21人が本棚に入れています
本棚に追加
プワゾンロゼ
ユーシーの住む街にも本格的な冬がやってきて、ユーシーはルイのベッドに潜り込むことが多くなった。
庭の木々の葉は落ちて寂しげな景色の中、雪が降るのも何度か目にした。ユーシーの記憶に残るただ冷たいばかりの雪とは違って、ルイと一緒に見て触れる雪は綺麗であったかいものだった。
クリスマスと新しい年をルイと一緒に迎えて、ユーシーの左手の薬指には銀色の指輪がはまった。ルイが買ってくれたものだ。ルイの左手の薬指にも同じものがついている。
ユーシーは毎日その指輪を眺めた。ずっとつけていていいもののようなので、失くすのが怖いユーシーはずっとつけっぱなしにしていた。
ルイは失くしても怒らないと言っていたが、せっかくルイがくれたお揃いのものを失くしたくなかった。
一緒に寝る時も、ユーシーは左手の薬指で輝く細い銀色の輪を眺める。普段進んでアクセサリーを買ったりつけたりしないユーシーには、ルイとお揃いの指輪は新鮮だった。指輪をつけることには慣れないが、ルイと同じものを身につけられるのは嬉しかった。
「ユーシー、今度ロンドンに行くんだけど、一緒に来てくれる?」
ベッドに上がったユーシーに寄り添うルイが、少し伸びたユーシーの髪を撫でる。ルイの温かな手に撫でられるのは好きだった。
「ロンドン? いいよ」
ユーシーはロンドンには行ったことがなかった。写真や映像で見たことがあるだけで、ロンドンのことは何も知らない。それでもルイと一緒に行けるのならとユーシーは二つ返事で了承した。
「ありがとう」
ルイが頬を緩め目を細める。嬉しそうなルイの表情に、ユーシーは首を傾げた。
「何しに?」
「僕の古い馴染みのお墓参り」
ユーシーがしたことのある墓参りは、ジェンイーの墓参りくらいだ。墓参りに行くということは、ルイに近しい誰かなのだろうか。
「友だち?」
ユーシーの問いに、ルイは少しだけ悲しげに目を細める。
「昔の恋人だよ」
「ふうん……」
素っ気ない、興味の無さげな返事をしたが、ユーシーの胸はざわついていた。
ユーシーはルイの過去を知らない。
ルイにたくさん恋人がいただろうということはなんとなくわかるが、聞こうと思ったことはない。
過去なんて変えられない。だから気にするだけ無駄だとジンに言われたのをずっと守ってきた。ユーシーも気にしないようにしていたのに。
ルイに昔の恋人の墓参りに行くと言われると、少し気になった。もうこの世にいない、ルイの愛した誰か。それがどんな人なのか、知りたくなった。
「ロンドンはここより寒いから、あったかくしていこうね」
ルイの優しい口づけが額に落ちる。
ルイと知らない街に行くのは楽しみなはずなのに、ユーシーの胸にはずっと知らない誰かの影がこびりついていた。
「では二人とも、お気をつけて」
「いってきます」
空港まで送ってくれたアダムが、笑みとともに手を振る。ユーシーはルイと一緒に手を振って応えた。
ルイはずっと手を繋いでくれている。手のひらに感じるルイの温もりは、揺らぐユーシーの心を落ち着けてくれた。
空港にやってくるのはこの間家出したとき以来だ。そんなにしょっちゅう来る場所でもないが、流石にもう慣れたし、搭乗手続きにも戸惑わなくなった。
ルイが用意した飛行機の席は広かった。ルイとの距離が少し遠いのが気になるが、少しの間だ。
フランスからロンドンまではすぐだった。飛行機の旅にももう慣れたユーシーだったが、あまりに時間が短くて慌しく思えた。
到着した綺麗な空港からは、ルイが捕まえたタクシーに乗る。
窓の外に広がる空はずっと薄ぼんやりと曇っていてなんだか寂しい。曇りが多いと聞いたことはあったが、本当に曇っているとは思わなかった。雪が降らないか、ユーシーは少し心配だった。
「本当に曇りなんだ」
