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一也と連絡が取れないまま異動した時に会社と友人にお願いした事がある。
会社には万が一僕について問い合わせがあった時は退社したと伝えて欲しいとお願いをした。
もちろん僕の担当していた取引先だったり、営業に行った際の問い合わせで僕が対応した方がいい時は連絡してもらいたいのだけど、そういった相手とは連絡先を交換してあるため会社に直接問い合わせが来ることは少ないだろうし、ちゃんとご挨拶をさせてもらってから異動するため僕の名前を出したとしても僕の動向を探るものではないだろう。
その上で敢えてお願いしたことで〈何か〉あったのかと勘繰られるかもしれないけれど、大人になるとトラブルにならない限り追及されることもない。
友人にはグループメッセージで異動と引っ越しを連絡し、必要なところには連絡するのでもしも僕について誰かに聞かれても知らないと答えて欲しいと伝えておいた。《何かあった?》と心配するメッセージを返してくれる友人もいたけれど〈余裕がないから余計な対応はちょっと…〉と返せば《相変わらずだな》と返事が来ただけでそれ以上は追及されなかった。
学生時代から必要以上に人と関わらなかったため、僕は〈そういう感じ〉だと認定されているせいで気楽でもあり淋しくもある。
リーダー格である彼からは《大丈夫?》と個別のメッセージが来たけれどそれに対して〈大丈夫〉とスタンプを返す。
文章で送ってしまったら泣き言を言ってしまいそうで、そうするしかなかったのだ。
引っ越し当日は家電と必要なものだけを運び出し、それ以外の家具は回収してもらった。必要な衣類は箱に詰め、要らないものはゴミの回収日に合わせて処分した。
調理器具は思い出が多すぎて、全て処分してしまったのはやり過ぎだろうか?
洗濯用品や掃除道具を一也が使うことはあまりなかったためそのまま持ってきてしまったけれど、これも処分した方が良かっただろうか?
捨てる、捨てないの線引きは曖昧で不確かだ。
ただ、それを見た時に一也との思い出がよぎるような物は思いつく限り捨ててしまった。
一緒にくつろいだソファーも、何度も食事をしたテーブルも、2人で微睡んだベッドも、これからの僕には必要無い。
ソファーは僕1人ならビーズクッションがあれば十分だし、テーブルは部屋の雰囲気に合わせて買い換えよう。
ベッドは引っ越し前に配達済みだ。
引っ越し当日に疲れた身体を休める場所がないのは辛いので、入居できるようになってすぐに手配しておいた。寝具も同じでちゃんと手配してある。カバー類を洗う時間が無かったのは仕方がない。
引っ越してしまえばそれなりに生活はできるもので、仕事で必要な衣類はクローゼットに収納し、それ以外の服は箱のまま置いておいた。本棚が無いため蔵書も箱のままだ。
大学入学時の引っ越しの時は親が何かと用意してくれたし、先に一人暮らしをしていた彼のアドバイスでスムーズに生活を送る事ができたけれど、1人で引越しをするとなると色々なものを捨てることを選んでしまうと不自由な事も多々出てきてしまう。
買い足さないといけないものも沢山あるため色々とメモをしておき、休日になれば買いに行けるものは買いに行くし、大きいものは日付指定での配送をお願いする。
一人暮らしが長かった割に買い足すのを忘れているものも多く、買いに行くのが面倒でそのままになっているものもある。
鍋とフライパン。
計量カップと計量スプーン。
お玉にフライ返し、木のヘラと…今は料理をあまりしないけれど環境が変われば、と思い一通り揃えた。
お皿も1人分の食器がセットになったものを買い、タオル類も新調した。
タオル類は一也も使っていたものだからこの部屋に持ってきたくなかったのだ。しばらくは使った後に糸くずが気になるだろうけれどそれは我慢するしかない。
手軽な商品が置いてある家具屋は日用品も全て揃える事ができるためカバー類もこの時に一緒に注文した。
それらはベッドを入れた日に同じように配送をお願いしてあったため困ることはなかったのだけど、箸やスプーンは忘れていたため買い足すまではコンビニでもらった割り箸やスプーンを洗って使った。
洗うといえば食器用洗剤は買ってあったのに食器を洗うスポンジは忘れていたため急いで買い足した。
不自由なく生活が送れるようになるまではしばらくかかったけれど、それはそれで気が紛れたため楽しくもあった。
自分で自分の足りなさを自覚し、それを補っていく生活は思いの外悪く無い。
学生生活が始まったころは何かと彼に教えられ、社会人としての生活を始めた頃は一也に色々な事を教えられた。
彼と別れた後に送っていた学生時代には友人や先輩に相談もできた。
ここに来てやっと僕は一人暮らしをちゃんと始めたのかもしれない。
毎日の生活を送り、新しい環境で仕事を進める。
子会社のトップは先輩と言っても在職期間は重なっていなかったため、先輩に紹介されてからのお付き合いだからお互いにまだ打ち解けてはいない。
当然他の社員ともほとんど面識がないけれど、方針は親会社である元の会社と同じだからか基本的に問題ない。
