第35話 お側においてください

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第35話 お側においてください

 イリスが目覚めたのはそれから丸二日経った後だった。見知らぬ天井を不思議に思って周囲を見回せば、セサルの執務室の隣にある休憩室に小さなベッドが運び込まれてイリスはそこで寝ていたようだ。 「お目覚めですか、イリスさま!」  リリアナが涙目でイリスを見て手を握る。 「ええ。もう大丈夫よ」 「皆、心配しておりました」  聞けば、枢機卿のような高位の者までもがイリスのことを案じて何度もリリアナを止めて具合を尋ねたのだという。ここに寝ているのは、セサルが心配しているからと、一緒に寝れば少しは具合がよくなるのではと気遣ってのことらしい。ただ、本人が寝る間もなく作戦の指示を出しているので、イリスは回復が遅く、ずいぶん長く寝てしまったとのことだった。 「マノラのことを聞いたトレー枢機卿が船を提供するのに合意したそうです」 「そう。でも猊下はトレーさまをお許しになるかしら」 「猊下というより、他の重臣たちがお冠で重罰に問うように訴えているそうですが、今はそれどころではないので、捕らえられて取り調べを受けていると聞きました」  イリスは起き上がった。  外は真っ暗闇である。明日になればアヴァロンの船がエーリュシオン近くまで近づいてくる。軍事力は劣っており、なす術はほとんどないようにイリスには思えてならない。 「アヴァロンは?」  リリアナの顔が曇った。 「猊下が嵐を呼んだそうですが、五隻しか沈めることができなかったそうです。アヴァロン戦艦は、すでに嵐対策で船を改良してあったらしく、思うようにいかなかったのですわ」  イリスはリリアナに手伝ってもらって服を着替えた。いつものように黒い祭服を着てレヴィアタンのロザリオを首から下げると、大きく息を吐いて背筋を正して言った。 「猊下にお会いしてくるわ」 「猊下はほとんど寝ていらっしゃらないので、お疲れのご様子です。何か食事をご用意しましょうか」 「ええ。簡単に食べられるものを用意してくれる?」 「かしこまりました」  イリスはセサルの執務室に入った。大理石の床をコツコツコツとヒールの音を立てて近くと武官たちに囲まれていたのにもかかわらず、ハッとセサルは書類から顔を上げた。 「イリス!」 「猊下」 「気がついたか」  玉顔は疲れを隠しきれずにいた。それでもイリスを見ると明るさを取り戻し、立ち上がってイリスに手を差し出した。そして部下には「少し休もう」と言って人払いしてくれ、二人だけになると愛おしむように額にキスをして安堵の息を吐く。 「具合はいいか」 「はい。もうすっかりよくなりました」 「ならいい」  イリスは跪いてセサルの指輪にキスをしたが、彼はそんな彼女をぎゅっと抱きしめて離さない。疲労がその腕を通じて感じられ、セサルがいつも言っている『波動』なるものがいつもと違って途切れ途切れであるのが分かった。 「イリス。しばらくこうさせてくれ」 「お疲れなのですね」  嵐を呼んで船を転覆させるなど、エーリュシオン域内とはいえ簡単なことではない。彼はぐったりとイリスを抱いたまま床に座っていたが、しばらくするとキスを求めてきた。イリスは彼の愛を受け止めてながら、今のエーリュシオンがただならぬ状況にあることを察っして苦しくなった。この国の君主であるセサルの苦悩はいかばかりだろうか。こういう時ほど、大切な人を支えたい。そう思ってイリスが抱きしめ返した時、意外にもセサルが急にイリスを突き放した。 「イリス、早く荷造りするんだ」 「荷造り?」 「日の出前に出航できるように船を待機させた」  イリスは立ち上がったセサルの上着の裾を掴む。 「どういう意味でしょうか、猊下」 「お前は母の故郷であモレーン国に送ることに決めた」 「猊下!」 「イリスは余の宝だ。失うわけにはいかない。モレーン国王は余の伯父であるから、援軍もきっと送ってくれるし、そなたのことも悪いようにはしないだろう」  イリスは額を床につけた。 「お願いです、猊下! わたしをこのままここに置いてください!」 「ダメだ。それだけは許さない。状況が落ち着いたら呼び戻すから、それまで辛抱するんだ」 「猊下!」  イリスは涙ながらに懇願したが、セサルは決して聞き入れなかった。イリスに自分のロザリオをかけてやると、近衛のレオを呼んだ。そして「すぐに連れて行け」といい、背を向ける。イリスは何度も「猊下!」「セサルさま!」と叫んだけれど、セサルがこちらを向いてくれることはなかった。
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