年。だから、俺がこうして自分の足で外に出て歩くのは、五十年以上振りのことなんだ……これが外だ……俺は、やっと自由になった。今やっと自由の身になった! 俺は自由になって、俺のやりたい事をやる時が来たんだ。
辺りには暗い中に沢山の家々が立ち並んでいる。もう深夜の一時~二時くらいにはなっていると思うのだが、まだ明かりの灯っている窓も見える。アスファルトの道は静かで、ところどころに立っている電柱についた街灯が道路を照らしている。
……何処か大きな道へ、車が沢山走っている様な大きな道路へ出なくては。
今の時代にもタクシーという物があることは施設のフロアーで観たテレビで確認している。真次郎の計画は、どうにかこの住宅街を抜けて、何処か大きな車道へ出る。そこでタクシーを拾い、運転手に預金通帳を見せて、代金は必ず払うからと言って神戸まで乗せて行って貰おうということである。
電車等で行く方法もあると思うのだが、真次郎には何処に駅があるのかも、どの電車に乗って行けば良いのかも解からない。出来ることならタクシーに乗って、運転手にあの若い職員に教えて貰った旅館の住所を見せて、連れて行って貰えたらと思う。
ここが東京の杉並区というところであることは解かっている。果たしてここから神戸まではどれくらいの距離があるのか、かなり遠いのではないかと思う。
お金さえ払えばタクシーは何処へでも連れて行ってくれるのではないかと思うが、もしかしたら神戸なんて遠すぎるからダメだと言われるのかもしれない、もしそうなら行けるところまで行って貰い、そこからまた別のタクシーに乗って行くしかないと思っている。
ここから神戸までタクシーで幾らくらい掛かるものなのか解からないが、きっと何十万円も掛かるということは無いだろう。
俺には五百万もの金があるのだから、きっと日本中何処へでも連れて行って貰えるはずだ。
一歩ずつ歩く自分の足元を見つめ、ヨタヨタと歩いている。するとまたアスファルトの地面が土色に変わり、道の脇には緑の草が茂っている。辺りは野生の草むらと木々に覆われて行く。コンクリートの建物が立ち並ぶ風景が、鬱蒼たる夜のジャングルに変わっている。
着ている物はボロボロの軍服となり、月明かりを頼りに真次郎は歩いている。時折り暗闇の中にうずくまっている戦友がいる。
「……大丈夫だから、先に行ってくれ」と力の無い声で戦友が言う。
……あの戦友はそう言ったけれど、あの戦友には自分がもう歩けないということが分かっていたんだ。それは俺にも分かっていたのに。俺はあの戦友を置いたまま歩き出してしまった。
その時は、そうすることも仕方が無いのだと思っていた。どうしようもないのだと納得してもいた。しかし、内地へ帰って来てから何年もその罪悪感にさいなまされて来た。でも、それでも何年かするうちには忘れていたのに、何故今俺はそれを思い出すのか……。
一緒に歩いていたのに倒れてしまい、そのまま動けなくなってしまった戦友もいた「はぁ、はぁ……俺は大丈夫だから、後から行くから……お前は先に行ってくれ」アイツもそう言っていたけれど、俺には解っていた。コイツももう歩けないんだ。
それでも俺は歩いて行った。あの時は仕方がないことだと思ってた。でも俺の心はしっかりと覚えているんだ。思い出したいことは他にも沢山あるのに、一番強烈に覚えているんだ。
あれは何処の国でのことだったのか。何処の国との戦争だったのかも解からないクセに、思い出される。俺に妻の話をした戦友。子供の話をした戦友、妹の話をした戦友もいた……。
……そうだな、お前たち、お前等はみんなあの時のあの場所で、今も歩くことも出来ずに泣いてるんだな。俺だけが、こうして歩ける様になって済まん。でもな、俺は行くよ、俺は、まだ生きてる。お前等の分まで俺は、俺のやりたいことをきっと成し遂げてやるからな。
まだまだ何処までも家が立ち並ぶ住宅地を歩いて行く。不意にブォーとエンジンの音がして前の角から強い光が伸びてくる。驚いて見ると一台の自動車が曲がってくる。そのまま凄いスピードで真次郎の脇を走り抜けて行く。
……あの車が出てきた、あの角の方に大きな道路があるのかもしれない……そう思い、車が出てきた角を曲がって行く。やがてゴゴーと沢山の自動車が走っている様な音が響いてくる。勘を頼りにそちらの方へと近付く様に角を曲がって行く。
