時也編

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 異動の辞令が出てすぐに、会社都合の引っ越しだからと引越し費用の補助が出ることになったと知らされた。  しかも今の部屋に住み続けた時の通勤代の補助よりも、1回の引っ越し代の補助の方が格段に安い事もあり引っ越し代は会社負担でと言われ、おまけに良さそうな物件まで調査済みで引越しの段取りはあっという間にできてしまった。  うちの会社、至れり尽くせり過ぎないか?!とも思ったけれど自分で全てする事を考えると「ありがとうございます」とその待遇に甘んじてしまうしかなかった。  ―もういい。  引っ越す前に彼に一言だけメッセージを入れた。  これで何かアクションがあればちゃんと話をしようかと思ったものの、やっぱり既読は付かない。  もう、疲れたんだ。  待つことをやめ、大家さんにはスペアキーを無くしてしまったので鍵は交換して欲しいと謝った。どのみち鍵は交換するからと言ってくれたけれど、そこはケジメとして交換費用を支払わせてもらう。交換費用を払うことよりも、スペアキーを返してくれとわざわざ言うことの方が今の自分には〈痛い〉のだから、予定外の出費は勉強代だと思えばいい。  学生の頃から数えると9年間住んだ部屋だったから荷物もそれなりにあったし、愛着もあった。思い出もたくさんあったけれど、必要最低限のものだけを残してあとは処分した。  ウォークインクローゼットのある物件に入るからと自分に言い訳をして家電以外は家具も処分した。  彼がくつろいだソファーも、一緒に食事をしたテーブルももう要らない。  もちろん、寝具も全て新調した。  必要のないものは捨てればいい。  2人の思い出なんてもう必要無いんだ。  思い出なんて、捨てて忘れてしまえば楽になれると知ってるから…。  一也との付き合いは社会人になってからだから3年?4年?異性同士のカップルなら結婚の話が出てもいいくらいの付き合いだった。 「女の子と付き合うときはちゃんと自分と別れてからにして欲しい」  付き合う時に約束したはずだった。  学生時代、部屋が近かったせいで近所で顔を合わせれば話をする程度の仲だった一也とは、講義で隣り合わせたのが初対面だと言われたけれど、正直それは覚えていない。  一也は派手なタイプの学生だったせいで認識はしていたものの、個として見た事はなかった。  付き合う人間も派手で、一緒にいるのは男女共に見目が良くて〈カースト上位〉と言われることを当然だと思っている節のある人間の集まり。  それに対して自分の友達は本当に普通の人間の集まりだった。  1人、2人いる優秀な奴を慕って集まる普通の人間の集まり。不可も可もなく、概ね良と認識される人間の集まり。平均的と言えば聞こえは良いけれど、悪く言ってしまえば無個性な人間の集まりだ。  記憶にある一也はいつも友達に囲まれ、集団の中央が定位置。  男女問わず距離が近く、彼女?彼氏?も頻繁に入れ替わっていたと聞いたことがある。  当時、自分にも付き合っている彼がいた。  少しだけ年上の社会人の彼。  彼の都合に合わせるために、バイトはいつでも休めるように真面目に勤務した。バイト先には「普段は入れるだけ入るけど、急用の時は休ませてください」と願い出ると生ぬるい目をされたけれど、そんな事は気にならなかった。  彼の紹介で入ったバイトだからなんとなく察していたのだろう。バイトに入っていれば彼が様子を見にきてくれる事もあった。  大好きだった。  本当に大好きだった。  ずっとこのまま一緒にいるのだと思っていたんだ。 「ごめん、子どもができたんだ」  晴天の霹靂だった。  子ども?  誰の?  何で? 