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二十三話
準々決勝は勝った。優勝まであと少し。
顧問や家族は応援してくれた。部活のダチや先輩は喜ぶふりしてくれた。
準決勝でぶち当たったのは他県代表の優勝候補の一角。
久しぶりに本気で打ち合えた。楽しかった。
『赤、烏丸理一選手の勝利!』
試合後に一礼し、面を外した相手が言った。
『やめるわ俺』
『え?』
『上には上がいんだな』
『ちょっと待て、んな急に……お前強いじゃん、せっかく代表になれたのにもったいねえよ!一本目の打突キレイに入ったろ、そのあとの仕掛け技にも釣られたし来年はきっと』
『勝てるか』
肩を掴んで振り向かせ、初めて泣いていることに気付いた。
汗と涙と鼻水が混ざった汚い顔に、やせ我慢をこじらせた卑屈な表情が浮かぶ。
『満足?』
払われたはずみに竹刀を落とす。
俺はまだ余力を残していたが、相手は息が切れ、今にもぶっ倒れそうによろけていた。
絶句する俺を憎しみ込めて睨み付け、凄む。
『同情とかだせえことすんな。迷惑』
急激に歓声が遠ざかり、眩いライトの下に所在なく立ち尽くす。大分経ってからのろくさ竹刀を拾い、対岸の通用口を憮然と睨む。
『だせえのはどっちだ』
弱えくせに。
負けたくせに。
悔しけりゃ食い下がれ、せめて一本取り返して会場去れよ。
勝てねえなら引き分け狙え。
凡人は努力しろ。
打ち込みに下がんな。応じ技に引くな。来年はもっと強くなってもっともっと楽しませろよ。
『…………ッ、』
鼓膜の裏にエコーする本音にぽっきり心が折れた。
烏丸理一はとんでもねえうぬぼれ屋だ。心の底じゃ実力の劣る相手を見下し、ださいヤツめと嘲っていた。
まだやまぬ歓声と強烈なライトを浴び、痛いほど竹刀を握りこむ。
勝者の慰めや励ましが既に踏み付けた敗者の自尊心をどんだけずたずたにするか、馬鹿で青臭い俺はこれっぽっちも考えちゃいなかった。
準決勝敗退をきっかけに部活をやめた。
俺に憧れて入った後輩や顧問は引き止めたものの、他の奴等はホッとしたみてえだった。
「ぐ、は」
強くなりゃなるほど人が離れていく。
勝っても勝ってもその喜びを虚しさが打ち消し、試合にでるのが苦痛になった。
偉い人に貰える賞状やトロフィーも俺には重すぎて、ずぶずぶ沈み込む一方で、だから全部爺ちゃんにやった。
部活のダチが離れてったのはそんな天才気取りの傲慢さが鼻に付いたからで、詰まるところ超中学生級だとか周りにヨイショされて増長した俺が悪くて、朝昼晩竹刀を振っても鬱々した気持ちは晴れず心底嫌いになる前に剣道をやめた。
『優しすぎるんやお前は』
喉を圧迫され視界が暗む。瑞々しい女体の弾力を感じる。
「よ、せ」
葵ちゃんの体で好き勝手すんな、この子には好きな子がいるんだ、仲直りしなきゃいけねえんだ。
息苦しさに抗い、手探りで竹刀を求める。駄目だ届かねえ、たった数センチなのに……。
苛立たしげに畳を引っ掻く俺と、蝶の攻撃に苦戦する茶倉の視線が絡む。
「よお聞け不細工、その男が惚れとるんは俺や」
空気が凍り付く。
『なんだと?』
「聞こえんかったんか、ほなもっぺん言うたる。ソイツは俺の相方で俺のもん、お前なんぞ眼中ないてええ加減わかれよ。一生懸命こすって勃たせてご苦労さん、せやけどしぼんでもて使い物ならへんやん。俺が上やったらギンギンガンギマリなのに色んなトコ下品にもろだしの痴女じゃどうあがいたかて発情せんもんな」
右の人さし指と親指で輪っかを作り、左の指を下品に抜き差しする。
「理一は玉の裏が弱いねん。乳首は指でいじるよか吸われる方が感じる、尺八と同時に会陰なぞったれば即イキや。そんなことも知らんで子作りとかちゃんちゃらおかしいわ」
『本当なの兄様』
「口と性格は最悪だがテクは絶品、体の相性は最の高!抱かれんなら茶倉以外考えらんねえ、言葉責めだけでムラムラしてきた!」
地獄蝶が険しい形相で黙り込む。黒い蝶が渦を巻いて集まりだす。
「今すぐケツに突っ込んであんあん言わせたい」
「これ見ろお揃いの数珠、茶倉が黒で俺が白、肌身離さず付けてんの」
「惚気んなや」
「照れてんの?可愛い」
背中に鳥肌が立ってきたが我慢して続ける。茶倉が高らかに宣言する。
「愛してるで理一」
「知ってた」
怒り狂った地獄蝶が片手を離し猛然と振り抜く。
