二十一話

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二十一話

『お初にお目もじします、藩主様のご紹介に預かりました村瀬家の長女しのぶと申します。よろしくお見知りおきを』 『小山内家当主小山内長政だ。よろしく頼む』 兄様が十八の頃、縁談が組まれました。相手は武家の娘。あばた面の不器量な女でした。 『隣の方は……』 兄様は少し迷い、お見合いの場にふさわしい、もっとも穏当な紹介の仕方をしました。 屈辱でした。 縁談を持ってきたのは藩主様、断れるわけがありません。話はとんとん拍子にまとまり、祝言の日取りが決まりました。 『本当にあの人を娶るのですか。考え直されては』 『何故だ?しのぶは働き者で気立てが良い、嫁には申し分ない』 胸がきりきり痛みました。 『ですが醜女です。ご覧になりました、あの酷いあばた』 『本人の前でそれを言うなよ。あれは幼い頃疱瘡にかかった痕だ、かえって縁起が良い、不幸続きの家に福を運んでくれる』 伴侶の容姿を貶されたのが心外なのか、兄様の声色が尖りました。 下唇を噛んで続けます。 『小山内の嫁にふさわしくありません』 『村瀬は多産の家系だ。きっと元気な子を授かる、屋敷が賑やかになればお前も嬉しいだろ』 足早に廊下を歩む兄様に追い縋り、掠れた声を絞ります。 『私がいるではありませんか!』 兄様がやにわに立ち止まり、怪訝な顔をしました。 『わかってるとも。引き続き補佐を頼みたい、遠慮せず此処にいてくれ』 私の肩を叩いて。 『頼りにしてるぞ』 何故? そうじゃない。 違うの違うの違うの違うの違うの。 『媒酌人は村瀬の兄上だ。粗相のないようにな』 今日もまたあの女が来ます図々しく上がりこみまだ祝言も上げてないのに女主人を気取ってなれなれしく話しかけてきます。 『お二人は子供の頃から一緒に育ったんですよね。幼少のみぎりの長政様の話をしてください』 気味悪い猫なで声。 『自分にくっ付いて離れなかったと長政様がおっしゃってました。私にはきょうだいがいないからうらやましい。気軽に義姉さんと呼んでくださいましね』 必死に取り入ろうと。 『どうして避けるんです。何か気に障る事をしましたか、直すので教えてください。郷に入れば郷に従え、明日にでも嫁ぐ覚悟はできてます』 お前のような女が。 『あの襖……お二人で蝶々を描いたんですよね?長政様がそれはもうたのしそうに話してらっしゃいました、御母上の口紅を借りて』 頭の中で赤が爆ぜます。 『何をしてる!』 兄様が血相変えて走ってきます。しのぶは頬を押さえてしゃがんでいました。見上げる目には純粋な疑問と戸惑いの色。 『どうして?』 口紅の件は私と兄様だけの秘密でした。 それを何故お前ごときが。 答えはすぐにでました。 私にとって特別な事が、兄様には全然特別じゃなかったのです。 よその女に話してしまえる程度の秘密。 『は、はは』 乾いた笑いが漏れ、化け物でも見るように兄様が半歩下がりました。 ひらひらひらひらと蝶々が飛んでいます。 初めてしのぶに手を上げた日から、屋敷の中で真っ黒い蝶を見かけるようになりました。 不思議なことにこの蝶は私にしか見えないらしいのです。 使用人には腫物扱い。兄様までもが気味悪がる。物言いたげなしのぶは無視しました。 今日もまた真っ黒い蝶が湧き出して纏わり付きます。 私はひねもす座敷にひきこもり、母の遺した道具で化粧をし、母の遺した着物に袖を通します。 薬指で紅をさし、瑠璃の打掛を纏い、ひらひらひらひら蝶をまねて飛び回る。 兄様はすっかりしのぶの虜。許嫁に手を上げた、私のことは見もしない。 『あの女さえいなくなれば』 真っ黒な蝶がたかり、心を喰らい尽くします。 小山内家に女はいらない。 しのぶが来てから全て狂いだした。兄様はだまされてるんだ。正気に戻せるのは私だけ。 一か月後、兄様としのぶは祝言を上げました。紋付袴の媒酌人が新郎新婦の盃に御神酒を注ぎ、皆が祝います。 『おめでとうしのぶさん、兄様』 白無垢に身を包んだしのぶは涙ぐんで微笑み、兄様が久しぶりに笑顔を見せます。 『小山内の嫁として、貴方の義姉として認めてもらえるように頑張るわ』 おめでたいこと。 しのぶは小山内家に居座りました。 兄様と一緒に散歩して一緒の布団に入って、若い夫婦がやることと言えば決まっています。 『あッ、あっ、ぁあっあッ』 『愛してるぞしのぶ』 『長政さまあっ、ぁあっあ』 襖を静かに開けて覗きます。