「会社の同期なんだ」 「相手から告白されて、少し前から付き合ってた」 「お互いいい歳だし、親からもそろそろ結婚しろって言われてたし」 「順番が少し違ったけどさ」 「だって、お前とは結婚できないだろ?」  最低だ。  初めての人だった。  付き合ったのも、身体を重ねたのも。  僕から告白したわけじゃない。  だって、僕はゲイじゃなかったから。  彼は高校の部活の先輩で、初めて会ったのは大会の打ち上げの時。  それなりの成績を残したその年、観に来ていたOBが盛り上がり、後日打ち上げと銘打って宴会を開いてくれた時にいたのが彼だった。  初対面の印象は〈優しい先輩〉だった。人当たりの良い、愛想の良い先輩。誰にでも優しくて頼り甲斐のある先輩。  大学でもそのスポーツを続けていた彼は、高校生の僕たちと比べると身体も一回り大きくて熊のようだと思ったのが第一印象だった。グリズリーとかヒグマじゃなくて黄色い蜂蜜好きなあの熊だけど…。  宴会の間も何かと後輩に気を配り、それぞれのプレイスタイルを分析してアドバイスをくれたり褒めてくれたり。そんな彼だから僕たち後輩からも頼りにされ、それに気をよくして何かと顔を出してくれるようになったのだ。  そして僕は何故か彼に気に入られてしまった。  口説かれて、口説かれて。  大切にするからと言われて。  付き合うまでに2年かかった。  高2で知り合って口説かれ続け、大学に入った時に「俺以外の人と付き合うなんて考えただけでおかしくなりそうだ。大学で知り合った誰かが隣にいるなんて許せない」と半ば強引に、と言うかその言葉に絆されてなし崩しに付き合う事になった。  もともと大学生になったら実家から出るつもりだったせいもあり大学からは少し遠いけれど、家賃の安い部屋を借りたんだ。その部屋は思いの外過ごしやすかったけれど彼の部屋からは遠く、職場の近くに部屋を借りていた彼とはそちらで過ごすことの方が多かった。と言うか、彼がこの僕の部屋に来たのはほんの数回。引っ越しを手伝ってくれた時くらいかもしれない。 「あの部屋で一緒に暮らすの?」  傷付くと分かっていて口に出した言葉。  傷付くと分かっていて聞いてしまった答え。 「あの部屋は、ダメだろ?」  少しは僕のことを慮った言葉が聞けるかと思ったけれど、続いた言葉は僕の気持ちなど全くもって無視したものだった。 「子ども育てるのにあの部屋じゃ狭いし、そもそも時也が出入りしてたの、嫁に知られたくないし」  僕の気持ちなんて無視した言葉。  僕のことを大切にすると言ったその口で、僕のことを蔑ろにする言葉を平気で口にした彼は、僕の好きだった彼ではなかった。 〈嫁〉と彼が当たり前のように言った言葉が僕を傷付ける。 「自分は平気で隣を許すんだね」  僕の言葉に〈何言ってるの?〉と言う顔をする。そしてトドメの一言で僕の傷を深く深く抉ったのだ。 「時也もさ、就職したら彼女作って親のこと安心させてやれよ」  どの口がそれを言うのだ。  もともとストレートだった僕をこんな風にしたのは彼だったのに。  好きな娘だっていたんだ。いたけれど、彼の〈本気〉に絆されて付き合ったのに。  大体彼は問題無いだろう。だって〈抱く側〉だから。男を抱くよりも女の子相手の方が面倒も無い(はずだ)。  それじゃあ、女の子に興味があったのに〈抱かれる側〉にされた僕はどうしたらいいのだろう?  今更女の子の事を好きになれるだろうか?好きになったとして、上手くいったとして、その時僕は〈抱く側〉になれるのだろうか?  言いたいことは沢山あったのに、それなのに言えないまま彼の後ろ姿を見送ることしか出来なかった。  付き合うまでは時間がかかったのに、別れるのなんて一瞬だ。  悔しいけれど子どもが出来た、結婚すると言われてしまったらどうする事もできなかった。  僕は子どもを産むことはできないし、宿った命をどうこうしようとも思わない。  