遂に道の前方を次々に車が横切って行くのが見えてくる。やっと大通りに出た。こんな夜中だというのに双方向に凄い勢いで見たこともない自動車が走り去って行く。
神戸に行くのはどちらの方角なのかも解らない。とにかく今いる側でタクシーを止めなければと思う。テレビで見て知っている。タクシーは屋根の上に電気を点けている。見ていると時々屋根の上に光る電気を点けて走っている車がある。アレがタクシーなのだ。今度電気を点けた車が来たら手を上げて合図してみよう。
暫く待っていると、ビュンビュンと通り過ぎる車の後方から、屋根に電気を点けた黄色い車が走って来る。真次郎は左手を出来るだけ高く上げて、掌を振る様にしてみる。だが、その車は真次郎のことなど全く目に入らないという風に走り過ぎてしまう。
……あれ、ダメなのか、何がいけないのか。
何故止まってくれないのかは分からない。気を取り直してまた次を待ち、遠くから走って来るのを認めると出来るだけ車道に近付き、左手を上げて手を振る。
キキィーーッツ! タイヤの軋み音を立てて、真次郎の立っている場所から少し通り過ぎてしまったが、そのタクシーは止まる。真次郎のいるところまでバックして近付いて来る。そして後部座席のドアがひとりでにカチャリと開く。
「……」
このまま勝手に乗れば良いのだろうか、佇んでいると「乗るんですか乗らないんですか」とぶっきら棒に言う声が響いてくる。
「の、乗ります……」
と言ってヨタヨタと車に近付き、車の中のシートに尻を乗せて入ろうとするのだが、車内に右足を引っ張り上げることが出来ずに戸惑ってしまう。
そうしているとバタンと音がして運転席から下りた男が車の後ろへ回り込んで来る。
四十歳くらいだろうか、緑色の背広を着ており、懐かしい匂いがしている。少し考えるとそれは煙草の匂いだった。
「大丈夫ですか御爺さん。ああ土だらけじゃないですか。ちょっと待って、まだ乗らないで下さい」
と言って半分乗り掛かった真次郎の身体を外へ出し、肩や尻についている土をパタパタと手で払う。
その間もタクシーの脇をかすめる様にして次から次へと凄い勢いで車が通り過ぎている。
「貴方寝間着のままじゃないですか、大丈夫なんですか」
「す、すみませ……ん」
土の汚れを払ってしまうと、もう一度真次郎の尻をシートに乗せ、右足を持ち上げて中へ入れる。左足は自分で動かせるので真次郎は車内へ入れるが、サンダルが落ちてしまう。運転手はサンダルを拾い、ポイと放り込む。
そして押し込む様に真次郎を車の中へ入れ、バタンとドアを閉める。車の後ろを回って運転席に乗り込む。
「どちらまで行かれますか」
「こ、神戸まで……」
「神戸? 神戸って、あの神戸パンとかじゃなくて、ホントのあの神戸ですか?」
「はい……」
運転席から振り返って真次郎の顔をまじまじと見つめて、運転手は言う。
「神戸の何処ですか?」
真次郎は首に下げている袋からメモ用紙を取り出すと、運転手に渡す。
「そ、その旅館……まで」
運転手は真次郎に渡されたメモを見ている。
「宝塚市、玉瀬……武田尾温泉……」
そしてまた真次郎のことをまじまじと見る。
「お客さん、失礼ですけど、こんな時間にタクシーに乗って神戸までって、何か事情でもおありなんですか」
「……」
「お身体もあんまり健康そうじゃないですけど、大丈夫なんですか?」
「は、はい……大丈夫です、よ」
「でも神戸まで行くとなると6~7時間は掛かりますよ」
運転手は真次郎が本当にそこへ行くつもりだとは受け止めていない様子である。
「それに運賃も凄く掛かりますけど」
「い、幾らくらい……ですか」
「そうですねぇ、そんな長距離やったことないから分かんないけど、高速代も入れて十万か、ヘタすりゃ二十万以上いくと思いますけど」
「だ、大丈夫……です。時間掛かっても……お金も、あります」
と言って首の袋から預金通帳と印鑑を出し、運転手に渡す。渡された運転手は通帳を開いて見る。そして最初のページに押してある届出印と渡された印鑑の模様とをまじまじと見比べている。
「て言うかお客さん、キャッシュカードは持ってないんですか?」
「キ、キャッシ……?」
