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一也編
時也がいなくなった。
「そう言えばずっと会ってないな」
思い出したから〈今日、行くから〉とメッセージを送っておいた。
いつも週末にやっていた片付けを終えてから時也の家に向かう。
そう言えば週末にこんな風に片付けをするのも、この道のりを歩くのも久しぶりのような気がする。
自分の部屋から歩いても20分程度の距離だけど、生活時間帯が微妙にずれているせいで偶然会う事はまず無い。
酒を好んで飲むことのない時也のことだから久しぶりに行ってもアルコール類は無いだろうと思い、コンビニに寄って買い物をしていく。ビールとつまみ、時也には甘いカクテル。棚に並ぶゴムが目に入ったけれど前に行った時にはまだ有ったから用意しなくても大丈夫だろう。〈行く〉とメッセージを送っておけばちゃんと準備して待っているのは最近の決まり事だ。
久しぶりだから手間取るかもしれないけれどそれはそれで悪くない。
そんな下世話な事を考えながら歩いているうちに時也の部屋に着いた。
だけどインターホンを鳴らして鍵を差し込もうとして異変に気付く。
「入らない?」
意味が分からなかった。
鍵が入らない。
何で?
インターホンを何度も鳴らしながらドアノブをガチャガチャ回すけれど当然ドアが開くことは無い。
「時也、いないのか?
時也?
おい、開けろよ」
ドアをガンガン叩きながら声をかけるけれど開く気配は無い。
「お~ぃ、時也?」
イライラしながらドアを叩く俺は、まだ事の重大さに気付いていなかったのだ。鍵は無くすか何かして交換したのだと思ってた。連絡をしたのにドアを開けないのは寝ているか、準備のために風呂に入っているだけだと思っていた。
お互いの部屋の距離なんてわかっているのだから逆算して用意しておけ、とすら思っていた。
久しぶりに会いにきたのに。
なんて身勝手な言い分だと今なら思うのだけれど、その時には自分が悪いだなんて思っていなかったのだから我ながら呆れる。
「時也、鍵開かないから開けろよ」
ドアを叩き続ける俺を見かねたのだろう、隣の部屋のドアが開き中から男が顔を出す。
「あの、隣なら少し前に退去されましたよ?」
何を言われているのか分からなかった。
「いつだったかな、7月か8月。自分が帰省する前に挨拶に来てくれたから盆前なのは確実です。自分もずっとここに住んでるからわざわざ挨拶に来てくれたんですよ。時也君もこの物件気に入ってるって言ってたから意外だったんですけどね」
隣人の言葉はなかなか頭に入ってこない。
引っ越した?
7月?8月?
今は…9月だ。
何で?
どうして?
「引っ越し先って聞いてますか?」
「そこまで仲良くはなかったから」
わずかな期待を込めてした質問に思うような答えは貰えなかった。
意味が分からないまま辛うじてお礼を言い自分の部屋に戻る。
最後に会ったのはいつだった?
最後に連絡を取ったのは?
スマホを取り出してメッセージを開く。
既読の付いていないメッセージ。
履歴を見ても時也からの着信は無い。
さっき俺の入れたメッセージよりも前に続く時也からのメッセージを改めて見て愕然とする。
《今日は来ないの?》
《連絡くらいしてよ》
《いつなら会える?》
《まだ忙しい?》
《GWもずっと仕事?》
《来れる時は連絡して。
待ってるから》
一方的に送られてきていたメッセージ。そして6月の日付で一言。
《もういい》
その後は1度もメッセージは来ていなかった。
焦ってメッセージを遡る。
一方的に時也から送られたメッセージが続いた後に〈行けなくなった〉たった一言の俺が送ったメッセージ。
4月の日付のそれを見て血の気が引く思いがした。
いつからだ?
いつから行ってない?
