そこにいた女(中)

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   2  「それじゃ、行って来るね」 「行ってらっしゃい」  近所に聞こえない様に小声で言って、出来るだけ細く開けたドアからサッと外へ出ると、鍵を掛けてアパートを出る。そしていつもの様に会社へと向う。  いつもここで制服姿のシュンイチを垣間見ていた。そしてタバコを吸って歩くくたびれたおじさんに会い、商店街では子供を乗せたお母さんの自転車とすれ違い、駅のホームにはカッコいいキャリアOLのお姉さんがいる。  前と違うのは、ただ私の部屋にあの可愛い高校生がいるということ。そこから一歩も外へ出られずに、私の帰りを待っている。 「お早うございます」  制服に着替えるとタイムカードを押して、いつもの様にデスクに座り、パソコンを立ち上げて業務に取り掛かる。  他の社員たちもそれぞれの仕事に就く。亜希子は誰にも見られていない隙を伺って、また事件報道の画面を開く。  事件に関する報道は昨日とあまり変わっていないが、少年を取り巻く家庭環境の事が少し詳しく書かれている。 『……父親によれば殺された少年の母親は以前父親と同じ都内の大学病院の勤務医であったが、愛知県にある妻の実家は総合病院を経営するエリートの家族であり、妻はひとり息子である少年を国立大学に入れる為に厳し過ぎるくらい熱心に教育に当たっていたのだという……』  あの夜、夢に魘されていたシュンイチの言葉が思い出される『……ごめんなさい、次はきっと頑張るから……痛い……痛いよう……』。  シュンイチは痛い痛いと言って、誰かから殴られている様に自分の顔や頭を庇っていた。あれは、お母さんに叩かれていたんだろうか。幾ら教育熱心だからといって、テストの成績が落ちたことを理由に自分の子供をそんなに酷く殴ったり出来るものなんだろうか。 『……やめて、やめて下さい痛いよ、ごめんなさい、許して、お願いします……』 そしてその後豹変した。 『チクショウこの野郎ぶっ殺すぞ! お前が悪いんだぞ! ちくしょうお前のせいだ! このやろう、殺してやる、殺してやるー……』 テストの成績が落ちたことに対する母親の仕打ちが余りに酷いので、遂に頭に来て切れてしまったということなんだろうか。  私に本当の胸の内を話して欲しい。もう少し時間がかかるとしても、シュンイチの苦しみを分かってあげたいから。辛い気持ちを話してくれなければ、力になって上げることが出来ないもの。  その夜。アパートに帰宅してご飯を食べた後、亜希子はシューティングゲームをしようとシュンイチを誘い、出来るだけ楽しく盛り上がる様にしておきながら、それとなくタイミングを窺って切り出してみた。 「ねえシュン君」 「えっ?」 「覚えてる? 最初にここに来た日のこと」 「えっ? 何?」  忙しくコントローラーを操作しながら、シュンイチは画面に顔を向けたまま答える。 「私会社に行ってるから分かるんだけど、外では凄い騒ぎになってるのよ」 「何が?」 「この近所で起きた事件のことで」 「えっ……」 一瞬シュンイチの手が止まり、画面では敵の攻撃を受けてやられてしまった。  きょとんとして亜希子の顔を見ている。 「勿論ここにいれば絶対安全なんだけど、でも外では大騒ぎになってるのよ」 「えっ……」 「私はここにシュン君がいるってことは絶対誰にも言わないけど」 「……」 「でも、覚えてるでしょう? ここに来る前に、シュン君が自分の家でしてしまったこと」 「……」 「ねぇ……」  シュンイチのコントローラーを操る手が止まっている。亜希子が急に言い出したことが理解出来ないという様に、亜希子の顔を半ば呆然として見ている。  と思うとコントローラーを投げ付けた。 「うるせえなぁ……分かってんだよそんなことは!」  急に怒り出したのでビクッとして亜希子は硬直してしまい、シュンイチの顔を見る。 「アキコも知ってんだろう! 白々しいこと言ってんじゃねえよ!」 「シュン君……」 「俺がやったんだよ、そうだよ俺が殺したんだよ、母親をよぉ、俺だよ、何か文句あんのかよ!」  大声を出して立ち上がる。 「……でも、何で」 「あのババァがよ、笑ったからだよ」 「えっ? 笑ったって? どういうこと?」 「俺の成績が落ちたからってなぁ、笑いやがったんだよ!」 「えっ……なんで?」 「グズでノロマな女だったんだよー」 「恐かったんじゃないの?」 シュンイチの変貌振りに驚きながらも、亜希子は疑問に感じたことを聞き返す。 「お前だってもう知ってんだろう、ぶっ殺してやってスッキリしたよ!」  ……報道では教育熱心な母親がシュンイチに対して異常に厳しく当たっていたと書いてあった。シュンイチの言う「グズでノロマな女」というのとは大分イメージが違う気がする。 「その包丁でブッ刺してやったら俺を捕まえようとして抱き付いてきた来たからよう、思いっきり刺しまくってやったんだよ。ブスッ、ブスッ、ブスーッて、あっはははははは……そしたら血だらけになって遂に手を離したから逃げて来たんだよぅ!」  このシュンイチは本当のシュンイチではない。亜希子は知っている。シュンイチは本当は大人しくて気の優しい男の子なんだ。亜希子の身体にしがみ付いて眠る顔を見ていれば分かる。シュンイチは理不尽な力に押し潰されそうになって、力尽くで歪められてしまっているんだ。 「何か文句あんのかよこの野郎っ!」  シュンイチの顔を見つめたまま、目からボロボロと涙が零れ落ちて来た。  驚いてシュンイチは大きな声を出すのを止める。  戸惑って側へ来ると、亜希子の肩に手を置いて声をかける。 「アキコ……」  拭っても拭っても流れ出る涙を滴らせながら、シクシクと亜希子は泣き続ける。 「ごめんねアキコ、もう泣かないでよ、僕はアキコのことは絶対殺したりなんかしないから、大丈夫だよ、ねぇ安心してよ」 亜希子はいつまでもしゃくり上げるだけで、まともな言葉を口にすることも出来ない。  そんな亜希子にシュンイチはどうしていいか分からなくなり、まるでコロコロと態度の変わる子供の様に優しくなって、亜希子の肩を抱いてくれる。 「ねぇどうしたの? 大丈夫だよ、もう泣かないでよ、ねぇってば、お願いだから……」  亜希子はシュンイチをギュッと抱きしめる。 「アキコ……」  戸惑って囁くシュンイチを抱きしめた亜希子は、シュンイチの唇を自分の唇で包む。  驚いたシュンイチは身をよじろうとするが、亜希子がシュンイチの唇をいつまでも包んでいると、力が抜けて亜希子にされるがままになる。  亜希子の涙がシュンイチの頬に伝って行く。テレビにはゲームの画面が点けっ放しになったまま、部屋はしんと静まっている。    3   土曜日になった。月曜の夜この部屋にシュンイチが来てから、今日で6日目になる。  昨夜はシュンイチに事件のことについて聞いてみようと思ったのに、あんなことになってしまい、失敗してしまった。  もう少し時間を置いた方が良いのだろうか。もう少し気持ちが通じるまで、でもきっと何とかしてあげなきゃ、何とか。  今日は休みだし、折角の良い天気なので、何処かへ出掛けてみたいところだけど、シュンイチは外へは出られない。なのでシュンイチの観たい映画のDVDをレンタルショップで借りて来て、家で観ようということになった。  一人で外へ出ると、シュンイチの家の前に止まっていたパトカーの姿が無くなっている。  それとなく近付いて、その家の表札を見ようとしたが、取り外されてしまったのか、表札が掛かっていたらしい跡だけが壁に残っている。  閉まっている門には『立ち入り禁止』の黄色いテープが貼り付けてある。  その上から覗き込む様にして壁の中を見ると、外された郵便受けが地面に置いてある。  人影が無いのを確かめて、そっと門を開くと身を屈めてテープを潜り、中に入って郵便受けに表示された名前を見る。  文字は薄くなっているけれど、確かに「越川康弘・詩織・俊一」と書かれている。  やっぱりこの家だったんだ……名前も本当にシュンイチだった。その家は二階建ての小じんまりした一軒家で、窓を覗いてみたが中は真っ暗で、ひっそりとしている。  商店街に入ると、駅までの何箇所かで警察官が通行人やお店の人等と話しているのを見かけた。やはり警察の捜査は続いているんだ……。  気になりつつも素知らぬ顔をして通り過ぎ、駅前にあるレンタルショップへ入る。  俊一が観たいと言った作品を探す「スパイダーマン」か「ロード・オブ・ザ・リング」のどちらか三部作の揃っている方。  まだ新しいせいか「スパイダーマン」の第三作は棚にズラリと並んでいるケースのどれもが借りられていて、空箱ばかりだった。  なので三部作が全て揃う「ロード・オブ・ザ・リング」の方を三枚借りて、観ながら食べるお菓子や飲み物と、それに夕御飯の材料も買って帰る。  帰って来てドアを開いて驚いた。中から「アハンアハン……」と言う女性がエッチしている声が聞こえて来る。アッと思って中へ入ると、俊一が戸棚に隠してあったアダルトDVDを出して見ている。隆夫が無理矢理置いていった物だ。 「コラッ、もう~何見てるのよ~」と言って慌ててプレーヤーのスイッチを切って取り出す。 「はは、エッチだなーアキコはこんなの見てんの?」と言いながら笑っている俊一の股間が膨らんでいるのを見つけてドキッとする。 「もう~子供がこんなの見てちゃダメでしょ」と誤魔化して片付ける。 「さ、早くコレ見ないと長いんだから、三本全部今日中に見られなくなっちゃうよ」  と言って借りてきた「ロード・オブ・ザ・リング」の第一作をプレーヤーに掛ける。 始まると俊一は夢中になって見ている様子だった。  評判の映画だったらしいけど、亜希子には感性がズレてしまっているのか、登場するキャラクターの誰にも共感して見ることが出来ない。それにストーリーがややこしくて分かり難いので、退屈してしまう。 それぞれが二時間を越える長い作品が三部作もあるので、二本目が終わる頃にはもう夕方になってしまった。  あまり面白いとも思えないので亜希子は夕飯の支度に取り掛かることにする。  始めてだけれど、ビーフシチューを作ってみようと思う。それに豪華なサラダも付けて。 用意が出来た時映画はまだ第三作の途中だったけど、俊一はお腹が空いたので食べたいと言うので、映画は中断して御飯を食べることにする。  始めてだったので煮込み加減とかどうかと思ったけど、どうやら美味しく出来たので良かったと思う。俊一も美味しそうに食べてくれる。 楽しそうに食べながら俊一が「ねぇねぇ」と言ってきたので「なぁに?」と聞き返すと「アキコって彼氏はいないの~?」という質問。 「へへーんだ、どうせいないわよ~」とふて腐れた様に答える。 「へぇ~でもあのDVDみたいにエッチはしたいんでしょ」と言われ、顔を赤らめて思わず「そんなこと大人に言うもんじゃないわよ!」