「持ってないんですか、それじゃお金は銀行の窓口で下ろすしかないですよね。だけど朝の九時にならないと銀行は開かないですからね、その時間だと今から出発したらもう神戸に着いちゃってますよ」
「そ、そうな……んです、か……」
運転手は真次郎の渡した預金通帳のページを捲ったり裏返したりしてまじまじと見る。
「まぁでもコレつい最近もお金引き出してる記録が残ってるし、大丈夫かなぁ」
「……」
「しかし御爺さん随分おカネ持ちなんですねぇ」
「は、はぁ……なんとか、お願いします……連れて行って下さい……」
「神戸か……なんだか信じられない話だけど、もし本当だったら勿体ないからな。でももし何かの間違いだったとしても、乗せて走った分の料金はしっかり頂きますからね」
「は、はい、お願い、します……」
運転手は通帳と印鑑を真次郎に返すと前に向き直り、ハンドルを回す。グラリと車が少し動く。運転手は窓から顔を出して、横をすり抜けて行く車の列を見ている。タイミングを計り、グィンと車を走らせる。瞬間辺りが後方へと動き出し、真次郎は眩暈を覚える。
……麻里恵、俺はきっと行くからな……麻里恵に会えば、きっとすべてが分かるんだ。……俺がこの五百万の金のうち、最初に持っていたという二百万をどうやって手に入れたのかも、時々脳裏に見える血飛沫を浴びて叫んでいる女の子のことも、何故俺が殺人を犯したのかも。そして俺が誰なのかも……。
「え~っと神戸だから、用賀から乗って東名高速、名神か……」
運転手は独り言の様に呟きながら車を走らせている。
「だけどこんな夜中に神戸までおひとりで行かれるなんて、そーとー急な用事なんですねぇ」
「……は、はい、人に会いに……行くもんですから」
「寝間着を着替える暇も無かったんですか」
「は、はぁ……」
まだ運転手は真次郎に対して、少なからず不審を抱いている様子である。
「あ、あのう……ここで服を、着替えても……いいですか」
「え、はい、いいですよ」
真次郎は施設から着たまま出てきたパジャマを左手だけでなんとか脱ぎ、盗んで来た浜矢職員の青いジーパンとオレンジ色のシャツを、シートに寝転んだりして悪戦苦闘しながら身に着けて行く。
土だらけになっているパジャマはもういらないので、丸めておいて後で何処かに捨てて貰おうと思う。
車は大通りから高速道路へ入り、真次郎には見たことも無い広々とした道を快調に走って行く。
運転手は真次郎に話し掛けてくることも無くなり、まだ苦労してシャツのボタンを留めている真次郎のことは気にも止めない様に黙って運転している。
長い時間が掛かり、やっとボタンも留めて着替えが終わると、ようやく一息ついて、シートに身体を横たえる。ぼ~っと窓外を過って行く景色を眺めている。この広い道には信号もない。只々走り続けていることが不思議になり、運転手に訊ねてみる。
「あのう、この道路は……信号が無い、のは何故です……か」
「えっ、コレは高速ですから、信号は無いですけど。あの、神戸まで行くとなると当然だと思って高速に乗っちゃいましたけど」
「こうそく……?」
「はい、高速道路ですけど」
「そうですか……」
「車の運賃の他に高速料金が掛かっちゃいますけど、良かったですかね? もし高速乗らないで行ったら倍くらい時間掛かって料金も高くなっちゃいますので」
「ああ……はい」
真次郎には運転手の言うことが良く理解出来ない。だが運転手がそう言うのならそうなのだろうと思う他はない。きっとこの「高速道路」という物は自分の知らない間に作られた特別な道路なのだろう。
走っている道路の向こうには、行けども行けども高いビルが立ち並び、キラキラと光る無数の灯りが流れて行く。一体この街は何処まで続いているのか、この世界はこの世のことなのか……。
そんなことを思いながら窓を眺めていると、自分は本当にあの施設から逃げ出すことに成功したのだという実感が沸き上がってくる。
真次郎がいなくなっていることは、きっと七時の起床時間になるまで気付かれないだろう。その頃にはもうかなり東京を離れてしまっているに違いない。
少しウトウトしただろうか、ふと気が付くと窓に広がる空が明るくなってきており、夜が明けてきたことを告げている。
「あ、あのう……今はどの辺り、ですか……」
黙って運転している運転手に聞いてみる。
