ヴィクトールの仕立て屋

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ヴィクトールの仕立て屋

「ユーシー、ポストを見てきてもらえますか」  リビングのソファで本を読んでいたユーシーは、アダムの声に顔を上げた。  集中していて気が付かなかったが、夕暮れ近くなって、リビングは灯りをつけたほうがいい暗さになっていた。 「わかった」  短く応えると、ユーシーは傍らに放ってあったカーディガンを羽織った。  キッチンにいるアダムに頼まれ、ユーシーは家のポストを見に行く。ユーシーの、何もない日のささやかな仕事の一つだ。食事の支度をするアダムに代わって、ポストの郵便物を回収する。  玄関を出たユーシーの頬を撫でる風は切り付けるような鋭さを帯びて、無遠慮に熱を攫っていく。秋が深まってきた証に、ユーシーは小さく身震いした。  家の周りの木々はすっかり葉の色を変えて、庭に降り積もる落ち葉の量も増えた。  前庭を駆け抜け、門に作られた郵便受けを覗く。落ち葉のように折り重なる封筒の中に、一際目立つ白い封筒があった。  ユーシーは郵便物をまとめて取ると、家に戻った。 「アダム、今日の郵便」 「ありがとうございます」  郵便物をアダムのもとに持っていくと、アダムは手早く選別して、三つの封筒をユーシーに渡した。その中にはあの白い封筒もあった。 「これをルイに届けてあげてください」 「ん」  ユーシーは頷くと、ルイ宛の封筒三つを持ってルイの部屋へと向かった。  階を上がりルイの部屋のドアをノックすると、すぐに返事が返ってきた。 「どうぞ」 「ルイ、手紙が届いた」  部屋に入ると、ルイの笑顔が出迎えてくれた。 「ありがとう、ユーシー」  ルイの机の上では、ジェイが長くなって寝ていた。リビングにいないと思ったら、こんなところを寝床にしていたらしい。  ルイの手元に封筒を置くと、ルイは真っ先に白い封筒を手に取った。金色の封蝋が丁寧に施された、眩い白の封筒だ。 「ギュスからだ」 「ギュス?」  ルイが口にしたのは知らない名前だった。  咄嗟に聞き返したユーシーの頭をルイが撫でる。 「ギュスは僕の幼馴染で親友なんだ」 「ふぅん」  ユーシーは曖昧に頷いた。ユーシーには親友がわからない。幼馴染もだ。友達や仲間と呼べる人間はいた。地下闘技場で出会った連中だ。しかし、その中に親友と呼べる人間はいただろうか。  そんなことを考えるユーシーの横で、ルイがひとりごちる。 「タキシードの仕立て、間に合うかな」 「タキシード?」 「うん。ユーシー、明日は、僕とテーラーに行こう」 「テーラー?」 「よそ行きの服が必要になりそうだから」  ルイの優しいアイスブルーが微笑む。澄んだ瞳はユーシーを映していた。 「何があるんだ?」 「僕の親友のギュスターヴがパーティーを開くんだ。それに呼ばれたから、みんなで行こうか。ジェイはお留守番だけど」  ルイが銀色の毛並みを撫でると、ジェイは伸びをひとつした。  翌日、仕事を終えたルイに連れて行かれたのは、街中にある仕立て屋だった。古くからありそうな、街並みに溶け込んだ建物だった。  年季の入った木のドアを開けると、ドアベルが涼しい音を立てた。  そこは店と言うよりは工房という表現の方が相応しい気がした。時の流れを感じる飴色の木の棚に並ぶ生地に、フロアにいくつも並ぶトルソー。ユーシーには初めての光景だった。 「いらっしゃい、ルイ。久しぶりだね」  穏やかな声とともに店の奥から姿を現したのは、白髪で痩せ型の老紳士だった。ルイよりも少しだけ背は低いが、ユーシーよりは大きかった。 「急ぎで仕立ててもらいたいんだ。彼のためのタキシードを」  ルイの両手がユーシーの肩に置かれた。 「いつまでだい」  優しげな瞳が自分に向いて、ユーシーは少しだけ身を固くした。  老紳士はくたびれた服を着てはいるが、一目で職人だとわかる風体をしている。 「来月の終わりなんだ」  月も後半に差し掛かり、来月の末まではひと月と少し。ユーシーは服がどれくらいで作られるのかなんて知らないが、目の前の老紳士は穏やかに笑う。 「そりゃ急だな。まあ、なんとかなるさ」 「ありがとう、ヴィクトール」 「こっちはお前の爺さんから世話になってるからな。