と語気を強めてしまった。  驚いたのか俊一は「ごめんなさい」と言ってシュンとしてしまう。意外な反応に思わず可愛いと思ってしまうけど、初めて俊一に対して大人の立場を確立出来た気がして、直ぐには許してあげず、そのまま怒ったフリをしている。 シチューを食べ続けながら亜希子はむっつりして、取り繕う様に俊一が話しかけようとしても「そう」とか「そうだね」と素っ気無く答えるだけにしている。  食事が終わると黙って食器を片付けて、流しで黙々と洗い始める。  わざとガシャンガシャンと音を立てて、怒っている感情をアピールする。すると、いつの間に来たのか、後に立っていた俊一が腕を回して抱き付いて来る「ああ~もう何するのよ!」と振り払おうとするのを、尚も力を入れて縋り付いて来る。 「ねぇ、アキコ……」 「何よ!」  と語気を強めて言う。 「僕のこと好き?」 「……何よ、どうしたのよ」  素知らぬ顔をして答えながら、手を止め、振り向いて俊一を見る。 「だって、怒ってるし……」 「もう怒ってないよ」 「本当?」  少し可哀想になってしまう。 「本当だよ、大丈夫だから」  と言って再び洗い物を続けようとする。 「それなら、またこの前みたいにキスしてよ」 「えっ!」 「早くぅ」 「……」  仕方なく湯沸かし器を止めて手を振るい、顔だけを俊一に向けてチュッと軽くキスしてやる。 「そんなんじゃ嫌だ、もっといっぱいして」と服を引っ張るので、濡れた手を気にしつつ、もう一度キスしてやる。今度はちょっと長めに。  それでも俊一は「もっと、もっと……」と言って亜希子の顔に顔を押し付けて来る。  そんな俊一に少し気持ちが高ぶってしまい、俊一に身体を向けると、亜希子も反応し始めてしまう。  柔らかい唇が擦れ合い、赤ちゃんみたいな臭いがする。ムンとした自分のでない甘い温もりと共に、俊一の性が亜希子に伝わって来る。 俊一の熱い息がかかる。二人の唇がお互いを求め合ってる。口の中で俊一の舌と亜希子の舌が握手する。お互いの気持ちを確かめ合う様に固く握手し合う。  俊一を抱きしめて、優しく愛しむ様に顔を左右に振る。このまま一緒に溶け合いたい様な気持ちになってくる。  亜希子の腰に硬いモノが当たってる。俊一の脚の間で、それはもう明確に自己主張して熱を発してるのが分かる。 濡れた手も気にせず俊一を抱きながら、六畳間の方へ歩かせる。そのままカーペットの上に倒れ込んで、勢いで俊一の上に覆い被さる。  貪る様に唇の感触を確かめ合いながら、片手で俊一の腰を撫ぜる。そのまま脚を撫ぜて、そっと手をずらして……。  温かい……指でなぞると履いているスウェットの上からでも形が分かる。ビクッと俊一の身体が反応する。 「見てもいい?……」  目を開けた俊一はまるで病気の子供みたいに大人しく「うん」と答える。  俊一の腰に手を回してスウェットをずり提げると、下に履いている短パンの脇から、俊一のセックスがピョンと飛び出した。 あっ……と思った。まるで可愛らしい俊一には不釣合いで、大人の男性とまるで変わらない。でもやっぱり色が薄いと言うか、まだ誰にも触れられていない様な幼さがある。  短パンも脱がせてあげようとして手を回すと、俊一が腰を浮かせる。  自分の身体も汗ばんで来た気がして、亜希子もトレーナーを脱いで、下に着ていたTシャツも脱ぐ。 上半身はブラジャーだけになると、力強く立っている俊一のセックスを両手で包む。優しく撫ぜたり擦ったりして、気持ち良くさせてあげたいと思う。  俊一は「ううん……ああ……」と小さな声を出して、亜希子にされるがままになっている。まだ陰毛も薄くて、申し訳程度にしか生えていない。  まさか高校生だし、そんなことは無いと思うけど、まだ一度も、自分でしたことも無いんじゃないだろうか。  硬直している俊一のセックスに頬を寄せて、最初は愛おしむ様に優しくキスする。それから口に包んで、俊一を愛する。  俊一は「ううん、ああっ……」と声を出して、亜希子の頭をつかんだり髪を撫ぜたりしている。切なそうに目を閉じて身体をよじったりする。今にも達してしまうのではないかと思うくらいのけ反る。  それでも、亜希子が続けてあげても、そこまではなかなか辿り着くことが出来ないみたいだった。  やっぱり初めてだから、身体が戸惑ってるんだろうか、私が優しくしてあげるから、いっぱい感じて、私が良い所へと連れて行ってあげたい……。  亜希子は一生懸命にいつまでもしてあげようと思う。  そして「良い子だね、俊君、好きだよ……大好きだよ……」と囁きかけてみた時だった。登りつめて来る物があるのか、俊一はブリッジするみたいに身体を曲げて、上に腰を突き上げて「アッ……」と声を上げる。  そのまま硬直する様に身体を反らしたかと思うと、ビクビクと激しく痙攣する。  持っていた手が弾かれるくらい振動して、瞬く間に熱く光る命が俊一と亜希子の身体に降りかかって来る。 目を閉じてぐったりしている俊一のセックスは、まだ大きくて上を向いている。倒そうとして指で押し付けても、離すとまたピョンと起き上がってしまう。  あんなにいっぱい命を放出して、大丈夫なのかと思ったくらいなのに、若いということはこんなにも凄いんだと、驚いてしまう。 「ねぇアキコ」 「うん?」 「セックスして」 「えっ」  と言って笑ってみる。自分でも白々しい笑いだとは思うけど、あんまり露骨に言うもんだから、恥かしくって笑うしか無い。 「だって、男と女はセックスして結ばれるんでしょう」 「私と結ばれたいの?」 「うん」 もうアレコレと考えている状況じゃなかった。俊一の一言で亜希子の身体もすっかり反応してしまっている。  今日は失禁した訳でもないのに、パンツを脱ぐと滴り落ちてしまうくらい凄いことになってる。片手で胸を隠しながら、そっとブラジャーも取る。  仰向けに寝ている俊一の身体を跨いで、上を向いている俊一のセックスが亜希子の中心に来る様に、恥かしいけどガニ股みたいになって、そうっと身体を下ろして行く。俊一はじっと亜希子の顔を見てる。  俊一の先端が亜希子の中心に触れた時、ビクッと電気が走ったみたいに震えが来て、「あっ……」と思わず声を出してしまう。  そのまま腰を落として行く……ゆっくりと亜希子の中をかき分けて俊一が入って来る。 もう二度とこんな風に男性と一体になる感覚を味わうことは無いと思ってたのに。こんなことがまたあるなんて。 「俊君……」  俊一はギュッと目を瞑ってる。  亜希子の身体の中が一杯になって、そのまま俊一の上に腰を下ろす様に体重を預ける。  亜希子の中に俊一の全てが入ってる。俊一は目を閉じたまま亜希子の下で気を付けをする様に横たわってる。 「どうしたの俊君……痛いの?」 「ううん、痛くない、あったかい……」  俊一の感触を確かめながら、俊一の両肩の上に左右の手をついて、そのまま足を踏ん張って身体を上げる。  俊一が亜希子の中から抜き出て来る。 「ああっ……あああああっ……」  ギュッと目を閉じた俊一が亜希子に引かれるままに腰を上げて、背中を反らして身体を浮き上がらせる。  俊一が亜希子の中から抜け落ちそうになる寸前で、また腰を下ろして行く……。  亜希子の愛に塗れた俊一が、また亜希子の中に埋もれて来る……。 「ああああっ……」  この子と私が繋がってる……俊一君……もっと一体になりたいと思う。このまま溶け合ってしまうみたいに……嬉しいのと一緒に切なさが襲って来る。  言い知れぬ思いが激しさを呼び起こすのか。そうすることだけが切なさから逃げる方法だと感じているのか、自分でも思いがけないくらい激しく身体が動いてしまう。  二人が振動していくに連れて、辺りが無重力状態になって行くみたいだ。身体が宙に浮いている様な感じがして来る。  二人の中心から眩い光が身体中に広がって、全身を包み込んで行く。  俊一は目をギュッと閉じたまま亜希子に合わせて身をよじらせる。  俊一君も、きっと私と同じなんだ。 「俊一君……俊一君……私……俊一のこと、好きだよっ……」 「ああっ……あっ……あっ……アキコ……アキコっ……」 「俊一っ! 俊一っ! ああっ! ああっ、ああっ、ああっ……」  乳房が凄い勢いで上下に揺れる。恥かしいとかあられもないという気持ちは何処かへ吹き飛んでる。  それでも完全に溶け合うことが出来ないもどかしさに、夢中で俊一の身体に自分をぶつけている。訳が分からなくなる。 「ああっああっああっああああーーー!」   ビクンと痙攣を起こす様に背を曲げたかと思うと、下から俊一が亜希子の身体を跳ね上がらせる。亜希子の中に俊一の命がショットガンの様に何度も打ち込まれて来る。その衝撃が脳天を貫く。  俊一はそのまま首を仰け反らせてグッタリと脱力し、気を失ってしまった。  息を弾ませながら亜希子は俊一の身体から降りる。今度は力を出し尽くしたのか、俊一のセックスは小ちゃくなってしまっている。  亜希子は顔を近づける。そのまま食べてしまいたいと思う。口を開けてそっと包む……何て愛しいんだろう。本当にこのまま食べてしまいたい。 「う、うううう~~ん」  目を閉じたまま俊一が顔を歪める様にして、亜希子の髪をつかんでくる。 「俊ちゃん……」 「ううん、あははははは……やだ、アキコ、くすぐったいよぅ」  と笑って目を開く。たまらなくなって俊一の頬に手を当て、キスする。舌と舌が絡み合って、どっちがどっちだか分からないくらい。溶けてしまうくらい。  いつまでもこうしていたいと思う。そしてこのまま二人が本当に溶け合ってしまえればいいのにと思う。  どんなにセックスをしても亜希子は妊娠しない。  もし私が普通の身体だったなら、きっと若い俊一の命を受けて当然の様に妊娠するだろう。  子宮の無い私の身体では、凄い勢いで打ち込まれた俊の命は、みんな死んでしまうんだ。でももし奇跡が起きて妊娠することが出来たなら、私は生まれて来る子供の為に命を捧げてもいい。   そしてまた考えてみる。俊君がもし自分の子供だったとしたら……私が38歳だから、俊君が17歳として、21歳の時に産んでいれば、このくらいの子がいてもおかしくはないんだ。  12年前に片方の卵巣と子宮を失ってから、私にはもう母性というものはあまり残っていないのではないかと思ってた。  でも今俊一に対するこの愛しさは、きっと母性という物ではないかと思う。そうだ、コレは母性に違いない。私にもまだしっかりあったんだ……。    4   翌日の日曜日。俊と私は裸で縺れ合ったまま、朝の10時過ぎまで眠っていた。  目を開けると自分の鼻先に俊の温もりと、顔にかかる息を感じる。  まだ目を閉じたままの俊の顔にそっと近付いて、薄桃色をした可愛らしい唇にそっとキスする。  薄っすらと目を開けた俊がふふっ……と子供みたいに微笑む。  その日は一日中布団を敷いたままで、二人とも裸のまま過ごした。  