4人が本棚に入れています
本棚に追加
/74ページ
タタン… タタン…
単調なノイズがおれのアタマに落ちてくる。
それはおれの足の底から。あるいは背中の裏側から。そしてもちろん耳の奥から。くまなく体の隅々からおれの芯まで落ちてくる。
かすかな、確かな、止むことのないそのノイズが。
長く長く閉じていた、おれの重いまぶたを。やがてゆっくり上へと引き上げた。
最初に見たのは青さだ。
夜明け前に特有の深い静かな青が、車窓の外にあった。どうやらおれは、依然として列車の中にいる。窓にもたれて、いまひとり目を覚ましたおれは。その窓の外に、明け方の見知らぬ町の風景を見る。すべては夜明け前の青の中に、しずかにひたって。
街が。大きな広がりを持つ見知らぬ都市が、ふわりとした白い朝もやの中に、半分沈んで、半分は浮かんで見えている。中層のビル。マンションの群れ。そして小さな住宅の列。見知らぬ都市の風景が、夜明け前の青さ中で。列車はいまどこか、かなり大きな都市をまっすぐ横切りながら、そうとう高い高架の上を走っているらしい。
どこだ、ここは…? 高松…なのか? それとも――
その直後、景色は一瞬コンクリートの巨大な壁面にさえぎられた。しかしまもなくそこを抜けると、大きな倉庫や工場やコンテナ置き場がうめつくす、工業地帯の景色がひらけた。でもそこも、半分以上は白い朝もやにつかって、夜明け前の青の中、すべてがいまだに眠りについている。その眠る青い景色の向こうに、どうやら海が―― まもなく見えてきそうな気配だ。
海…?
そこで突然、記憶が戻る。
記憶。
夜。駅。ひまわり畑。暗闇をかけぬける列車――
「野添…?」
声に出して、呼んでみる。
同時に左をふりかえる。二人掛けの座席の、左側。
そこに野添が―― 深くもたれて。固くしずかに目を閉じて。
いつもの白のワンピース。呼吸にあわせ、胸の部分がかすかにゆっくり上下して――
「おい。野添。起きてくれ。野添。」
肩をゆすった。
何度もゆすった。前後に。左右に。
まもなく息を吐きながら―― 野添がゆっくり目を開く。
「何? 着いたの?」
眠そうに目をこすり―― 野添が斜めにおれを見上げた。
「いや、どうだろうか。とにかく見てくれ。外を――」
「ちょっと。近いわよ、顔。やめてよほんと。なれなれしい」
肩にかかったおれの手を、いきなり彼女はふりほどく。彼女がおれから体を離す。なにか忌まわしいものに触れられたかのように、小さく彼女は身震いし、それから両手で崩れたスカートの形をなおした。
「まさか―― きみは、もしかして――」
「残念。そのまさかよ。悪かったわね。わたしはスグリよ」
「…そんな――」
なぜだ。槙島スグリ?
だけど、なんでだ? 服は確かに、野添のものだが――
おれは視線を周囲に走らせる。しんとした早朝の列車の車内には、ほかに乗客の姿は見えず―― むこうの座席には槙島スグリの大荷物が―― いささか乱雑な感じで、むりやり座席の上に押し込めてある。しかしその持ち主であるはずのスグリは―― たしかにあのとき、そこに座っていたはずの黒服の彼女は――
「どこ見てるの。もういないわよ、どこにも。わたしはここよ」
彼女がちょっぴり意地の悪い声で小さく笑って。それからふああ、とあくびした。片手を口にあてながら。
「どうやら外に出たようね。ここは今、どこ? 電車はどこを走っているの?」
「…わからない。どこか大きな街だ。海辺の街、みたいな感じだけど――」
「けど? 何?」
「なあ、野添はどこだ? 彼女はいったい、どこにいる?」
おれはむりやり手をのばし。相手の肩を。スグリの肩をむりやりゆすった。
「ちょっと。いちいち触らないでくれる? 大丈夫よ。いるわよちゃんと」
「いるってどこに? どこにだ?」
「中よ。ここの体の、中にいる」
そういってスグリは、右手で自分の首のあたりをトントンと叩いた。
「中に…?」
「そうよ。まだ今、寝てるわ。野添みなみは。もうじきたぶん、目を覚ます。今はあたしが、ここで表に出てるけど。すぐまた、消えるわ。もうじきみなみが、起きてくるから」
「…じゃ、またひとつになったのか。二人は、ひとりの野添みなみに――」
「そういうことみたいね。残念だけど」
スグリが右手と左手を高く上げ、んんんん、とすわったままで背伸びした。それから首を左右にたおして、その首の動きを自分自身で確かめているようだ。
「まあでも。どうやらほんとに、外には出れたみたいだし。あまり贅沢は言えないわよね」
そう言ってスグリは、またひとつ大きくあくびをし。それから両目をかたくつぶった。
「じゃ、そういうことで。わたしはしばらく、また寝るわ。今度会ったら―― まあ、なんでもいいんだけど―― あなた。あんまりみなみと、べたべた、ラブラブ、しすぎないでね。これはみなみの体だけれど。いちおうわたしの体でも、あるわけだから。あんまり気安く、さわったり何かしないでって。言ってもどうせ、やるんでしょうけど――」
「お、おい。なんだそれ。その言い方――」
「じゃ、おやすみ、古田―― じゃなかった。古田じゃない、野添みなみの彼氏のあなた。また少し先で、会いましょう。ああそれと、あそこの絵―― あれはわたしが寝てるあいだも、ちゃんと見張って忘れないでね。それだけ絶対まもってほしい。あれ、失くしたり傷めたりしたら、絶対ただではおかないから。みなみにも、くれぐれもそれはあなたから言っといて。じゃ、寝るわ。おやすみ――」
そのあと槙島スグリは、長いまつげを下まで閉じて。深い息を吐きながら。そのまま眠りに落ちこんでいった。かくんと首が力を失い―― そのままおれの肩に、もたれかかった。
最初のコメントを投稿しよう!