時也編

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時也編

 その日、打ち合わせ終わりに彼の会社の近くにいたのは偶然だった。先輩に「戻る前に昼食を」と言われて入った定食屋は適度に混んでいて、適度に騒がしかったのを覚えている。 「――――」  聞き覚えのある声がしたような気がして顔を上げると見覚えのある姿が目に入った。 「もう、待ってよ。  一也、早いって」  背の低い可愛らしい女の子。ふわふわとした、定食屋の似合わない彼女の呼んだ名前にその相手を改めて確認する。  彼女よりかなり背の高いサラリーマン風の男性。いや、彼はれっきとしたサラリーマンだ。そして身長が170の僕よりも10センチちょっと高く、隣の女性と並ぶと背の高さが際立つ。  うん、間違えようもなく僕の知っている彼である。 「早くないって。食えなかった分、手伝ってやったんだから感謝しろよな」 「それはそうだけど、お茶くらいゆっくり飲みたかった」 「時間の無駄。俺、コーヒー飲みたいし」  甘えるような言葉にきつい言い方をしながらも優しい笑みで答える彼は側から見れば素敵な彼氏で、もっと言えば身長差のせいで普通のカップルよりも20%程素敵度が増したカップルに見える。  ただ、あの男は僕の彼氏だったはずだ。   「じゃあ、手伝ってもらったお礼にコーヒーは私がご馳走するね」 「部署で入れてるサーバーだけどな」  カップルにしか見えない2人は会計を済ませるとさりげなく指を触れ合わせ、店を出るときにはそっと指を絡ませながら出ていった。  ――ああ、そういうことか。  色々と納得してしまった。  合わない予定。  出ない電話。  既読の付かないメッセージ。 「すいません、ちょっと電話してきて良いですか?」  頼んだメニューがまだ来ないのを確認して先輩に断りを入れて店を出た。  彼の姿を確認して、呼び出した番号に電話をかけてみる。  呼び出し音が2度、3度鳴り彼がスマホを取り出したのが見えた。  だけど、画面を確認した彼は…そのままスマホをスーツのポケットに戻す。 〈いいの?〉と言うように顔を見る彼女に〈大丈夫〉とでも言うように優しい笑みを向けて歩き続ける2人。  彼女にしてみれば着信よりも自分を優先してくれる素敵な彼氏なんだろうけれど、僕にしてみれば自分のパートナーを蔑ろにして女に現を抜かす最低な彼氏だ。  ――そういう事なんだな。  僕のスマホには彼からのメッセージも、もちろん折り返しの電話も無い。  気付いてよかった?  知らなければよかった?  気付かないふりをして待てばいいのかな?  気付いてると伝えればいいのかな?  自問自答を繰り返しても答えは出ない。  僕はどうするのが正解だったんだんだろう…。  見たくなかったカップルを見送った後で店に戻った僕は食欲も無く、それでも食べないわけにもいかず、先輩に手伝ってもらってなんとか食べ終わることができた。  何だか既視感のある行動だ。  大学からの先輩だから気安くできる事ではあるけれど、先程の2人の会話を思い出してしまい気が滅入る。 「何かあった?」  僕の様子を見て言ったのか、食欲がないのを見て言ったのか…。「実は、彼が浮気してるみたいなんです」と言うわけにもいかず「夏バテですかね」と曖昧に笑っておく。 「まだ6月だけどな」と呆れられたけれど、本当のことを知られるよりは幾分かマシだ。  ただ、急に暑くなったり涼しくなったりするこの時期に僕が体調を崩しやすいのを知っている先輩だからその声には少しの心配も入っている。 「ちゃんと食べないと本当に夏バテするぞ。少し痩せただろ?」  苦笑いして食後のお茶を飲みながら痛いところを指摘された。このまま食欲がないせいで痩せたと勘違いしてくれている方が気が楽なので、訂正も肯定もしないでおく。 「で、あの話はどうするのか決めたのか?」  僕がそれ以上何も言わないことに気付いたのだろう。蒸し返すことはなく話題を変えてくれる。 「あの話ですか?どうしますかね…」  話題を変えたものの、煮え切らない僕の返事に先輩が苦笑いを深めた。 「悪い話じゃないと思うぞ。こっちでノウハウは完璧に教えたつもりだからお前主導でなんの問題もないし、困ったことがあれば俺がサポートするし」 「でも、それなら先輩が行ったほうが良くないですか?元は先輩の案件だし、これって栄転ですよね」  そう言って先輩を顔を伺う。  そう、栄転なんだ。  先輩の手柄をみすみす僕がもらうわけにはいかない。 「ほら、俺はこっちに離れたくない理由があるし。お前なら安心して任せられるし」  皆まで言うなと言い笑顔で答える先輩。 「もうすぐ、ですもんね」 「そう。だから俺は行かない」  真剣な口調で断言までしてしまう。  あの話。  新しい企画を立ち上げるための新設部署の設置にあたり、責任者として異動をしてくれないかと打診を受けたのは数日前。  異動といっても子会社への出向になるのだが、役職は今より上がる。  当然先輩が出向すると思っていた僕には寝耳に水だった。  最近やたらと打ち合わせに連れて行かれていたのは引き継ぎ前の顔合わせだと思っていたのだけれど、僕が出向になる事によって出るであろう不満への牽制だったらしい。  打診された時に「根回しはバッチリだから」とサムズアップ付で言われて呆然としたのは普通の反応だと思う。  