第34話 我らを救いたまえ

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第34話 我らを救いたまえ

 イリスは奥宮殿に急いでいた。  ピアは初めて会った時から一貫して嫌な子だったと彼女は思う。常に自分の感情がむき出しだったし、欲望にも忠実だった。それは子供っぽくもあり、イリスはずっと眉を顰めて、ぐっと我慢して来た。先ほどの出来事もそうである。毒かどうかは分からないにしろ、ピアは明らかにイリスに危害を加えようとした。  でも――とイリスは思う。『こればかりは嘘をつきません』と言った時のピアの顔に偽りがなかった気がするのだ。ピアはもっと単純で嫌味や嘘をつくのを得意としているけれど、イリスにも言っていることが嘘か誠か分かるぐらいできると思う。 ——もしかして、マノラはあの毒で自殺を考えていたなんてことは?!  イリスは周りが驚いた視線を投げかけるのを無視して、スカートの裾をたくし上げると奥宮殿へと走った。しかし 「マノラさま?」  イリスの足は一階の重臣たちの控えの間の近くで止まる。マノラが茶器や水差しを乗せたワゴンを押して中に入るのが見えたからだった。奥女官が重臣たちに茶を振る舞うなどおかしな話で、そういうのは侍従たちがこの宮殿でするのがしきたりだった。 「マノラさま!」  イリスは閉まりかけたドアに滑り込んだ。  イリスは部屋を見渡した。部屋の奥にもう一つ部屋があり、ちょうどマノラの姿がその中に消えて行くところだった。見かけない侍従が、イリスをちらりと見たが、彼女はかまわず奥へと進む。  そこではこうでもないああでもないと老人たちが束になって話しているところで、マノラの入室に気づいたのは数人だけだった。しかもその数人さえも『きっと猊下がご配慮くださったのだ』ぐらいに考えて彼女の存在を気にかける様子はなく、アヴァロンの進撃にどう対処すべきか話し合っている。だが、マノラが無言で枢機卿たちが作る円の周りに何か液体をまき出し、その臭いに気づくと全員が体を強張らせた。 ——油! 「動かないでください」 「何をしているのだ」  皆を代表するようにベルデ枢機卿が静かに口を開く。 「父はどこにいますか」 「父?」 「トレー枢機卿です」 「トレー殿の娘か。トレー殿はここにはいない。猊下より出仕差し止めされて自宅で謹慎されている」  マノラはそれを知らなかったようだ。ピアは知っていたのにマノラは知らない? イリスは二人が一緒にいなかったことを不思議に思った。 「手にしているものを置け」  落ち着き払ったような顔をしているベルデが声を震わせながら言った。見れば彼女が手にしているのは小さなロウソクで、それを油に放ったらあっという間にこの部屋は火の海になって全員が焼け死んでしまう。イリスは、急いでドアを押した。 「開かない!」  マノラが振り返った。 「開きはしませんわ。外から鍵をかけてありますもの」  部屋には窓もない。皆がざわめき、輪の中から司教であるファスティドがイリスに駆け寄って抱きしめた。 「イリス、なぜ、こんなところに!」 「猊下のところから帰るところで、マノラさまを見かけたので変だと思って後をついてきたのです」  イリスはマノラの表情のない顔をじっと見つめた。身をわきまえ、手際よくなんでもこなし、ピアに手こずっているような顔をしながらセサルやイリスからの信頼を失わなかったマノラ。彼女の中にある深い闇は一体なんなのだろうか。イリスはロウソクを掲げる彼女に勇気を振り絞って近づいた。 「どうしたの、マノラさま、ロウソクをこちらに渡して」 「申し訳ありませんが、私はマノラ・トレーではありませんわ。マノラはすでに死んでおります」 「ええ? なんですって」 「私はアヴァロン人のドーラです。捨てた妾腹の娘、マノラをトレーが引き取ると聞いて、すり代わったのです」  ブランカ枢機卿が苦々しく言った。 「密偵か!」  不敵に笑うマノラ、いや、ドーラ。アヴァロン訛りはそのせいだったのだ。 「皆様に恨みはありません。ただ本国より宮殿を焼くように連絡がありました。どうぞ苦しまずにお逝きください」 「マノラさま、どうして、どうして? こんなことをすればあなたも焼け死んでしまうわ!」 「私は今日、この日のために生まれてきたのですわ。アヴァロンという偉大なる祖国に尽くすために育て訓練されたのです。猊下も一緒に殺す予定でしたが、残念ながら警備が厳しく近づけません。雑魚しか殺せなかったことは死んでから愛する祖国に詫びます」  イリスはマノラの悲しくも毅然とした態度を怖いとも不謹慎にも美しいとも思った。そしていつだったか『ここは地獄ですわ』と言った彼女を思い出した。地獄なのは奥宮殿ではなくこの世界すべてだったのではなかろうか。あの時、宮殿を出たいと言ったのは同情を買うためなどではなく、マノラの最後の引き返せるチャンスで、真実彼女が望んだことだったのではないか。そう考えると、嫉妬とか打算とかでマノラに対峙していた自分の浅はかさがイリスは悔やまれてならない。 