昨夜三作目の途中でやめてしまった「ロード・オブ・ザ・リング」の続きを見て、観終わるとカップラーメンを食べ、昼過ぎにまた愛し合った。その後ゲームをして、お腹が空くとお菓子を食べて、また求め合った。  気が付くともう外は夕暮れになっている。お風呂に入って、夕食はデリバリーでケンタッキーのフライドチキンを取り、二人で手や顔を油まみれにしながらムシャムシャ食べる。そしてまた求め合う。  俊の体力は呆れるくらい回復が早く、求め合う度にすぐ始めての時と同じくらい熱くなる。  その瞬間だけは、俊一も全てを忘れられるのかもしれない。終わると思い出すので、また求める……。  夜が明けて月曜日になった。週末が終わった月曜日の朝というのは、目覚ましが鳴って目を開けると憂鬱な気持ちになってしまうものだけど、今は目を開けると一人ではない温もりがあって、一緒に目を覚ました俊がお早うのキスを求めて来る。  名残惜しいけれど仕事に行かなければならない。俊を残して布団を出ると、洗面と歯磨きを済ませ、お弁当を作りにかかる。  昨夜タイマーを掛けておいた炊飯器を開けて、炊きたてのご飯を弁当箱に詰める。おかずはレンジで暖めるだけの冷凍コロッケに付け合せはレタス。  朝食代わりのバナナを俊も食べると言うので冷蔵庫から2本持って6畳間へ戻る。  テレビを点けて朝のワイドショーを見ながら、二人でモグモグとバナナを食べる。  リモコンでパチパチとチャンネルを変えて見るが、どの局も週末に起きた各地の殺人事件や酷い交通事故、それに芸能人のスキャンダル等が目白押しで、俊の事件についての報道は無い。  世間では次々に恐ろしい事件が起きて、俊の起こした事件のことはもう古い話題になっているのかもしれない。  このまま誰からも忘れ去られてしまえば良いのに……と思う。そうなれば俊はずっとここに閉じ篭っていなくても、外へ出て一緒に街を歩くことだって出来る。  等と思っているうちに時間も無くなるので弁当箱をバッグに入れ、簡単にお化粧して身支度を整えると家を出る。 「行ってきます……」 「行ってらっしゃい、早く帰って来てね……」  その顔にはもう俊を残して始めて会社へ出掛けた日の様な不安の色は無い。もう私が裏切ったり、帰って来なくなってしまうのではないかという不安はないのだ。  パタンとドアを閉めて、外から鍵をかけ、アパートの敷地を出る。  6月に入って梅雨に近づいて来ているせいか、空はどんよりと曇って、空気が生暖かい。  いつもならこれから金曜日までの仕事を思って暗鬱な気持ちに耽ってしまうのに、今日はこの空模様の下を歩いていても、まるで広い大海原へ漕ぎ出して行く様な感じがする。  ワクワクするというのとは違うだろうか、半分は空恐ろしい。来たことのない未知の世界を開拓して行く様な感じだろうか。  駅へと続くいつもの道も、いつもの様にすれ違うくたびれたおじさんも、子供を乗せた自転車のお母さんも、全てが違って見える。  まるで世界が変わってしまったかの様に。いや、世界が変わったのではなく、変わったのは私の方なのだ。私は今、歩いたことのない新しい道へと踏み出したんだ。  一体この道の先はどうなっているんだろう。恐い気もする。私は小さな船で岸辺を離れ、大海原へと漕ぎ出してしまった。俊一という少年を乗せて。  でも一方では清清しい気持ちが身体中に湧き上がって来るのも感じる。この曇った空の下で、私にだけは遥かに広がる大きな大海原が見えている様な気もする。  いつもの様に経堂駅から電車に乗って、代々木上原~表参道と地下鉄を乗り継いで、日本橋駅に着いて地上に出る。立ち並ぶビル群の間を歩いてオフィスへと向かう。  いつもはこの辺りを過ぎる度に、スーツ姿の男たちの中に隆夫を探していたのだけれど、そんな自分はもういない。  ビルの玄関を入り、他の社員たちと一緒にエレベーターに乗る。  いつもの様にロッカールームで着替え、タイムレコーダーを押してデスクへ向かう。  いつもと同じいつもの職場。でも全てが違っている。例えれば両足が床から2センチくらい浮いているという様な。 「お早うございま~すぅ」  時間ギリギリになって淵松絵美子さんが駆け込んで来る。隣のデスクの椅子にドカッと座り、パソコンのスイッチを入れる。  モニターの背景いっぱいに堂本剛君の爽やかな笑顔が浮かび上がって来る。 「ツヨシお早う~あ~今日もしっかり仕事しなくっちゃねぇ」  パソコンが立ち上がる間に絵美子さんは持っていた袋からおもむろに菓子パンを出してムシャムシャと食べ始める。  亜希子は思う……ああ~絵美子さんに言ってみたい。私の家には17歳の美少年がいて、私の帰りを待っているのよ、って。私の秘密の恋人なのよ、って。  そんなことを考えて絵美子さんの横顔を見ていたら「えっ? 何倉田さん」と声を掛けられてしまった。 「あ、いえ、何でもないです……」  慌てて自分のパソコンに向き直り、先週からやりかけの伝票を表示する。  就業時間になるとそそくさとオフィスを出て、電車の乗り継ぎももどかしく早足に歩く。  経堂駅に着くと買い物もせず商店街をスタスタと過ぎ、アパートを目指す。  私の留守中に誰かが訪ねて来てしまうといけないので、部屋の中は電気も点けずに真っ暗なままだ。それは一週間前までの、私が一人暮らしをしていた時と同じ。  鍵を開けて真っ暗な中へ入り、ドアを閉める。  電気を点けると6畳間で待っていた俊が「お帰りなさい」と立ち上がって来る。バックを片手に提げたまま、抱きついて来た俊の身体を受け止めてキスする。  外出着も脱がず、そのまま縺れる様に倒れ込み、お互いの身体を確かめる様に愛し合う。  その晩一度目の行為が終わると、さすがにお腹が空いてきて、何か食べなきゃ、ということになった。  でも台所に行こうとする亜希子の手を、俊一がつかんで離さない。 「ちょっと俊、御飯作って食べなきゃでしょ」 「何か出前取って、来るまで寝たまま待ってればいいじゃんか~」 「ダメだよそんな、毎日贅沢してちゃ」と振り切って台所に立つ。  スパゲティの麺を茹でて、夕食の準備をしている間も、俊は側に来て亜希子の髪を触ったり腰に手を回してきたりする。 「もう、危ないでしょ」  と言ってるのに尚も脇の下を突ついたり項を撫ぜて来たりする。  キャッキャとはしゃぎながらどうにか二人分のスパゲティを作り、六畳間に運ぶ。  この狭い部屋の中で二人きりなのに、片時もお互いの身体から離れているのは嫌だという様に、ちょっかいを出してはふざけている。  この数日の間にどれだけ俊と身体を重ねただろうか。それでもその度ごとに激しさを増して行く様だった。  次の日の帰りに、俊一の着替えを買ってあげようと思い、経堂に着くと商店街にあるジーンズショップに入った。  その店があることは知っていたけれど、ジーパンや若者向けのファッションが中心の店だったので、入るのは始めてだった。  俊一は着の身着のままで亜希子の部屋に逃げ込んで来て、その服は処分してしまったので、着替える物がない。  まずは下着を買おうと思う。俊一が最初に履いていたパンツは白のブリーフだったけれど、柄の付いた明るい色のトランクスを選んでみる。俊はこんなの履いたこと無いんだろうか……と思いつつ買う。  それから部屋着用の上下のトレーナーとパジャマ。俊は外へ出られないから部屋着しか買う必要は無い。でも店内の見本用にマネキンが着ている若者向けのジーパンやニットのシャツの組み合わせを見ていると、俊が着ればきっと似合うだろうなと思う。  一度で良いから俊に私の選んだ服を着せて、一緒に街を歩いてみたい。  アパートへ帰って来て、ドアを開けて真っ暗な部屋へ入って電気を点ける。  買い物袋を置く間もなく飛びついて来た俊に抱きすくめられると、気が遠くなってしまう。  次の日亜希子が帰って電気を点けて驚いた。部屋の中が引っくり返した様に散らかっている。  見ると俊が退屈だったのか、押入れを開けて中を漁っていたらしく、長年入れっぱなしになっていたダンボール箱を引っ張り出して、中から水彩画の画材やキャンバスを出している。  すっかり忘れていたけれど、20代の頃、何か高尚な趣味でも持って教養を付けたいと思い、水彩画教室に通っていたことがあった。それは亜希子がその時の写生会で描きかけてやめてしまった絵だった。  見ると一緒に入っていた筆と絵の具やパレットを使って、俊は描きかけだった絵に色を塗り、完成させてしまっている。   当時他の生徒さんたちと一緒に高尾山に写生に行って描いた物で、山の上から眼下に広がる町並みを描いた風景画だった。  水彩画教室には2ヶ月近く通っていたけれど、亜希子はセンスが無いのかちっとも上達しなかった。他の生徒さんみたいに上手に描くことが出来なくて、やる気も薄れてしまい、やめてしまったのだった。  俊一はその画を鮮やかに完成させつつ、その背景に、手を繋いで空を飛んでいる二人の男女の姿を描き込んでいる。  遥かな空へ向かって飛び立っているその男と女は、俊と亜希子の姿なのだと言う。  思わず笑ってしまったけれど。ずっと忘れていた失くし物を俊が見つけてくれた様な気がした。  途中で投げ出してしまっていた亜希子の絵は、空と街の一部には着色していたけれど、後は殆どデッサンのままだったのに、まるであの風景が目前に広がっているかの様に、見事に仕上げてしまっている。 「ごめんね、思ったより綺麗に出来なかったんだけど」  と言うので「何言ってるの凄いじゃない、本当、凄い、ビックリしちゃったよ」 「イラストとか描くの昔から好きだったんだけど、もうずっと描いてなかったから」  そんな俊の趣味も才能も、俊の親たちは伸ばしてやることをせず、ひたすら国立大学に入る為に勉強することだけを強いて来たのだろうか。 「俊はイラストレーターとかになりたかったの?」  と聞いてみる。 「ううん。僕ね、医者になりたかったんだよ」 「えっ?」 「お父さんみたいな」 「お父さんみたいな?」 「うん。僕の父さんはね、凄い医者なんだよ。他の人みたいにお金儲けとかが目的じゃなくて、本当に患者さんのことを心から思ってあげて診察してあげるんだ。僕も将来お父さんみたいな医者になれたらいいな、って思ってた」  そうなんだ……俊は必ずしも嫌々勉強させられていた訳ではないんだ。自分でも医者になりたいという夢を持っていたんだ……。 「父さんの患者さんだった人が元気になって退院してからね、わざわざお礼を言いに家まで来たこともあったんだよ」  それじゃあ何故……という言葉が出掛かったけど、今はまだ黙っていよう。それは俊が自分から語ってくれるのを待っていた方が良いと思う。  木曜日になった。会社で仕事をしていても、早く帰って俊の顔を見たい、という思いが募って来る。でも家の食糧が少なくなってるし、今日は買い物をしなければならない。  商店街で手早く買い物を済ませ、両手いっぱいに買い物袋を提げて帰って来る。  