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二十七話
「ぐー。がー」
事を終えた理一は爆睡した。
夢の中でも誰かを守っているのか、数珠を巻いた手で竹刀を掴み、弛緩しきった口から涎をたらす寝顔はどこまでも健やかに満ち足りている。
しかし寝相が悪い。片膝を立てた拍子に裾が捲れ、大胆にはだけた衿の合わせ目から、情事の痕跡を散りばめた肌がこぼれる。
熟睡中の相棒を起こさぬように、極力物音をたてず廊下に出、後ろ手に襖を閉ざす。
縁側の向こうには玲瓏と澄む月光が掃き清めた庭が広がり、静寂の帳が落ちていた。
実家の庭と趣が似ている。もちろん祖母の屋敷の方だ。
現在は正一が寝ずの番にあたっている。
小山内邸に憑いた霊は成仏した為、監視役として留まる必要もないのだが、依頼人の不安を払拭するのも大事な仕事。短期間に心労が嵩んだ雅の精神状態の方がむしろ心配である。
故に正一は雅の話し相手になるべく泊まり込み、相談を受けている。
今頃は葵を寝かせた部屋で向き合い、気が済むまで語り合ってるはず。
茶倉の番が来るのはまだ先。茶飲み話を邪魔するのは野暮だと自重し、踵を返すと同時にそれが目にとまる。
柱に刻まれたたけくらべのしるし。
随分古い。
戯れに指でなぞり、在りし日の記憶の残滓を読み取る。
『兄様には勝てませんね』
『お前も大きくなったぞ』
『早く大人になりたい。そうすれば皆に馬鹿にされないのに』
『いじめられたらすぐ言えよ、守ってやる』
柱を挟んではしゃぐ少年少女。無邪気に微笑む少女の顔は鳳車の面影を宿す。
最後の目盛りは茶倉の胸のあたりに彫られていた。
霊視を阻む蝶の群れが消えた今、屋敷に蓄積された記憶……此処に住んでいた人々の残留思念がハッキリ読み取れた。
鳳車が縁側に座り込み、せっせと千代紙を折っている。そこへ稽古帰りの長政が通りかかる。
『何をしているのだ』
『ああ兄様。この子を見てください、怪我してるの』
『可哀想に、翅が片方ちぎれてるじゃないか』
傍らに据えた竹製の虫籠の中には、あちこちボロボロに擦り切れた、片翅の蝶が囚われている。
『野良猫にでもいじめられたのかな』
『だからね、代わりを作ってあげようと思って』
鳳車が千代紙で織り上げたのは、美しい和柄の翅。
それを虫籠から出した蝶の胴にあてがい、口元を綻ばせる。
『飛んでけ』
されど上手くいかない。千代紙の翅は重すぎる。鳳車の手からよろよろ飛び立った蝶は、頼りなく蛇行したかと思いきや墜落し、片翅のまま息絶えてしまった。
『私のせいだわ』
『それは違うぞ、お前は善き行いをしたんだ』
泣きじゃくる鳳車を長政が慰め、野良犬野良猫の慰み者にならぬように、池のほとりに死骸を埋める。
蝶の墓を拝むきょうだいの姿が闇に溶け消え、大人の男女にすり替わる。
嘗て蝶を葬った池のほとりに蹲るのは、喪服姿の若夫婦。腹の膨れた妻は錆びた簪を持っていた。
『いくら拭いても血がとれないの。棺桶には入れられなかった』
『惨いことをした』
『愚かな私たちを許して』
妻は嗚咽しながら、夫は沈痛な表情で地面を掘り、柄が黒ずんだ簪を横たえる。
穴に土を掛け直し、夫が声を詰まらせる。
『本当はわかっていた。父に手籠めにされ悦ぶはずなかろうと、あの声は違うのだと……そうやって自分を偽らねば気が触れてしまいそうだった』
当時鳳車は十歳、長政は十二歳。
たった十二の少年が、ケダモノの如く我が子を犯す父に抗えたろうか。