ただただ、どうする事もできない無力感を掻き抱くしかできなかった。  バイトは勿論辞めた。  就活で忙しくなるからと言えば引き止められる事もない。嘘も方便である。  生ぬるい目で見ていた彼の友達だって、僕の顔を見続けるのは気まずいだろう。  学校では彼と付き合っていたことは誰にも言っていなかったから「バイトを辞めた」と言えば「就活あるしな」と違和感なく受け入れられる。  万年人手不足のバイト先で働く友人からは「時々うちのバイト手伝ってくれよ」と言われ「タマにならね」と答える。  就活で忙しくなるのは本当だけど、バイトを辞めて収入がなくなるのは少し痛かったので彼の申し出はありがたかった。  必要のない関係なら離せばいい。  必要なら繋げばいい。  部屋の中には彼から貰ったものもあったけれど、それらは本当に些細なものばかりで大きいものですらゴミ袋に簡単に入ってしまう。彼の部屋に置いてあった僕の私物は帰り際に渡された衣類が少しだけ。それも一緒にゴミ袋に突っ込む。  取捨選択は自分ですればいいのだ。  心に蓋をして、要らないモノは捨ててしまえばいいい。  僕ノダイスキナヒトハ 僕ヲダイスキダトイッテクレナイノダカラ。  そんな事があったせいで、誰かと付き合う事を恐れていたんだ。それは恋愛としてだけでなく、友達としての付き合い、大きい意味での人間関係が怖くなってしまっていたから。  今現在、親しくしている人との付き合いすら億劫に思っていたその頃。  だから一也から声をかけられた時には驚いた。  電車から降りて部屋に向かう前に、買い物に寄ろうと近くのスーパーを目指していた時だったと思う。一人暮らしは案外お金も時間も無いから自炊と作り置きはマストだ。と言っても料理のスキルなんて有って無いようなものだから、作るといってもカレーとか炒飯とか、大量に作って終わるまで同じものを食べる物や、すぐにできるものになってしまうのだけど…。  ただ、毎回弁当を買いに行くよりも1回買い出しに行って自炊する方が時短にはなる。 「トキナリ君?」  何を買おうかと悩みながら歩いている時に呼ばれた名前。あまりない名前だからきっと自分の事だろう、そう思って振り返る。  振り返った先にいたのはカースト上位のチャラ男。いつも学内の目立つ場所を陣取って騒いでいる集団の中にいて、なかなかに目立つ存在の彼は嬉しそうな顔で僕に手を振る。 「そうだけど?誰??」  名前を呼ばれたけれど名前を呼ばれるような関係ではない。そもそも彼が僕の名前を知っていることに驚いた。 「あれ、前に講義で隣に座ったの覚えてない?」  僕の答えに有り得ないという顔をする。どれだけ自意識過剰なんだ? 「ごめん、覚えてない」 「マジか…」  ショックを受けているようだけど、僕には関係無い。正直なところ話しかけられるのも迷惑とまでは言わないけれど、できればやめて欲しい。 「その時に名前教えてもらったんだけど?」  引き下がってくれる気はないようだ。  名前を知っているということは僕が自分で教えたのかもしれない、そう思いもう一度考えてみるけれどやっぱり思い出せない。 「ごめん、思い出せないや」  何か言い訳を、とも思ったけれど考えるのも面倒で素直に答える。できれば諦めて解放して欲しい。 「冷たいな~。俺の名前が数字の一に也って書いてカズヤだからトキナリ君はトキヤかと思ってそう聞いたら時也だって教えてくれたんだけどな~」  解放してくれる気はないらしい。  そう言われて考えてみればそんな事があったかも、と思うけれど正直どうでもいい。 「ごめん、それ聞いても思い出せない」  面倒なので思い出すことを放棄してそう告げる。いい加減諦めて欲しい。 「マジか…」  口癖なのか?! 「ま、良いや。  時也君は家、この近く?」  良いのか?おまけに話を続けるつもりか?? 「そうだけど」 「じゃあ、俺の家とも近いね。  