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「お願いしまーす!」
比奈はやってきたスーツ姿の中年男性に向かってティッシュを差し出した。
「いらないよ! 邪魔だ!」
男性は苛立ったように言い放ち、差し出されたティッシュを手で払う。比奈は軽くよろけたが、なんとかティッシュを落とさずに体勢を直す。
「すみません」
比奈は去って行く男性に向かって頭を下げる。しかし頭の中では、「寝坊しちゃったんだろうな……」と余計なことを思っていた。
「いい弥之輔ちゃん。ちゃんとお勉強しないと、ああいう惨めなお仕事しかできないの。人生の負け組みにならないためにも、今からしっかりお勉強なさいね」
「はい、ママ!」
中年の女性がランドセルを背負ったこどもの手を引いて彼女の横を通り過ぎていく。この親子は比奈の姿を見て絆を深めたらしい。
「いってらっしゃーい!」
比奈は笑顔で親子を見送る。バカにされているのだが、あの親子の人生の指針として役に立ったのならいいだろうと思った。
それからもティッシュ配りに精を尽くすが、なかなか受取ってもらえない。
この仕事ももう潮時かな。けっこう好きだったのに。と彼女は感傷に浸りながらティッシュを見つめる。ちなみにこのバイトを始めてまだ一週間である。
「お早うございます」
比奈の目の前に若い青年がやってきて立ち止まり、声を掛けてきた。
「あ! お、お早うございます!」
ティッシュを握りしめたまま彼女はハッと顔をあげた。彼女の目の前には、天使のような優しい笑顔をした青年が立っている。
握りしめられてくしゃくしゃになってしまったティッシュを比奈が思わず差し出すと、彼は快く受取ってくれた。
「頑張ってくださいね」
青年はそう言ってティッシュをジャケットのポケットにしまい、さわやかに去って行く。
まだ一週間だが、比奈がこのバイトをはじめてからよく出会う青年である。必ずティッシュを受取ってくれ、労いの言葉を掛けてくれるのだ。
透き通りそうなほどに澄んだ大きな瞳。無垢そうな表情を見せる小顔で睫毛が長い。雑誌モデルや芸能人より全然いけている。
あまりにもきれいな顔をしているので芸能人かと思ったが、この時間に会うということは、どうやら社会人のようだ。この近くの職場なのだろうか。
(このままだと、彼に会えなくなっちゃう……)
比奈はもうバイトをクビになったつもりになっている。
とりあえずノルマノルマ、と彼女が仕事を再開しようとしたその時だった。
キィィィィという急ブレーキによるタイヤが激しく擦れる音がしたかと思うと、ガシャンという車がぶつかる音が軽い地響きと共にした。続いて人の悲鳴があがる。
忙しく歩行していた人々が一斉に立ち止まり、衝撃音のしたほうを振り向く。比奈も例外ではなかった。
「誰か! 救急車を呼んでくれ! 男の人が跳ねられた!」
誰かがそう叫んだ。
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