ナイトホークの縄張り

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ナイトホークの縄張り

 ジェイをペットホテルに預け、ルイ、アダム、ユーシーは連れ立って出かけた。たった一晩だが、可愛らしい兄貴分に会えないのは少しだけ寂しかった。  アダムの運転で出かけたのは、ルイの家から郊外へ一時間ほど走ったところにある古城のような邸宅だった。ルイの幼馴染で親友のギュスターヴの自宅なのだとか。  すでに何台もの車が玄関の前に止まってはゲストを降ろしていくのが見える。  車を降りたユーシーは、ルイとともにほかのゲストたちに続いてエントランスを入った。そこはホールになっており、豪奢な内装は本当に城のようだった。  車を停めたアダムが合流して、三人はホールを進んだ。  慣れないパーティーの空気に、ユーシーは視線を彷徨わせる。  着飾った男女が次々にやってくるきらびやかな室内は、映画の中の世界のようだった。 「よおルイ、久しぶりだな」 「ギュス、元気そうでよかった」  ルイを出迎えたのは、タキシード姿の背の高い男だった。褐色の肌に、彫りの深い顔立ちの男だ。限りなく黒に近い、深いブラウンの緩く波打つ髪。長いまつ毛に縁取られたその瞳は炎のような赤味の強い橙色で、ルイやアダムよりも背が高い。纏う空気は凛としてして、研ぎ澄まされた鋭さすら感じる。柔らかなルイとは対照的な印象の男だった。  その姿はルイよりもずっと石油王みたいだと思った。 「ルイ、そいつは?」 「ユーシーのこと?」 「いや、でかい方だ」  ルイとユーシーの視線が揃ってアダムに向く。きょとんとするアダムをルイが紹介する。 「何度か電話では話してるよね。ギュス、彼がアダムだよ。アダム、彼がギュスターヴ」 「よろしく、アダム。お目にかかれて光栄だ」 「私もです、ギュスターヴ」 「じゃあそっちが香港で捕まえたお姫様か」  頭上で行き交うフランス語のやりとりに遅れをとっている気がして、ユーシーは思わず唇を尖らせた。勉強はしているからだいたいはわかるが、それでもうまく聞き取れないところやわからない言葉はまだ多い。  それに気付いたギュスターヴが身を屈めてユーシーを覗き込んだ。頭ひとつ分は背丈が違うので仕方ないが、屈まれるのもなんだか癪だった。 「英語ならわかるか? お姫様」  そんなふうに呼ばれるのは初めてだ。揶揄われているみたいで、ユーシーは思わず声を尖らせた。 「ユーシーだよ」 「はは、気の強いお姫様だな、ルイ」 「ギュスが意地悪するからだよ」  ルイが苦笑してユーシーの手を取った。 「おいで、ユーシー。ギュス、僕の恋人のユーシーだよ」  恋人。ルイの口からそうやって誰かに紹介されるのは初めてだった。  ルイはユーシーに視線を合わせるように頬を寄せた。 「ユーシー、紹介するよ。僕の親友、ギュスターヴ」 「よろしく、ユーシー」  ユーシーは差し出されたギュスターヴの手をそっと握った。大きな手だった。 「よろしく、ギュスターヴ」 「随分と厳重だな」  完全防備のユーシーを見て、ギュスターヴが肩を竦めた。 「香港の出身でね。寒がりなんだ」  ルイはそっとユーシーの髪を撫でた。優し手のひらに、警戒に尖っていたユーシーの心は少しだけ柔らかくなった。  パーティーが始まった。煌びやかな広間のような部屋には絶えず人が行き交い、ルイのところへはひっきりなしに誰かがやってくる。ルイのそばにはずっとギュスターヴの姿があった。  詳しくは知らないが、ギュスターヴもきっとルイと同じような仕事をしているのだろう。  ユーシーは少し離れた場所にある料理の並ぶテーブルのそばにいた。ルーの顔をしたよそ行きのルイの横顔をぼんやりと眺める。ルイがいるのは、華やかな世界だ。自分とは本当にいる世界が違う。隣にいるのが自分でないことが寂しいが、ユーシーにはあの場所に行くことはできない。夜なのに昼間みたいに明るくて、香港の裏街とは大違いだ。まるでおとぎ話か映画の中みたいだとユーシーは思う。  ユーシーは退屈そうにアダムと一緒に料理を摘んだ。 「退屈ですね、ユーシー」 「アダムは、違う?」 「私も退屈です。こう、何もすることがないというのは特に」  苦笑いを見て、アダムもそう感じているとわかってユーシーは安心した。