布団の上の影が重なり動きます。今宵も兄様としのぶは子作りに励んでいます。 『はっ、ぁ』 二人の営みを食い入るように凝視しながら手を後ろに回し、自分を慰めます。しのぶはだらしない顔でよがり狂っていました。 どこまでも醜い女。 『んッは、ぁっふ』 抽挿の律動に合わせ指を抜き差しすれば、じれったげに腰が動いて高まっていきます。 女になりたい。 それが叶わぬなら蝶になりたい。 兄様としのぶの情事を眺めながら菊座をいじるのは死ぬほどみじめでした。 黒い蝶はどんどん増えていきます。寝ても覚めても纏わり付いて離れません。 私は待ちました。 効き目がでるのをただひたすらに。 『どうした、顔色が悪いぞ』 『最近調子が悪くて』 『少し窶れたんじゃないか?医者を呼ぶか』 『大袈裟ですよ』 遠く声がします。黒い蝶をかき分けてふてふ歩きます。襖の引手を掴んで開けると、鏡台の前に誰かが屈んでいました。 『なんだこれは』 兄様が強張った顔で振り向きます。手には白い包み……鏡台の抽斗に隠していた砒素の余り。 『答えろ、なんだと聞いている!』 砒素を突き付け叫びました。 『医者を呼んだ。しのぶは砒素中毒だと言われた。お前がやったのか?父上と母上も』 『気付いてたの』 『信じたくなかった。俺の が親殺しなんて』 ひどく青ざめています。可哀想に。慰めてあげなきゃ。 てふてふと畳を踏み、ひらひらと翅を揺らし、愛しいひとを抱き締めました。 『貴方は私のもの。だれにもやるもんですか』 『なんで毒を盛ったか答えろ、小姑じゃあるまいしそんなに兄嫁が目障りか!?』 『好きだから』 漸く想いを伝えられました。 『……ふざけるな』 『ふざけてません、兄様だけをお慕い申し上げております。兄様は私の気持ちに気付かなかったの?本当に?かけらも?』 『っ、』 『目を覚まして、あんな女のどこがいいの。私の方がずっと若くて綺麗で色事だって上手にこなす、けっして兄様を飽きさせたりしないわだからねえほら』 あとじさる兄様に縋り付き、着物の襟を大きくはだけます。 『子を生せぬだろうに!』 衝撃が来ました。 突き飛ばされたのです。 『身の程をわきまえろ。妾の子など追い出されても文句は言えん立場なのに、情けで置いてやってるんだ。お前の母を殺したのは俺の母のようなものだ、それが負い目で』 『哀れんでいたの』 『許せ。父上と違ってそちらの趣味はない』 『知って、いたの?』 『厠に立った折に悩ましい声が聞こえたからこっそり……』 私が恋した人は臆病者でした。 真実と向き合うおそろしさに逃げ続けた、卑劣な小心者。 『何故助けてくれなかったの』 絞り出すように聞けば、心底困惑しきった返事をよこされました。 『悦んでいたじゃないか、お前』 黒い蝶が噴き出します。 絶叫を上げると同時、母の形見の簪を掴み、片手で投げた着物が兄様の視覚を奪った機に乗じて押し倒しました。 『ぎゃあっ!』 血が飛び散ります。続けざまに突き刺します。 『やめて!』 襖が開け放たれました。突如として割り込んできたしのぶの悲鳴。背中に組み付いて引き剥がし、激しい揉み合いのはてに簪を奪い取って…… 後ろから布を巻かれました。 顔や肩から出血した兄様が、息を荒げて膝立ち、着物を捩った縄で私の首を締め上げています。 『やれしのぶ!』 苦しい。息ができない。宙をかきむしり身もがきます。 簪を両手に持ち替えたしのぶが顔を歪め、苦しげに詫びました。 『ごめんなさい』 心の蔵を貫く串。 ぽたぽた滴る雫。 体が傾いで倒れ込みます。しのぶが簪を放りだし、号泣しながら兄様の胸に飛び込んでいきます。 『長政様、私……』 『コイツは無理心中を企てた。因果応報だ』 『でも』 『後のことはまかせておけ。お前は自分の体を一番に考えろ、腹のやや子に障る』 蝶の群れが骸を食べます。兄様としのぶは固く抱き合い泣いています。 座敷に乱れ飛ぶ蝶が私のもとに集まり、人に化けました。 傍らにたたずむのは幸薄そうな若い女。似てるけど、私の方がずっと綺麗。 他にもたくさんいました。畳に仰向けた私を取り囲み、ぼそぼそ何かを呟いています。背中には霧状に霞む黒い翅が生えていました。 『雄雛か雌雛か』 『雄雛なら殺す。雌雛なら取り込む』 乳があれば。 子壺があれば。 本物の女だったら、好きな人に抱いてもらえたのに。
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