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荷台にまたがった彼女の左手に、いつのまにか一張りの短弓が握られていた。
桜色の唇が木の矢をくわえている。矢先は涙型にふくらんだ紅塗りの装飾。
背中は弓袋だったのか。束ねた髪止めに銀の鈴が二つ。
右の革手で口の矢をつがえ、隼のような視線を左の路地に凝らす。
「いる」って、まさか「射る」なのか?
人の姿を見ない田舎とはいえ立派な街中じゃないか。それもこのスピードの自転車から???
「来た。信号は突っ切れっ!」
彼女が叫び、一息で弓を引き絞った。
ぎりりとしなる弓。風圧に激しく暴れる黒髪と鈴。
止めると彼女が落ちる。もう乗りかかった舟だ。
道路はさらにカーブと傾斜を強める。そして十字路にさしかかった時。
左の道から目出し帽の大男が走ってきた。
僕の背中で、びゅんと弦が弾ける音が同時。
――ぴぃぃぃぃぃっ。
矢は音を立てながら地面をなめるように飛び、男の足に絡まるように当たって跳ねた。「ぐわっ」と声を出して倒れこむ。
かばんが宙を飛び、口を開けた。こぼれた紙幣が夕風に乗り、花嵐のように乱れ飛んだ。
「捕ったっ! 止めてっ!」
セーラー服が、今度は弓ごと抱きついた。思いきりブレーキをかけるとタイヤが甲高い悲鳴をあげ、彼女の顔と体が僕の背中に押しつけられる。後ろ髪の鈴が「しゅりん」と鳴った。
前のめりで自転車が止まる。彼女は「ありがとっ!」と言って荷台からぱっと離れ、黒髪を浮かせながら野ウサギのように駆けてゆく。
茜空を舞う一万円札には、目もくれず。
のたうち回る男の前で転がった矢を回収すると、夕陽をバックに僕に向かって満面の笑顔で弓を振った。
次の瞬間、警官の集団が路地から飛び出して雪崩れるように折り重なった。
「十六時三十四分、身柄確保!」
「痛え、痛えっ!」
「先に刃物をとれっ」
「早く紙幣を集めろ!」
「ひーっ!」
静かな道に怒号が飛び交い、工場からぞろぞろ人が出てきた。
「なんなんだ、今の子は……」
気がつくと女の子の姿は、紙幣を追う野次馬と、制止する警官と、夕陽に消えていて。
背中の感触と最後のきれいな笑顔が、僕の空気にまとわりついていた。
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