『お前の人生を曲げたのは我が母、追い討ちをかけたのは我が父、とどめをさしたのはこの俺だ。来世は幸せになれよ』
長政は弱く愚かで優しい人間だ。
弟殺しを悔やみ、妻を共犯に巻き込んだ過ちを詫び、墓に手を合わせていた。
「勝手な言い分」
兄夫婦の願いと裏腹に、鳳車は成仏を拒んだ。
形見の簪などいっそ打ち捨ててくれればよかったのに、長政が優しいから、死後までも情けをかけられたから、そばにいたいと願ってしまった。
縁側で涼む茶倉のもとに鱗粉の道筋を曳き、黒い蝶がやってくる。
「じっとしとれ言うたろ」
『くすぐったくてな』
蝶は多聞の声で喋った。
「約束どおりご覧に入れたで。気いすんだか」
『あんなふうに男を抱くんだな、泣き虫が大人になったもんだ』
「趣味わる。覗き見の何が楽しいねん」
茶倉と多聞は取引した。
『鳳車に押し勝てたのは俺が力を貸してやったからだ。代償を求めるのは当然の権利じゃないか』
「開き直るなや、道案内もできん役立たずが」
『ヒントはやったはずだが』
「虎の屏風絵がどうたら?頓智やんけ」
『お前一人でも鳳車の力は削れたかもしれない。が、些か時間と手間を擁す』
蝶々座敷での戦闘中、多聞は依代の痣を介し、茶倉に霊力を分け与え続けた。
『消耗戦は分が悪い。敵は蝶の大群と夥しい帯を操る悪霊。劣勢に立たされるのは火を見るより明らかだった』
実際茶倉は消耗していた。
理一たちは確かに強いが、もとより剣道は一対一の試合を主とする武道。
実戦に用いた江戸時代ならいざ知らず、一対多数の殺陣は本来想定してない故、「面」を制圧できるのはあの場で茶倉だけだった。
『老いぼれの方はそこそこやるが、若い方はちゃんばらごっこの域を出てないな。致命的に殺気が欠けてる』
茶倉たちは先鋒・中堅・大将の三人で陣を敷いたのではない、本当は四人で戦っていたのだ。
理一を狙った帯を燃やした黒い炎は茶倉の攻撃にあらず、多聞の術だった。
『助手にばれたんじゃないか。目が合ったぞ』
「蝶の目ん玉どこ?」
『さっき焼いたのにまた触れてくるとは懲りん奴め』
「おいたすな」
茶倉の声色が凄味を含み、殺気に触れた蝶が大急ぎで飛んで逃れる。
『怖い怖い、ちょっとした悪ふざけじゃないか。ああいうのが趣味なのか?どうせ抱くなら顔で選べ』
「体は上々」
『前と後ろをミミズにほじられデカい声上げてたな。泣きながら布団を掻きむしって……茶倉の慣らしの再現ならたいしたもんだ』
「うちはあないぬるない。手加減したわ」
うなじに蝶を張り付かせ理一を抱いたのは、多聞に対する牽制も込めていた。
魔性の蝶が耳元で囁く。
『嬲られながら交わる気分はどうだ?くすぐったくて気が散ったか』
多聞は火を熾すように茶倉のうなじをくすぐり続け、前戯を妨げようとした。
『首の後ろには脳幹に至る大事な神経が集中してる、皮膚の内からちくちく啄まれちゃたまらんはずだ』
追い出すのは簡単だ。きゅうせん様に命じるだけ。
だができない。
天敵に借りを作りたくない。
何食わぬ顔で前戯をこなす一方、うなじに巣を張る蝶が理性をかき乱し、どんどん体温が上がっていった。
『お前の歪む顔はそそる。感じているのがばれないように強がる顔はもっとそそる、もっともっと虐めたくなる』
「ガキの頃虫の脚もいで遊んでへんかった?」
『視姦に興奮したか』
うなじが燻る。
悩ましい熱が広がる。
『独り寝が寂しけりゃ皮膚で飼え。ミミズで間に合ってるか?』
あと少し多聞が離れるのが遅ければ、前戯の中断を余儀なくされ、ひとり悶え苦しんでいたはず……。