「静岡県に入ったところですよ」
「あっ……」
窓の先には遠く青い海が広がっている。真次郎は思わず息を飲む。
海……海……そうだ、アレは海だ。ああ、懐かしい。俺は海を知っている。戦争に行く時も、帰って来た時も、そうだ。俺は船に乗って海を渡って行ったんだ。
やがて道路がもっと海に近付き、窓の外の海が膨らんでいく。車は大きく弧を描いて海沿いを走っている。運転手は「ここは清水の港ですよ」と教えてくれる。
海に沿って走る窓外を見ていると、真次郎の脳裏に記憶が蘇ってくる。そうだ……俺も昔、この道を自分で運転して走ったんだ。窓の隙間から匂ってくる潮の香りも、あの頃と同じだ。
真次郎はトラックを運転している。そして、フロントガラスの外にこの港の光景を見ていた。この風景、広がる海……過ぎて行く清水港の風景に懐かしさが込み上げてくる。
……俺は、この道を何度も走っていた。繰り返し繰り返し、トラックで荷物を積んで東京から神戸へ行き、そしてまた神戸から、荷物を積んで東京へ走った。それはきっと、それが俺の仕事だったからだ。それは、刑務所に入る前の。
俺は孤独だった。一人ぼっちで、家族もなくて。ただハンドルを握ってた。助手席には同僚がいたと思うけど、誰だったのかも思い出せない。途中そいつと運転を交代しながら、自分が運転しない時は寝ていた。
無意識にそんなことが脳裏に展開されてくると、真次郎は一人で運転しているこの運転手とも交代しなければならない様な気になってくる。
「あのう、運転手さん……大丈夫……ですか?」
「えっ? はぁ、ありがとうございます。大丈夫ですよ心配しないで下さい。でもちょっと、もし良かったら、後で三十分くらい休憩させて貰っても良いですかね」
「はあ、どうぞ……勿論そうして、下さい」と答える。
それからまたしばらく運転手は黙って運転を続ける。そして少し細くなった脇道へ逸れてスピードを落し、広い駐車場へと入って行く。
広々とした駐車場には、朝早いせいか空いているところが沢山ある。運転手はその中の一つの枠に車を止めてサイドブレーキを掛け、エンジンを止める。
「それじゃここで少し休憩させて貰いますね、その間はメーター上がらないようにしときますんで」
と言ってハンドルの脇にある数字の表示された機械を操作する。
「あのう、ここは……何処です、か」
「浜松ですよ。もう神戸までの半分以上来てますから」
「そうですか……料金は、ここまでで……幾らくらい……掛かってますか」
「え~っと結構掛かってますね」
運転手は数字の表示された機械を見ながら考えている。
「コレと高速代も足すと、もう九万以上いっちゃってますね」
「そうですか」
運転手は思っていたより料金が高くなっていることに恐縮した様に言うが、ここまで神戸までの半分が九万円で来たのなら、あと九万で目的地に着けるのだと思えば、何も問題はないと思う。
「それじゃ、三十分くらい止めてますんで、その間にお客さんもお手洗いとか行かれて下さいね」
と言ってドアを開くと外へ出て行く。真次郎もトイレに行っておこうと思い、ドアを開いて身体をひねり、左足を外へ踏み出す。身体を外へ傾けながら杖を突き、車内から右半身を引っ張り降ろして外へ出る。
広い駐車場の前にレストランの様な店や売店があり、その脇にある白い建物がトイレの様だ。真次郎は杖を突きながら駐車場を横切ってゆっくりと歩いて行く。
トイレの中は杉並区の施設とは比べものにならないくらい広くなっており、ズラリとならんだ個室スペースのひとつに入ると、左手だけで上手くズボンとリハビリパンツを膝の下まで下げ、便座に座る。
用を足し終えて外へ出て来ると、広い駐車場にまばらに停まっている車の、どれに乗って来たのかが解らなくなってしまう。
……ええっと、どの車だったろう。そうだ、タクシーだ、タクシーに乗って来たんだから……ああ、アレかな。アレだきっと。
ようやくタクシーを見つけて近付いてみると、椅子を後ろに倒して、運転手が鼾をかいて寝ている。やっぱりコレだと思い、ああ良かったと後のドアを開けてガチャガチャと乗り込む。
見ると運転手が買って来て食べたと思われるパンかサンドイッチの袋や飲み物の空き缶が置いてある。真次郎も空腹を感じているのだが、預金通帳はあっても現金が無いので何かを買って喰べるということが出来ない。運転手が起きるのを待って当座の金を貸して貰うしかないと思う。