何で電車で会った事ないんだろう?」  それに関しては同意だ。大学入学と同時に今の部屋に住み始めたから3年目になるけれど、今日まで見かけた記憶はない。  彼、一也の事は認識はしていたから見かければ気付いていただろう。そして気付いていればなるべく近づかないよう気をつけていただろう。 「そうだね。まぁ、接点が無いからなんじゃない?ごめん、急いでるから」  そう告げて背を向けると「またね」と言う声が聞こえたけれど、それを無視して買い物に向かった。  それだけだった。  それだけなのに以降、付き纏われるようになったのだ。  学校で顔を見掛ければ手を振られ、道で合えば声をかけられる。相手が目立つ存在なだけに無視するわけにはいかず、会釈を返したり返事を返したりしているうちに〈一也の友達〉認定されてしまった。  そうなるとカースト上位の一也の友達からも声をかけられたりする事が増え、何故か僕がいつも一緒にいた友達と一也の友達が交流を持つようになっていた。  僕にしてみれば迷惑でしかないのだけど、良い大人がそんな事で不貞腐れるわけにもいかず、関係を断つわけにもいかず、卒業までそのままずるずると付き合う事になってしまう。その間にも一也はやたらと僕に構い、卒業後も何となく友達関係は続いていた。  家が近いせいで最寄駅は当然同じ。  ただ一也の会社と僕の会社は向きが逆だったせいで朝のラッシュ時に会うことはなかったけれど、帰りは何かと一緒になることが多くそうなると「一緒に夕食でも」と言う事になったりもする。  社会人1年生同士だ、心身共に疲れているし、不平不満も溜まっている時に飲んだのがいけなかったのだろう。  あまりお酒に強くない僕は気付けば一也の部屋にお持ち帰りされてしまっていた。  何がどうなってそうなったかなんて全く覚えていない。  学生の頃から何度か宴席を共にする事があったからもしかしたら確信犯だったのかもしれない。  ソファーはあったけれどそこには座らず、直接床に座ったのは本能的なものだろうか。少しでも距離を空けようとしているのに一也も同じように床に座る。 「時也さ、俺のこと本当は嫌いでしょ」  ペットボトルの水を渡されながらついでの様に聞かれた言葉。  僕から本音を引き出すために呑ませたのか、呑ませたついでに本音を聞き出そうとしたのか、一也が僕に絡んでくる。一緒になってそれなりの量を飲んでいたから一也だって素面ではないのだろう。 「別に嫌いではないよ」  酔った頭ではあるけれど、言葉を選びながら答える。これは本音だ。  苦手ではあるけれど嫌いではない。嫌いではないけれど、好きなわけでもない。  いつもならわざわざ口に出すことのない事を説明する。 「じゃあさ、俺の何処が苦手?  具体的に教えてよ」  苦手と言われても怯むことなく僕に詰め寄る。 「えっと、まずは派手なところ?」 「何で疑問系なんだよ」 「顔もキラキラしててうるさい」 「それ、酷くない?」 「なんか常にワサワサしてるのも嫌だ」 「俺、虫じゃないし」 「僕の友達といつの間にか仲良くしてるのもウザいし」 「これもうさ、俺嫌われてるよね」 「だから嫌いではないってば」  所詮酔っ払いだ。  酔いが覚めたら後悔すると分かっていても、今まで飲み込んできた言葉が流れるように出てきてしまう。 「だって時也だって友達だろ?  だから時也の友達は俺の友達でもあるでしょ?」 「え?  僕たちいつから友達なの?」  素で返してしまった。  僕の中での認識は〈同級生〉とか〈知り合い〉の括りで、帰りに一緒になれば食事を共にする相手という認識である。 「ちょ、それ本気?  マジで凹むわ…」  どうやら一也の認識は違ったらしい。
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