二十話

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二十話

はじまりは襦袢に咲く花。赤よりなお紅い血のあと。 赤ん坊が覚えてるはずないとおっしゃいますか? だけど覚えているのです、ハッキリと。 実の母は匕首で喉を突いて逝きました。屋敷の者曰く、自害だそうです。母は美しい人でした。年は二十二とまだ若く、小山内邸に身請けされてから然程経っていなかったそうです。 もとは吉原の遊女でした。揚羽は源氏名、本名はお蝶といいました。誰もその名では呼びませんでしたけど。 あるいは囲われる場所が廓から屋敷に替わっただけで、待遇は大差なかったのでしょうか。 考えたくはありませんが、身請け後の方が窮屈だったのかもしれません。 父上は独占欲が強く嫉妬深い人で、妾の外出を許さず奥座敷に閉じ込めました。 虫篭に蝶を入れるように。 母は独り寂しく死にました。 私以外の誰にも看取られず。 継母のお栄殿は厳しい方でした。何度折檻されたかわかりません。 顔を傷付けるのを避けたのは、父上にばれるのを恐れたのでしょうか。 『お前は揚羽によく似ている。人を小馬鹿にするように取り澄まして憎らしいこと、濃い淫売の血が流れてるんだわ、きっと』 何度手の甲を抓られ、お灸を据えられたか知れません。 柱に縛り付けて放置されたこともありました。 私は亡き母によく似ていたそうです。憎まれる理由はそれに尽きます。 父上には大変可愛がっていただきました。美しい蜻蛉玉や簪をお土産にもらった事をよく覚えています。 皮肉な話とでも申しましょうか、父上の贔屓がお栄殿の悋気を燃え上がらせたのは否めません。 気の毒な妾たちはお栄殿のいびりに耐えかね自害するか、痩せ細って息を引き取りました。 健やかに育った子は私と兄様の二人だけ、あとは死産か流産か……大きな声では申せませんが、お栄様が裏で手を回したともっぱらの評判でした。 出入りの商人と通じ、密かに毒を貰っていたのです。 兄様とは腹違いでした。私は妾の子、兄様はお栄様の子、小山内家の由緒正しい嫡男です。 いずれ小山内家を継ぐ跡取りとして、皆が兄様に期待しました。 兄様もよく期待にこたえ、日々庭で竹刀を振るい、武芸の腕を磨いたものです。 だけど私は知っています。 兄様は本当は喧嘩が嫌い。剣の稽古もお嫌い。心根が優しい人なのです。 小さい頃、兄様と襖に絵を描きました。兄様が墨で描いてくださったのは、それはそれは見事な黒い蝶でした。 何故黒い蝶を描いたのか尋ねれば、はにかむように微笑んで、こういったのです。 『お前の名とおそろいにした』 兄様と廊下に並び、襖に絵を描きました。勿論いけない事だとわかっていました。悪戯がばれたらお仕置きされると、わからない年ではありませんでしたから。 『兄様は上手ね。この蝶々なんて生きてるみたい』 『手習いの書き損じで練習したんだ』 『また曲がっちゃった』 『一筆でシュッとやれ。思いきりのよさが肝心だ』 実は絵師になりたいのだと、恥ずかしげに打ち明けてくれました。 『父上と母上には内緒にしてくれ、軟弱者めと叱られる』 『絶対言わない』 『約束』 絡めた小指から伝わるぬくもりが、幼い胸に明かりを灯しました。 あそこは母が死んだ座敷でした。 兄様が筆と墨を持ち出して蝶を描き入れたのは、まっさらな襖と向き合い、ポツンと立ち尽くす私を見かねたからかもしれません。 面影すら覚えてない産みの母といえど、襖を新しくすることで、その痕跡まで消されてしまったのが寂しかったのです。 してみると、あれは弔いでした。 