1

2/2
11人が本棚に入れています
本棚に追加
/21ページ
 鍵盤の上を滑るように動く細長い指。  ゆっくり優雅に揺れる彼女の上半身。  流れるメロディーは、たぶんヨーロッパのクラシック。  彼女が急に年上に感じられ、ただ見とれていた。 「モルダウ」  弾き終えると、美佐子が和彦を振り向いてニッコリする。軽く息が弾んでいるように見えた。 「モルダウ?」 「うん。今弾いた曲」 「ふーん。初めて聞いた」 「どう?」 「うん。すごく上手いね」  感心したように言うと、彼女は首を振り、 「そうじゃなくて。暗いとか明るいとか……」  どことなく寂しいなと感じていた和彦は、そう言うと、うんと頷いて、 「寂しくて、孤独で、切ない感じ?」  嬉しそうに聞く。 「そうだね。そんな感じ」 「よかった。ピアノの先生に、もっとそういう感じを出しなさいって叱られてたの」  彼女はますます嬉しそうに言ってイスに座り、紅茶を飲んだ。 「夏の発表会、聞きに来てね」  その日の別れ際、玄関の所でそう言って手を振っていた。  その日をきっかけに、美佐子が急に近い存在になった気がして、意識するようになった。  しかし、すぐに夏休みに入ったせいで、会うことはなくなった。  そして迎えた、ピアノの発表会。  親にも言うのがなんとなく恥ずかしくて、和彦は一人で会場に行き、後ろの方でこっそり聞いた。  そこで彼女は見事、『モルダウ』で金賞を取った。  白いドレスに、茶色がかった長い髪の彼女が、また少し遠くに感じた。  彼女に声をかけようと思っていたが、両親や、ピアノ教室の先生、それに仲間たちと喜び合う姿を見て、気後れした和彦は、そのまま黙って帰ってきた。  美佐子との思い出は、そこで終わっている。なぜなら、彼女は二学期から転校してしまったから。  それから50年余り。『モルダウ』は、山田美佐子の思い出そのものになっていた。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!