僕の仕事としては今まで親会社で取引していたことをこちらでも出来るようにすることで、要は親会社としていた取引の移行が最重要項目だ。
先輩自身この会社を立ち上げて数年経っているため取引先が変わっていたりもするせいで僕が間に入り、先方との取引の移行及び親会社からのスムーズな引き継ぎと業務の正常化を任されている。
前の会社では先輩が根回ししてくれたため特に揉めることなく異動となったけれど、まだ〈若い〉部類に入る僕がこちらの会社で役職がつくことに不満を持たれるのではないかと正直色々と覚悟はしていた。
していたのだけど、そんな心配は杞憂でしかなかった。
関係的には元先輩となる社長は、聞いたことはないけれど一回りほど年上に見える。社長の他には社員が3名ほどとバイトも数名。社員は僕よりも年上になるのだけれど〈自分達はここの会社しか知らないから〉と僕の事をなんのわだかまりもなく受け入れてくれた。
同業であっても親会社と子会社ではやはり違うようだ。
社員の3名は年齢的には社長と同じくらいに見えるけれど立ち上げメンバーというわけではないようで、社長との関係はいまいち分からない。分からないけれど仲は良く見える。男性2人と女性1人なのだけど、性別を感じさせないためとても気楽だ。
時折「時也君、ちゃんとご飯食べてる?」「困ったことがあったら言いなさいよ」と声をかけられるけれど、その都度「オカンなの?」と他の社員さんから笑われている。
「俺らが相手にしないからターゲット移ったんじゃない?」
そう言って笑う2人に「どうせ世話焼くなら将来性のある若者の方が楽しいから」と悪びれずに言うけれど、僕はそんなにも頼りないのかと少し落ち込んでしまう。
バイトは学生ばかりなのでそちらの世話を焼けばいいのにとも思ってしまうのは僕の心が荒んでいるせいなのだろうか?
ここでの仕事が完了すれば僕は元の会社に戻ることになるのだろうけれど、とりあえず数年はこちらで過ごすことになるだろう。居心地が悪いわけではないのだけれど、ここにずっと居たいとは思ってはいない。
ここの会社は僕には人と人の距離が少しばかり近すぎるのだ。
僕の事を必要以上に知られたくない。
僕に必要以上に構わないでほしい。
僕を知ろうとしないで。
僕を構おうとしないで。
僕はもう、傷付きたくないから。
そして考えてしまう未来。
僕は元の会社に戻って居場所が残っているのだろうか?
僕がこちらにいる間に先輩が独立するようならその時は先輩の手伝いをしたいと思ってはいるけれど…僕は必要とされるのだろうか?
毎日は淡々とすぎていく。
親会社から紹介された仕事を引き受けるために先方に出向いて挨拶をし、こちらの会社の実績を示しながらプレゼンをして、と本来ならばそうなるのだけれど実際は親会社の信頼度と説明で挨拶をしてしまえば直ぐに仕事の話が始まることも多い。
先輩が僕を連れ回してくれたおかげで先方からの信頼も多少は有る。
有るのだけれど、1番の理由は社長の存在だろう。
どこの会社に行っても「やっとやる気になったのか」と言われて苦笑いする社長は親会社にいた頃から〈出来る〉と評判だったようで、いずれはと言うのが暗黙の了解だったらしい。僕はそんな事情を知らず、それならば僕は必要ないのではないかと不安になったのだけど、社長を知っているのは先方の上の人達で実際の取引で顔を合わせる人達は社長と面識がない。そのため、直接取引に関わる人との調整役に僕が必要らしい。
期待された仕事を期待を裏切らない様に進めて行くのはそれほど難しくなかった。と言うのも社員の3人は阿吽の呼吸で動いており社長や僕の話を聞いて誰が担当するのが最適かを判断し、それぞれに仕事を振り分けて行く。
僕は必要なかったのではないかと思うほどにスムーズに仕事をこなして行く姿を見ると、自分の居場所はここではなかったと思うしかなかった。
結局僕は誰からも必要とされる事ないのかもしれない。
残業も無く、通勤時間もさほどかからない。そうなると時間を持て余してしまい、やることのない僕はまた料理をするようになった。
新しい環境で1人で行ける店を探すのは面倒だし、流石に毎日同じ食事なのにも飽きてきた。
一也のことは思い出さないことはなかったものの、返ってこないメッセージや鳴らない電話に期待しなくなったら気も楽になったし、一也との思い出をできる限り処分したのは正解だったらしい。
教えてもらった料理の手順や冷凍保存の方法などは忘れることはできないけれど、スキルアップのために必要だったのだと思うことにした。
仕事にも慣れ、食事もちゃんと摂るようになると人間関係も円満になり会社の中で浮きがちだった僕もそれなりに馴染んできた。
社長や3人の社員はもちろん、固定では有るものの内容によって変わるアルバイトの子達にも受け入れられたようで話しかけられることも増え、学生の気安さからか〈安くて美味しい店〉や〈買い物しやすい店〉を教えてもらったりもした。
一対一ではないけれど食事に行ったり飲みに行ったりすることもあるし、料理を再開した僕が持って行く弁当が話のきっかけになり、プライベートな話題での会話も増えて行く。
「時也君、弁当は手作り?」
そう聞いた唯一の女性社員である薫さんに肯定の意味で頷く。〈彼女〉とか〈恋人〉が作ったのかと聞かないのは彼女なりの配慮だろうか?