それくらいなんてことはない」 「ありがとう、助かるよ」 「ほら、こっちだ」  通されたのは、店の奥だった。こちらの方がより工房ぽいとユーシーは思う。職人のためのスペースだとすぐにわかった。部屋の中央に陣取った作業机の上には、ミシンの他にも名前の知らないものがたくさん並んでいる。  ヴィクトールはマットの敷かれた空きスペースに椅子を並べた。その中の一つにルイが座る。  もう一つはユーシーのためのもののようで、マットの中央に置かれた。 「さて、採寸させてもらうよ、坊や」  ヴィクトールと呼ばれた優しい目の紳士は、ユーシーと向き合う。 「ユーシーだよ」 「ふふ、綺麗な名前だな。俺はヴィクトール。ルイの爺さんの知り合いだ」 「ヴィクトールにはずっと服を作ってもらってるんだ」 「へぇ」  既製の服しか知らないユーシーには新鮮だった。レイやジンがオーダーでスーツをつくっているのは知っていたが、自分にもそんな日がやってくるとは思いもしなかった。 「ちょっと失礼するよ、ユーシー」  ヴィクトールは慣れた手つきでユーシーの身体にメジャーを巻きつけて、寸法をメモしていく。 「随分と細い子だな。ちゃんと食べさせてるのか」 「食べさせてるよ」 「ならよかった」  ずっとメジャーの目盛りを見ていた薄青の瞳がユーシーに向けられた。 「利口そうな坊やだな」 「坊やじゃないよ」 「はは、そうだったな、ユーシー。これは失礼。こいつを用意するなら君は立派な紳士だ」  そんな話をしながらも、仕立て屋のヴィクトールは手際良く採寸を進めていく。  首周り、背中、肩。ヴィクトールは順番に、素早く寸法を測っていく。それだけで職人の技を見せてもらっているみたいでユーシーは落ち着かない気分で採寸が終わるのを待った。  ヴィクトールは口数少なく、採寸に集中しているようだった。 「さて、形はいつものでいいか」 「うん」 「ほら、これで終わりだ。いい子だな」  ヴィクトールがユーシーの肩をそっと叩いた。あちこちをメジャーで測られるのはもう終わりらしい。ヴィクトールは使っていたメジャーをくるくるとまとめて作業机の上に置いた。  手際良く他の道具も片付けると、ヴィクトールは作業机のカレンダーに何かを書き込んだ。 「今日はここまでだ。生地の希望があったら言ってくれ。なければルイとお揃いだ」 「ユーシー、僕とお揃いでいい?」  ルイとお揃い。悪くない。ユーシーはまだルイとお揃いの何かを持っていなかった。 「ん」  ユーシーが頷く。 「じゃあお揃いにしてもらおうかな」 「仮縫いができたら連絡する。十日くらいかな」 「ありがとう、楽しみにしてるよ」 「ありがとう、ヴィクトール」 「ああ、楽しみにしていてくれ」  店の入り口まで見送ってくれたヴィクトールに手を振って、二人は店を出た。 「きっと素敵なタキシードができるよ」 「タキシードは初めてだな」  すっかり暗くなった街をふたり並んで歩く。  季節は進んで、吹く風は冷たくなったが、繋いだ手は温かい。ユーシーはルイの温もりに頬を緩める。こうやってルイと手を繋ぐのは好きだった。 「親友のギュスって、どんなやつ?」  ユーシーには親友と呼べる人間がいたことがない。ルイの親友に興味があった。辞書を眺めたが、地下闘技場でともに戦った仲間たちをそう呼んでいいのかはわからないままだ。 「いつも僕を助けてくれる。頼りになる友だちなんだ」  どこか誇らしげなルイの声。ユーシーにはそれが羨ましかったし、ルイにそういってもらえるようになりたいと思った。 「ルイ、俺は?」 「ふふ、ユーシーは僕の大好きな恋人だよ」 「ちがう、そうじゃなくて……」 「ユーシーも、僕を助けてくれる。そばにいてくれるだけで、僕は嬉しいんだ」  覗き込むアイスブルーが細められて、ユーシーは頬が熱くなる。子どもじみたことを言ってしまった。 「ルイ」 「僕の一番は、ユーシーだよ」  優しくて甘い声に言われたら、ユーシーはもう何も言い返せない。  言わせたみたいになってしまった。そんなことを言わせたかったわけじゃないのに。苦い後悔が喉奥に滲む。 「ごめん、子どもみたいだった」 「そんなことないよ。ユーシーがやきもちを焼いてくれるの、僕は嬉しい。