三十分くらい休憩すると言っていた運転手は、一時間を過ぎても全く起きる気配がない。その鼾を聞いていると、かつて自分がトラックを運転している時に、隣で同僚が寝ていたことが思い出される。
さっき見た清水の港の風景に感じた懐かしさ。そしてこの男の鼾で思い出される同僚運転手の鼾。
……俺は、トラックを運転する仕事をしていた。そして、東京から神戸に向かって走っていたんだ。そこで俺は麻里恵という女と出会ったのか。麻里恵、もうすぐ解かる。お前に会えば……。
その後も運転手は寝続けて、一向に起きる気配は無い。しかしこの先また今までと同じくらい運転して貰わなくてはならないのだし、無理に起こしてしまうのも悪いと思い、真次郎は腹が空くのも我慢してじっと待っている。
待つということにそれ程の抵抗を感じないのは、自分は永年生きて来たので今更急ぐこともないということなのか、ここまで来た以上はもう誰にも連れ戻される心配も無いという余裕からなのか。何よりまだ遥か遠くにある桜華園という旅館まで行く為には、この運転手だけが頼りなので、少しは時間を浪費しようとも機嫌を損ねてはいけないと思う。
外がすっかり昼の様に明るくなると、運転手がようやく目を醒ます。すみませんと恐縮するが、真次郎は怒りもせずに現金が無いことを説明して金を貸して貰い、頼んでパンと牛乳を買って来て貰う。
ようやく出発したタクシーは再び高速道路を走り出し、真次郎は後で運転手が買って来てくれたパンをモグモグと食べる。
暫く走ると運転手が口を開く「お客さん、もう銀行が開く時間なので、もし良かったら一度高速を降りて銀行に寄らせて貰ってもいいですかね。疑う訳じゃないんですけど、神戸までですとかなり高額な運賃ですから、やっぱりお持ちの現金を確認させて貰いませんとちょっと心配なもんですから」
「あ、そうですか。いいですよ……それなら是非、そうして……下さい」
そう答えると、運転手は長いカーブをグルグルと回る道へ入り、高速道路を出て信号機のある普通の道路へと入って行く。
「お客さんのお持ちの通帳の銀行があるところを探しますので、ちょっと待って下さいね」
そう言うと市街地の道路を走り廻り、鉄道の駅の様なところへくると車を停める。
「ちょっと交番で聞いてきますので、待ってて下さい」と言って車を降りて行く。
戻って来ると車を走らせ、すぐに小さな駐車場へ入り、車を停める。
「お客さん、すぐそこにお客さんがお持ちの通帳の銀行があるんですけど、一緒に歩いて行って貰えますか」
「あ、はい……勿論、いいですよ」
車を降りて、運転手と共に銀行へ向かう。小さな商店街の中に綺麗なガラス張りの店があり、横の看板には確かに真次郎の通帳と同じ銀行の名前が書いてある。
グィンと開く自動ドアを通って中へ入ると、広いフロアーに長椅子が並んでおり、まばらに人が座っている。前方に横に広く延びたカウンターがあり、番号で仕切られている中に制服を着た女の人が座っている。
運転手は真次郎を長椅子に座らせると「整理券を貰って来ます」と言ってカウンターの横にある機械へ行き、ボタンを押すと出てきた小さな紙を持って戻って来る。その紙を真次郎に見せる。
「この番号が呼ばれたら、一緒に窓口に行きますので、そしたらお客さんがお持ちの通帳と印鑑を出して、お金を降ろして貰える様に頼んで下さい」
「はい、分かりました……」
間もなくピンポーンという機械の音と共に女性の声でその番号が呼ばれ、運転手は真次郎を促して窓口へ連れて行く。窓口へ着くと真次郎はシャツの中から首に下げたビニール袋を引っ張り出し、通帳と印鑑を窓口の女性に差し出す。
「あ、あのう……この通帳から、お金……を、降ろしたい……んですが」
「はいかしこまりました。それではこの用紙に金額をご記入して頂けますか」
と女性から用紙とボールペンを差し出されて、真次郎は左手でボールペンを取るが、手がブルブル震えてしまう。
「私が代わりに書きましょうか」と言って運転手がペンを取り、受付の女性に説明する。
「私はタクシーの運転手なんですけど、今この方を東京からお連れして来てまして、この人料金を払うのに預金を降ろさないと払えないと仰るものですから、お手伝いしてるんですよ」