「料理、得意?」
「それなりにです」
上辺だけのようで気遣いの見られる会話は安心できる。
「来てすぐは不健康そうでなんとかした方がいいかと思ったけど、我慢してて良かった」
そう言って笑顔を見せるために戸惑っていると残りの社員である2人が苦笑いする。
「この人世話焼きだから時也君の初出勤の日からうるさくてさ」
「やれ弁当を作ってこようかとか、作り置きのおかずを持たせようかとか、毎日社長に叱られてたんだって」
「少し打ち解けるまでは声をかけるくらいにしてやれ。打ち解けるまで待ってやれって、毎日言われてたよな」
呆れながらも2人して見せる笑顔はやっぱり僕を気遣ってくれていて、その優しさが傷付いていた僕を癒してくれる。
よくよく話を聞いてみると薫さんは2児の母で一回りよりももう少し上らしい。
「女性に年齢は聞かないの」
と笑うけれどお子さんは中学生と高校生だと言うから驚きだ。
「自分よりも子どもと歳が近いからつい」
とバツの悪い顔をしたけれど正直嬉しかった。
男性社員の2人、尊人さんと康紀さんは予想通り一回りほど年上で社長とは旧知の仲らしい。前職は知らないけれど、社長に1から教えられたと言っていたから同業者だったわけではないようだ。
尊人さんは妻帯者でまだ子どもはおらず、康紀さんは妻帯者で1児の父。
社長はまだ独身だけれどパートナーはいるらしい。
全員パートナーがいるため変に意識しなくて良いし、僕にパートナーがいない事について何か言われるわけでもない。
ただ、一人暮らしで困ったことがあればなんでも言ってくれと言われ、どうやら僕は彼らの庇護対象になっているらしいと苦笑いする。
庇護される上司なんて頼りないじゃないかと思うものの、この関係は思いの外心地良かった。
上司として仕事はしっかりやるのに年下で少し頼りないなんてどうかと思ったけれど、僕の私生活での頼りなさが人間関係を円満にしているのかと思えばそれを受け入れることができたし、それでいて必要以上にプライベートを詮索してこないところも気に入っている。
新しい毎日は落ち着いてはいるけれど慌ただしく、思ったよりも時間の流れは早い。
暑い時期の引っ越しだったためエアコン付きの物件は不自由がなかったけれど、エアコンの効きによってはフローリングに直接座るのは躊躇われる。
最近は暦の上で季節が変わっても暑い日が長引くけれど、朝夕は気温が下がるためエアコンの効き具合も違ってくるのだ。そんな時はベッドをソファー代わりにするけれど、食事時にはフローリングに座る事になるためビーズクッションを使うわけにはいかず、少しずつ部屋の快適さを求めるようになった。
休みの日には買い物に出かけて良さそうなものに目星をつけて帰宅する。大きいものは持ち帰るのが大変で、結局はネットで買い物をするため配送をお願いするとその日は家で待機することになり、時間を持て余し常備菜もまた作るようになった。
部屋は快適になっていき、食事も充実してくると不思議と心も安定してくるから不思議だ。
そんな風に毎日を過ごし〈新しい部屋での生活〉が〈自宅で過ごす毎日〉となった頃に僕のスマホが告げた一件の着信。
〈一也〉
と表示された名前に思わず顔を顰める。
今更なんの用事だろう?
僕が出ないことに気付いたのか続けて送られてくるメッセージは僕を苛立たせる。
よくパートナーと別れたからと、パートナーと連絡を断つためにと、スマホの契約を全て新しくすると聞くけれど社会人になってしまうとそれは難しい。
学生時代ならば親しい友人に連絡すれば良いけれど、仕事を始めてしまうと連絡先は無限に増えて行くためどこまで連絡するかの線引きができないのだ。
今は連絡を取っていなくても今後必要になるかもしれない。
今は取引していないけれど、いつかご縁ができるかもしれない。
そうなると先方に教えた連絡先を変えてしまうのは躊躇われる。
一也の連絡先をそのままにしてあったのは何らかのコンタクトを期待していたためだけど、今はその時期を通り過ぎただただ忘れていただけ。
今更連絡があるとも思っていなかっただけで、一也に対しては今はもう何も期待していない。
向こうがどう思っているかはメッセージの内容から推察できるけど僕には関係ない事だ。
メッセージが来なくなりその内容を確認するけれど、ただただ呆れるばかりでため息も出ない。
僕は一也の番号を着信拒否し、メッセージアプリを開いてブロックをする。
一也の手を必要としていた僕はもういない。
一也の手を取っていたのと同じ手で、一也に色々なことを教え込まれた指先で連絡手段を断っていく。
アプリを開いたせいで既読は付くだろうけれど、一也がそれに気付くのは僕との連絡手段が無くなってからだ。
知らない番号からの着信にはしばらく気をつけよう、そう思いながら僕の指先はそっとメッセージアプリを閉じた。
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