「マノラ、大丈夫よ。まだ引き返せる。こんなことはやめましょう」 「もう遅いのですわ。貧しい私の家族はすでに慰労金を受け取っているのですから。あなたのような恵まれた人には分からないかもしれませんが、こんな私でも必要とされ役立てることがあることは幸せなのです」 『あっ』と声が皆から漏れた。ロウソクが落ちていくのがコマ送りのように見え、勇敢な誰かが拾い上げようと両手を広げたが、ことすでに遅し。火はぼっと音を立てて上がり、みるみるうちに火の粉を強くした。イリスはセサルに祈った。 ——猊下、お助けください。  しかし、セサルがそれに気づき広い宮殿を横切り階段を降りてくるより先に火は回るか、窒息して息絶えてしまいそうだった。身を低くして空気を吸おうとするも、火はあっという間に部屋全体を包んでしまった。  何人かの年配の枢機卿たちは咳き込み胸を苦しそうに倒れこむ。イリスはなんとかしなければと思った。このままでは全員死んでしまう。アヴァロンの皇太子に不埒な真似をされそうになった時、水脈を当てて水を爆発させたときと同じようにすればいい。でもどうしたらいいのか分からなかった。 ——猊下!  イリスは祈り、そして水を探した。花瓶に僅かながらの水があることに気づくとそれを抱く。セサルは必ず助けてくれる。それまでなんとか持ちこたえればいいだけだ。きっとあとで力のことを内緒にしておかなかったと怒られるだろうが、それがなんだというのだ。  イリスは目をつぶった。 「海の神、レヴィアタンよ、どうかわたしに力をお貸しください」  自信などこれっぽっちもない。それでもイリスをかばってファスティドの服に火が移るのを見ると湧き上がる感情を留めておくことができなくなった。遠くにセサルの『解き放つのだ』という声が聞こえ、イリスは花瓶の中の水を全て天井高くかけた。 「イリスさま……」  するとどうだ。  水は半円球状となり、イリスを含めた重臣たちを守るように囲んだ。皆が息を飲み、右往左往していた動きをピタリと止める。火の勢いは相変わらず強いというのに、水はどこからともなく湧き上がるから、イリスたちにそれ以上襲い掛かることはなかった。しかし、円から外れたドーラは火の海の中に消えて行ってしまう。力をどうやったら使えるのか知らないイリスには彼女まで助けてやる力はなかった。 「神よ、レヴィアタンよ。我らを救いたまえ」  重臣たちがイリスを囲って跪き、ロザリオを握りしめて祈る。イリスはだんだんと気が遠くなるのを感じた。ここで諦めたらいけないと目を何度も見開こうとするが、やはり度重なる疲れにフラフラとしてファスティドに支えられていなければ座っていることすらできない。 ——猊下!  イリスは途切れる意識の中で聖皇を呼んだ。  そのときだ。ドンドンとドアを体当たりするかのような音がしたかと思うと武官たちが部屋になだれ込んできた。その奥に見えるのはまさしくこの国の聖皇にして君主であるセサル・レヴィアタン。彼は弱まって小さくなっていく半円の水の結界の中にいるイリスと目が合うと同時に手のひらを掲げて言った。「水よ我が手に」途端、天井から大粒の雨が降り出し火は勢いを失った。 「イリス」  セサルが走り寄ると小さな彼女の体を掻き抱いた。そして周囲の視線も考えずにキスをした。 「お前の声が聞こえた」 「怖かった。怖かったです」 「無事で何よりだ」  老臣たちの目が問うようにセサルを見たが、彼は毅然とした態度で言った。 「聞きたいこと言いたいことがあるような顔をしているが、それどころではない。アヴァロン海軍はティル島から航路を変えてエーリュシオンに向かったようだ。海の神に守られたエーリュシオンの臣下と宮殿を火で焼こうなどという愚かな輩に、この国をやるわけにはいかない。海は我らのものだ」 「猊下……」  セサルの姿はボロボロの臣下たちに前で神々しく見えた。誰もがこの人についていけばなんの心配もないと思い、そしてレヴィアタンの存在を信じて疑わない。 「皆、散れ。雑談している暇はない。三日後にはアヴァロンは我らに大砲を撃ってくるぞ」  彼の一言で、火傷をしている枢機卿たちも立ち上がった。イリス一人がそこに残り、セサルに「感謝いたします」と礼をいって、そして叱られるのを待った。しかし、彼から出てきた言葉は叱責ではなかった。 「よくやったイリス」 「猊下?」 「重臣たちを失ったら、余は一人、何をすればいいのか分からなかった」 「でも、皆の前で力を使ってしまいました」 「そうでもしなければ、イリスも含めて全員死んでいた」 「猊下……」 「お前はよくやったのだ。余の声を聞き、波動を合わせて力を放った」 「どうやったのか自分ではわかりません」 「構わない。イリスが無事ならそれでいい」  セサルは「褒美に抱きしめてやろう」と言ってイリスを胸の中に包む。イリスはその胸の中が心地よく、自分の意識が遠のくのを感じた。
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