思わずこぼしたユーシーの隣で、ルイが笑う。
「ふふ、そうだね。明日は晴れるといいんだけど」
インターネットで調べたりアダムに聞いたりして、ユーシーはロンドンのことを予習していた。なんとなくの地理は頭に入っていたが、こうして降り立って景色を見ると知らない土地に来たのだという実感が湧いてきた。
タクシーに揺られ、市街までは一時間もかからずに到着した。
ユーシーとルイが降り立ったのは、大きな公園のそばにあるホテルだった。レンガの見える外観は、昔からずっとそこにあるのだと無言で物語っている。
ルイの言った通り、降り立った冬のロンドンは寒かった。見上げた空は灰色に閉ざされて、頬を撫でる空気は冷たく冴えていた。
小さく身震いしたユーシーの手を取ると、ルイはロビーへと導いてくれた。
エントランスを入ると、ベルボーイに荷物を預けたルイは手早く手続きを済ませた。
案内されたのは白と茶色を基調にした部屋で、明るく柔らかな印象だった。近代的な内装ではないが、綺麗で上品な室内は、ユーシーの冷えた身体を優しく包んでくれるようだった。
荷物は、ルイが持つキャリーケース一つだけだ。ルイはベルボーイに礼をすると、寝心地の良さそうな大きなベッドに座ったユーシーの隣に座った。
「ユーシー、早速だけど花屋へ行っていい?」
「うん」
休む間も無くルイと向かったのは、ホテルから程近い花屋だった。
ユーシーとルイが揃って入るには少しばかり手狭なこじんまりとした店には、今が冬とは思えないほど色とりどりの花が並ぶ。香港ではよくディアーナが花を飾っていたのを思い出した。
「これを一本お願いできますか」
ルイが買ったのは、淡い紫の薔薇だった。一本だけ買って包んでもらうと、店を出た。
ユーシーは不思議そうにルイを見た。てっきり花束にすると思っていたのに、一本だけなんて。何か意味があるのだろうかと考える。薔薇の花束は本数で意味が変わるのだと何かで見た覚えがあったが、よく覚えていなかった。
ルイと並んで歩くユーシーは、ルイの手にある薔薇の花を見つめる。
「珍しい色だね」
この色の薔薇は見たことがなかった。初めて見る淡い紫は綺麗な色で、幾重にも重なる柔らかな花びらは、美しいと思った。
「彼の胸に咲いた薔薇と同じ色なんだ」
「胸……」
「左胸に、紫の薔薇の刺青があったんだ」
ユーシーはそっと自分の胸を撫でる。ユーシーの胸には薔薇の花はないが、レースのような美しい刺青がある。顔も知らない誰かなのに、刺青という共通点だけで少しだけ近づけた気がした。
そんなユーシーを見て、ルイが微笑む。
「お墓まで少し歩くけど、いい?」
「うん」
花屋を出たふたりは、広い道に沿って歩いた。
ユーシーは歩くのが好きだった。手を繋いでルイと一緒に知らない街を歩くと、自然と心が弾む。胸に巣食う嫉妬の鈍色は薄れ、ユーシーの目はたちまち見知らぬ町並みに吸い寄せられていった。
ルイの家の周りとは建物の雰囲気が違って、レンガの家が多く見える。国が違うとこんなにも街並みが変わるのかと、ユーシーは並ぶ家を眺めた。
家の多い区画を抜けて川を渡ると、長く続く塀が見えてきた。
車通りはあるが、静かな場所だった。
「もうすこしだよ」
ルイが言う通り、塀に沿って歩くとやがて木が見えて鉄の柵が見えてきた。
「そこから入ろう」
開け放たれた門のような場所は、どうやら墓地の入り口のようだった。
ルイと並んで入った先には、公園のような緑の多い広い墓地が広がっていた。緑に混ざって、無数の墓標が並ぶ。
石畳の通路に沿って歩いてたどり着いた墓地の外れ、並ぶ墓石の端にあるのは小さな墓だった。
足を止めたルイが、墓前に跪いて薔薇の花を供えた。灰色の石の上に、紫の薔薇が一輪横たわる。
「ロゼ、元気だった?」
ぼんやりと立っていたユーシーは、ルイにそっと抱き寄せられた。