人がたくさんいるのに疎外感を感じるのは初めてだった。  ユーシーがチキンを皿に取ったときだった。 「モデルの、アディ?」 「隣にいるのは、ユーかな」  なんとなく聞き覚えのある名前にユーシーが振り返る。そこには顔も知らない婦人と紳士の姿があった。 「こんなところで出会えるなんて」 「ああ、うれしいな。素敵な写真集だったよ。会えるなら写真集を持ってきたのに」  どうやら二人はエゼキエルの写真のファンのようだ。 「ムッシュ・フラムには色々なお知り合いがいるのね。お会いできて光栄よ、アディ、ユー」 「ありがとうございます。名前を覚えていただけて光栄です」  アダムは慣れているのかさらりと礼の言葉を返す。しかしユーシーはそれどころではなかった。 「ムッシュ、フラム……」  炎という意味の言葉からユーシーが思い出したのは、ギュスターヴの目だ。  脳裏に蘇る鮮烈な炎に似た橙色に、ユーシーの背を冷たいものが這い上がる。  自分の鼓動がやけにはっきりと聞こえる。  呼吸をしているはずなのに、空気を吸えている気がしない。苦しい。まるで酸素を全部奪われたみたいだった。 「ああ、失礼。ユーは少し疲れているようで」  青ざめた顔のユーシーに気がついたのか、アダムがフォローしてくれた。 「いいえ、邪魔してしまってごめんなさいね」  気を悪くした様子もなく二人はにこやかに去っていく。  二人の後ろ姿を見送って、ユーシーはひとつ息を吐いた。 「ありがとう、アダム」 「顔色が良くないですね。座りましょうか」  促されて近くにあったソファに座る。食べようと思ったチキンも喉を通りそうになかった。 「水を持ってきますね」  アダムが静かに踵を返した。  ユーシーは食べるのを諦めて皿を傍のテーブルに置くと背もたれに身体を預けた。まだ心臓がうるさい。なんだか息苦しくてネクタイを外したかったがまだパーティー中なので解くわけにもいかない。ままならなさに、ユーシーは忌々しげに浅い息を吐いた。 「ユーシー、水を」 「ありがとう」  アダムが持ってきてくれた冷たい水を一口飲むと少しだけ気持ちが落ち着いた。  小さくため息をついたユーシーの隣にアダムが座る。 「少し休みましょう」 「うん」  ユーシーの手から少し水の減ったグラスを受け取ると、アダムはそっと頭を撫でてくれた。 「ゆっくり、深く呼吸をして」  ユーシーは目を閉じて、アダムに言われるままゆっくりと深く呼吸をする。不思議なくらい、さっきまでの苦しさが薄れた。  気持ちも少し落ち着いた。 「ユーシー、大丈夫?」  ルイの声にユーシーは目を開ける。顔を上げれば、心配そうなアイスブルーがユーシーを覗き込んでいた。  頬を撫でてくれるルイの手は温かくて、ユーシーは手のひらに擦り寄る。  お揃いのタキシードを纏ったルイがそこにいてくれるだけで、ユーシーの不安は霧散してしまう。  もう話は終わったのだろうか。ルイがそばにきてくれるのは嬉しいが、仕事の邪魔はしたくなかった。 「ん、平気」 「ならよかった。元気がなさそうに見えたから」  ルイがちゃんと自分を見ていてくれたことに、ユーシーの胸は柔らかく締め付けられた。 「ここは賑やかで疲れるだろう。部屋を用意してある。そちらに行くか」  ギュスターヴの声に、ユーシーは咄嗟に体を硬くした。そんな反応に気がついたのか、ルイは宥めるみたいに両手で頬を包んでくれた。 「そうしようか。ユーシーは落ち着いたところの方が好きだから」  ルイの笑みが見える。そこにあるのは何もかも包み込んで許してくれる、ルイの笑みだった。  ルイとともにやってきたギュスターヴの一声で、ユーシーたち一行は別の部屋に通された。  そこは客用の寝室のようだった。アダムは隣の部屋に案内された。  大広間とは違って、ソファとローテーブル、大きなベッドのある部屋は照明が落とされ静かだった。  先程までよりも柔らかなソファがユーシーを受け止める。薄暗く暖かな部屋は居心地がよかった。  崩れるようにソファに座り込むユーシーの隣にルイが座る。ユーシーの向かいにはギュスターヴが座った。  ルイの手で手袋を外され、スカーフを外され、ネクタイが緩められた。少し呼吸の楽になったユーシーは、深いため息をつく。喉元が解放されてやっと呼吸ができたような気がした。 「落ち着いたか、お姫様」  ギュスターヴの声にユーシーは頷いた。