受付の女性はちょっと黙り、運転手を見つめる。
「そうですよねお客さん」
と運転手は真次郎にそのことに間違いないことを確認する様に求める。
「は、はい……そうです。そうなん、です……」
「作用でございますか。承知いたしました」と受付の女性が答える。
運転手は真次郎に「降ろす金額は幾らにしますか?」と聞いてくる。
「タクシー、の……料金は、幾ら……ですか」
「そうですね、今十万くらいですから、ここからの高速料金と宝塚市まで行くのと合せても二五万まではいかないと思いますけど」
「それじゃ……五十万、降ろして……下さい」
「そんなにですか」
「他に……も、いろいろ、お金が……掛かると思うので……」
「そうですか、分りました」
と言って運転手は用紙に金額を記入して、受付の女性へ差しだす。
「それではご用意出来ましたらお呼びしますので、そちらにお掛けになってお待ち下さい」
と言われて、二人はもう一度先ほどの長椅子に腰を降ろす。
「相沢様、お待たせ致しました」
と呼ばれて運転手と真次郎は受付へ向かうと、受付の女性は一万円札の束をプラスチックの皿に乗せ、通帳と印鑑を添えて真次郎に差し出す。
「五十万円と通帳とご印鑑です、ご確認下さいませ」
真次郎は運転手に「代わりに……数えて、下さい」と頼む。
「はい、分かりました」と運転手は答え、真次郎によく見える様に札束を扇状に広げ、端から一枚ずつ「一、二、三、四……」と声に出して数えて行く。それを見ながら真次郎は、ああ自分には確かにこれだけの金があるのだと実感して行く。
「はい、確かにありますね、それじゃ目的地に着いた時に料金は精算させて頂きますので、コレは通帳と印鑑と一緒にお客さんがお持ちになっていて下さい」と運転手は受付の女性に聞えよがしに言う。
そして現金を女性が一緒にくれた封筒にしまうと、通帳と印鑑と一緒に真次郎の首の袋に入れていく。その時袋の中に少し縁が削られたステンレスのスプーンが入っているのに気付き「なんでスプーンなんか入れてるんですか?」と不思議な顔をして訊ねる。
「コレは……大事な……もの、ですから」と真次郎は答えてスプーンを受け取ると、ジーパンのポケットに差すが、長い柄が収まり切れずにポケットからはみ出してしまう。
真次郎は袋をシャツの中にねじ込む。五十万の現金が増えた分袋は大きくなり、シャツは胸元が不自然にボコッと膨らんだ格好になる。
「ありがとうございました。お気を付けてお帰り下さいませ」
と愛想よく言う女性に送り出されて、二人は銀行を出る。
真次郎は運転手に礼を言う「あ、ありがとう……ござい、ました」
「いーえ、こちらこそ、安心しましたよ。私タクシーの運転手になってこんなに長距離のお客さん乗せたの初めてですから、良い経験になりますよ」心なしか運転手は前よりずっと機嫌が良くなった様に思える。真次郎が引き出した現金を見たお陰だろうかと思う。
運転手は、真次郎が杖を突いて歩くのが遅いことにも嫌な顔ひとつせずに、歩調を合わせてゆっくりと歩き、駐車場まで戻る。
「ここは、どの辺りなんですか?」と尋ねると「もう大阪には入ってますからもう少しですよ」と運転手は答える。
後部座席に真次郎を乗せ、運転席に乗り込むと、運転手は最初に真次郎が見せたメモ用紙をもう一度見て、ダッシュボードに取り付けられた小さな画面のある機械に、メモに書かれた住所を打ち込んで行く。
「それは、何……ですか」
「これはカーナビと言って、目的地の住所を打ち込んでおくと、そこまでの道順を教えてくれる機械なんですよ」
「……」
一体どんな仕組みでそんなことが出来るというのか、真次郎には驚くより他はない。
「それじゃ、出発しますね」
と言って機械を操作し終わると左手でギアを入れて車を出す。しかし、走り出してから一向にギアを入れ直す様子が無いことに初めて真次郎は気付き、コレもおかしいと思って見ている。
ローギアで発進させたらスピードが上がると共に重いギアにチェンジしていく筈なのに、運転手は最初にギアを入れたきりずっと変えようとしない。
それも不思議に思ったが、きっと時代が変わり、車の構造というものも変わってしまったのだろうと思う。
