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「ねぇ、まだ怒ってる?」  男の言葉に頬がぴくりとした。その言い方では、まるでわたしが駄々をこねているように聞こえるではないか。 「ずっと会いたかった神様が目の前にいるんだと思ったら我慢できなくて……ごめん。僕、ずっと神様のお嫁さんになることばかり考えてたからさ。本当にごめん」  そんなふうに謝られると、わたしが臍を曲げて困らせているような気がしてしまう。「いや、わたしは何も悪くない」と思いながら男をちらりと見た。きりっとしていた眉は力なく下がり、輝いていた目は悲しそうな色を浮かべている。 (困っているのはわたしのほうだぞ)  別に怒っているわけでも臍を曲げているわけでもない。まさか人のほうから口づけしてくるとは思わず、どう反応していいのかわからないのだ。 「神様、ごめん」 「……もういい」  これ以上こんな表情を見せられるのも居心地が悪い。そう思い、真横を向いていた体ごと男のほうに向き直る。すると男が安堵したように表情を緩めた。 「たしかにおまえはあのときの少女に間違いない。名前と違い魂魄はごまかしようがないからな」 「名前? こんぱく?」 「魂魄とはいわゆる魂のようなもののことだ。成長の過程で多少色の変化は起きるが根本は変わらない。我らは魂魄を見ることができるゆえ、姿形や名を変えてもごまかすことはできないということだ」 「姿形って……あ、そっか。神様には僕が女の子に見えてたんだっけ。でも名前も嘘なんてついてないよ?」 「は? おまえ、あのとき“千尋”と名乗っただろう?」  わたしの問いかけに男がにこりと笑った。 「名前、覚えてくれてたんだ。そう、僕の名前は千尋でいまも千尋、変わってないよ」 「いや、千尋とは女の名では……あぁ、昨今は男女の区別をあまりつけないのだったな」  人の世の変化は早すぎてすっかり失念していた。少女の姿と魂魄、それに“千尋”という名でてっきり少女だと思い込んでいたことに気がつく。 「改めて神様、上園千尋(かみぞのちひろ)、二十五歳です。職業は親戚の商売の手伝いを少し、あとは花嫁修業かな」 「花嫁修業?」 「神様のお嫁さんになるんだから、完璧に家事ができるようにならないと駄目だと思ったんだ。一番がんばったのは食事かな。じいさんは神様に食事は必要ないって言われたんだけど、まったく食べないわけじゃないんだよね? あ、もちろん洋食もスイーツも作れるから食べたいものがあったら何でも言って? 親戚の店でも評判よかったから、きっと口に合うと思うんだ。もちろん掃除洗濯繕い物もできるよ」  一息で話した千尋が満面の笑みを浮かべている。内容から察するに完璧な花嫁を目指しいろいろ学んできたのだろう。人の世では賞賛される内容に違いない。  しかし、目の前で正座しているのは男だ。それもわたしよりずっと大きな体をした大人の男だ。 (この男が花嫁……?)  宴席で隣に座っていた辰咜山(たつたやま)の竜神は男を花嫁にしたと言っていた。ということは、この男でも花嫁になれるのだろう。繕い物もできるということだし、念願叶って着物を縫ってもらうこともできる。 (だが、わたしより大きな男だぞ?)  並んで立てば、わたしのほうが嫁に見えやしないだろうか。 (……間違いなくそう見えるな)  これではまたもや竜神らに侮られるのがおちだ。「やはりはな垂れ小僧のままだな」という笑い声が聞こえてくるような気がする。酒の席では別の意味でもおちょくられるに違いない。存外下品な話題が好きな竜神らの顔を思い出し眉が寄る。 (やはり別の嫁を探すか)  すぐに見つかるかはわからないものの、探せばそのうち出会えるはず。男の清らかな魂魄は惜しいと思うが、どう考えても目の前の男を嫁と呼ぶには無理がある。 「申し訳ないが」  用は済んだし帰ろうと口を開きかけたところで、男が遮るように話し出した。 「それにここ、覚えてる? 神様が好きだって言ってくれた家があった場所だよ。本当はあの家もとっておきたかったんだけど、じいさんがマンションに建て替えるんだって聞かなくてさ。幸い梅の木は残ってるけど……やっぱり前の家じゃないと駄目だった?」 「別に、それは住んでいるおまえたちが決めればいいことだ」 「だって神様、この家なら住んでもいいかなって言ってくれたから」  そんなことを言った覚えは……あるな。趣のある家が次々と取り壊されてしまうのが悲しくて、ついそんな話をしてしまった記憶がある。 (そんなことまで覚えているのか)  些細な会話まで記憶に残すほどわたしを慕ってくれていたのかと思うと、妙に胸がくすぐったくなった。 (もはや人の世に信仰心などないと思っていたんだが)  大願成就くらいでしか人は神に頼らない。頼りはするが敬い尊ぶ気持ちは随分薄くなった。竜神に生贄を捧げることもなくなり、こうして嫁取りに難儀する有り様だ。  それなら人の世に社殿でも構え存在を訴えかけようかと思っても満足いく土地すらほとんどない。おかげでわたしは誕生して以来、放浪の竜神となってしまっている。 (そんな人の世で、これほど清らかな魂魄と純粋な思いを抱き続ける者がいるとはな)  花嫁修業もわたしへの気遣いだと思うと、どうにも離れがたい気持ちになってしまう。 「じいさんからこのマンションを引き継いで、こうして自分の部屋も確保してある。家賃収入だけじゃ多少不安はあるけど、親戚の店で定期的に働いてるからそこは安心してほしい。神様一人増えても十分養っていけるし、それにいまの世の中、一緒に暮らしても誰も神様だって気づかないから大丈夫だよ」 「……ん? ちょっと待て、ここにわたしが住むのか?」 「だって、僕がお嫁さんになるってことは結婚するってことだよね? 夫婦は一緒に住むのが普通だと思うんだけど」 「待て。竜神が人の世に住むなど聞いたことがない。よくて社殿に滞在するくらいだぞ?」 「そうなんだ。じゃあ、人間の家に住む最初の神様になるってことだね」  そう言って男がにこりと笑った。穢れのない純粋な表情に言葉が出てこない。 (社殿や神域になら棲めなくもないが、ここは人が大勢住む街の中だぞ?)  そんなところに棲めば神魂が濁ってしまう。人が我らを遠い存在にしか考えなくなったのは、我らが棲める土地が減り続けているのも要因の一つだ。接点がなくなれば人は簡単に我らのことを忘れてしまう。 (……いや、それにしてはこの部屋はやけに清々しいな)  そういえば女の子と出会ったときも、この清々しい気配に引き寄せられたことを思い出した。なるほど、この地には何か特別なものが存在するに違いない。 (あの梅の木か、それともかつてあった池か)  もしくは数を減らす一方の竜脈でも通っていたか。いずれにしても場所は悪くない。それに男からは信仰心にも似た気配を感じる。竜神にとって信仰心はなくてはならないもので、近くに感じられるのはありがたいことではあった。 (まぁ、しばらく様子を見るくらいはいいか)  しばらく様子を見て、やはり嫁にふさわしくないと判断したときは記憶を消せばいい。それから新しい嫁候補を探しても遅くはない。  よし、と心づもりをする。そうして「わたしの嫁にふさわしいか見極めてやろう」と告げ、しばらく男の家に滞在することにした。
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