もう呼び方なんてどうでもよかった。薄暗い静かな部屋の、沁み入るような静寂が心地好い。明るい場所は苦手だった。 「こういうところは初めてか」 「うん」  パーティー会場なんて、香港では行ったことがなかった。ユーシーは俯いたまま答える。ギュスターヴの目を見るのはまだ怖かった。 「あんたは、ルイの親友?」 「ルイとは祖父同士が知り合いでな」  ギュスターヴの落ち着いた低い声に、ユーシーは耳を傾ける。 「五歳だったか。うちへやってきたルイに『僕が君の王子様になる』って口説かれたんだよ」 「小さい頃はかわいかったから。ギュスは」  顔を上げ、二人のやりとりを信じられないものを見るような目でみるユーシー。想像できない。ルイにも五歳の頃があったのだ。それに、ギュスターヴが小さい頃は可愛かったなんて想像できなかった。  大人の男二人が繰り広げる懐かしい話に、ユーシーは静かに聞き入った。 「おばあちゃんに読んでもらった絵本のなかには、素敵なお姫様を助ける王子様がいっぱいいた。僕もそんな王子様になりたかったんだ」  ルイの手のひらが優しくユーシーの頭を撫でる。見上げるアイスブルーは優しくユーシーを映していた。 「ギュスとはそれからずっと、友だちなんだ」 「それが、親友?」  ユーシーの問いに、ルイは頷いてみせた。 「ギュスは、幼馴染で、親友なんだ。親友はね、心から信頼できる友だちのこと」  心からの信頼。ユーシーか心から信頼しているのはルイと、ジン、レイ、アダム。  ルイは恋人、ジンとレイは兄のような存在。そうなると、アダムは親友になるのだろうか。  声が途切れ、ユーシーはぼんやり考える。  そんなユーシーの思考を中断させたのは、ギュスターヴの声だった。 「香港はどうだった」  馴染みのある地名が出てきて、ユーシーは目を見開く。 「手がかりがあった程度かな。だけど、心強い味方ができたよ」  ユーシーの様子に気づいたのか、ルイがユーシーの手を握った。  そういえば、ルイが香港に来た理由を聞いた気がする。結局、探し物がちゃんと見つかったのかわからないままだった。わがままを言って、ルイの邪魔をしていないか気がかりだった。 「ユーシーのおかげで、ユーシーの家族が手を貸してくれる。彼らの持つネットワークはとても強力だ。末端だけど、頭の切れる男だ。彼は頼りになるよ」  それはきっとレイのことだ。もとはユーシーのわがままから始まったことだったが、ルイにとっていいことだったのならよかったと思う。 「無駄足にならなかったなら何よりだ。それで、この子を拾ったのか」 「そうだよ」  ルイがユーシーの髪を撫でる。ギュスターヴがそこにいるのに、ルイは気にする様子もなく、二人きりのときのようにルイはユーシーに触れた。   ギュスターヴはその美しい瞳にユーシーを映した。視線を感じて、ユーシーは身を固くする。  もう鼓動が変に騒ぐようなことはなかったが、それでも慣れない視線には居心地の悪さを感じた。 「ちょっと失礼。ユーシーはここで待っていてね。すぐに戻るよ」  ユーシーの頬を撫でてルイが席を外す。  トイレだろうか。視線でルイを見送った後、ユーシーの視線はギュスターヴへと向く。  この男は苦手だ。視線を感じると、なんとなく身構えてしまう。 「そう睨むな」  薄く笑うその笑みにさえ、ユーシーは鼓動をざわつかせる。 「あいつの懐は居心地がいいだろう」 「どういう意味だ」 「そのままだ」  ギュスターヴは薄い笑みを浮かべて静かな声で続けた。 「俺はルイの親友、お前はルイの恋人、それぞれ決まった席がある。そこへは、お互い不可侵としようじゃないか」  言っている言葉の意味がわからないユーシーはギュスターヴを睨む。言葉の意味を、ユーシーは計りかねていた。 「ここは、俺が人生を注ぎ込んで得た特等席だ。 そう簡単に誰かにくれてやるつもりはない。お前だってそうだろう」  その言葉は彼の心からの言葉なのか、ユーシーを煽るためのものか、判断できないでいた。  レイに初めて会ったときに感じた畏怖とも違う、得体の知れないものに対する恐怖だった。  ユーシーの戸惑いを嘲笑うようにギュスターヴが目を細める。  自分の胸中を読まれたのかと思う。ギュスターヴに対する畏怖がユーシーの胸にはっきりと刻まれた瞬間だった。 「心配するな。