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1 お助けください、聖皇さま!
世界は空と海の二つに分かれていた。
地平線から積雲が白く湧き上がり、海面は陽の光を反して輝く。
程よい風もあり航海にはもってこいの日和である。
イリスは甲板で大きく伸びをした。胸下で切り返しのある空色のドレスの裾が風に揺れ、強い日差しから柔らかな肌を守るために羽織っていたマントのフードが飛んだ。風が金髪をさらい、イリスはそれを耳に挟むと、飛来したカモメが彼女を招くように船を先導するーー。
「二年ぶりの故郷だわ」
遠く、西のずっと果てに小さな点のように見えてきたのは、白い壁にオレンジ色の瓦が美しい海上都市、エーリュシオン。歩いて六時間もあれば一周できるほど小さな島国であるが、塔に囲まれたドーム型の宮殿がシンボルの聖皇教会派の聖地でもある。
「おい! 見えて来たぞ!」
誰かが、東を指して言ったせいか、甲板に人が溢れて来た。イリスは慌ててフードで顔を隠した。
「イリス、船室に戻りなさい」
イリスの世話係、ファスティドが、皺だらけの顔で言った。黒い立て襟の祭服に着替え、逆十字に七頭のドラゴン、レヴィアタンが絡まるロザリオを首から下げている。国に帰れば司祭という立派な身分であるのに、イリスのアヴァロン留学に付き合わされたせいで全寮制の女子校の校長という閑職に追い払われた気の毒な老人である。年齢は不詳。背中がくの字に曲がっているところを見ると、かなり高齢なのは確か。いいところは真面目なところ、何を頼んでも間違いのないところ、悪いところもまた真面目なところで、イリスにとって一番怖い人だと言っていい。
「もう少しだけ」
「瞳の色が人目に触れますぞ」
イリスはフードを深く被り直した。
彼女の瞳はエーリュシオンの王族の証である紫である。中でも紫サファイヤのように澄んだその色は王族の中でも数が少ない。生まれは末端王族の血筋にすぎないイリスではあるが、祖先帰りで美しい色を持ったおかげで、両親亡きあと、先のディマス聖皇猊下の寵姫ルイサに引き取られた。その養母も十一のときに亡くなり、聖皇の好意で隣国アヴァロンの寄宿舎学校に留学させてもらった。それをこの秋に卒業し、イリスは故郷へと帰って来たのである。
「もう少しだけよ、ファスティドさま」
「先ほどから、この船に乗船している士官たちがこちらを見ておる。イリスは人より目立つのですから、中に入りなさい」
イリスがちらりと見れば、エーリュシオンの黒い軍服を着た僧兵がこちらを見てイリスのことを何か話していた。僧と言っても、エーリュシオンの僧は世襲の特権階級を指し、なんら日常に制限はないから、他国でいう貴族と同じである。他国で公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、騎士があるように、エーリュシオンでは枢機卿、大司教、司教、司祭、助祭、祓魔師がある。ファスティド以外の男に免疫のないイリスは、男に見られているというだけで緊張してしまう。彼女は逃げるように船室に戻ろうとした。
「お待ちを」
男たちの方が一足早くイリスの前に立ちはだかった。
「エーリュシオンの方ですか」
「え、ええ」
「実は先ほどからあなたのことを見ていたのです。とてもお美しいのですね」
「…………」
「よろしければお名前を教えていただけませんか。ここで会えたのも何かの縁です。お時間があれば、私どもと街を観光などいたしませんか」
イリスはぶるぶると震えた。顔は真っ赤になるし、足はふらつくし、頼みの綱のファスティドを目で探すと、その部下たちに『どいてろ、ジジイ』と捕まっている。こんなことなら『男が怖い』という理由で断った護衛を頼めばよかった。
イリスは思わず七頭のドラゴン、レヴィアタンの付いたロザリオを掴んで願った。
——聖皇さま、お助けください。
そんな彼女の心を知らない男が白い手をとって、口つけしようとする。あわあわと、どうすることもできないイリス。それでも必死に手を引っ張り返し「ごめんなさい、あの、ごめんなさい」と言って泣きそうになった。
——聖皇さま!
その時である。
水しぶきが上がったかと思うと、ドンという音と共に船が大きく傾いた。
「きゃ!」
叫び声が船のあちこちから響き、イリスはマストに掴まって床に座り込んだが、彼女の手を取っていた男はとっさに欄干を掴み損ねて船から投げ落とされた。イリスは海を覗き込んだ。
「クジラだわ」
二十頭近いクジラの群れだった。潮を吹き、海面を跳ねる。その悠々とした姿は壮観である。澄んだ海の底で互いに呼び合って船を囲っている。
「イリス」
皺だらけのファスティドの手が老人とは思えぬ強い力でイリスの腕を掴んだ。
「簡単に祈ってはならぬと何度も言ったではないか」
「簡単にではないわ。必死だったの」
「あれぐらいのことで祈るな。男をあしらうことぐらい覚えよ」
「そんなこと言われても……」
ファスティドは大きくため息をついて、イリスを船室まで連れて行くと閉じ込めた。小さな窓から外を見れば、未だにクジラが船の周りにいる。アヴァロンクジラであるから、遠くアヴァロンから付いてきたのかもしれない。
イリスにはそういうことが稀にあった。
海の神レヴィアタンの末裔を名乗る聖皇家の人間であるから、守られているらしく、とにかく水のあるところならば、聖皇に祈ればさっきのように身を守ってくれるのである。コップが倒れたり、水槽の魚が襲ってきたり、問題自体は大したことでないのにいつも大騒ぎになるのでファスティドは命に関わる時以外に祈ることを禁じていた。
「聖皇猊下(げいか)はお元気かしら」
現在の聖皇はセサル三世である。御歳二十二歳。もう二年も会っていないからイリスの事など忘れているかもしれなかった。昔は父親の寵姫の養い子にすぎないイリスのことも可愛がってくれるような人だったが、噂では非情な海の君主としてその影響力を各国に及ぼしているという。
「お会いしたらなんて言おう」
イリスは寝台に伏して考えた。胸のロザリオは聖皇自らイリスとの別れにくれたものだ。首から離したことはこの二年、一度もない。イリスはそれを指先で撫でた。すると急に眠くなり、靴も脱がずにそのまま眠りの底に沈んで行く。
「おやすみ、イリス」
誰かがそう言って髪を撫でた気がした。
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