以前は週末は時也の家で過ごすのが通常だった。金曜日にお互い溜まった家事を片付け土曜、日曜は時也の部屋で過ごす。以前は俺が食事を作っていたけれど、最近は時也の料理の腕が上がりご馳走になってばかりだった。美味しい料理とまったりと過ごす時間。
当たり前の日常だった。
4月半ばの日付の俺のメッセージ。
〈行けなくなった〉と短く一言送ったのは何かがあったからでその〈何か〉に気付いた時にやっと自分の愚かさに気付かされた。
4月の半ばから今まで自分が過ごしてきた毎日。
《もういい》
そのメッセージに罪悪感が募る。
何故なら自分はその間、時也を思い出さなかったからだ。だって美夜と楽しく過ごしていたから。
美夜は可愛い女だ。
背が低くふわふわした可愛らしい服がよく似合う彼女。4月に新入社員として自分の部署に配属された時から気になっていた彼女。
もともと自分は恋愛対象が定まっていないため男でも女でも気に入れば声をかけるし、声をかけられればそれに応えた。
好みと言うには曖昧だけど〈弱そうな〉〈守りたくなるような〉そんな風に見える相手を好む傾向があったのは否定できない。
そして美夜は外見からして〈か弱い女の子〉そのものだった。
自己紹介した後に見せた気の緩んだ笑顔。
それまでは緊張して強張っていた表情とのギャップに自分の顔が緩むのを自覚する。人一倍仕事を頑張ってはいるものの新人故ミスも多く、それでも頑張る彼女を見る目は総じて優しい。「まだ新人だから」「ゆっくり覚えていけばいいから」そう言って美夜のミスを容認する声が多い中でもその言葉に甘えずに日々仕事を必死で覚えていく彼女。
何とかしてあげたい。
そう思うのは自分だけではなかったようで部署の人間、特に男は何かと美夜に目をかけるようになっていく。
面白くない。
既婚者のくせに。
彼女がいるくせに。
自分のことを棚に上げて周りを牽制する日々。
話の流れで〈彼女はいない〉と言ったのは間違いじゃ無い。だって時也は彼女じゃ無いから。
〈パートナー〉と言われたら答えに躊躇ったかもしれないけれど、時也の存在は職場で明かしたことがなかったから俺が美夜を狙っていると思われるのは自然な流れだった。
「一也も独りが長いからな」
周りの目はいつの間にか生温かい見守るような、協力的なものに変わっていく。公私混同と言えなくも無いけれど、美夜の教育係的な流れが出来れば距離が縮まるのも直ぐだった。正式な教育係はいたけれど、自分の仕事にプラスして教育係の仕事となると負担も大きい。そのため俺がサポートする事に文句を言われるどころか感謝されたくらいだ。
とは言え仕事中は適切な距離を守り、休憩中や退社後はそれなりに。
食事に行った。
飲みに行った。
休みの日には2人で出かけ週末を美夜の部屋で過ごすようになったのはGWに2人で遊び倒した時からで、金曜日にそのまま美夜の部屋に向かい日曜日に帰ってくる事が当たり前になった。
時也には何て言ったっけ?
前回会った時に「仕事が忙しい」「新人教育を任された」そんなことを言った覚えはある。
美夜を見た時からあわよくば、と思っていたから週末にも仕事が入るかもと伏線も張っておいた。だから安心していたのだ。
何かあれば仕事だと言えば良いと。
事実、時也が何か言ってきた時にはそう言い訳するつもりだった。
落ち着いた時也との関係よりも、始まったばかりの美夜との関係を優先したかったんだ。
自分の言葉にコロコロと表情を変える美夜。
小さくて華奢で、少しでも無茶をしたら壊れてしまいそうな美夜。
甘い香りがして柔らかな美夜。
そして、余計な手間なく抱ける美夜。
そうか、俺は久しぶりの〈女〉に思った以上に溺れていたのだ…。
時也に連絡を取りたかったけれど冷静でいられる自信が無かった。だから歩きながらメッセージを送る。
20分ほどの道程は歩き慣れた道で、顔見知りに会う確率も高い。電話をしながら激昂している姿を見られて困る相手がいるわけでは無いけれど、引っ越す予定はないから迂闊な行動は避けた方がいい。
〈引っ越すだなんて聞いてない〉
〈どこにいるの?〉
〈何で黙って引っ越したの?〉
〈せっかく部屋まで行ったのに〉
〈コンビニで酒とつまみ買ってあるんだけど〉
〈だったら時也が来る?〉
〈俺としたくないの?〉
思いついた言葉をそのままメッセージにしていく。
〈連絡しなくて悪かった〉
〈仕事だったんだって〉
〈時也なら待っててくれると思ったのに〉
〈拗ねてる?〉
〈とりあえず連絡ちょうだい〉
