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陽が高く昇った頃、青草の中に凛と立つ紫の花菖蒲に眼を移す。そしてふと思い出した。柔らかい記憶の数々を。
私の知らない唄を口遊む娘。水の様な澄んだ声。優しい瞳と、暖かい掌。純情可憐で暖かな存在。
『菖蒲の花は別嬪さんよね。あたしもあれになりたい』
雀斑が頬に広がり少々垢の抜けない少女にとって、優麗な花菖蒲は憧れだったのだろうか。鈴を転がした様な笑い声も相まって、私は愛くるしいその姿に心を奪われていたのだが。
『そんな姿も愛しい』
と、私ならそう言えたはずだ。そう言おうとしたはずだ。何故口にしなかったのだろうか。何故口から出なかったのだろうか。
『また会いましょうね』
またなんて無い。それをもっと早く知りたかった。然すれば少女を喜ばす事が出来たろうに。鈴の笑いが一つ増えたろうに。
――純白が剥がされた。途端、乙女は消えて行った。
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