元来た街中を走り始めると「二十メートル先、左折です」と先ほど運転手が住所を入力した機械から女の声がしたので驚いて見る。運転手がその通りに左に曲がるとまた「次の交差点を右折です」と喋る。運転手は機械の指示に従ってハンドルを切って行く。
そうするうちにタクシーは再び高速道路に乗り、神戸を目指して走り始める。
神戸が近くなったのだと思うと、それに触発されてか、今まで思い出せなかった記憶が意識の上に浮かんでくる様な気がする。
仄かに思い出される記憶によれば、かつては東京から神戸までトラックで来るのに、一日では来れなかったのではないかと思う。
それと、施設にいた頃から時折り断片的に見えていた、かつて麻里恵と一緒に行ったのではないかと思う場所について、運転手に尋ねてみる。
「あのう……この辺りで、山の上から……港、が見える、ところ……があります、か?」
「山の上から港ですか? そりゃ六甲山じゃないですかね、夜景が綺麗だって有名ですよ」
「六甲……山ですか」
タクシーはまた大きなカーブを回って違う道に入ったりしながら、高速道路を数時間走り続ける。そしてまた脇道に入るとスピードを落し、信号のある普通の街路へと出る。
運転手は機械の発する女の声に従って角を曲がったりしながら、市街地を走り抜けて行く。
そうして徐々に山の中へ登って行く様な道路を進み、やがては道の両側が山で囲まれた中を走り始める。
「さぁお客さん。もうすぐですよ」
もうすぐ……もう近くに、麻里恵はいるんだ。
また何か記憶に呼応する様な物が無いかと真次郎は一心に景色に見入っている。車は山の中を曲がりくねった細い道を右へ左へと揺れながら走り、眼が回りそうになってくる。
まだかまだかと思っていると、道の上に大きく「武田尾温泉」と書かれたアーチが現れ、そこを潜ると河を渡る橋になっている。車は橋を渡り、さらに河に沿った道を走って行く。
見ると紅葉になっている木々に囲まれた中を河が流れている。とても美しい所だと思う。
真次郎はこの風景をかつて見た筈なのだと思う。何かを思い出せそうな感じはするのだが、具体的なことを思い出すことは出来ない。
河の流れはやがて狭くなり、小さなせせらぎの様になって行き、その周囲に懐かしい風情の家屋が並んでいる。
車はスピードを落として狭い路地を進んで行く「まもなく目的地に到着です」という女の声と共に、広くなった場所へ出る。
そこには何十年も前の家屋であろう古い旅館がある。車はその前に停車する。
「お客さん、着きましたよ」と運転手が真次郎を振り返って言う。
見るとその旅館の玄関の上に「桜華園」と書かれた木の看板がある。
……桜華園……来た。俺はやっと来たんだ。
「ありがとう、ございます……」
真次郎はここに来るまでに掛かった運賃と、高速道路の料金、それに立て替えて貰ったパンや牛乳の代金等も足して計算して貰う。金額は二二万円を超えている。
シャツの中からビニール袋を引っ張り出し、その中から金の入った封筒を出す。運転手に渡し、ここまで無事に連れて来てくれたお礼の意味も込めて、その金額に三万円くらい上乗せして二五万円を受け取ってくれと運転手に言う。
「あ、いやーそんなに上乗せして貰っては申し訳ないですよ」と恐縮しながらも運転手は二五枚の一万円札を数えて、残りを真次郎に返す。
「今夜はここにお泊りなんですね、お帰りはどうなさるおつもりなんでしょうか?」とニコニコして訊ねてくる。
あわよくばまた東京までの帰りも真次郎を乗せて行きたい。と考えているのであろう。
そう思って初めて真次郎は気付く。ここからまた東京まで帰るなどということは全く考えてもいなかった。ここに来て麻里恵に会えれば、もうそれだけで良い。その後のことは何も考えていない。
「いえ、もう……いいんです。ここまで来られた……のだから……後のことは……何も、解りません……」
「そうですか、分りました」
と言って運転席を降りると、車の後ろを回って後部座席のドアを開き、真次郎が降りるのを手伝う。
「それではお気を付けて」と旅館に向って行く真次郎を名残惜しそうに見送ると運転席に乗り込み、ドアを閉じて走って行く。
(下巻へ続く)
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