兄様と比べるとどちらが上手いかは一目瞭然でした。私の蝶々は翅が曲がって墨が滲み、飛びにくそうにしています。 兄様の蝶はしゃんとして、どこまでも飛んでいけそうな生命力と躍動感に充ち溢れていました。 『できた』 『大事なものを忘れてる。黒アゲハの後ろ翅には赤い斑が入ってるんだ』 『兄様は物知りね』 『御父上に聞いたんだよ』 着物の袂から取り出したのは、小さな貝殻に入った口紅でした。 『お義母上の鏡台から……?』 『盗んだんじゃないぞ、借りただけだ。後で返せばばれない』 背徳感と高揚感で胸が弾みます。 兄様は悪戯を企む顔で口紅をすくい、蝶の後ろ翅を色付けました。 『口紅してあげたのね』 羨ましい。憎らしい。妬ましい。代わりたい。 満足げに身を引き、襖に飛ぶ蝶にうっとり見とれる横顔に嫉妬の炎が燻りました。 もしこの身が蝶だったら、兄様が紅を挿してくれたのに。指が直にくちびるに触れたのに。 黙り込んだ私に向き直り、兄様が無邪気に破顔しました。 『顔に墨が付いてるぞ』 『どこ?』 『じっとしてろ』 慌てて擦ろうとするのを遮り、懐紙で頬を拭ってくださいました。 『ほら、綺麗になった』 今度はこちらが照れる番でした。 兄様は優しい人です。柱に縛り付けられ泣いてると、こっそりやってきて縄をといてくれました。 この家で心を許せるのは兄様だけ。屋敷の者は信用できません。家来は卑しい妾の子を見下し、聞こえよがしに陰口を叩きます。父上に告げ口するほど頭が回るまいと侮っていたのです。 彼等に侮られたのは、私が欠けていたせいでしょうか。 この身が損なわれていなければ、小山内家の者として認めてもらえたのでしょうか。 使用人には片翅と呼ばれました。片輪とひっかけた蔑称です。 もちろん面と向かって言うひとはいませんが、厨房や井戸端に通りかかるたび、その言葉が聞こえてきました。 厨房を預かる女中が青菜を切りながら嘆きます。 『片翅の嬢やは不憫だね、伊右衛門様も何を考えてらっしゃるのか』 『女物のべべ着せて、死んだ妾の代わりをさせようとでも思ってるのかね』 『しっ、声が大きい。滅多なこと言うもんじゃないよ、お栄殿に聞かれたらどうする』 『けどさ、あれじゃ所帯だって持てないだろ』 『せっかく御母上譲りの綺麗な顔に生まれ付いたのにねェ』 『武家の次男坊三男坊は養子に出されるか婿入りするもんだが』 『伊右衛門様が手放すかねえ、大層執着してるみたいじゃないか』 『嫡男の長政様と仲睦まじいのだけが救いさね』 井戸端の女中が汚れ物を洗いながら囁きます。 『奥方も酷いことをなさる』 『命があるだけ儲けもんさ、最悪揚羽様の二の舞になってた』 『伊右衛門様の色惚けぶりときたら、妾の子に家を継がせるとか言い出しかねないもんねえ』 『早めに手を打ったんだよ』 ひそひそ、ひそひそ。可哀想に、気の毒に……物心付いた頃から常に好奇の目にさらされてきました。 そのたび踵を返し、泣きたいのを堪えて廊下を走り、あの襖絵を見に行くのです。 父上への懇願が功を奏し、兄様と私が合作した襖絵は取り外されませんでした。 兄上の蝶と私の蝶。 番いのように、夫婦のように、仲睦まじく飛んでいく。 襖の枠すらこえどこまでも。 翅の輪郭をなぞって思い巡らすうちに口元が綻び、自然と泣き笑いしていました。 兄様は私の支えでした。 お栄殿にいじめられてる時は庇ってくれました。 使用人の陰口を聞き咎めた折は怒り狂いました。 絵師の雅号のようでかっこいいと風変わりな名を褒めてくれたのも手の甲にできた火傷に軟膏を塗ってくれたのもふくらはぎの虫刺されから毒を吸い出してくれたのも全部全部兄様でした。 