いつもの様に真っ暗な部屋へ入りながら亜希子は「ただいまぁ~俊。今日は買い物して荷物がいっぱいだからねー、置くまでちょっと待っててよお願いだから」  と言いつつ荷物を置いて電気を点けると、いつもの様に立ち上がって来る俊の姿が無い。  あれ? と思って見回すと、部屋の隅に座った俊が「お帰りなさい」と元気の無い返事をする。 「どうしたの?」と聞くと、今日の昼間また刑事たちが聞き込みに来たのだと言う。この部屋へは来なかったけれど、隣の部屋を訪ねて来て、住人が刑事たちの質問に答えるのが聞こえたのだと言う。  きっとあの日聞き込みに来た時は隣の住人が仕事に行って留守だったので、今度は時間帯を変えて聞き込みに来たということだろう。  隣の男の人はやはり俊の顔写真を見せられている様子で、この少年を知らないか、等と聞かれていたが、知らないと答えていたと言う。  心配そうな俊に「大丈夫だよ、心配いらないから」と言ってあげたけど、俊の浮かない顔を見ていると、亜希子の気持ちも沈んで来てしまう。  俊の横に座り、肩を抱いてあげる。俊の顔を両手に包んで自分の方へ向かせ、安心させてあげようとキスする。  金曜日の朝になった。今日一日頑張れば、ずっと俊と一緒に過ごせる週末が来る。  いつもの様に「行って来るね……」「行ってらっしゃい……」と小声を交わしながらドアを出た時だった。思いがけず隣の住人が外の道からアパートの敷地へ入って来た。  ドキッとする。顔を合わせるのは何ヶ月か振りだった。今の俊との小声の遣り取りを見られてしまっただろうか。  なんでこんな時間にこの人が……と思うけど、休みで何処かへ遊びに行った帰りか、夜中の仕事が早く終わったので、帰って来たところなのかもしれない。 「こ、こんにちは」とぎこちなく会釈を交わして擦れ違った時、その男はチラッと流し目をくれながらニヤリと笑った。  ドキリとして、思わず振り返る。男は素知らぬ顔で自分の部屋の鍵を開けている。  その瞬間思った、この人は私の部屋に俊がいることを知っている……。  それが近所で母親を刺して逃げている高校生だということまでは気付いてないとしても、隆夫と別れて以来ひとりだった私が新しい男を作って部屋に連れ込んでいる。くらいに思っているのかもしれない。私と俊との話し声とか、それと……夜の声が聞こえたんじゃないだろうか。  隣の男がドアを開けて出かけて行く音を毎晩確認していた訳ではないから。いつもいないものと思って気にせずに声を出していたけれど、考えてみればあの男にだって休みの日はある筈だ。  隣の住人がいるとも知らずに、声も気にせず俊とお喋りして、いつもの行為を繰り広げていた時に、あの男が壁の向こうで聞き耳を立てていたとしたら……。  商店街を歩きながら、顔に血が上って真っ赤になって行くのを感じる。  それに、あの男も昼間聞き込みに来た刑事に俊の顔写真を見せられているのだ。まさか私の部屋にいるのが行方を捜査されている少年だとまでは考えが及ばないとしても、何かの弾みで俊の顔を見られでもしたら……。  ホームで電車を待ちながらゾッとしている。今夜からは隣の男がいるのかいないのか、こちらも聞き耳を立てて確認する様にしなくちゃ……。  待ちに待った週末が来た。今日と明日の二日間はずっと俊と一緒に過ごすことが出来る。  昨夜は隣の男が出掛けて行く音が聞こえたので、夜中まで気にせずに激しく愛し合っていた。  目が覚めてもまだ昨夜の余韻の中を漂っている様で、二人は裸のままお昼頃まで布団の中でまどろんでいる。  いい加減に眠気も覚めて来たので、そっと首に巻き付いた俊の腕を離して布団を出る。台所に立って、買っておいたインスタントラーメンを作ろうと思う。  お鍋にお湯を沸かし、冷蔵庫から長ネギを出して刻む。  ラーメンが出来る頃、匂いを嗅ぎつけた俊がノソノソと起き出して来る。  小さなテーブルにどんぶりを並べて、テレビを見ながら二人で啜っている時だった。  コンコン……最初は風で何かが揺れた音がしているのかと思った。だが、しばらくしてまた、コンコン……。  テレビのボリュームを下げて、俊に静かにする様に口に人差し指を立ててみせる。  コンコン……耳を澄ましているとまた音がする。隣の部屋かと思ったが、それは紛れも無くこの部屋のドアをノックしている。  俊を手で制して、足音を忍ばせてそっと台所に行く。  と思うと台所のガラス窓にヌーッと中を伺っている何者かの影が映った。  ドキリとする。でも台所の窓は磨りガラスなので、中を見ることは出来ないだろう。  もし電気が点いていたら不審に思われたかもしれないけど。昼間なので電気を点けていなくて良かった。  音がしない様にゆっくりと近付いて、そ~っとドアの覗き穴から外を伺う。  誰かいる……コンコン……またノックする。確かにこのドアをノックしている。  広角レンズで湾曲して見える覗き穴の下の方で、人影が何かもぞもぞと動いている。年配の女の人の様だ……と思うと屈みこんでいたその人が起き上がった。  お母さん!  顔を上げたのは八王子の実家に住んでいる亜希子の母だった。  思わず息が止まる。何故お母さんが……ドア一枚を隔てて母親がいる。でもまさかドアを開ける訳には行かない。  息を詰めて見ていると、何か紙袋に沢山持っている様子だ。  何をしに来たんだろう。今までこんな風に、突然訪ねて来ることなんて無かった。  母は少しウロウロした後、留守だと思って諦めたのか、帰ろうとして、また思い止まった様に振り返り、手にしていた紙袋をドアノブに下げる。  今年で62歳になるんだろうか、すっかり老け込んで、白髪と皺だらけになった母の顔を、小さな覗き穴から湾曲した視界の中で、息を詰めながら見ている。  母はハンドバックから手帳を取り出すとペンで何か書き込んでそのページを破り、ノブに吊り下げた紙袋に入れている。  そして帰って行く。丸まった小さな背中を見送る。これから八王子まで帰るんだろうか、電車があまり混まないで座って行けると良いけど……。  わざわざ遠くから訪ねて来たというのに、居留守を使って帰してしまった。何て酷い娘なんだろう……後ろめたい気持ちが湧き上がって来る。  そのまま暫く待って、本当に行ってしまったことを確認する。  振り返ると、俊が心配そうに見ている。 「誰だったの?」 「お母さん」 「お母さん? アキコの?」 「うん」 「大丈夫なの?」 「うん、もう帰っちゃったから」 「そう……」  母がドアノブに掛けて行った紙袋は、用心の為に夕方までそのままにしておこうと思う。それに今日は念の為、外に買い物に行くのもやめておこう。  外が暗くなって、電気を点けないと不自然な時間になってから、そっとドアを開け、ノブに掛かっている紙袋を取る。  中には大きな乾燥ワカメが入っている。それにビニールに入った玄米と大きな夏蜜柑が二つ。  ワカメはきっと横須賀に住んでる叔母さんから送って来た物だろう。玄米は前に実家に行った時、ご飯を炊く時に少し混ぜると良いって言ってたから、私にもやれということなのだろう。それから二つの大きな夏蜜柑。こんなの近所の八百屋に行けばいつでも買えるのに。  それからさっき何か書いていたメモが入っている。走り書きで震えた字だった。 『亜希ちゃん。たまたま用事があって近くまで来たので寄りました。身体に気を付けてね、また連絡します』  フォローしておいた方が良いと思い、実家に電話を入れる。  電話に出た母に今日は朝から会社の友人と遊びに行っていたので留守だったと嘘をつく。  そして、今度から来る時は必ず前もって連絡してから来る様にと念を押す。  それから最後に、本当はそんなに嬉しくも無かったけど「ワカメとかありがとう」と言って電話を切る。  母と電話で言葉を交わしている間、俊は音声を消してテレビゲームをしている。  亜希子は思う。このアパートにいてはまた母は来るかもしれない。警察もまた聞き込みに来るかもしれない。それにあの隣りの男が私たちの話声を聞きつけて怪しむかもしれない。突然訪ねて来る友達等は思い当たらないけど、その可能性だって無いとは言い切れない。  この生活を、俊との暮らしを誰にも邪魔されたくない。何処か誰にも見つからないところへ行って、俊と二人で暮らせたら良いのにと思う。それにはやはり、何処かへ引越すしかない。  何よりも事件が起きた俊の家からは遠く離れた方が良いに決まっている。  そして、母が訪ねて来るには日帰りでは来られないくらい離れたところが良い。  それには仕事に通うのが大変になったとしても、少し都心から離れなければならないだろう。  マンションを買う程のお金はないから、賃貸で、そしてこのアパートの様に隣の音が聞こえる様な部屋ではなく、防音がしっかりしている建物が良い。そして出来れば外からは部屋の中が見え難い様なところが良い。 「ねぇ俊。私たち、いつまでもここに住んでると、そのうち誰かに見つかっちゃうと思うのよ」  と話を切り出すと、俊は「えっ」と心配そうに顔を向ける。 「それでね、私考えたんだけど、何処かに引っ越しちゃえば良いと思うの」 「えっ、引っ越すの? 僕も一緒に?」 「勿論よ」  そう言うと俊は少しホッとした顔をする。 「それでね、引っ越す場所は何処が良いかって考えてるんだけど」 「うん」 「俊はどの辺が良いと思う?」 「うん……そうだね、どうせならどっか凄く遠いところで、誰にも見つけられない様なところが良いけど」 「でも私は仕事に行かなきゃならないから、ギリギリでも日本橋までは1時間半くらいで行ける所じゃないと困るのよ」 「僕はアキコと一緒なら何処でも良いけど、でも出来たら、窓から良い景色とかが見えるところがいいな」 「良い景色が見えるところ?」  そうだ、例え何処に住もうとも、俊は家から一歩も出られないのだから、何処にあろうと関係ない。でも、せめて窓から外の開放的な世界が見られるのなら、ずっと家に篭りきりでも気持ち的に大分楽なのかもしれない。  ラックから最近あまり使っていなかったノートパソコンを出して来て、電源を入れ、電話回線に接続してインターネットに繋げる。そして東京近郊の地図を検索して見る。  第一の条件は、家族や知人が訪ねて来るには遠いところ。そして会社にはギリギリ通える範囲であること。  実家のある八王子方面に隣接する埼玉県や神奈川県は除外して、考えられるのは千葉県や茨城県辺りだろうか。  俊は窓からの景色が良いところがいいと言う。山の自然等の景観が良いところとなれば、それこそ栃木や群馬まで行かなければならないだろう。でもそこまで行くと通勤時間が掛かり過ぎてしまう。そう思うと手頃なのは千葉県かと思う。地図を見ると東京湾をぐるりと囲む様に、電車の路線が海の沿線を走っている。  窓からの景色が良いところ……それがもし山ではなくて海だとしたら、もっと良いのではないか。  