そこまで考え、違和感が膨らむ。
「なんで離れたねん、お前」
一呼吸の空白。
『首の後ろじゃせっかくの情事が見えないじゃないか』
「それだけ?」
『どういう意味だ』
「剥がされたんちゃうんか」
茶倉の前に浮かぶ蝶が重苦しく沈黙し、月の光が白々床を染める。
『何を言い出すかと思えば。俺が付けた火傷を見なかったのか』
「左手のな」
蝶々座敷で祝言の真似事をした時、理一が茶倉のうなじに添えたのは左手。
即ち、数珠を巻いてない手。
流れる雲が月を遮り、茶倉の姿が翳る。
「確信したわ。数珠は霊力増幅装置……俺とアイツのツナギになっとんねん」
左手だけなら火傷する。両手を使えば即座に祓える。
行為中、茶倉のうなじに接したのは右手。
「おかしいと思った。アイツとヤると気が満ちる、回復が早まる。そのスピードがどんどん上がっとる」
理一の推理は当たっていた。茶倉と理一は同じ祖から分かれた末裔、同じ血肉で出来ている。
だからこそ体を繋げ、互いの精気を分け合うことで、桁外れに力が高まる。
「陰と陽の関係か」
馬鹿げた話だ。
移殖など上手くいくはずない、どうせ失敗に終わる、耐えきれず逃げ出すだけと高を括っていた。
それでも構わない。
茶倉の宿命に理一を巻き込み滅ぼす位なら、痛い目を見せて追い出す方が正しい。
しかし。
十年精気を注ぎ続け、苗床が完成したなら。
「……そうか。アイツ、一緒にずっと……」
茶倉が理一を抱けば、きゅうせん様も理一を犯す。
何故ならこの体はきゅうせん様のもので、頭のてっぺんから爪先まで余さずきゅうせん様への捧げもので。
「俺がきゅうせんなんや」
同化していた?
茶倉練なんて人間はこの世のどこにも存在せず、人に擬態したおぞましい化け物がいるだけなのか。
『この俺が下郎に負けただと?馬鹿も休み休み言え』
「ええ加減認めろ。お前は自分が思っとるほど御大層な人間ちゃうで、ガキの俺にも勝てへん半人前や」
『十五年前と一緒にするな』
「理一はどんどん強くなる。アイツはまだ覚醒しとらん」
『少し霊が見えてさわれるだけ、棒きれ振り回すしか能がない普通の人間じゃないか』
「俺を傷付けへんで、お前だけ追い出した」
おそらく無意識に。
「このさき鍛えたらゴッツい悪霊祓えるようになるかもしれん、倅もうかうかしてられんで」
期待していいのか。
信じていいのか。
お前と一緒なら、俺の中のコイツを倒せるかもしれないと。
茶倉に纏わり付いていた蝶が突如舞い上がり、空の彼方へ去っていく。
『世迷言だな。付き合いきれん』
「帰るんか」
『例の襖は焚き上げろ。庭でやるのが嫌なら神社でも寺でも持ってけ』
「多聞!」
最後に呼び止める。
「俺、笑っとるか」
雲間に沈む月が暴かれ、青年の素顔を照らす。
『……化け物が』
嫌悪と憎悪が相半ばする捨て台詞を残し、多聞は消えた。
夜風に当たりすぎて体が冷えた。
そろそろ引き返すかと身を翻せば、廊下の奥が俄かに騒がしくなる。
「葵ちゃんが起きたで」
襖を開けた正一が叫び、寝ずに待っていた雅が真っ赤に泣き腫らした目で駆け付けてくる。
二人に続いて座敷に入ったところ、葵は布団に上体を起こし、ボーッと虚空を見詰めていた。
「具合は?」
「……お腹すいた」
枕元の小袋をポンと投げ渡す。司の手作りクッキー。
「ああ葵、無事でよかった!怪我は?どこも痛くない?念のため朝になるのを待って病院で検査してもらいましょうか」
「ううん。学校行く」
雅が固まるのをよそに、紐をほどいて袋を開け、ぼりぼりクッキーを摘まむ。