兄様は私の全てでした。 十を少しこえた頃でした。 ある夜目が覚めると何かがのしかかっていました。生臭い息を荒げた黒い影です。寝巻の裾が割れ、赤黒い男根が屹立していました。それを片手でしごいて、影が呟きました。 『ますます揚羽に似てきた』 父上でした。 布団を這って逃げようとしました。無駄でした。足首を掴んで戻され、着物をはだけられます。 『あっ、揚羽っ、ぁあっあ、すまん』 凌辱は夜毎続きました。 私の名と母の名、呼ぶ割合は半々でした。 『ワシを恨むな、仕方なかったんじゃ』 肛門に塗られた椿油。激しく出し入れされる太い魔羅。我が子の尻を剥いて犯す父。奥を突かれるたび背中が仰け反り、甲高い嬌声が迸りました。 私は母の身代わりとして養われていたのでしょうか。今となってはわかりません。聞きだすことすら叶いません。 父上にもてあそばれる都度、これが兄様だったらと考えました。兄様だったら許せる、耐えられる……。 そうでもしなければ、枕の下に隠した簪を使ってしまいそうでした。 父上に犯されてる間は心を蝶にして遠くに飛ばしました。兄様が教えてくれた漢詩、胡蝶の夢のように。 これはとるにたらない一瞬の事。 故に苦しくも哀しくもない。 地獄を離れた心はひらひら漂って、離れた部屋で休む、兄様の寝顔を見に行くのです。 『あッ、ぁッ、あぁっあ』 一際深く突かれ気を遣りました。 『はしたない声を出して……感じているのか?愛い奴め』 汗ばんだ手が顔をなでます。恐ろしく下卑た、醜い顔の男がいました。 兄様はこんな嗤い方しない。 これは兄様じゃない。 束の間の夢が覚めました。 辛く苦しい現実を思い知らされる位なら、蝶でいさせてほしかったのに。 父上の思惑は外れ、お栄殿に関係を気付かれました。布団を並べて寝ているのだからばれないほうがおかしいのです。 『恩知らずが!実の父を布団に引っ張り込むなど汚らわしい!』 母の二の舞になるのは時間の問題と覚悟していました。 だけど。 ああ、だけど。 『揚羽と同じ顔で睨むんじゃない!』 『おやめください母上!』 しゅんしゅん鳴る鉄瓶をひったくり、煮え滾る湯を私に浴びせようとしたお栄殿を、兄様が体を張って止めました。 『!ッ、』 鉄瓶が傾き、熱い湯が兄様の利き手にとび、真っ赤に焼け爛れました。 取り乱すお栄殿。駆け込む使用人。しゅうしゅう湯気をたて畳に転がる鉄瓶とぶち撒けられた湯。 兄様は絵師を夢見ていたのに。 数か月後、お栄殿は死にました。父上も後を追うように亡くなりました。 薬の行商人と厨房係をたらし込むのは思いのほか簡単でした。やり方は父に教わりました。口と後ろを使えばよいのです。 二人の膳に毎日少量の砒素を盛りました。毒殺はお栄殿が好んだ手口。自分から仕掛ける事はあってもやり返されるとは思わなかったのか、あっけなく逝きました。父上は序でです。 砒素は証拠が出にくい毒です。私が黒幕とは誰も気付きません。 父上の通夜の日、棺桶を前にうなだれた兄様が弱音を吐きました。 『俺のような元服間もない若造に当主が務まるだろうか。自信がない』 『大丈夫よ兄様。私がいるわ』 淑やかに膝を進め、そっと手を握ります。兄さまは力強く、縋るように握り返してくれました。 開け放った襖から蝶が迷い込み、座敷に渦巻く線香の煙を追いかけ、ひらひら飛んでいました。 しあわせでした。とても。 あの女が現れるまで。
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