千葉の東京湾沿岸なら、もしかしたら窓から海が見える賃貸マンションもあるかもしれない。  俊は千葉の東京湾沿岸という考えに「それ良いよ、窓から海とか見えたら最高じゃん」と嬉しそうに笑う。  不動産の物件を探す為に東京湾沿岸を走る電車の駅を探す。  一番海沿いを走っているのは東京駅から出ているJRの京葉線だった。  ディズニーランドのある舞浜駅や野球場のある海浜幕張駅等は、観光地なのであまり賃貸マンションはないのではないかと思う。  もう少し先の駅ならどうだろう。幕張駅の先には検見川浜や稲毛海岸という駅名がある。  不動産情報のサイトを検索して、京葉線沿線の物件を調べてみる。  条件としては、なるべく海に近くて、今とそれ程変わらない家賃で借りられるしっかりしたマンション。  しかしマンションともなれば、このアパートと同じくらいの家賃という訳には行かないかもしれない。  そう思ったけど、調べてみると都心から離れているせいか、今の家賃に少し上乗せするくらいで住める物件が幾つかあった。  でも、窓から海が見えるということは、他の建物よりも一番海沿いに建っているマンションでなければならない。  掲載されている物件の地図を探しても、海が見えそうな場所に建っているマンションは見つからなかった。  やはり見晴らしの良い物件は人気があって、空きが出てもすぐに入居されてしまうのかもしれない。  窓から海は見えないかもしれないけど、なるべく海に近いところ、という範囲に広げて、掲載されている物件を検討する。  そして、幾つかの物件に目星を付けて、明日にでもその物件を扱う不動産屋へ行ってみようということになった。  折角の日曜日だったけど、早くした方が良いからと俊にも納得させて、明日は一人で千葉まで出掛けて行くことにする。  日曜の朝、「頑張ってね」と少し寂しげに見送る俊を残して家を出る。  会社へ行く時と同じ様に小田急線で代々木上原から千代田線に乗り換える。そして日比谷駅で地下鉄日比谷線に乗り換えて八丁堀まで行き、そこから幕張方面へ向かうJR京葉線に乗る。  日曜日なので京葉線はディズニーランドへ向かう家族連れやカップルで満員だった。  そんな中でひとり吊り革につかまって窓の外を眺めている。電車は大きな川を何度も渡り、次第に東京湾が見え始める。  俊と一緒に来られたらいいのに……と考えていると、あの日俊がポツリと語った『お父さんみたいな医者になりたかった』という言葉が浮かんで来る。  俊はお母さんに無理やり勉強させられていたのではなく、自分も医者になりたいと思っていたんだ……それならどうして?……その疑問が頭の中に渦巻いて来る。  私を信じてくれているのなら俊はきっと話してくれるだろう。その時が来たら、そこからまた先のことを考えれば良い。  ディズニーランドがある舞浜駅で殆どの乗客が降りてしまい、途端に電車の中はがらんとしてしまう。  目的地である検見川浜駅はここからさらに7駅も先にある。次第に大きく車窓に迫って来る東京湾を眺めながら、通り過ぎて行く駅を数えて、やがて検見川浜駅に着いた。  改札を出ると、そこは想像していた田舎じみたイメージとは違い、美しく整備された新興住宅地だった。駅前のロータリーも広々として開放感がある。むしろそれが寂しい感じもする。  ネットで見つけた不動産屋は、駅前の繁華街にあった。  あらかじめアポイントは取っていなかったけれど、訪ねると背広を着た温厚そうなおじさんが応対してくれた。  目星をつけておいた物件を説明すると、案内してくれると言うので、おじさんの運転する車に乗って出発する。  走る窓から見ていると、この辺りはまっさらな状態から区画整備して建てられた住宅地だということが分かる。整然と立ち並ぶ団地やマンション群が、駅を囲んでどこまでも続いている。  そんな中を走り抜けて最初に連れてこられたのは、駅を挟んで海とは反対側にある、ズラリと並ぶマンション群のひとつだった。  こんなに同じ建物が並んでいれば、誰かに俊と私がこの辺りに住んでいることが分かっても、詳しい番地を知られさえしなければ、探し出すことは出来ないだろうと思う。  その部屋は4階で日当たりも良さそうだけど、ベランダに出ると向かいに建っている棟の同じ階の窓が良く見える。  こちらから見えるということは、あちらからも見えるということだ。  窓には常にカーテンを張っておくとしても、昼間ずっと家にいる俊が何かの拍子に向かいの住人から見られてしまうかもしれない。 「なかなか良いところですね、でも他の部屋も見てみたいです」  と言って二つ目の物件へ連れて行って貰う。  ふたつ目は更に駅から離れたところにあり、やはり鉄筋のマンションの3階で、ズラリと並んだ棟の一番外れにあった。隣の棟とはかなり角度が付いて建っているので、同じ階からでも中を覗かれる心配はなさそうだった。  だが、ここからでは検見川浜駅を挟んで海からは大分離れてしまう。ここまで来てしまうと、京葉線の沿線というよりは少し離れたところを平行して走っている総武線の検見川駅の方が近い。  私が難色を示すと「それじゃ次のところへ行きましょう」と三箇所目の物件へと向かう。  検索して目星を付けておいた物件は4件ある。最低でもそれを全て見て来たいと思う。  三件目の物件は今までの中で一番駅に近く、つまり海にも近いところにあった。近いと言っても海へ出るまでには歩いて10~20分くらいかかってしまいそうだけど。  マンション群からは少し離れた住宅地にあり、二階建ての各階に5世帯ずつのアパートだった。  空いていた2階のその部屋へ入って見ると、2部屋あって、今住んでいる世田谷のアパートに6畳間がもうひとつ増えた様な感じだった。  アパートの向かいは普通の一軒家で、境には木が茂っているので、窓から見える心配は無さそうだ。ただやはり、こうしたアパートだと隣の部屋との防音が気になる。  今までに回った3箇所の物件を思い出して考えながら、4件目の物件に向かう。  出来れば今日中に決めて、来週の週末には引越してしまいたい。  誰にも手の届かないところで、俊と二人で秘密に暮らしたい。  でも考えてみれば、いくら実家から日帰りで来るには遠い場所へ引っ越したとしても、引越し先の住所を内緒にしておく訳には行かないだろう。それに会社にも。  でもここまで引っ越して来てしまえば、母が連絡無しに突然訪ねて来ることは無いだろうと思う。職場の人間が訪ねて来ることはまず無いし、他に家を訪ねて来る様な友達もいない。  会社にも実家にも嘘の住所を教えてしまおうか、とも考えたけど、それではむしろ後で分かってしまった時に言い訳するのが苦しくなる。  あれこれ考えているうちに車は最後の物件に着いた。  そこは距離的にはまた駅から離れてしまうけど、海からの距離は3件目とそれ程変わらない、5階建てのマンションの最上階だった。  間取りは2DKで、四畳半程度のダイニングキッチンと六畳の和室、それにもう一部屋は四畳半の板の間で、その部屋は納戸の様に窓が無い。  この部屋なら俊が隠れているのに丁度良いかもしれない。  ダイニングと和室に面したベランダに出て見ると、向かいのマンションとの間には公園があって大分距離がある。向こうからこちらの窓を覗くとしても、望遠鏡でも無い限り人の顔も判別出来ないだろう。  それにこの部屋を気に入った理由はもうひとつある。ベランダから見える無数のマンション群の合間から、ほんのちょっとだけれど、どうやら海の切れ端が確認出来るのだ。 「ここに決めます」  と言うと不動産屋へ戻り、駅前にあるATMで現金を引き出す。  家賃が七万円で契約時には一か月分の前家賃と、それぞれ2ヶ月分の敷金礼金の合計を支払わなければならないので、全部で三十五万円プラス手数料と税金が掛かる。  来月からの契約では来週引っ越して来ることが出来ないので、家賃を日割りにして貰い、土曜日から住める様にして欲しいとお願いする。  気の良いおじさんはこちらの希望を聞いて、その通りに契約書を作ってくれた。  俊との新しい住まいが決まった。少し興奮しながら不動産屋を出ると、家で待っている俊に携帯で電話をかける。  自宅の電話番号を押して発信ボタンを押す。3回目のコール音の後に留守電に切り替わり、亜希子の吹き込んだ応答メッセージが聞こえてくる。 『はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい』  ピー音の後に亜希子は語りかける。 「もしもし、俊、私、亜希子だよ」  すぐにガチャッと受話器を取る音。 『もしもし……』  と俊の声が答える。 「大丈夫? 変わったことない?」 『うん』 「今部屋決めて来たからね」 『良いところ見つかった?』 「うん、昨日見てた中のひとつだよ」 『そう、今何処から掛けてるの?』 「不動産屋のお店を出たところ」 『すぐ帰って来る?』 「うん……」  契約が終わったらすぐに帰ろうと思っていたけれど、折角ここまで来たのだし、これから俊と住む街を少し歩いて散策して、東京湾もどんなだか見てみたいと思った。 「少し街の様子とか見て回ってから帰るから、心配しないで、待っててくれる?」 『うん、でもなるべく早くね』 「うん分かった、じゃね」  携帯を切るとパソコンから打ち出しておいた地図を見て、海の方へ向かって大きな通りを歩く。  季節は梅雨に入ってるんだろうか、相変わらず空は灰色の雲が覆っているけれど、まだ本格的な雨は降り出していなかった。  車道は広く、走っている車の数も少ない。地図によると海岸沿いには緑に包まれた広い公園がある。  歩いて行く先に、生い茂る森の様な一帯が見えて来る。あれがきっと公園なんだ。  公園に入ると、広々とした駐車場が広がっている。でも止まっている車は一台も無い。  森の中を縫って続く道を歩いて行く。他に人影は無い。あんまり寂しいのでもしかしたら工事か何かをやっていて、立入り禁止なのを気付かずに入って来てしまったのかな、とまで思ってしまう。  歩いて行くと広場へ出た。滑り台やトンネル等が付いた大きな遊具の上で、小さな女の子を遊ばせている若いお母さんがいた。  あ、やっと人がいた……と思ってホッとする。でもこんな寂しい公園で一人子供を遊ばせているその女性の姿が、何か物悲しい感じがする。今日は日曜日なのに、お父さんはいないのかな……。  等と思いながら通り過ぎて、再び森の中の道へ入り、海の気配がする方へと歩く。風に潮の匂いが混じって来た気がする。  やがて道に沿って左右に開けた森の間から、海の一角が青く顔を覗かせた。波の音もしてくる。  森を抜けると海辺に沿って草の生えた堤防がある。上へ登るとその先は砂浜になっており、視界いっぱいの海だった。  見渡す限り誰もいない……風の音だけがする。東京駅から電車で30分足らずで、こんなところがあるなんて。  