0人が本棚に入れています
本棚に追加
「行ってきます」
朝露もまだ残る早朝。少し湿った空気と共に男は家を出た。
紺色のスーツに黒くて四角い鞄。これから仕事に向かうのだろう。
建築途中の一軒家。耕された畑。白い車の横を歩いていく。男にとっては普段と同じ風景なのだろう。とくに見向きもせず歩いていく。
男がふと道の途中で止まった。
猫だ。白い猫が塀の上で寛いでいる。
男はチッチッチッと音を立ててゆっくり猫に近づく。あと少しで触れられるというところで、猫は塀から降りてどこかへ行ってしまった。
行き場を失った男の手は少し猫のいた空間を掠めると、スーツのポケットに戻って行った。
心なしか男の眉が下がっている。よっぽど猫が触りたかったのだろうか。
暫く男が歩くと、横断歩道に出た。信号機は無い。
男はただ前を見たまま歩く。
すると、横からパーッと大きな音でクラクションが鳴り響く。
「っぶねぇだろ! ちゃんと確認しろ!」
黒い車。窓から顔を乗り出したのは少し強面のお兄さん。
「すみません」
そこで男は初めて顔を横に向けて軽く会釈をした。
「ったく、気を付けろよ!」
強面はそう言うと男の歩いた道の方へ車を走らせた。
男は横断歩道を渡り切ると駅へと入っていく。
改札を通り、ホームの線の前に立つ。
男は懐の携帯を取り出す。画面にはチャットアプリが開かれていた。
『今度カラオケ行こうぜ』と昨日送った男に対して『いつ行く?』と相手から返事が来ていた。
『まもなく、1番線に電車が参ります。黄色い点字ブロックの内側でお待ち下さい』
アナウンスがホームに響く。
『すまん。行けなくなった』
男は少し笑いながらそう送ると、足を数歩踏み出した。
最初のコメントを投稿しよう!