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時計を見るとあと一時間で終了の時間となっていた。
プロセルフ・アートの世界に時間を忘れるくらい入り浸ってしまっていた。我に帰ったことで体が生理現象を起こし、大きくお腹が鳴る。
そろそろ帰ることにしよう。
目蓋を閉じれば、全ての作品が鮮明に映し出されるくらいこの目に焼き付けることができた。
「そこの君、ちょっといいかな?」
出口の扉に体を向けると、後ろから女性の声が聞こえてきた。穏やかでとても聴き心地のいい声音だ。私は思わず、後ろを向く。まさか自分に話しかけたわけではないと思うが、反射的に体は動いてしまっていた。
見ると、綺麗な女性が前に立っていた。茶色の髪を団子状に結んでおり、声と同じような穏やかな紺碧の瞳。水色のドレスを可憐に着飾り、光に反射させてキラキラと輝かせていた。
「えっと……」
彼女は明らかに私を見ていた。どうして自分が呼ばれたのか困惑する。キョロキョロと他の人を探すが、近くには見当たらない。やはり私に声をかけているみたいだ。
「私ですか?」
「ええ。あなた、開催から今までずっといましたよね?」
「は、はい。えっと……もしかして、まずかったですかね? ずっと居座ってしまっていたのは」
「うんうん。むしろ逆。楽しんでいただけたみたいで嬉しい限りです」
「あ、ありがとうございます。その……あなたは?」
「申し遅れましたね。私、『新生(あらお) こころ』と申します」
「新生 こころさん……あっ!」
私はその名前が意図することを察して、眉をあげた。
新生 こころは今回のプロセルフ・アートを手掛けた芸術家の名前だ。最初に見た資料のところに書いてあった。言われてみれば、写真で見た本人とそっくりだ。やはり、人は髪型が大事なのだと思い知らされた。
「ほ、本日はこんな素敵な個展を開いていただき、ありがとうございます!」
「ふふふっ。どういたしまして。あなた、学生さん?」
「はい。大学一年生の古元 宇美(ふるもと うみ)と申します」
「古元さんね。少し向こうの休憩所でお話ししない?」
「は、はい」
新生さんに連れられ、私は近くの休憩所へと赴いた。彼女は近くにある自動販売機でドリンクを二本購入すると、一本を私に渡してくれる。買ったばかりというのもあり、冷たさが手にじんわりと伝わってくる。
ソファーに腰掛けると二人してドリンクを一口飲む。冷たさは手だけではなく、体全体に伝わってくる。私はドリンクを飲むとゆっくりと息を吐いた。同時に新生さんも大きく息を吐いた。同じ行動をした私たちは顔を見合わせると照れ笑いを浮かべる。
「ごめんなさい。心の中の不安が途切れたような気がして、安堵でため息をついちゃった」
「心の中の不安ですか?」
「ええ。その……個展はどうだった?」
新生さんは私の目を見て、小さく呟いた。笑みを保っている彼女だが、その声音はなんだか行き詰まったようなものだった。きっと今の彼女の笑みは本物ではない。
「良かったです。すごく参考になったというか、私も頑張らないといけないなって、鼓舞させられた気がします」
私の言葉に新生さんは口を細々と開く。目を大きく開けるとすぐに閉じ、笑みを浮かべた。今度は心からの笑みだった。
「そっか……ありがとう。あなたも作品を作ったりしているの?」
「はい。デジタルでイラストを描いています。ただ、最近ちょっとモチベーションがなくなりかけていて……だから、今日は新生さんの作品を見れて良かったです」
「……そっか。一番辛い時だね。私も大学生の頃は同じだったかな。いや、今も同じか。いつかを境に毎日辛さと戦っている気がする」
「今も思っているんですか?」
今日の個展にはたくさんの人が訪れていた。きっと彼女は今、人々の注目の的となっている存在なのだ。なのに、どうして辛さと戦っているのだろうか。
「ええ。多分、芸術家という職業を止めるまでずっとこの辛さと戦い続けないといけないんだと思う」
「どうして辛いと感じているのですか?」