先輩の行きたくない理由は奥さんの出産が近いから。奥さんは実家が近いこともあり出向に反対はしなかったけれど、先輩自身が奥さんと子どもから離れたくないのだからお話にならない。  ちなみに先輩の奥さんも大学の先輩で、2人には在学中からお世話になっているわけで…。 「時也が行ってくれるなら問題ないか」  と言う奥さんの言葉が後押しになってしまったようだ。他の誰かが先輩の代わりに行くのは面白くないけれど僕なら問題ないらしい。  僕だって行きたくないわけではない。  新しい仕事は正直やり甲斐があるし、自分の今の能力を試したいという欲求もある。  ただ先輩がやってきた仕事を横から奪うようで申し訳ない気持ちと、通勤が不便になる億劫さで足踏みしていたけれど、ここに来て気分を変えるような出来事が起きたのは偶然なのか、必然なのか…。 「それって引越し代とか会社で補助出ます?」 「引越し?」 「慣れない中で遠距離通勤もしんどいし。近くに引っ越せるなら考えてもいいかなって…」  こうなったら逃げてしまおう。  思い付いてしまったら、それ以外考えられなくなってしまった。   「でもお前、ずっとあそこに住むって言ってなかった?」  付き合いの長い先輩は僕が今の部屋を気に入っているのを知っているから不思議そうな顔をする。  好きな店が近くにあって、図書館が近くて、少し高台にあるから景色も良くて、それでいて家賃は高くない。何より彼の家が近い。 「取り壊しにならない限り住み続けると思います」  就職が決まった時に良い物件を紹介してくれると言った先輩に答えた言葉。  その言葉を覚えているのだろう。  それでも今の時代、欲しいものはネットで買える。図書館は行く時間もそれほどないし、そもそも大学生の時のように図書館を利用して調べるような事もない。欲しい本を買うだけの稼ぎもある。景色は楽しむ余裕は少ないし、学生じゃないから家賃をもっと払えるようにもなった。  そして、さっき見た光景のせいで彼の近くにいることが苦痛になってしまったのも大きな理由だ。  知らなければ大丈夫だった。  彼の心が自分にはもう無いのだと僕が認めなければ我慢もできたから。  でも、見てしまったんだ。  この先、似たような女の子を見る度に彼が隣にいないかと不安になるだろう。  隣にいなければ彼の部屋に行くのかと切なくなるだろう。  似たような姿形の女の子なんて掃いて捨てるほどいるのに、それでも僕は似たような姿形の女の子を見つける度に傷付き続けるのだ。  考えただけでしんどい。  近くて遠い距離。  待つ事にもう疲れてしまった。  はじめのうちは連絡が来ないかと少しは期待していたんだ。  それでもメッセージを送っても既読が付くだけで、電話をしても〈忙しいから〉の一言で切られてしまう。  そんな事が続いてメッセージは既読すら付かなくなって久しいし、電話をしても折り返しもない。  いつからか怖くなってしまい連絡をすることもできなくなった。  何度かメッセージを送ろうとしたれど、メッセージを作っても送信ではなく消去を押してしまう。番号を呼び出しても通話ボタンを押すことができない。  僕の指はいつからこんなにも臆病になってしまったんだろう。  あの日、久しぶりの着信に折り返しはなくてもメッセージくらいは返ってくるかと少しは期待していた。  別れ話はしていないし、うちの合鍵は彼の手元にまだあるはずだ。  僕から別れたいと言ってはいないし、彼から別れ話をされてもない。ただ、仕事が忙しくなるから連絡がしばらく滞ると言われただけ。  関係をはっきりさせたくて連絡を取ろうとしても連絡は取れない。自然消滅を狙っているのならばそれでも仕方ないのだけれど、合鍵を持っているのだからその辺のけじめはつけて欲しい。  会いたくないのならポストにでも入れておいてくれればいいのに、そう思うけれどそれをメッセージにして送れないのは僕の弱さなのか、未練なのか…。  帰宅しても鳴ることのないスマホを前にイライラしたり、ムカムカする毎日。  はじめの内は仕事が忙しいなら仕方がないと思っていたんだ。だけどそれが1週間続き、2週間続き。  それでも仕方ないと思っているうちに2ヶ月になり、3ヶ月になり。  それだけ過ぎてしまうとこちらから連絡するのが怖くなってしまった。  連絡が取れたら別れを告げられるかもしれない。連絡が取れない事が彼の意思表示なのかもしれない。  それでも、合鍵を持っている間はまだ付き合っているつもりだったのだけど…合鍵の存在すら忘れているのかもしれないと思うようになってしまった。  もう諦めよう。  そう思い、異動の話を正式に受けることにした。僕の返事さえあればすぐに動き出す案件だったようで、返事をした1月後には辞令が発令して他の社員も知ることとなった。  反発を多少は覚悟していたけれど「まぁ、そうだよね」という雰囲気で、それ以上に激励や励ましの声をもらう事が多く落ち込んでいた気持ちが少し浮上したりもした。  先輩の根回しはしっかりと甲を成したようだ。  辞令が出てしまえば後は引き継ぎと片付けで、バタバタしている内に異動の日が来て僕は住み慣れた部屋を慌ただしく出ることになったのだった。  終わる時なんてこんなものなんだ…。
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