『喰らえ!!』
袖が翻り無数の蝶が押し寄せる中、茶倉が蹴っ飛ばした竹刀をはっしと掴み、狙い定めて喉を突く。
「ごめん葵ちゃん!」
「羽ばたきせな飛べんのが蝶々の弱点か」
悶え苦しむ地獄蝶を振り落とし、蝶の群れを突っ切った茶倉と合流して走り出す。
「ぐずぐずすな、逃げるぞ!」
「向こうは元の屋敷なのか、また座敷が続いてるんじゃねえだろな!?」
「行ってみなわからん!」
背中を叩く殺気に肝を冷やす。蝶の群れに追い立てられ走るうち、飛来した帯が梁や柱を穿ち、畳を抉って暴れ回る。
今しも鋭く尖った反物が顔を掠め、頬の薄皮を切り裂いた。
「そろそろきゅうせん様の出番じゃねえの、なんで一緒に逃げてんだ、修行の成果見せてくれよ!」
「根回ししとったんや」
座敷が爆ぜた。
畳を裏返し飛び出たのは、茶倉が足裏を通じ座敷じゅうに張り巡らせた、無数の触手だった。
「ただで蝶々にたかられとったわけちゃうねんで。喰らえ、きゅうせん」
土色のミミズが梁や柱を打ち、柔軟な体躯を撓らせて群れを蹂躙する。
「すげえ!けどさ、こんな切り札持ってんならこっぱずかしい言い合いしねえでよかったんじゃねえの!?」
「敵をだますには味方から、裏の裏をかいたまで」
「俺で時間稼ぎしたろテメエ」
「間に合うたやんギリギリで」
腹の底から笑えてきた。それでこそ茶倉だ。
『私を見て、兄様』
底冷えする声に目を剥く。地獄蝶が自分の首に帯を回し、それを互い違いに引っ張っていた。
『この体がどうなってもいいの』
「くそっ」
葵ちゃんを人質にとられ、あと数センチ足らずの距離で立ち往生を余儀なくされる。
地獄蝶は淡く微笑んだまま、次第に口角を吊り上げ邪悪な笑みを広げる。両手に力がこもり、ますます強く締め上げて……
―「そこにおるんか理一、茶倉さん!」―
―「返事して葵!」―
じいちゃんと小山内さんの真剣極まる声が響き、うろたえきった少年少女の声がそれに続く。
「本当にこの向こうに?」
「わからん、勘や。せやけど蝶が描いてあるし、雅さんが持っとる黒無垢に引っ張ってこられたんは偶然と思えん」
「なんで蔵の着物持ってきたんですか」
「そうしなきゃいけない気がしたの」
「お願い葵、無視しないで開けて!」
「みんな心配してるんだ、顔だけでも見せてくれよ」
入れ替わり立ち替わり悲痛な訴えに貫かれ、緩んだ手が帯を落とす。
「ジュン?」
放たれた声と弛緩した表情は確かに葵ちゃんのもので。
「そこにいるの?」
か細い問いかけに応じたのは、安堵と希望に潤む少年の声。
「よかった、生きてる……」
ジュンくんが見舞いに来たのか。
深呼吸して腹から声を出す。
「じいちゃん!」
「理一!無事か」
「俺たちはなんとか。でも葵ちゃんが乗っ取られちまった」
「なんですって!?それであの子は、葵は無事なんですか」
「体の方はぴんぴんしてます。中身は別人だけど」
俺たちのやりとりに茶倉が割って入る。
「話は後や、出るで」
「よしきた」
唾したてのひらを擦り合わせ、襖の引手を掴んでおもいきり引っ張る。が、びくともしねえ。
「ん゛~~~~~~~~~ッ!」
顔真っ赤で踏ん張るもやっぱり開かず、じいちゃんたちに応援を頼む。
「手伝ってくれ!」
「突っかえ棒でもしたみたいに動かん」
「僕やります」
「私も」
あっちとこっちでガタガタ揺すり立てる。
「頑張れ脳筋」
「お前も手伝え!」
なんで開かねえんだ。地獄蝶の仕業か。襖で仕切ったこっちはアイツの領域、向こうとは異なる世界。
「あ、あぁあぁ」
葵ちゃんが大きく仰け反って痙攣し、またしても声色を変えて喋りだす。
『此処は私の閨。みだりに立ち入るな』
「今のは」
「葵ちゃんに憑いたヤツだ!」
俺の説明に襖の向こうの人たちが困惑し、じいちゃんが重々しく口を開く。
「小山内の家土地は雅さん名義になっとる、間借りしとる身でえばるんやない」
『お前は誰だ』
「烏丸正一。お前は」
『当てたら通す。外せば殺す』
夢の中でも本名は聞き取れなかった。きゅうせん様をけしかけようにも少女の細首を絞めたまま、誤れば頸椎を折ると脅す地獄蝶に茶倉が歯軋りする。
緊迫した沈黙を破り、短く息を吸ったじいちゃんが断言した。
「お前は鳳車。小山内家十五代当主、長政の実の弟や」
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