ユーシー、顔を上げて」  ルイは何もかもお見通しで、ユーシーは観念して顔を上げた。 「俺だって、ルイに頼られたい」  吐き出したのは、素直な気持ちだ。手紙を持っていくだけじゃなく、一緒に寝るだけでもなく。もっと、もっといっぱい、ルイを喜ばせたかった。 「頼りにしてるよ。ユーシーが一緒じゃないと、僕はダメなんだ」  涼やかなアイスブルーが優しくユーシーを映している。 「ね」  青く澄んだ優しさに許された気がして、ユーシーは熱が滲む頬を緩めた。  ルイのもとに連絡が来たのは、採寸から七日後のことだった。夕方、ユーシーはルイと連れ立ってヴィクトールの店に向かった。  再び訪れたヴィクトールの仕立て屋。店の奥のスペースでユーシーを待っていたのは、もうほとんどそれらしい形になったシャツとタキシードだった。  仮縫いの状態を見るのは初めてだった。 「すごいな」 「羽織ってみてくれ」  ユーシーはヴィクトールに言われるままに袖を通す。 「きついところはないか?」 「うん」  ユーシーの返事を待って、ヴィクトールは服のあちこちを摘んだ。何かを確かめているようだが、ユーシーには何のことかわからなかった。 「じゃあこれで進める。次は仕上げ前の最終確認だ。また連絡する」 「わかった」 「次はちゃんと服らしくなったのを着せてやれる。楽しみにしていてくれ」 「ありがとう、ヴィクトール」 「またな、ユーシー」  手を振って店を出る。  楽しみなことがあるというのは、こんなにも心が明るくなるのだと、ユーシーは改めて思った。  そして。それから最終確認を終えて予定より少し早くタキシードが仕上がったとルイの元に連絡が来た。  二人揃って訪れたヴィクトールの店の奥では、完成したタキシードが待っていた。 「すごい……」 「着てみるといい」  出来上がったタキシードとシャツを受け取る。  初めてのタキシードはきらきらして見えた。  シャツとタキシードを合わせる。着慣れていないユーシーに、ルイがつきっきりで着せてくれた。  全身が映る鏡の前。一番上までボタンを留めたせいか少し苦しい。  襟からは隠しきれない刺青が見える。 「ああ、どうしても見えちゃうな」 「見えない方がいい?」  ユーシーは鏡越しにルイを見上げる。身体に描かれた刺青はユーシーの誇りだ。ルイにはそれが邪魔なものなのだろうかと少し不安になった。  鏡越しに見えたアイスブルーは変わらず暖かな光を宿していた。 「そんなことないよ。でも、君を守るためには必要かな」  ルイの指先がユーシーの頬を撫でる。 「これは僕だけ知っていればいいことだからね」  ルイが微笑む。 「ヴィクトール、スカーフと手袋はある?」 「ああ、持ってくるよ」  ヴィクトールは奥の部屋に行くとスカーフと白い手袋を持ってきた。  ルイは受け取ると、楽しげにユーシーの首へとしなやかなスカーフを巻きつけていく。ユーシーの纏う黒いレースのような刺青は見事に全部隠されてしまった。肌に触れるなめらかな感触が気持ちいい。 「暑くない?」 「平気」 「ふふ、ユーシーは寒がりだからちょうど良かったね」  手袋もつけると、ユーシーは完全武装になった。タキシードを纏い着飾った自分は別人のように見えた。 ルイの手がユーシーの肩に乗った。 「よく似合ってるよ」  お揃いのタキシードは、ユーシーの鼓動を甘く溶かした。 「ふふ、嬉しい」 「着て帰ってもいいぞ」  ヴィクトールが笑う。 「いいの」 「ああ。それはもう、お前さんのものだからな」 「ありがとう、ヴィクトール」 「俺は作っただけさ。礼ならルイに言ってやれ」 「ありがとう、ルイ」  ユーシーはルイの顔を見る。ルイはそっとユーシーの頬を撫でた。  青い瞳がユーシーの琥珀色の瞳を映す。 「君に似合うタキシードができてよかった」  愛しい男の言葉に、早く揃いのタキシードを着られたらいいのにとユーシーは思う。 「じゃあ帰ろうか、ユーシー」 「うん」  ヴィクトールに礼を言うと、二人は店を出た。すっかり日の暮れた外には、冷たい風が吹いていた。繋いだ手だけが、ユーシーに温もりをくれた。
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