「急にどうして?大変な目にあったんだからまだ休んでていいのよ」
「じゅうぶん休んだもん。おばあちゃんにも心配かけたよね、ごめんね。全部聞いちゃったでしょ」
さっぱりした顔で笑い、体ごと雅に向き直る。
「そういうわけで。私、男なんだ」
「……」
「心はね、ずっと前からそうだった」
「うちに来た時から?」
「物心付いた時から」
「どうして言ってくれなかったの」
「わかってもらえると思わなかった。話す前から諦めた。おばあちゃんにはすっごく可愛がってもらったし、成人式の振袖仕立ててくれるってはりきってたし、がっかりさせたくなかったの」
雅の眉間に力がこもる。
「ええ、がっかりしたわ。とっても」
葵の体が強張る。正一は泰然と腕を組んだまま、祖母と孫のやりとりを見詰めている。
「もっと早くわかっていたら、端午の節句に立派な五月人形を飾れたのに」
葵が目を見開いて顔を上げ、雅が寂しげに微笑む。
「違うわね。わかろうとしなかっただけよね。ごめんなさい葵、私の頭が固いばっかりに辛い思いをさせて……」
「……許してくれる?」
掛け布団をキュッと握り締め、震える声を絞り出す。
「うちにいていい?」
答えは優しい抱擁だった。葵が大粒の涙をため、祖母の胸によりかかる。
「……成人式はスーツで出たい。黒くてカッコいいの」
「きっと似合うわ」
「ごめんね。ごめんなさい」
「謝らないの」
「この前の生地で巾着作ってくれる?いっぱい物が入るヤツ」
「もちろんよ」
正一が上を向いて鼻を啜る。祖母に抱かれた葵の目が茶倉の顔で止まり、おもむろに頭を下げた。
「ご迷惑おかけしました。怪我しませんでした?」
「親指切った位」
「救急箱にバンドエイド入ってるんで」
葵が不安げに瞳を揺らし、思いきって口火を切る。
「あの!茶倉さんたちが助けてくれたって、おばあちゃんから聞きました」
「覚えてへんのか」
「あんまり。頭がぼんやりしてて……変なお座敷にとばされて、烏丸さんとうろうろしたのは覚えてるけど」
精神的ショックが健忘に影響してるのだろうか。血の気の引いた顔で一同を見比べ、おずおず尋ねる。
「私、なにかした……?」
「鼻からタピオカ踊り食い」
「嘘でしょ!?」
「思い出すな。俺も忘れる」
葵の自慰を目撃したのは茶倉と多聞だけ。ならば黙っておけば良い。茶倉の返事を聞いた葵が俯き、枕元の封筒をとる。
「ホントはあとちょっと覚えてる。ジュンと司くんがいたよね?」
「ええ」
「会いに来てくれたんだよね」
証拠の手紙を見下ろし、開封する。
「私が小学生の頃、でっかい犬飼ってる家が通学路にあったでしょ」
「小山田さんと木村さんかしら。向かい合わせのお宅よね」
「通るたんびにすごい勢いで吠えられまくって、あの時も学校行きたくないってごねたっけ」
「たしかジュンちゃんと司くんがうちまでお迎えに来てくれて」
「怖がる私をぴったり真ん中に挟んで登校したの。無敵の川の字フォーメーション、傘とリコーダー装備バージョン」
『走ればすぐだよ』
『手ェ握ってあげる』
「右と左に睨み利かせて、私の手をしっかり握って。道に広がって歩くなって大人のひとに怒られたけど、本当嬉しかった」
便箋を開いて読む。目を瞑る。深呼吸。また読む。ややあって表情がほぐれ、許し許された微笑が浮かぶ。
友達の手紙を読み耽る葵の邪魔はせず、目顔で示し合わせて座敷を後にした。
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