何もしない。あいつの大事な恋人だからな」  ギュスターヴの言葉に、ユーシーは棘を感じた。小さな棘だ。痛みを感じるほどでもない。それでも確かになんらかの意図を感じる、棘というには小さな欠片だ。 「ムッシュ・フラム」  ユーシーは先ほど聞いた名を口にする。 「そう。この目を見て、いつからか俺をそうやって呼ぶ」  どこか楽しげに、炎のような瞳が揺れる。 「雨と炎は相容れない。そうだろう、シャオユー」 「どうしてそれを」  シャオユー。それはユーシーの香港での愛称だ。ユーは『雨』と書く。この男はそんなことまで知っているのか。ユーシーの胸は警戒にざわめく。  ギュスターヴの炎が揺らめくような美しい瞳を、ユーシーは怖いと思った。  炎は全てを飲み込んで灰にする。ユーシーの古い記憶にも、炎の記憶はこびりついている。夜空まで焼くような、赤々とゆらめく炎。たちのぼる煙。頬を焦がすような灼熱。幼いユーシーの心に焼きついた炎は、ずっと畏怖の象徴だった。  スラムでも、バラックの火事を何度も見た。だが、それよりも古いものだ。  胸の悪くなるような匂いとともに容赦なく燃え盛る炎を思い出して、ユーシーは胸の奥が冷たくなった。  少しの雨くらいでは消えない、家も人も、天までも焼くような、強くて禍々しい炎。 「あ……」  ギュスターヴから感じる不穏な気配は炎に似ていた。手のつけられない、自分の力ではどうにもできない、そんな気配だ。  ギュスターヴはユーシーから何もかも奪っていくような、そんな気がして手が震えた。  ユーシーは気づかれないように、手を握る。  誰かを、こんなに怖いと思うのは初めてだった。レイにだって、こんな思いを抱いたことはない。  心臓がうるさい。  息が苦しい。  炎の記憶。ずっと忘れていたのに。  どうして今、そんなことを思い出すのか、わからない。  全部、この瞳のせいだ。ユーシーはギュスターヴを忌々しく思う。目を合わせるのが怖かった。 「おい、大丈夫か」  そんな声が、遠い。  炎が怖い。  息ができない。  苦しい。 「っ、う」  そんな声が漏れた。自分の声なのかどうか、ユーシーにはもうわからなかった。  そこで、ユーシーの意識は途切れた。  気がつくと知らない茶色の木の天井が見えて、ユーシーは視線を彷徨わせた。どうやら先ほどの部屋のベッドの上のようだった。 「るい?」  姿の見えない恋人の名を呼ぶと、シーツの擦れる音がしてユーシーの視界はすぐに大好きなその姿で埋められる。 「よかった。戻ったらユーシーが気を失ってるから、びっくりしたよ」  柔らかな光を湛えるアイスブルーが細められた。 「ギュスターヴも謝ってたよ。怖がらせちゃったかなって」  温かな手のひらが頬を撫でてくれる。ユーシーは苦しげに息を細く吐いた。 「あいつの目が、怖かったんだ」  思い出して、声が震える。蘇る炎の記憶に、ユーシーの内にはまた恐れが湧いてくる。 「俺、火が嫌いで」  ユーシーは言葉を切った。思い出しただけで、胸が苦しくなる。  それでも、ルイには伝えたかった。 「あいつの目は、炎みたいで、怖かった。そしたら、息ができなくて」  相手はルイの親友。こんなことを言ったらルイを困らせるだけかもしれない。それでも、言わずにはいられなかった。 「そっか」  それ以上言葉を継ぐことができないでいるユーシーを、ルイは優しく抱き寄せてくれた。温かな腕に包まれるのは、落ち着く。ざわめく胸から、ユーシーは深く息を吐いた。 「ユーシーが無事でよかった」  ルイの腕が静かにユーシーを抱きしめる。温もりと優しく響く声は、ユーシーのざわめく胸を撫でていく。 「次に会うときは、ギュスにサングラスをかけさせようか」  大きな手に撫でられるだけで、ユーシーの中の冷たい恐れは散り散りになっていく。 「今日はもう寝よう」 「ルイ」  見上げるユーシーに向けられるのは穏やかなアイスブルーの眼差しだ。 「大丈夫、ユーシーには、炎は近づけさせないよ」  そう言うルイは、なんだか本当に王子様のように思えた。 「ん、ありがとう」 「愛してるよ、ユーシー」 「ん、るい、俺も」  落ちてくるルイの唇がくれたのは、甘くて優しい、いつもの口づけだった。
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