「古元さんはいつから絵を描き始めたの?」
「幼稚園くらいの頃だったと思います。よく片面が白紙の広告紙に描いていたと思います」
「私もやってたな。白いところがあったら描きたくなっちゃうんだよね。それくらいからよく絵は描いていた?」
「はい。描くのが楽しくて、ご飯も忘れて没頭していたと思います。親にはよく怒られたりしました」
「ははっ、ありがちだね。今もそうだったりする?」
「えっと……それは……」
私は思わず、言葉を飲み込んだ。「そうだ」と言おうと思ったが、確信には至ることができなかった。私は今、絵を描くのが楽しくて描いているのだろうか。なら、なぜこうまでモチベーションがなくなっているのだろうか。
「そうなんだよね。最初は『絵を描くのが楽しくて』描いていたはずだった。それで上達して、親や友達に褒められて、『絵を描いて誰かに褒められる』という二つの喜びを感じて、絵を描いていた。そして、それがいつの間にか『誰かに褒められたくて絵を描く』ようになっていった。だから、誰にも見られない、誰からも認めてもらえない絵なんて価値がないに等しいと思うようになってしまった。最初は『絵を描くこと』自体を楽しんでいたのに」
「ですね。言われてみて、まさに自分も同じ状況だなと思いました。そして、今AIによるイラスト侵食が起きて、私の絵がどんどん埋もれていって、誰からも相手にされなくなっていることに辛さを覚えてしまったんです。新生さん、私はどうすればいいんでしょうか?」
「そうだね。私も正確には分からない。まだ模索している段階だから。でも、その一つの道が『プロセルフ・アート』だと思っている」
「私も今日のこれを見て、それを実感しました。新生さんはなんで『プロセルフ・アート』を始めようと思ったんですか?」
「さっきAIについて話していたでしょ。それがきっかけよ。AIによってが綺麗なイラストが瞬間的に作られる未来がどこかのタイミングでくるだろうと思ったの。まさかこんなに早く来るとは思っていなかったけど。そんな未来が来た場合、次に私たち人間ができる芸術はなんだろうと模索した結果『自分自身』という存在に至ったの」
「自分自身ですか?」
「ええ。AIはあくまで人類が作り出したデータを参照して制作している。そこに現れる個人の特徴はかなり薄いものでしかない。だから、より『個』を大事にして作成しようと思ったの。私がどんな思いで作品を作るにあたったか。それを事細かく言葉に書き連ねる。量では叶わないからせめて質だけは負けたくないなって思ったの。AIには感情がないから、どんな思いで作品を作ったのかを表すことができない」
「より『個』を大事に……ですか? でも、それだと絵で食べてはいけません。自分を出し過ぎると独りよがりになって誰にも見てもらえなくなる」
「そうかもね。でも、少しは希望を持てると今日証明できた。独りよがりの絵を称賛してくれる人が世界に入るんだって思えたの。古元さんに会えてね」
「私にですか?」
私は俯き、考えた。確かに私は新生さんの作品に魅了され、ご飯も忘れて見入ってしまった。新生さんは自分という存在を信じて、独りよがりな絵を作った。
「私にもできるのでしょうか? 自分の、自分だけが信じた絵を描いて、上手くやっていくことが……」
「分からない。多分、一生不安で不幸に駆られるんだと思う。でも、私は不幸が悪いことなんて思わない。むしろ、不幸でなければ芸術家としてやっていけない。いつも渇望していて、餓死寸前であるからこそ、価値のあるものを生み出せると思っている」
新生さんの紺碧の瞳は生き生きと輝いていた。数年間迷いに迷って今の結論にたどり着いたのだと、その瞳から一目瞭然だった。私も新生さんみたいなかっこいい人間になれるのだろうか。
今にも不安で胸が押し潰されそうだ。きっと、ずっと辛い日が続くのだろう。でも、一度チャレンジしてみたいと心ははっきりと訴えかけていた。
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