この辺りはU時型に湾曲した東京湾の一番奥まった部分なのだろう。右側には遥かに延びた陸地の上に品川辺りのビル群が見える。そして左側に延びる陸地の先には遠く石油コンビナートが建ち並ぶ工業地帯が見える。  左右に湾曲した陸地に囲まれた先には遥かな海が広がっていて、遠く船が行き交っているのが見える。  埋め立ての人工海岸なのだろうか、あとひと月もして夏になれば、きっと海水浴客たちで賑わうのだろうけど、シーズンオフの海というのはこんなにも寂しいものなのか。  ここならば、俊と一緒に来られるかもしれない……。  夕暮れが近くなって、帰りの電車に揺られながら、引越しのことを考えている。明日からは会社から帰ったら荷造りを始めなくちゃ。  引越し屋さんはよくチラシが入っている安い業者で、軽トラック1台と運転手さん一人だけのパックを頼もう。  だけど……私が業者さんを呼んで引越しをしている間、俊をどうしよう。    第三章    1   翌日の月曜日。亜希子は家に帰ると俊と愛し合いたい気持ちを抑えて、俊に手伝って貰いながら荷造りを始めた。  荷物を詰めるダンボールは、府中からここへ引っ越して来た時に取ってあったのが役に立った。  荷物は殆ど亜希子一人の物だけなので、大した量ではない。  毎日荷造りを進めながら、大家さんに契約解除の連絡をして、郵便物の転送の手続きや電話とインターネットの移転、それに住民票の移動等、やらなければならないことは山ほどあって、その週は目が回る忙しさだった。  俊がこの部屋に侵入する時に割ったガラス窓は、引越しの準備をしていて割ってしまったことにしようと思う。その分は敷金から引かれてしまうだろうけど。  それから、まだどうするか考えあぐねている、俊を連れて行く方法。  大きな衣装箱か何かに入れて、そのまま荷物として運ぶ……なんてことも考えたけど、きっと重過ぎて引越屋さん一人では運べないだろう、私が手伝うとしても、落としたりして中に隠れていることがバレてしまうかもしれない。その方法では上手く行かない気がする。  となるとやはり別行動にして、引越屋さんが来る前に俊を家から出しておくのが良いと思う。  そして私が引越屋さんと二人で引越しを済ませた後で、誰にも見つからない様に俊をあのマンションの部屋に入れる……。  でもその為には朝このアパートを出てから検見川浜のマンションで引越が終わるまで、俊は誰にも見つからずに何処かに隠れていなければならない。  そんな場所があるだろうか。相談すると俊はとても不安そうな顔をする。でも他に良い考えは無いのだから、なんとかやるしか無い。  私が考えたのは、朝まだ暗いうちから家を出て、経堂から始発の電車に乗って新宿に行く。そして暫くは山手線に乗ってグルグル回り続ける。そして映画の上映が始まる時間になったら映画館に行って、そのまま最終回までずっと場内にいる。  映画館ならば、上映中は暗いので人から顔を見られることは無い。休憩時間に明かりが点いている間は、キャップを深く被って、本を読んでいるか寝ている振りをして俯き加減でいれば良い。  ただ、このままの姿では知人にでも会えば分かってしまうだろうから、変装した方が良いと思う。  まずイメージをがらりと変える為に髪の毛を染めて茶髪にする。耳にピアスとかするのも良いと思うけど、自分でやるのは怖くて出来そうにないのでやめる。  それに服装も、真面目に勉強ばかりしていた俊なら絶対着そうにない様な、柄のついた派手なシャツや、だぶついてわざと腰を下げて履くジーパン等も良いかもしれない。  会社の帰りに小田急線の下北沢で降りて、何件か若者向けのショップや古着屋を回り、それらしいシャツやジーパン。それにスニーカーとキャップを買って回る。俊に着せると思うと買い物は楽しい。  そして、上手く出来るかどうか自信が無かったけれど、ヘアーマニキュアを買って、やり方を出来るだけ詳しく店員に教えて貰う。  家に帰ると俊に買って来た服を着せてみせて、また悪戦しながら髪の毛を茶髪に染める。  俊の髪は綺麗な栗毛色になった。ストレートでサラサラしているので、ふと俯き加減の横顔を見ると女の子の様に見える。  金曜日までの5日間で何とか荷造りも済ませると、明日はいよいよ引越しの日になった。俊は朝の5時に家を出なければならないので早く寝ることにする。  部屋の中は積まれたダンボール箱や荷物でいっぱいになっている。その間に狭く布団を敷いて、俊と抱き合って眠る。どうか引越しが上手く行きます様に。     土曜の朝4時半に起きて、俊をまだ夜が明け切らない外へ送り出す。  部屋の電気を消したままそっとドアを開けて、辺りの様子を伺う。  隣の部屋の住人は仕事に行っているし、その向こうの部屋の窓は真っ暗で寝静まっている。 「大丈夫」  俊はジーパンに明るい色のTシャツとニットのトレーナーを着て、茶髪に染めた頭にはつばの広いキャップを被る。そして口にはマスクをして。肩にはディパック。  これならきっと俊のことを知っている人に出会っても、言葉を交わさない限り分からないだろうと思う。  肩に提げたディパックには、今日一日分の食料が入っている。  それから、もし何かあった時はすぐ連絡が取れる様に、新しく契約した携帯電話を持たせた。 「じゃあね」 「うん。気を付けてね」 「アキコも引越し頑張ってね」  無事に検見川浜のマンションで一緒に暮らせます様に……と願いながら俊の後姿を見送って、部屋に戻る。まださすがに早いのでもう少し寝ていようと思う。引越屋さんと約束した8時までにはまだ3時間もある。  ダンボール箱に囲まれた布団に横になる。7年暮らしたこの部屋とも、お別れなんだなと思う。  過ぎてしまえばアッと言う間だったけど、思えばいろんなことがあった。  何よりこの部屋に住んでいた殆どの間、私には隆夫がいた。でもそのことを思っても、今の亜希子には未練の様な物は感じられない。  7時30分にセットしておいたアラームが鳴って目を覚ます。俊は予定通り山手線の中にいるだろうか。携帯のメールを確認する。 『今無事に山手線に乗ってるよ。最初は空いてたけど段々混んで来た。ずーっと寝たフリしてるよ』  どうやら無事に電車の中にいる様だ。それでも少し心配な気持ちに駆られながら、歯を磨き、朝食に買っておいたサンドイッチを食べる。  やがて表に軽トラックが止まる音がして、ノックと共に「ごめんくださーい、引越のスガイです」と元気な声が呼び掛けて来た。 「はぁい」  とドアを開けると、派遣されて来た引越屋さんは似合わない明るい色のユニフォームを着た50歳くらいのおじさんだった。 「今日は宜しくお願いします」と帽子を取って頭を下げるおじさんに「はい、こちらこそ」と挨拶を交わすと、おじさんは慣れた手つきで荷物を運び出し始める。  荷物は洋服や様々な小物や書籍、それに食器類等が入った6個のダンボール箱と、4個あるポリエチレンの収納ケース。  大きな物は一人用の洋服ダンスと食器棚、それに運び易い様に分解しておいた組み立て式のラック。 電化製品は21インチのテレビとミニコンポのセット。電気炊飯器と電子レンジ。それに冷蔵庫と洗濯機。  重い物は二人で担ぎながら、せっせとホロが付いた軽トラックの荷台に運んで行く。  1時間も掛からずに全部運び込んでしまい、今から出発すればお昼頃には向こうへ到着することが出来そうだった。  荷物の無くなった部屋の中を見ると、こんなにもちっぽけだったのかと思う。ここにあった7年間の暮らしは、瞬く間に霞の様に消えてしまった。  しばし佇んでから、部屋を出て軽トラックの助手席に乗る。 「それじゃ、行きましょうか」とおじさんはエンジンを掛けてトラックを発進させる。  そっと携帯を開いてメールを見る。 『映画館に入ったよーお客さん僕入れて5人くらいしかいないよー朝だからかな』  予定通り映画館にいる。あんまり観客が少ないというのは心配だけれど。次の回になればきっと人も増えるだろう。 『なるべく目立たない様に気を付けてね。こっちも順調だから、辛抱強くしてるんだよ』  と返信する。大丈夫、きっと上手く行く。と悲観的な想像はしない様にして携帯を閉じる。  軽トラックは世田谷通りを左折して、三軒茶屋から首都高速に乗る。一ノ橋ジャンクションと浜崎橋ジャンクションを経由して、レインボーブリッジを渡り、湾岸線を走って行く。 過ぎて行く海を眺めていると、自分がしていることは何だろう……という思いが沸き上がってくる。まるで止めることが出来ない滑り台を降り始めてしまった様な感じだ。  でもこの先に待っている物が何なのかということに恐れを抱いてはいなかった。自棄になっているつもりもない。行くところまで行ってやれという開き直りとも違う。  自分にも説明することは出来ないけれど、止めることは出来ないと思う。 一方で僅かに残っている冷静な亜希子は思う。せめて俊のお父さんにだけは、俊が無事に生きていることを伝えておいた方が良いのではないか。まだ俊がいる場所や私のことは秘密にしておくとしても……。  やがて高速道路は京葉線の線路と平行して走り出し、葛西臨海公園とディズニーランドを横目に過ぎて、習志野インターチェンジを降りる。  そして新興住宅地の建ち並ぶマンションの中を走り始める。  広い車道を快調に走り、検見川浜駅から程近いそのマンションへ着いた。  おじさんは手際よく荷物を台車に乗せてはエレベーターで5階まで上がり、部屋に荷物を運び込んで行く。  冷蔵庫や食器棚等は間取り図で決めておいた場所に置いて貰う。  亜希子も手伝って、1時間くらいで全ての荷物を運び込んでしまう。  伝票にサインして料金を支払うと「それじゃ、ありがとうございました」と頭を下げておじさんは帰って行った。  時間はまだ1時半だった。こんなに早く終わるなんて。  携帯電話を出して見ると、俊からの新しいメールが入っている。 『一回目が終わったら沢山人が入って来たよ。今から2回目たけど、面白かったからもう一度観ても退屈しないかも、良かった♪』  ホッと笑顔になって返信を打つ。 『私も無事に着いたよ、荷物を運び入れて、ひとりで整理してるところだよ』  あとは俊が誰にも見られずにこの部屋に入ることが出来れば成功だ。  俊には最終回が終わるまで映画館の中にいて、検見川浜駅に着くのは終電近くになる様にと言ってある。  早く俊の顔を見たいのはやまやまだけれど、ここで焦って計画が失敗してしまっては元も子もない。  逸る気持ちを抑えながら、運び込んだダンボールを開梱して、家財道具を出して片付けていく。細々とした食器や調味料等を食器棚や冷蔵庫に入れて行く。  六畳間には造り付けの押入れがあるので、上の段に布団を仕舞い、下の段には衣装ケースを入れる。  この前俊が引っ張り出した画材等が入っているダンボールは、経堂の部屋でも殆ど押し入れに入れっぱなしだったので、そのまま押入れに入れる。  