波間に朝がくる

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 きっかり二十八日ごとに死にたい朝がくる。  周期があまりに正確なのでおれはここ数年、下着もシーツもいっさい汚したことがない。前日の夜の風呂上がり、念のため黒いパンツをはく。朝起きてトイレに行くとトイレットペーパーにうっすら血がつくから、パンツの内側にナプキンを貼りつけながら、死にたい気持ちを奥歯で噛み砕く。ここまでがルーティン。  リビングへ行くと、風真(ふうま)がもう起きていた。着替えまで済ませている。窓から入る朝日とコーヒーの匂いに包まれて「おはよう」と微笑む、その光景があまりに完璧にまぶしくて、おれは再びひそやかな死にたさを噛みしめる。 「おはよう。早いね」 「うん、今日はちょっと早く出ようと思って。トースト焼こうか?」 「頼む」 「二枚?」 「うん」  テーブルに残された、風真が半分食べたサラダをもしゃもしゃ頬張っていると、やがてコーヒーと共にトーストが運ばれてきた。バターももう塗ってある。至れり尽くせりなのは、おれの死にたくなる日であることを風真も把握しているからだ。いつもここまでしてくれるわけじゃない。  洗面所でヘアセットを完成させてきた風真に「もう行くの?」とたずねる。昨日少し仕事残してきちゃったんだ、と眉を下げる顔が最高にかわいかった。食べかけのトーストを皿に置いて、スリッパをひきずりながら玄関まで見送りに出る。 「うみもちゃんと遅刻しないで行くんだよ」 「んー……」 「ちょっと、靴履けないから離れて。ほら、しゃきっとして」  へばりついていた背中からしぶしぶ離れ、靴紐を結ぶ風真のかわいいつむじを見下ろした。いってらっしゃいのキスをして、ドアが閉まるまで手を振って、施錠する。リビングに戻ろうと踵を返す瞬間、脚のあいだからドロッと大きな塊が流れ出る感触があり、辟易した。飽きずにちゃんと死にたくなった。 ***  夏の海と書く自分の名前は嫌いじゃないのだけれど、ナツミという響きがどうにも女性的だから、親しい相手にはうみと呼んでもらっている。  おれは間違えて生理があるほうの体に生まれてしまった。でも恋愛対象は体と一致している。つまり男が好き。  同性愛者やトランスジェンダーの知人に「マイノリティっていってもあんたは好きな人と結婚できるじゃん、羨ましい」と言われたことが何度もある。確かにそう。戸籍が女なんだから、惚れた男と結婚することは可能だ。でもそれは自分の望む形ではないのだ……と説明したところで、向こうにしてみれば恵まれた者の高望みにしか聞こえないだろうから、なにも言わない。マイノリティという便利な言葉でくくられたって事情はそれぞれ違う。  もっと詳しく言うと、おれは男を抱きたい側だ。抱かれたい側だったならまだ体との折り合いがつけやすかったかもしれない。でも、どちらにせよ自分の体への気持ち悪さは拭えないのだろうと思う。その気持ち悪さがピークに達して死にたさになるのが生理初日で、つまり今日なのだった。  おれの生理はだいぶ軽いほうだ。一日目だけドバッと出るが、多い日用のナプキンは使わなくても済む程度。三日目からは経血量がぐんと減り、五日で完全に終わる。おれの子宮や卵巣はたぶん、ちょっとくらいサボっても問題ないことをわかっているんじゃないかと思う。それでも毎月正常なリズムで働いてくれていることに感謝すべきなのかもしれない。 「藤崎(ふじさき)さん、悪いんだけど今日、撮影も少し手伝ってもらえる?」  出勤するなり上司にそう言われた。アルバイトのヤスダさんが体調不良で休んでおり、手が足りないのだという。 「ごめんねぇ。彼女、生理痛が重いらしくて、先月も急に休んだのよね。今後は先に予定日聞いておいてシフト調整したいんだけど、これってセクハラになっちゃうかなぁ、どう思う?」  上司は五十がらみの女性で、その年代にしてはデリカシーがあるほうだと思うのだけれど、残念ながら意見を求める相手を間違えていた。とはいえ彼女はおれのことも同性だと認識しているわけだから責められない。適当に答えてその場を離れようとしたら、「それからね、もうひとつ」と今度はやけに声をひそめられた。 「実はね、タナベさんが今月いっぱいで辞めることになったの。結婚するんだって」  サズカリコンってやつよ、と続いた言葉を正しく脳内変換できるまでに少し時間がかかった。授かり婚。一拍おいてから、はあそうなんですか、とフラットに返す。なんでそんなことおれに言うのかと思ったら、要は彼女の受け持っていた業務をおれに回したいという話だった。  結婚も妊娠もおめでたいことだから祝福してあげたいけど、いきなり辞めます、はやっぱりちょっと困るわよねぇ。藤崎さんはそういう予定はないの? もしあるなら早めに教えてくれると助かる。もうねぇ、リソース不足なのよ慢性的に、マネージャーにも何度も言ってるんだけど……。  前言撤回。中年特有のデリカシーの欠如。  長々こぼされるのをそつなく受け流している最中、経血の塊が股から出てくるのを感じて、あーあ、とおれは思った。頼んでもいないのに毎月毎月、生殖の準備を勝手に整えてくれる女体のメカニズムの、なんと神秘的で健気なことか! タナベさんと違い、今月も哀れな卵子をひとつ無駄にしたのだという後ろめたい仲間意識だけで、おれはヤスダさんの生理痛を今すぐ代わってあげたいような気持ちになった。
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