「新しい恋人。ユーシーだよ」
小さな棘が刺さったみたいに、胸がちくりと痛む。
ユーシーには初めての恋人だが、ルイは違う。それがなんだか寂しかった。
ユーシーはじっと墓標に見入る。他に比べると真新しさのある石の墓標には、ロゼと書いてある。
「もう少しで、見つかりそうなんだ。見つかったら、またくるね」
何のことだろう。ユーシーはルイの横顔を見る。ユーシーの視線に気がついたルイはただ優しい笑みを返すだけだった。
「行こうか。手が冷えちゃったね、ユーシー」
ルイはそっとユーシーの手を握ってくれた。ルイの優しい温度が冷えた手のひらを包んでくれる。
ふたりは足早に墓地を出た。あたりには街灯がつき始め、間も無く日没を迎えようとしていた。
「ごめんね、ユーシー。ロゼとの約束だったから」
通りに出たところでルイが口を開いた。
「約束?」
横顔を見上げるユーシーに、ルイは頷いてみせた。
「どっちかが先に死んだら、ちゃんと新しい恋人を連れてくるって、約束したんだ」
「そっか」
胸に渦巻く苦しい感情のやり場がわからなくて、ユーシーはそんな曖昧な返事を返すことしかできなかった。
「僕のこと、嫌いになった?」
街灯のか弱い光が照らすルイの寂しげな笑みに、ユーシーは慌てて声を上げた。
「そんなわけないだろ」
そんな顔をさせたいわけではなかった。ルイには笑っていてほしいのに。
「俺は、ずっと好きだよ」
「嬉しい」
ルイは目を細めた。それでもまだどこか悲しげなアイスブルーが見えて、ユーシーはルイの手をしっかり握った。
「コーヒーでも飲んでいこうか」
「うん」
ふたりは墓地の近くにあったカフェに入った。温かい飲み物を飲んで一息つくと、タクシーを捕まえてホテルに戻った。
それからルームサービスで食事を頼んで、温かな部屋でゆったりと夕飯を食べた。
ルイとふたりきりで食べる夕食は久しぶりだった。
「たくさん歩いたね。疲れた?」
「へーき。まだ歩ける」
「じゃあ、少し遊びに行こうか」
ルイが夜の街にユーシーを誘うのは珍しい。出会ったのは夜の街だったが、フランスでは数えるほどしか夜の街に出ることはなかった。
「いいの?」
ユーシーがおそるおそるルイを見ると、ルイは微笑みを返してくれた。
「うん、たまにはね」
香港でのルイの振る舞いを見ていたユーシーには不思議だった。ルイはあまり夜の街にユーシーを連れ出さない。ユーシーは元殺し屋。夜の街はさほど怖くないが、ルイはユーシーがまた夜の街に戻ってしまうのではないかと恐れていた。
ユーシーはもう、ルイのそばを離れるつもりはない。殺し屋に戻るかどうかはわからないが、ルイのことは好きだし、守りたいと思う。
「ありがとう、ルイ」
今はただ、ルイの気遣いが嬉しかった。
夜の街にルイと出るのは久しぶりだ。
ルイが案内してくれたのは、ホテルから程近い繁華街にあるナイトクラブだった。レンガ作りの古びた建物を入り、地下への階段を降りると、そこには建物の外観からは想像もできない煌びやかな世界が広がっていた。
「この辺りは、昔、何度か来たんだ」
地下にあるナイトクラブは賑やかで、ユーシーは少し香港を思い出した。
飲み物を手に、ふたりは席に着く。
心地好いざわめきがユーシーを包む。ロンドンにもこんなところがあるなんて知らなかった。
「ユーシー、僕は、君の王子様になれてる?」
ルイがユーシーの顔を覗き込んだ。なんだか不安そうなアイスブルーが見えて、ユーシーは思わず声を上げていた。
「当たり前だろ」
いつだってルイは優しくて、なんでも与えてくれる。ユーシーから見たら王子様だ。白い馬に乗っているところは見たことがないが、ルイの振る舞いは充分に王子様だと思えた。
