第36話 囲まれた島

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第36話 囲まれた島

「イリスさま、参りましょう」  レオは申し訳なさそうな顔をしながらも、決して腕の力を弱めることなく廊下をいく。イリスは両脇を武官に抱えられ引きずられるようにされたまま自室に戻され、つかの間の荷造りの時間を与えられた。 「これはどうしましょう」  リリアナが高価な飾り物を惜しんで言ったが、イリスは首を振った。 「どうせすぐに帰ってくるわ。必要なものだけにしましょう」  そしてイリスは呪文のように『どうせすぐに帰ってくる』と何度もリリアナに言って、旅行鞄、たった二つしか荷物を詰めなかった。その少なさに、レオたち武官さえも顔を見合わせたほどで、もう少し持ったらと勧めてくれる男たちにもイリスは「どうせ帰ってくるのだから」と言った。 「近衛兵は何人付いてくるの?」 「十五人です」 「そんなに? では誰が猊下をお守りするの?」 「近衛は四百人おります。皆一丸となって聖皇猊下をお守りするので心配いりません」 「でも、せめて十人にして。十五人はさすがに多いわ」 「君命です。たとえイリスさまのお言葉でも従うことはできません」  イリスは『分かったわ』という代わりに、一人、臙脂(えんじ)の絨毯が敷かれた廊下を歩き出した。セサルの意思は固く、それを誰も変えることはできない。せめてもう一度会って、別れを告げたいと思ったが、執務室の前で枢機卿たちが長い列をなして拝謁を待っているのを見るとわがままは言えなかった。 「さあ、参りましょう」  レオはしきりに時間を気にしながら、イリスを促した。  アヴァロンの学校から帰って久しぶりに城に上がった時はまさかこんなことになるとは思わなかった。セサルに会えることが嬉しくて、ファスティドの家から小舟に乗ったのに、今は夜の闇に紛れてこっそりと逃げていく。  北側の港へと続く水路を通れば、兵士たちがせわしなく人の出入りを制限していた。レオの大尉の制服を見ると、何も言わずに先を通してくれるのだが、灯のついた家の窓から眠れないのか子供がこちらを見下ろしているのを見るとイリスは心苦しくてたまらなくなった。 ——わたしだけ逃げていいの?  この島に住む全ての人に大切な人がいて、皆、同じように異国からの侵略から逃げたいと思っているのに、自分だけがここを去ることに強い罪悪感が覚えてならない。イリスは宮殿を振り返った。ドーム型の建物は静かに時を待っているかのようだった。その美しい佇まいにセサルの姿が重なって、恋しくてならなくなる。イリスはセサルからもらったロザリオを握りしめた。 「あの船です」  中型の商船である。避難用の船なのに、そこに乗るのはイリスたちを含めたった数十人程度で、わざわざ彼女のためにセサルが用意させたようだ。 「足の速い船です。すぐにモレーンにつきましょう」  船長はそう言って安心させようとにこりと微笑んだが、彼女はなかなか桟橋に一歩足を伸ばせない。涙がぽたりと頬をつたい、レオが「イリスさま」と背を押しても動かなかった。幼い頃からの遊び相手でイリスに容赦しないレオだから、彼女が船に乗るのを拒むと抱き上げた。セサル以外の男にそんなことをされたことがない彼女は身を強張らせ、パクパクと口を開いたり閉じたりして、抗議の言葉も出すことができなかったけれど、レオの足が桟橋を渡り出すと、身をよじって逃げようとした。 「イリスさま。これは君命です。従ってください」  レオは苦しそうにそう言った。母のタティアナは宮殿に留まったままである。彼も心配でならないだろうのに、部下とともにイリスを連れてこの大事な時に国を去らなければならない。イリスは言った。 「自分で行けるわ。歩かせて」  落ち着いた声音に彼は安心したのだろう。大切なものを扱うようにイリスを下ろした。しかし、その時だった。深い霧の向こうで何か気配が動いた気がした。まだ避難していない漁船がいるのだろうかと、イリスは目を凝らす。 「イリスさま、時間がありません」 「何か見えるわ」 「何か?」 「あっちよ」  イリスが北西を指差し、男たちの視線が全て海に注がれる。  凪いだ海に小さな灯が揺らぐのが見え、カンカンカンというベルの音が微かに聞こえてくる。そして誰かが言った。 「敵艦だ……」  水夫の声は震え、近衛兵は身を乗り出して遠くを見た。船主が持っていた望遠鏡を奪うようにレオは覗き込み、「あれはアヴァロン船だ……」と絶望を含んで言えば、兵士たちは次々に望遠鏡を覗き込んで同じことを口にする。 「大尉、どうしますか」 「こうもこうもない」  レオは青ざめ、次の指示を出し渋って頭を抱えた。イリスだけがその場で落ち着いており、くっと上げた顎で敵艦のいた方向を睨んでいたかと思うと、舌打ちばかりして何も生み出さない男たちに凛とした声で言う。 「宮殿に帰りましょう」 「しかし、猊下はーー」 「今、船を出したら沈められるわ。まだ宮殿では北の港にアヴァロンの船が来ていることを知らないはずよ。敵は霧に紛れて西の港からこっちに進路を変えたのだわ。猊下にお知らせになければ」  イリスは早くも歩き出すと、水路を走る小舟に乗り込んだ。 「レオ! 早くして。置いていくわよ!」  臆病でいつもオドオドしていたイリスがレオに大きく手を振った。近衛大尉はそれを見て苦笑を含んだ笑みを向ける。 「お美しいです、イリスさま」 「え?」 「どうか猊下の前でもそんな風に笑っていてください。イリスさまには笑顔が似合います」 「レオ……」 「あなたの笑顔を目にしたら命さえも惜しくない。命令違反ぐらい犯しましょう」  褒められ慣れないイリスは闇に赤らんだ顔をフードの中に隠した。
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