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鍵盤の上を滑るように動く細長い指。
ゆっくり優雅に揺れる彼女の上半身。
流れるメロディーは、たぶんヨーロッパのクラシック。
彼女が急に年上に感じられ、ただ見とれていた。
「モルダウ」
弾き終えると、美佐子が和彦を振り向いてニッコリする。軽く息が弾んでいるように見えた。
「モルダウ?」
「うん。今弾いた曲」
「ふーん。初めて聞いた」
「どう?」
「うん。すごく上手いね」
感心したように言うと、彼女は首を振り、
「そうじゃなくて。暗いとか明るいとか……」
どことなく寂しいなと感じていた和彦は、そう言うと、うんと頷いて、
「寂しくて、孤独で、切ない感じ?」
嬉しそうに聞く。
「そうだね。そんな感じ」
「よかった。ピアノの先生に、もっとそういう感じを出しなさいって叱られてたの」
彼女はますます嬉しそうに言ってイスに座り、紅茶を飲んだ。
「夏の発表会、聞きに来てね」
その日の別れ際、玄関の所でそう言って手を振っていた。
その日をきっかけに、美佐子が急に近い存在になった気がして、意識するようになった。
しかし、すぐに夏休みに入ったせいで、会うことはなくなった。
そして迎えた、ピアノの発表会。
親にも言うのがなんとなく恥ずかしくて、和彦は一人で会場に行き、後ろの方でこっそり聞いた。
そこで彼女は見事、『モルダウ』で金賞を取った。
白いドレスに、茶色がかった長い髪の彼女が、また少し遠くに感じた。
彼女に声をかけようと思っていたが、両親や、ピアノ教室の先生、それに仲間たちと喜び合う姿を見て、気後れした和彦は、そのまま黙って帰ってきた。
美佐子との思い出は、そこで終わっている。なぜなら、彼女は二学期から転校してしまったから。
それから50年余り。『モルダウ』は、山田美佐子の思い出そのものになっていた。
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