どうしてルイが急にそんなことを言い出したのか、ユーシーには理由がわからなかった。さっきの墓参りから言葉にできない寂しさが胸にわだかまっていたのに、悲しげなルイの顔を見たらそんなものはどこかにいってしまった。
ルイを元気づけてやりたい。ユーシーはそんな一心で手を伸ばし、ルイの手に触れた。
「ルイは、俺の王子様だよ」
「ふふ、ありがとう、ユーシー」
ルイはやっと笑ってくれた。いつもユーシーのことを思ってくれるルイ。紳士で、優しくて、いつも甘やかしてくれる。そんなルイの恋人がどんな人間だったのか、気になった。
「どんなやつだったの。ルイの、恋人」
ルイの口から、ルイの言葉で聞きたいと思った。それ以外に、ユーシーが知る方法はない。
「聞いてくれる?」
「うん」
ルイは静かに話し始めた。ユーシーの知らない、いつかのルイの話を。
それは、王子様になりたかった男の話だった。
ルイがユーシーに出会う五年ほど前のこと。ルイは夏のバケーションでギュスターヴとともにロンドンへやってきた。軽い気持ちだ。バケーション以外の意図はない。遊び場を求めてやってきたルイは、運命に出会った。
あの子の、王子様になりたい。
ルイがそう思ったのは、夜のクラブの一角だった。
訪れたのは、血の気の多いならずものたちの集まった夜のクラブ。昂りの発散場所とし作られた小さなリングには、ルールなどない。やるかやられるか、強さだけがルールだった。
数多の男たちが拳を振るう中、誰よりも強く美しい男がいた。
彼は一目でルイの心を攫っていった。
白い左胸に咲く、淡い紫は毒のバラ。汗に濡れた花弁は、朝露できらめいているようだった。
苛烈で美しいその獣を、皆は気狂いロゼと呼んだ。
人混みの向こうに見えた鞭のようにしなる脚が繰り出す蹴りは、容易く大男をなぎ倒した。
決着がつき、人混みを抜け出してきたロゼの前にルイが跪いた。愛していいかと乞えば、ロゼはキョトンとした顔でルイを見た。
白く細い身体は、汗で濡れていた。薄暗いクラブの片隅。その身体は彫像のように美しくルイの目に映った。
「あんた、面白いね。いいよ」
それが二人の出会いだった。
ロゼはルイの二つ上。フランスからロンドンへとやってきたフランス人だった。夜はこのクラブで働いて、こうしてリングに上がる。クラブのスタッフとしての給料とファイトマネーがロゼの主な収入源だった。
ボロボロになるまで闘って、酒を飲んで、泥のように眠る。それがロゼの暮らしだった。
バケーションの間、ルイはロゼの元に通った。初めての恋ではなかったが、鮮烈な恋はひどくルイの心を惹きつけた。
バケーションが終わっても、ルイは月に一度は必ずロゼのもとを訪れた。
自分を痛めつけるような闘い方をするロゼを、ルイは優しく愛した。
リングで見せる苛烈な姿は、ネコ科の猛獣を思わせる獰猛さとしなやかさを持っていた。鞭のようにしなやかな手足から繰り出される打撃、隙を見せれば絡みつく関節技、負傷も流血も恐れないその闘い方にルイは目を奪われた。
ルイが抱けば、その熱い身体を震わせ、愛らしく乱れた。ベッドの上ではクラブでの苛烈さは鳴りを潜め、甘く妖艶に啼き、泣きそうな顔でルイに縋った。
しなやかな身体を緩ませてルイに身を委ねるその姿を、ルイは愛おしく思う。
ロゼの胸には紫の薔薇の刺青、両耳には無数のピアス。舌にも、乳首と性器にも、無機質な銀が艶かしく煌めいていた。
「俺の生き方は俺にしかできないから、ちゃんと、俺を見てね、ルイ」
ベッドの上。ロゼはルイのアイスブルーを真っ直ぐに見据えた。ロゼの瞳は、ロンドンの空を映したみたいな青みがかった灰色だった。髪は緩やかに波打つ色の薄い金髪。ぱっちりとした猫のような目に、薄い唇。何もかもが、ルイを昂らせてやまなかった。
「もし俺が死んでも、それが俺だから。いつまでも、俺に縛られたらダメだよ」
ルイの隣で死を語るロゼの微笑みは穏やかだった。