窓の無い四畳半の板の間は、昼間俊が一人でいる部屋にするつもりなので、小さなテーブルや椅子等を買ってあげようと思う。  そういえばお昼を食べていないと思い、何か買いに行こうと家を出る。  ドアを閉めて鍵を掛け、外に面した廊下を歩き始めると、ちょうどエレベーターから降りた買い物袋を提げたおばさんが、こちらへ歩いて来るところだった。 「こんにちは」と声を掛けられて亜希子はぎこちなく「どうも……」と返事をして会釈する。  通り過ぎた後、暫くしてそっと振り返って見ると、そのおばさんは亜希子の部屋の3つ向こうのドアを開けて入るところだった。  昔は引越しをすれば両隣やご近所に菓子折り等を持って挨拶に回ったものだけど、今はそういうご近所付き合いは一般的にもあまりしないで済ます人が増えているという。  亜希子はこのマンションで一人暮らしという体裁なのだから、下手に親しくなって家を訪ねられたりしたらまずいことになる。  近所付き合いはなるべくしない方が良い。その為には孤独を愛する女でも演じていればいいのだ。  マンションの敷地から広い道に出ると、遠くに京葉線の高架が見える。  その方向へ7~8分歩くと駅だった。駅までの時間は経堂にいた頃とそう変わらない。  土曜のせいか駅前に来ると結構人が出ている。子供を連れた家族連れやカップル、若い人たちもいる。  殆どの人はきっとこの辺りに住んでいる人なのだろう「……これから私も、この街に住むことになりました。宜しくお願いしま~す……」と心の中で言ってみる。  スーパーに入り、簡単なオニギリと唐揚げの入ったパックと、ペットボトルのウーロン茶を買う。  マンションへブラブラ歩いて戻りながら、あの人たちの中で、私の姿はどんな風に映ったのだろう……と考えてみる。  きっと主婦には見えないだろうし、カッコ良いキャリアOLという訳にもいかないだろう。一人暮らしの寂しいOL? 単なる売れ残り? 行かず後家? 今はそんな言い方はしないのかな、寂しい女? というより、そもそも私のことなんか誰も見ちゃいないだろう。でもその方が良いんだ。何しろ目立たない方が良いのだから。  大方部屋の片付けも一段落して、外はもうすっかり暗くなっている。  携帯を見ると俊からのメールが届いている。 『ヤッホー! また同じ映画観るの嫌だから~今二つ目の映画館にいるよ。チケット売り場はガラスで仕切られてたから、顔もそんなに見られなかったから大丈夫だよ。コレの二回目が終わったら映画館から脱出するよ』  映画館を移ったって? もう、危ないことするんだから……。でも一日中同じ映画を4回も観てちゃ嫌にもなるか、無事だったのなら良いか。と思い直して返信する。 『こっちも順調だよ! 俊の部屋とか早く見せたいよ。検見川浜駅に着いたらメールしてね』  俊からのメールが来ていたのは7時23分だった。映画の最終回が始まる前の休憩時間だったのだろう。  映画が2時間くらいなら終わるのは9時半頃だ。それから新宿で中央線に乗り、東京駅で京葉線に乗り継いでここまで来るのに1時間半くらいはかかるだろう。だとすれば検見川浜に着くのは11時半くらいだろうか。  俊がこの部屋に入るところを誰にも見られてはならない。本当はもっと遅い時間、それこそ深夜の3時や4時頃の方が確実ではないかと思うけど、電車も走っていないそんな時間まで俊が待っていられる場所は無い。  もう引越し屋さんもいないし、誰にも見られる心配はないので、メールが着たら着信音が鳴る様に携帯を設定する。  テレビを点けて、チャンネルをパチパチと変えながらニュース番組等を見てみるが、俊の事件についての報道は無い。  いよいよ俊を迎える時間が近くなって、そわそわし始めると、ピピッ……とメールの着信音が鳴った。画面を開く。 『今新宿駅で電車に乗るところだよ、東京駅で乗り換える時またメールするね』  あと1時間半くらいで俊が来る。    それから1時間が過ぎると、家を出て駅へと向かう。  駅前のコンビニに入って週刊誌を立ち読みしながら連絡を待つ。  まだかまだかとそわそわしていると、11時20分になって携帯がメールの着信を告げるバイブレーションを起こした。  サッと出して見る『今駅に着いたよ』。  読みかけの週刊誌をレジに持って行き、お金を払うと外へ出る。何も買わずに出たのでは、立ち読みばかりして買わない人、と言う印象が残ってしまうかもしれないから。とにかく誰の印象にも残りたくない。  コンビニを出て小走りに駅へ向かう。京葉線の駅は高架になっており、改札はホームから階段を降りたところに広く作られている。  ホームに電車が入って来た音がする。  俊の携帯番号をプッシュする。ここまで来ればメールではなく、話をした方が早い。 「もしもし、俊? 何処にいるの? 私も駅に来てるよ、今改札の前」 『はいはい、僕も今ホームから階段を降りてるところだよ……』  改札の側へ来て俊の姿を探す。階段から降りてくるまばらな人影の中に、こちらに向かって手を振っているキャップを被った今時の若者然とした姿があった。  俊……間違いない、今朝経堂のアパートから、まだ夜が明けきらない暗い街の中へ、手を振って歩いて行った俊が、今ここに来た。無事に来た。  自動改札機に切符を入れて出てきた俊と並んで歩く。こんな風に外を並んで歩くのは始めてだった。嬉しい様な、照れてしまう様な感じがする。歩いていても水の中でつかむところもなく浮遊している様な、心元ない感じがする。  俊はキャップは被っているけれど、マスクはしていない。交番は駅の向こう側にしかないので、警察官に出くわすことはないかもしれないけど、ちょっと心配になって辺りを警戒しながら俊の少し前を歩く。 「大丈夫だよ、新宿にいても映画館の中も誰も僕の顔見る人なんていなかったよ」  今日一日無事に過ごして来たことで自信を持ったのか、私が警戒しすぎるという様に、余裕のあることを言う。 「何言ってんのよ、どれだけ心配したと思ってるのよ」   辺りをはばかって小声で、でも厳しい顔をして言うと。 「うん、ごめん」  と黙ってしまう。まだ安心なんてしてられない。私はここで一人暮らしを始めるという体裁なのだから、男の子と一緒に歩いているところを思わぬ知人にでも見られたら大変だ。  知った人に見つからずにマンションまで歩いて行って。そこから5階の部屋までは、他の住人にも見られずに俊を部屋の中に入れなければならない。  駅から離れると途端に暗い道になり、歩いている人も少なくなる。  マンションに着くと、エレベーターを使うのは危険だと思ったので、脇に付いている外階段から5階まで登ろうと思う。  まず亜希子が登って、階段や廊下に誰も人がいないことを確認したら上から合図する。そうしたら登って来るようにと打ち合わせする。  時間は11時40分。さすがにまだ窓に明かりの点いている家が多いけど、エレベーターホールや各階の廊下はひっそりとして人影は無い。  亜希子はゆっくりと足音を忍ばせて5階まで登ると、息を弾ませながら踊り場の縁から身を乗り出して、下から見上げている俊に手を振って合図する。  すると俊の姿が中へ消える。階段を登り始めたのだろう。  亜希子は俊がここまで登ってくる間、誰にも見つかりません様にと願いながら、階段や廊下の物音に耳を澄ませている。  無事に俊が登って来た。まずは一息つく。今度はまっすぐな廊下を歩いて、部屋の前まで辿り着き、ドアの中へ入ってしまわなければならない。  亜希子が先に行き、ドアを開けたらそのままの状態で待っている。そこへ俊が後から足音を忍ばせて向かうことにする。  部屋は外階段のある一番端から数えて6番目のドアだ。先に亜希子がそっと廊下を歩いて部屋へと向かう。  ドアの前まで来ると鍵穴にそ~っと鍵を差し込んで、ゆっくりと回す。カチャッと小さく音がしてロックが解ける。ノブを回してドアを開く。少しだけキーッと軋む音が響く。  向こうの端まで見渡せる廊下に人影は無い。ドアを開いたまま俊が待っている外階段の方へ手を振って合図する。  背中を屈めて忍者の様な格好でスタスタと俊が足早にやって来る。  思わず吹き出しそうになりながら、それでも真剣な俊の顔を見て笑いを堪える。  開いたドアの中に俊を入れて、そのまま自分も入ってドアを閉める。  鍵を閉めて、その上チェーンロックまでガチャリと掛ける。  玄関脇のスイッチを入れて電気を点けると、部屋の中に立った俊が亜希子を見ている。 「成功?」 「うん、俊は? 本当に誰にもヘンな目で見られたりしなかった?」 「うん」 「そう……上手く行ったね」 「うん」  と言うと俊は顔を崩して嬉しそうに笑った。その途端緊張が解けて亜希子も笑顔になる。 もう大丈夫だ。あまり大きな声を立ててはならないと思いつつ、目尻から涙を流して、二人してヒーヒーと笑う。 「良かったね、俊、上手く行った上手く行った……」  小声で囁きながら抱き締めて、今日から暮らす新居で始めてのキスをする。  まだ荷物も片付け終わっていない畳の上で、布団を出すのももどかしく、そのまま縺れ合った。    2   新居へ来て一週間が過ぎて、荷物もあらかた片付いてきた。  俊には四畳半の部屋でも見られる様に小さなテレビを買って上げて、ノートパソコンも繋いであげた。亜希子が会社に行っている間ずっとそこにいてインターネットを見たり、テレビやDVDを見たりしている。  その部屋には窓が無いので、外から覗かれる心配は無い。  引越先を何処にしようかと相談した時、俊は「窓から海とか見えたら最高じゃん」と言ったけど、ここからは遠く建物の合間から海の欠片が覗けるだけだった。  まぁそれは仕方ないだろう。それでも引越し費用に40万円以上のお金が掛かってしまったのだから。そう贅沢を言っている訳にも行かない。  ダイニングキッチンと六畳に面したガラス窓を開けるとベランダに出ることが出来る。  六畳間の窓には経堂で使っていたカーテンを掛けたけど、サイズが少し小さいし、生地が薄いので夜は外から人影が動いているのが分かってしまうだろう。  なのでダイニングの分も一緒にサイズを測り、デパートで厚手のカーテンを探して買って来ることにする。  会社には明日にでも転居の旨を報告しておかなければならない。  翌日のお昼休み、皆で会議室で昼食を済ませた頃、総務の小石さんが一人でいるところにそれとなく近づいて、そっとその旨を伝え、新しい住所を書いたメモを渡す。 「あらそう? どうしたの急に? もしかして誰か同居人が増えてたりして」  と笑顔で言われてドキリとする。 「同居人なんている訳ないじゃないですか~ちょっとした気分転換ですよ~」  と誤魔化したが、少し慌てた感じになってしまった。  引っ越したことは実家にも知らせなければならない。それは今度母が電話を掛けて来た時にでもしよう。  ただ気分転換がしたかった。