サンクチュアリ

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 右、左、右。  規則正しい腕のストロークが波の雫をはねあげる。  あおむけの姿勢で波間に浮かぶおれの視界に映るのは、波の雫と、単調なほどにシンプルな空の広がりだけだ。競泳用のゴーグルを通して見る空は、本来の青さからは一段おちついた、かすかなグレーを含んだブルーの平面としていまおれの目に映っている。少しでも視線を左に向けると、無制限に光を投げ落とす夏の太陽が目を叩くはずだ。だからそれを避け、おれは視線を上方の一点のみに固定する。そこに見えるのは、ただひたすらに透明な真夏の空の広がりだ。そこには一点の雲もない。  子供の頃から競技として続けてきたスイミング。タイムを競ってストイックに速さだけを追い求めてきたが―― でも今ここでは、誰かと競うとか、タイムだとか。そんなものはもう、意味がない。  右、左、右。  あるのは「今」。あるのは「ここ」。それ以外には何もない。  右、左、右。  鼻から息を吐き、口から吸う。吐いて、吸う。それをひたすら繰り返す。  やがて泳ぎ疲れたおれは、ストロークを止めてゴーグルを上にずらす。空本来のブルーが眩しいほどに目に落ちてくる。太陽が熱く真南に浮かび、さざめく無数の波頭をきらめかせている。  静かだ、ここは。  完全に体の力を抜き、両耳を水面下にひたすと、もう何の音も聞こえない。  おれはただ暖かな水にひたされて、ひたされて。ただ海の上を漂っている。    そのとき誰かに呼ばれた気がして、おれの意識は、その「無」の状態から回帰してくる。立ち泳ぎの姿勢で、浜の方に視線を飛ばす。そこで彼女が手を振っている。  無地のコットンホワイトのワンピース。形のよい裸足の足が、白い砂をそのまま踏んでいる。少女の表情はここからはわからない。でも何か、口を動かして叫んでいるようだ。  おーい!とか、やっほー! とか、その手の害のない呼びかける言葉だろうと、おれは勝手に理解しておく。とくに何か切実な必要があって声をかけたというよりは、ただ呼んでみたくて呼んでみた、という感じ。だいたいにおいて、彼女はいつもそうだ。  立ち泳ぎの姿勢で、右手を高く振って合図を返す。おれの方も、とくに意味のある返事をしたわけではない。「よぉ」とか、「聞こえたよ」とか。その程度の意味しかない。  しかしそれで相手は満足したらしい。浜に立つ彼女は長く振っていた手を下げ、そこの砂の上に無造作に座った。その動作を見届けた俺は、スイミングゴーグルを定位置に戻し、バックほどには得意でもないクロールで、ゆっくりと浜に向かって泳ぎはじめた。  右、左、右。さっきまでとは180度、上下が逆だ。はるか視界の底には白砂の海底がゆるやかに広がり、その上で、夏の光が網目状のきらめきとなってゆらゆらと揺れている。
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