「そんなこと言わないで。ロゼはちゃんと僕が守るよ」
「例えばの話だよ」
縋るようなルイに、ロゼは目を細めた。
「ルイだって、明日死ぬかもしれない。そしたら、俺はルイのお葬式をした後は、好きに生きるし、新しい恋人もつくるよ」
「寂しい」
「寂しいね。でも、死んだら、そんなこと何もわからなくなる」
まるで子供に言い聞かせるように、ルイの頭を撫でてロゼは続けた。
「死は誰にでもやってくる。でも、いつやってくるかはわからない。だから、俺は今日、精一杯俺として生きるんだよ」
ロゼは首を傾げ、ルイの目を覗き込んだ。
「わかる?」
子どもに言い聞かせるみたいな優しい声に、ルイは素直に頷いた。
「うん」
「いい子だね」
ロゼの骨ばった手がルイの頭を撫でた。
「だから約束。どっちかが先に死んだら、ちゃんと恋人を連れてきて紹介すること」
「わかった」
ルイが頷くと、ロゼはルイの額にキスをひとつした。ルイには、ロゼを先に死なせる気も、自分が先に死ぬ気もなかった。交わした約束は、永遠に約束のままであってほしかった。
ロゼの部屋に、夜の帳が下りる。ロゼが起き出す時間だ。
ベッドから降りようとするロゼを、ルイは捕まえた。
「ロゼ、いかないで」
ロゼが何か薬を飲んでいることは知っていた。それが良くないものだということも。だから、ルイはロゼを行かせたくなかった。行けばきっと、ロゼは薬を飲んでしまう。医者も勧めたが、ロゼは頑なに病院に行こうとはしなかった。
「だめだよ、ルイ、あそこにいられない俺は俺じゃない」
そう言われたら、ルイはその手を離すしかない。ロゼの居場所は、あの地下のクラブだけではない。ルイの腕の中も、ロゼの居場所なのに。
自由な彼が好きだった。ロゼをここへ閉じ込めていられないのも、わかっていた。
「ごめんね、ルイ。愛してるよ」
手を離したルイに、ロゼはキスをしてくれた。キスが欲しかったわけじゃなかった。ルイが欲しかったのは、ロゼのすべてだった。
堪らなく愛おしいその姿は、ある日突然失われた。
寒い、冬の朝だった。
触れた身体の冷たさに、ルイは全身の血の気が引くのがわかった。
「ロゼ」
一緒に、布団に入っていたのに。
「おきて」
声が震えた。目の前で起きたことを、理解したくないと頭も心も拒絶している。
ロゼの肩が冷たい。肩も、手も、頬も。
「ロゼ、風邪ひくよ」
真っ白い肌の上に落ちて弾けた雫が自分の落とした涙だとはすぐに気付けなかった。
「ロゼ」
冷え切った身体に、温もりが戻ることはなかった。
胸のバラは、主人を失ってその色を失ったように見えた。
ロゼの遺体は検視に出され、死因はドラッグの過剰摂取だとわかった。
身寄りのないロゼの墓地はルイが用意した。
ロゼはクラブで薬を手にしたようだったが、彼にドラッグを流した誰かは見つからなかった。そして、今もまだ見つかっていない。
薬の騒ぎがあって、クラブは閉鎖された。媒体を失った思い出は急速に薄れ、その形をぼやかしていった。
あんなにたくさん呼んでくれたのに、ロゼの甘やかな声はどんな響きだったか、ルイにはもう思い出せなかった。
「これが、ロゼの話」
ルイは小さくため息をついた。
周りのざわめきがどうでもよくなるくらいに、ユーシーにはルイの声しか聞こえなかった。
ユーシーは、ルイがいつか言っていた、気高い、美しい獣というのはロゼのことだと気がついた。
ユーシーは今、ルイといる。
ルイを、ジンの代わりだと思ったことがないと言ったら嘘になるが、ルイのことはちゃんと見てきたという自負がある。
それでも、突然知らされたルイの過去に、ユーシーは動揺を隠しきれない。
自分はロゼの代わりなのか、ロゼが生きていたら、ルイは自分を愛してはくれなかっただろうとか、そんなことばかりが頭の中で渦を巻いている。
「ユーシー」
