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01「ティッシュ配りに励む比奈ちゃん」
午前6時。時計のアラームが鳴った。
少しして、白く細い手が布団の中からモゾモゾと這い出してきた。その手は迷うことなく時計をつかむと叩き壊す勢いでアラームを止める。
布団と同化していた柚花比奈が寝ぼけ眼のままゆっくりと上半身を起こす。
「……」
寝癖のついた髪を軽く手で梳かしながら壁に掛けてあるカレンダーへと視線を向ける。
彼女の視線は『6月15日』の部分。その日付はピンク色のハートマークによって強調されてある。
「もう……6月なんだ」
虚ろに呟き、ベッドからおりるとフラフラと力なくカレンダーの前に立つ。そしてハートの部分を指でなぞった。
「比奈。あ、珍しく早起きじゃん」
ドアが開き、ルームメイトの吉山葉月がやってきた。まだ早朝の6時を少し過ぎた時刻だというのに彼女はすでに出勤スタイルである。
「私、早朝カンファがあるからもう行くよ。比奈は今日もバイト?」
「うん……」
「野菜ジュース作ったから飲んでね。それから経済新聞が届いてるよ。契約切ったんじゃないの? どっちでもいいけど、リビングのテーブルに置いておいた。じゃーね」
葉月は律華医科大学付属病院の研修医。比奈とは大学時代からの親友という間柄である。
「経済新聞……?」
比奈は葉月が去った後、ボンヤリと独り言を呟く。
約半年前、契約のため訪れた中年男の笑顔が脳裏に浮かんだ。
(6月からはもう新聞を取るのはやめるといったのに、あの親父)
「呪ってやる」
物騒なことを呟き、拳を壁にたたきつける。が、力加減を誤ったらしく激痛が彼女を襲った。
「きゃー痛い痛い!」
一人でのたうち回る。空しすぎる朝の始まりだった。
+++++
「お早うございまーす! いってらっしゃいませー!」
通勤時間であるため多くの人たちが行き交う路の真ん中。比奈はかいがいしくティッシュ配りに励んでいた。
配っているのはとあるコンタクトレンズの店の宣伝チラシが入ったティッシュである。彼女はその店のロゴが入ったド派手な黄色のジャケットを羽織り、必死にアピールしながらティッシュを配っている。が、なかなか受取ってもらえない。
多くの人たちは比奈が差し出すティッシュを見ると迷惑そうに手を振ったり首を振ったりして拒むのだ。
しかし、彼女には店長から自分だけに課せられたノルマがあった。午前中までにダンボール一箱分のティッシュを配りきらないと、店から評価がもらえない。クビである。
比奈は街路樹の縁石の上に乗っているダンボールの中身をのぞいた。仕事を開始して約一時間。ティッシュはまだ10個程度しか配れていない。絶望的だ。
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