見返しても自分の主張ばかりのメッセージ。時也の事を想っていれば出ないような言葉ばかり。
まずは今まで放っておいたことを謝るべきだろう、冷静になれば子供でも気付くことなのに…。
この時に時也のことを気遣う事ができればなんとかなったのかと思った事もあったけれど、そもそも時也のことを気遣う事ができるようなら美夜にふらつくような事もなかっただろう。
部屋に着くととりあえず荷物を置き、もう一度時也の番号を呼び出そうとして美夜からのメッセージが入っていることに気づく。
《今から行ってきます。
可愛くなったよ》
メッセージには可愛らしく着飾った美夜の写真付きだ。今日は美夜が友達の結婚式に出るために昨夜から実家に帰ってしまい、時間を持て余していたのだ。それで時也のことを思い出して今の状態なのだけど…。
可愛らしい美夜からのメッセージに返信し、改めて時也の番号を呼び出す。
この時点で最低なのは俺なのに、それなのに美夜からのメッセージを見ても時也に対する罪悪感とか申し訳ない気持ちは皆無だった。逆に勝手に引っ越したこと、連絡を返さないことに対する憤りしかなかった。
そして知る現実。
呼び出し音が鳴っていたさっきとは違い、通話音が続く時也の電話。通話中かと思いしばらく時間を置いてからもう一度かけてみる。それを何度繰り返しても聞こえてくるのは通話音で、何度も繰り返してやっと着信拒否された事に気づく。
急いでメッセージアプリを開くとメッセージには既読が付いていたためもう一度メッセージを送る。
〈着拒解除して〉
〈何か怒らせるようなことした?〉
〈お前、ふざけんなよ〉
感情のままに送ったメッセージに既読が付くことはなく、俺は怒りに任せて時也の部屋の鍵をキーホルダーから外しゴミ箱に投げ捨てた。
そう言えばキーホルダーはお揃いだったっけ。残された鍵を見て、キーホルダーも捨てるべきかと少し悩む。そして出した結論は、〈物に罪はないのだから次が見つかるまでは使っておこう〉だった。残る鍵と捨てる鍵の数を考えれば当然そうなるだろう。
趣味の合わない俺たちが唯一揃いで持っていたそれだったけれど、2つが揃うことはもうないのかもしれない。そんな風に思う自分の感傷が馬鹿らしくて、そんな風に思わせた時也に苛つく。
それでも俺はまだ、心の中で時也を責め続けるのだった。
時也と初めて話したのは大学2年生の時だった。それまでも構内で見かけたことはあったし、同じ講義をとっていたため〈面識はある〉けれど話したことは無かった。
つるむ仲間の種類が明らかに違うため共通の友達もいない。
あの日は教室に入るのがギリギリになってしまった為いつもの友達と座るつもりがその席まで辿り着けず、仕方なしに空いた席に座るしか無かったのだ。
高校生の頃は〈クラス全員お友達〉という感じだったけれど大学生ともなると一度どこかのグループに所属するとそのグループ以外の人間とは付き合うことは稀で、入学してから一度も話した事がない人間の方が当然多い。
隣に座った時也もそのうちの1人で、たまたま〈隣〉に座っただけで全く関心がなかった。〈透明人間〉みたいな存在はお互い様で90分の講義中交流を持つことも当然無い。
授業の最後に配られる紙に記名して提出すれば出席の証。この講義は代弁防止で抜き打ちにこんな方法を取るためサボれないのだ。
「トキヤ?」
隣の席で記名された名前を見て無意識に声を出したのは俺だった。全く興味のなかった透明人間とのファーストコンタクト。
「ん?僕の名前のこと?
トキナリだけど?」
知ってる人だったのかと確認するように俺の顔を見ながらも訝しげな声を出す。いきなり自分の名前を、しかも間違った読み方で呼ばれればそのリアクションもおかしく無いだろう。
「あ、ごめん。自分と同じ漢字使ってたからつい」
言いながら自分の紙を見せる。
「俺はこれでカズヤ。
そっか、ナリとも読むんだった」
「確かにナリよりもそっちの読み方の方が多いよね。
もういいかな?次があるから」
時也は自分の知り合いではなかったと気付いたのだろう。無理矢理に会話を終わらせると出席の印を提出するため教壇に向かう。
俺はと言えばいつもの友達に捕まり「一也来るの遅いし」「席取ってあったのに」と文句を言われながら時也と同じように出席の印を提出した。
たったそれだけの会話。
〈出会い〉と言うには格好が付かないほどの偶然のすれ違い。
それなのにこの時から自分は時也の事が気になって仕方がなかったんだ。
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