名前を呼ばれて、ルイを見上げる。なんだか惨めな気分だった。
「僕はユーシーを、ロゼの代わりだと思ったことはないよ」
ルイは全部お見通しのようだった。
「タイプが似ているから、そう思われても仕方ないかな」
苦笑いを浮かべてルイは続けた。
「心のどこかで、まだロゼの影を追っているのかもしれないけど。それでも、今の僕には、ユーシーが一番大切なんだ」
言っていることはわかるのに、胸の苦しさは無くならない。ユーシーはやり場のない手を強く握った。
「帰ろうか」
ルイの声に、ユーシーは頷くのがやっとだった。
ホテルの部屋に戻って、シャワーを浴びて、一緒にベッドに上がる。ユーシーは何を言ったらいいかわからなくて、ずっと押し黙っていた。
ルイのそばにいたい気持ちに変わりはない。なのに、ルイに何を言えばいいかわからなかった。こんなとき、アダムなら気の利いた言葉の一つも言えるはずなのに。
ユーシーはベッドに座って、俯いた。
ユーシーの前に跪き、手を握ってくれるルイの手を、握り返すことはできなかった。
「ユーシー、聞いてくれる?」
ずっと胸は痛いままだった。静かなルイの声に、ユーシーは小さく頷いた。
「ユーシー、僕は、ロゼを死なせた薬をこの世から無くしたいと思ってる」
ユーシーはおそるおそる視線を持ち上げた。そこには、いつもと変わらずユーシーを映す優しいアイスブルーの瞳があった。
「僕は、ロゼを死なせた薬を探してるんだ。香港に行ったもの、その薬を探すため」
それは、ルイがいつか言っていたヤバい薬のことだろうか。
ルイの行動は、全部ロゼのためのものだ。それがなんだか悔しくて、ユーシーは唇を噛んだ。やめろと言えるわけもなく、ユーシーは俯いて口を噤んだ。
「その薬の根絶と流通させたシンジケートの壊滅、開発した組織の殲滅。それが、僕が石油王ルーになった理由だよ」
一言一言確かめるように紡がれるルイの声には、芯があった。それはルイの覚悟からくるものだとすぐにわかった。ルイの覚悟とその理由を聞いて、なんだかルイらしいと思えた。
「ユーシー」
宥めるような優しい声に呼ばれて、ユーシーはのろのろと顔を上げた。
「こんな僕は嫌い?」
困った顔で笑うルイを見て、ユーシーは首を横に振る。
「嫌いじゃない」
ロゼを思ってすることがルイを嫌いになる理由にはならなかった。
「嬉しい。ごめんね、最初にするべきだとは思ったんだ。でも、ユーシーがどこかにいってしまうのが怖くて、ずっと言えなかった」
「これで全部?」
「ん、もう隠し事はないよ」
そして、やっと全部教えてもらえたことに、ユーシーの胸を安堵が埋める。
「ありがとう、ルイ。俺はやっぱりルイが好き」
悔しいし細かいことはわからないけれど、ユーシーの胸に宿るのはそんなまっすぐな気持ちだった。
「ありがとう、ユーシー」
ユーシーは頷く。
その夜は、抱き合って眠った。
胸の痛みも少しだけ楽になって、ユーシーはルイの腕の中で温もりを噛み締めた。
フランスに戻った数日後。ルイの仕事が終わるのを待ちながら執務室のソファで本を読んでいたユーシーのもとにルイの声が届いた。
「ユーシー、少しだけ、留守番はできる?」
ルイの声にいつもと違う響きを感じて、ユーシーは弾かれたように本から顔を上げた。
窓を背にして机に向かうルイのアイスブルーは真っ直ぐにユーシーに向いている。ルイがパソコンを閉じる音がした。
「留守番?」
ユーシーはルイの言葉を繰り返す。ルイはどこかに出かけるのだろうか。留守番には慣れていたが、ルイの声色に不穏なものを感じてユーシーは縋るようにルイへと視線を向けた。
「日本に行くんだ」
「日本に? ルーの仕事?」
ユーシーが首を傾げると、ルイは頷いた。
「ユーシー、君を攫う時に、僕が香港に行った理由を言ったの、覚えてる?」
