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「たしかこの辺りだったはずだが……」  久しぶりに降り立った街は、少し前に見たときよりもさらに変わっていた。小高い山だったところは跡形もなく切り開かれ、うるさいくらいに民家が建ち並んでいる。子どもたちが走り回っていた商店街もなくなり、街の中心には多くの車が行き交う馬鹿でかい道ができていた。  そんな通りから裏道に入り、若干あやふやな記憶を頼りに角を曲がる。以前は置屋や料亭がいくつも並び、道を歩けば芸者や半玉を見かける風情ある道だった。そんな場所もいまではビルやマンションが建ち並んで見る影もない。 「おそらくここが置屋で、この先にいくつか店があって……あそこか?」  あの子と出会ったときには大きな木造の家が建っていたが、いまは何階建てかの近代的な建物に変わっている。 「立派な家だったのに惜しいな」  おそらく元は呉服屋か米問屋だったのだろう。なかなかの歴史を感じさせるたたずまいを好ましく思っていただけに残念でならない。  さて、問題はあの子がまだこのあたりに住んでいるかだ。出会ったときに五歳だと話していたから、もう二十歳は過ぎているはず。婚期が早かった以前とは違い、まだ嫁に行ってはいないと思うが不安になってきた。 (五歳であの愛らしさだから、いまはさぞや美しくなっていることだろう)  となると、あの子を嫁にと考える男がいてもおかしくない。もし人の男と婚姻などしていたら面倒だが、何としても横取り、いや返してもらわなくては。 (こんなことなら、もっと早くに迎えに来るべきだった)  人の世では婚姻できる年というものがあるらしいが、我ら竜神には関係ない。さすがに幼子を嫁にするのは憐れと思うものの、相応の年になるまで手元で育てるという方法もあった。 (それよりも懸念すべきは、忘れられている可能性のほうか)  竜神にとっての二十年は決して長くないが、人にとっては赤児が大人になるほどの時間だ。誰かの嫁になっていることよりも忘れ去られている可能性のほうが高い。  不安になったわたしは、少し急ぎ足になりながらあの子と出会った場所の周辺を歩き回った。しかし景色はすっかり変わっていて、あの子と指切りを交わした小さな池のほとりさえ見つからない。 (池があって、そばに大きな木があって、その先には立派な梅の木がある庭が……駄目だ。すべて変わってしまっている)  わたしの記憶も二十年前のものなのか、それとも三十年以上前のものなのかはっきりしなかった。 「あぁ! わたしは一体何をしていたんだ!」  もっと真剣に嫁取りを考えるべきだった。あのとき確かにこの子だと感じたのだから、噛み痕なりをつけておけばよかったと後悔する。しかし何を思ってももう遅い。とにかくいまは探し出すしかない。  懐にしまっていた懐紙を取り出し、中身が落ちないように丁寧に開いた。あの子にもらった蓮華草の押し花を見ながら幼子の顔を思い浮かべる。蓮華草は別れ際にもらったもので、代わりにわたしからは蜻蛉玉のついた根付けをあげたのだが、まだ持ってくれているだろうか。  そんなことを考えていると、どこからかリィンという小さな鈴の音が聞こえて来た。 (いや、これは鈴ではない。竜鱗の音だ)  竜神の鱗が擦れると鈴のような音がする。人には鈴の音のように聞こえるだろうが、竜神であるわたしには鱗の音だとすぐにわかった。 (なぜ人の住む場所で竜鱗の音が……? もしや、)  あの子にあげた蜻蛉玉には中をくり抜きわたしの竜鱗を入れてある。ちょうどこの辺りで棲み処を探していたときに作ったもので、縄張りの証にしようと持ち歩いていたものだ。  この音はあの蜻蛉玉に仕込んだわたしの竜鱗の音だ。それが聞こえるということは、あの子が近くにいるということに違いない。蓮華草の押し花を懐にしまい、改めて聞き耳を立てた。 (……あの道を曲がった先か?)  塀の角を曲がると、お気に入りの木造の家が建っていた場所に戻っていた。よくよく見れば門の近くに梅らしき木が見える。「やはりこの近くで会ったのだな」と思いながら辺りを見回していると建物の扉から男が出てきた。同時にリィンと竜鱗の音が聞こえてくる。 「……なぜあの男が持っている」  思わず苦々しい声が出てしまった。竜鱗の音は間違いなく男の腰あたりから聞こえる。つまり、あの子にあげた蜻蛉玉をあの男が持っているということだ。  男はわたしよりもずっと大きく六尺ほどあるように見えた。体つきも立派で手足は長く、細身が多い竜神とはまったく違う体格をしている。 「もしや、あの子の伴侶というわけではあるまいな?」  そうつぶやきながらも可能性を否定できなかった。そうでなければ人の世に存在するはずのない竜鱗の音があの男から聞こえるはずがない。おそらくあの子が男に贈ったのだろう。  あれほど喜んでくれていたのに、あの子は手放したのだろうか。それを持つということは、あの男が女の子の伴侶ということだろうか。 「くそっ」  やはり、もっと早くに嫁取りをしておくべきだった。蜻蛉玉ではなく噛み痕をつけておけばよかった。竜神の噛み痕なら易々と人の男になど持っていかれることはなかったのに、とんだ失態だ。 (いや、いまからでも遅くはない)  人の世では婚姻を結んでいるのかもしれないが、わたしには言霊の約束がある。小さいあの子と交わした言葉でも約束は約束、竜神との約束を反故にすることはできない。それを身をもって知らしめてやろう。  そう思いながら右手で拳を握りしめていると「あっ」という声がした。視線を上げれば男がこちらへと小走りで近づいて来るのが見える。 「な、なんだ」  目の前に立った男は遠目で見るよりもずっと大きかった。わたしの頭の天辺が男の肩にかろうじて届くかどうかという背丈に思わずムッとなる。あの子も体の大きな男が好みなのかと思ったら、酒の席で「はな垂れ小僧」と笑っていた竜神たちを思い出し不愉快になった。 「やっぱり!」  男が大きな手で思い切り両肩を掴んできた。 「な、何をする!」  驚き慌てて離れようとしたが、男の力が強くて振り払うことができない。それでもバタバタと手を動かしていると、今度は力任せに抱きしめられてしまった。 「な、何を、」 「神様、会いたかった!」  ……は? 「小さかったから、もしかして夢だったのかもって不安だったんだ。でも蜻蛉玉があったし、いつか会えると思ってずっと待ってた」  ぎゅうぎゅうに抱きしめていた腕がようやく緩んだ。慌てて離れようとしたが、両肩をグッと掴まれ身動きが取れなくなる。 「神様、約束どおり俺をお嫁さんにしてくれるんだよね?」 「……は?」  何を言われたのかわからず、わたしは間抜けにもぽかんと口を開けながら男の顔を見上げてしまった。
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