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side宝井 守
「…行ってくる」
「行ってらっしゃい」
関の家を少し早く出た。
一旦家に帰り、スーツを着替える。
ホテルで常務同伴の食事、さっきまでのトレーナーとジーンズで良いわけがなかった。
タクシーを呼び、ホテルに向かう。
一流のホテルに呼びつけられて、俺はやっと気づいていた。
沢田がねだる店はたかがランチにしても相当値が張る場所ばかりだ、育ちがそうさせているのは言うまでもなかった。
東京は誰もが知る超一流ホテルの激戦区だ。
「何だってこんな事に…」
呟いて聳えるホテルを見上げる。
案内されるままについた席は大きな窓から夜景も海も一望出来る。
静かに過ぎる時間を腕時計で確認してから、夜景を眺める憂鬱な自分の顔が大き過ぎる窓ガラスに映る。
「やぁ、宝井くん!遅れてしまって申し訳ない。ひよりの服が決まらなくてね」
背後から声が掛かり慌てて振り向いた。
席を立ち頭を下げる。
「とんでもないです。沢田、素敵だよ。堤常務、今日はお招き頂き…その私が不甲斐ないばかり、」
「アハハ!まぁまぁ!そう畏まらず、掛けなさい。」
「し、失礼します」
「ひよりも宝井くんの隣に掛けなさい」
「はぁーい」
恰幅の良い常務は椅子にかけると手を組み、俺と沢田を交互に眺め、ニコニコと微笑んだ。
「いやぁ、良いね」
何が良いのか…
「…はぁ…あのっ、梶の事で」
「まぁまぁ、食事が先だ。楽しみなさい」
「恐縮です。」
「一課の成績は素晴らしいな。君が指揮をとってるだけある。まだ現場まわりもしてるんだってな。」
「はい…現場は出来るだけ足を運んでおきたくて…この業界は流れが早いですから…目を離すと置いて行かれる気がしてしまいます」
苦笑いを浮かべる。
他愛もない話をしながら、高級な料理やワインが腹を膨らませた。
一体何の会だよ、これ。
俺は終始考えていた。梶をどうやって庇うか、何か沢田の気に障る事をしたのか、フル回転の割に大した答えは浮かばない。うちの課はさして問題がないからだ。
食事が終わり、堤常務が満足そうに腹を撫でながら俺に微笑んだ。
「他でもない君への頼みだ」
腹を撫でる仕草が、おまえも食ったよな?と責任を問うように見える。確かに俺は常務の用意した飯を食った。だから…だからなんの頼みがあるっていうんだ?まだ梶の話が始まっていない。まさか首を切れなんて言い出さないだろうな…。
「ひよりは良い女に育ったよ。宝井くんは、じきに四十だな」
「はい」
「そろそろ…身を固めてはどうかね」
常務はテーブルに肘をつき手を組む。少し前のめりになり、人の良さそうな顔をしてニコリと微笑んだ。
俺は背中を冷えた汗が伝うのを感じている。
このまま椅子にもたれてしまえば、簡単にワイシャツが背中に張り付く事が想像出来た。
「ハハ…いや、私はまだ…そんな余裕は」
「余裕は家庭を持てば出来るさ!一人で居るから仕事に負担がかかる。誰かにサポートして貰えたら、男は仕事に集中出来るというもんだろ?」
はっはっはと大きな声で笑う常務に、しかめ面を向けるわけにはいかなかった。
「そ、それにしたって…さわ…ひよりさんは私なんかには勿体無いですよ。年も随分離れていますし、彼女が可哀想です。」
「私が課長が良いって言ったんです!」
「…沢田…」
「入社前から君に目をつけていたらしい。どうだい?付き合ってみるところから始めてみては」
「お願いしますっ!」
沢田はしおらしくペコリと頭を下げる。
俺はそれをどうして良いか分からないまま固まっていた。
ただ、渇ききった喉に流れる唾液が、まるで石のように固く、息が詰まるようだった。
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