覚えている。ルイが冗談めかして言ったあの言葉を、ユーシーはまだ覚えていた。
「ん。やばい薬、だろ」
「そう」
ルイは言葉を切ると、ひとつ息をついて続けた。
「ロゼが死んだのも、そのせい」
静かだったユーシーの胸が騒ぎ出した。嫌な騒ぎ方だ。どくんどくんと、心臓が血を巡らせる音が聞こえる。
「その薬の出所がわかったんだ」
ルイの声は静かに続く。ユーシーは震える手で本を閉じて言葉の続きを待った。
「それが、日本」
ユーシーは目を見開いた。ルイは穏やかな笑みを浮かべている。
「ちゃんと帰ってくるから、いい子にしていて」
それはアダムがジェイをペットホテルに預ける時の声色に似ていた。
「……俺も行く」
強張る喉から、自然と声が溢れた。
「ユーシー?」
「俺も行く。ずっと、一緒にいるって言ったのはルイだろ。俺は、一緒にいたい」
ユーシーの胸に迷いはなかった。
「危ないんだ。ユーシーを巻き込みたくない」
「そんな、死ぬみたいなこと、言うなよ」
いつかアダムが言っていた、いつ殺し屋に戻ってもいいようにというのはこういうことなのだろうか。
「俺は、黒い琥珀だよ」
ユーシーにだって矜持はある。命を奪うことばかりだったが、今はルイを守れる力がある。ルイを危険な目に遭わせたくなかった。
「ユーシー、僕がやろうとしているのは、ロゼを死なせた薬の根絶とシンジケートの殲滅だ。だけど、シンジケートを潰したところで他の新しい薬はいくらでも出てくる。でも、僕にはそんなことどうでもいいんだ。僕がしたいのは、悪い薬の根絶じゃなくて、ロゼを死なせた薬の根絶だ。世のため人のためじゃなく、完全な私怨で動いている」
ルイはひとつ、静かに深く息をついた。
「そのために、ルーになったんだ。こんな僕を、見せたくなかった。君の前では、王子様でいたかった」
縋るような、乞うような、懺悔をするようなルイの声がユーシーの胸を締め付けた。
「ルイ」
ルイの覚悟はユーシーにもわかった。スケールが大きくて全部はわからない。それでも、ルイがその胸に秘めた覚悟は理解できた。
「危険なんだ。ユーシーを、巻き込みたくない」
「黒い琥珀を舐めるなよ」
強がりでもなく、自然と漏れたユーシーの声にルイが眉を下げた。
「ユーシー」
ユーシーは思わずソファから立ち上がった。
「俺だって、ルイを守りたい。ルイに愛されるのは好きだけど、それだけじゃ嫌だ」
ユーシーの飾らない本心だった。ルイを守るには、黒い琥珀の力はあって困ることはない。
ルイが誰かのために動いていても構わなかった。今はただ、ルイのために自分の力を使いたいと思った。
「ユーシー、いいの?」
「いいよ」
ユーシーが笑うと、ルイも笑った。
「ユーシー、ありがとう」
ルイが柔らかく笑って、ユーシーの中で張り詰めていたものが解けた。
ルイにはずっと笑っていてほしい。それができるのは、そばにいる自分だけだ。
ギュスターヴが言った言葉を思い出す。
それぞれの椅子の話だ。ルイにも、ギュスターヴにも、それからユーシーにも、椅子がある。誰にも譲れない、自分だけの椅子の話だ。
ユーシーの椅子は、きっとそんなに立派に椅子じゃない。だけど、いつもルイのそばにありたいと思う。
「日本には、セックスするためのホテルがあるんだろ? 終わったら、そこに行こう」
「ふふ、わかった」
ルイが笑う。やっと見たかった笑みが見えて、ユーシーは笑ってルイの元へ向かった。
ルイを抱きしめると、ルイも抱きしめ返してくれた。これは、ユーシーにしかできないことだ。
すぐそこまでやってきた騒乱の足音にも、ユーシーの心は乱れることはない。これからやってくる姿の見えない困難も、きっと乗り越えられると思えた。
ユーシーの胸に宿ったのは、強い決意だ。それは黒い琥珀だったユーシーが抱いたことのない、優しく温かなものだった。
最初のコメントを投稿しよう!