とさり気なく伝えようと思う。家の電話番号は変わってしまったけど、繋がらなければ携帯の方に掛けて来るだろう。  通勤はまだ乗り換えに慣れず、遅刻しない様に時間に余裕を持って出ることにしたので、最初の2日間はかえって早く着き過ぎてしまった。  検見川浜駅から日本橋まで行くのに八丁堀と茅場町で2回乗り換えなければならない。けど時間的には経堂から通ってた時と10分くらいしか変わらなかった。  ただ、ここには経堂の様な商店街が無いので、買い物は全て駅にあるスーパーで済ませなければならない。商店街のいろいろな店を回って、安い物を探して歩くという楽しみが無くなったのは寂しかった。  整然とマンションが建ち並ぶ街は広々として、車道も広く、吹き抜ける風は海が近いことを感じさせる。  世田谷の街とのギャップを感じれば感じる程、新しい生活が始まったのだと言う実感が沸く。ただこの街も、俊と一緒に歩くことは出来ないのだと思うと寂しいけれど。  でも、ここならば俊の顔を知っている人と出会う可能性はかなり低いんじゃないだろうか。俊は知人でこの辺りに住んでいる人は親戚にも友達にも聞いたことがないと言っているし。  俊のことを知っている人にさえ会わなければ、誰にも俊が母親を殺した少年だとは分からないだろう。顔写真が公開されている訳でも無いのだから。  でもやはり用心に越したことは無いと思う。何か不審を抱かれることや、俊を見た人が顔を覚えてしまう様な印象を残してしまったら、もしかしたら1ヶ月前に報道された世田谷の事件と俊とを結び付けて考える人がいないとも限らない。  デパートから届いた厚いカーテンを六畳間とダイニングの窓に吊り下げる。  これなら夜でも光が漏れないので、中で人が動いても外から見えることはないだろう。 「ねぇ、少しだけ海が見えるって言ってたじゃない、それって何処?」  と俊に聞かれて、朝お弁当を作って会社に行く前に、ダイニングキッチンのカーテンの脇からそっと外を見て、俊にその場所を教えてあげる。  折り重なる様に建ち並ぶマンション群の間の先の方、ほんの少しだけマンションとマンションの間に青い欠片が覗いている。 「ほら、あそこ、見える? レンガ色っぽいマンションとマンションの間」 「え? 何処、あ、あれか? ホントだ、あれが海なんだ、ふ~ん、近いじゃん……」  そう、海は近い。折角こんなところへ引っ越して来られたというのに、俊にはあんな小さな切れ端でしか海を見ることが出来ない。  この部屋を探しに来た時に一人で歩いた。あのひっそりと広がる東京湾の砂浜を、俊と一緒に歩いてみたい。  検見川浜駅7時39分発の快速東京行きに乗って、ギュウギュウのラッシュに揺られながら、亜希子は思っている。  昼間は人目に付くからダメだけれど、例えば引越しの時みたいに、まだ夜が明けきらないうちに家を出て、海岸に着いてから夜が明けるのを待てば、誰にも見られずに海岸を歩くことが出来るのではないか。  この前来た時は午後の時間だったけど、全く人がいなかった。夜明けの時間なら尚更誰もいないんじゃないだろうか。  それに万が一誰かに見られたとしても、私が倉田亜希子であることも、一緒にいる少年が越川俊一であることも、誰にも分かりはしないのだから。    駅近くのショッピングセンターで自転車を買おうと思った。歩いて行くよりも俊を乗せて自転車で行った方が早いし、通行人に顔を見られる心配も少ない。  なるべく二人乗りがし易そうな、所謂ママチャリを選んで買おうと思う。  その朝、俊と亜希子は朝の4時半に起きた。 亜希子が先にドアを出て、ドアの脇に置いてあるピカピカの自転車を押してエレベーターで一階に下ろす。  エントランスを出ると、マンション全体の外廊下と階段が見える位置に来て、誰も人がいないのを確認して俊に手を振る。  目深にキャップを被った俊がサッとドアを出て、例の忍者走りでスタスタと廊下を走って行く。  やがてエレベーターが一階に着いて、走り出て来た俊は自転車の後ろにサッと跨り、亜希子はうんしょとペダルを踏み込む。 「大丈夫? 変わろうか?」 「いいから、ちゃんと顔伏せて私の背中にもたれてるのよ」 「誰も人なんかいないよ」 「いいから」  うんしょうんしょと重いペダルを漕ぐ足がもどかしく、時々フラフラとよろめきながら広い車道の脇を走る。  車も殆ど走っていないので、信号を守る必要も無いくらいだ。海岸線に広がる森の様な公園を目指して漕いで行く。  やっと公園の入り口に入る。ここまで誰にも擦れ違うこともなく、途中2~3台の車が行き交ったけど、亜希子たちに関心を向ける様子はなかった。  広場を横切り、海岸線と平行している森に囲まれた道を走って、海岸へ出る横道があるところを探す。  どうやら海への入り口らしい道の脇に自転車を止め、コンクリで作られた階段を俊と二人登って行く。 「もうこの先が海だよ」 「うん」  ザザーとさざ波の音が聞こえて来る。辺りは真っ暗だ。堤防の様に盛り上がった草地を乗り越えて行くと、そこはもう砂浜で、すぐそこに打ち寄せる波が迫っている。まだ夜が明けないので、海と夜空との境目が無く、ただ真っ暗が視界いっぱいに広がっている。 「何も見えないね」 「うん、気を付けて、大丈夫?」  声を掛け合って歩き、草地と砂浜の境辺りに二人で腰を下ろす。  今日はそんなに天気が悪い訳ではないと思うけど、やはり東京の空は汚れているのか、星は微かに数える程しか見えない。 「あとどれくらいで夜が明けるのかなぁ」 「分かんない、でもほらあの遠くの方が少し白くなり始めてるから、きっともうすぐだよ」 「そうかな」  言っているうちに空はどんどん明るさを増して行く様だった。空全体が白っぽく透けて来て、バックの空と雲の区別が付き始めると、砂浜も隣にいる俊の顔も見えてくる。  海もどんどん青くなって、遠く水平線が現れて来る。見渡す限りに人影は無く、広がる海岸線の真ん中で、二人きりだった。  俊が立ち上がって波打ち際の方へ歩いて行く。亜希子も立って俊に続く。砂浜に出ると途端にボコボコして歩き難くなった。  遠く右手を迂回して遥かに見える陸地には品川港と、もっと先に建ち並ぶビル群の影が見える。反対側の左手に伸びる海岸線は、遠く湾曲した先に赤い光が幾つも点滅して、建ち並ぶ工業地帯のコンビナートや煙突等が見えている。  風を受けながら海の先を見つめる俊の横に亜希子も佇む。  左右の海岸線に囲まれた先に水平線がある。あの赤くなって行く雲の向こうから太陽が登って来るのだろう。 「綺麗だね……」  月並みだけれど、他に言う言葉も思いつかない。黙ってこちらを向いた俊と、抱き合ってキスする。朝靄の中、果てしなく広がる海の前で、ギューっと抱き締めた俊と自分の温もりがある。  亜希子は、今この時が二人の永遠であると思う。  経堂の時とは反対の方角から通うことになった会社へは、八丁堀と茅場町で乗り換えなければならないのだが、八丁堀で降りて歩いてもそう変わらないことが分かった。  駅から歩く距離は長くなってしまうけど、その分電車に乗っている時間は短い。  すっかり梅雨に入って傘を差して歩く日が多いけど、それでも地下鉄の乗換を2回繰り返すよりは良いと思った。  おそらくお喋り好きな小石さんから聞いたのだろう。隣の淵松絵美子さんが「倉田さん引っ越したんだってぇ?」とニヤニヤしながら話しかけて来た。 「はい、ちょっと気分を変えようと思って」  変にうろたえてはならないと思い、落ち着いた風を装って言葉を返す。 「それってひょっとして誰かと一緒に住んでたりして?」  と絵美子さんは食い下がって来る。 「アハハハ、何言ってんですか」と笑ってごまかす。 「本当~? そんなこと言っちゃって、そういえばなんだか最近やけに活き活きしてるなぁとは思ってたんだよねぇ~う~ん怪しい怪しい……」  とニヤニヤしながら疑惑の視線を投げ付けて来る。……一人暮らしの女が引越すとどうして皆そんな想像ばかりしたがるんだろう……実際そうなんだけど……と心の中で舌を出す。  近頃の私はそんなに活き活きして見えたんだろうか、自分では以前と変わらず淡々と仕事をしているつもりだったのに。  無意識のうちに態度が変わってしまってたのかもしれない。傍から見れば変に浮かれてるというか、ハイテンションになっているという様な、どんな風に見られていたのかと思うと、ちょっと恥ずかしくなってしまう。  というよりも、それ以前が余りに暗く沈み過ぎていたせいじゃないかとも思う。これからは気を付けなくちゃ……。  肉体関係を持ち始めた頃の俊は全く受身の態勢で、自分から働きかけて来たりはしなかったのだけれど、近頃は慣れて来たのか、自分の方から積極的に責めて来る様になった。  もう私に主導権は無く、飢えた野獣みたいにガンガン掛かって来る俊の情熱に、自分では分からないのだけれど、私はあらぬ声を上げる様になっているらしい。  後で俊に「ねぇねぇ、アキコってさぁ、時々壊れちゃう~とか死んじゃう~とか言ってるけど、あの時ってホントに凄く苦しくなったりするの?」  と真顔で聞かれた時には、顔が真っ赤になってしまうのが分かった。  俊にそんなことを言われても腹は立たないけど、ホントに私はそんな言葉を口走っているんだろうか、隆夫が経堂のアパートに置いて行ったアダルトDVDの女たちの様に、自分もなっているのだろうか。  でも確かにその瞬間、ただ夢中で俊の首にすがり付いて頭の中が真っ白になり、全てが光に包まれて分からなくなる。  今の私はただその瞬間の為だけに生きていると言ってもいいかもしれない。その瞬間さえあればどんなことがあっても生きて行けるという様な。  私はもう、俊無しには生きられない、そして俊もきっと。嫌、そのことを抜きにしても、俊は殺人を犯した逃亡者なのだから、私無しには生きられない。 「なぁ、お腹空いたよ、御飯作れよ」 「うん」  俊はだんだん横柄に振舞う様になってきた。大人の女を征服したことで、いっぱしの男にでもなったつもりなんだろうか。  俊が乱暴な口をきいてアレをしろコレをしろと命令しても、私は従順に聞いてあげる。  偉そうに命令しても、その顔はやっぱり17歳の少年で可愛らしい。横柄な物言いも子供の我侭みたいに思えて、愛しいと思える。  亜希子が仕事に行っている間、俊は四畳半で亜希子が借りて来た映画のDVDを見たり、買って来たゲームをしたりしている。  DVDは俊と同じ年頃の高校生が観る様なハリウッドの大作映画やディズニーのアニメ映画、テレビドラマ等を借りて来て欲しいとせがんだ。  俊は子供の頃から母親に勉強ばかりさせられて、テレビ番組等は見せて貰えなかったのだという。  また亜希子のノートパソコンを使ってインターネットも見ている。何を見ているのかは聞いたりしないけど、新しい映画のことや、同年代の高校生が集まる掲示板等を見ているらしかった。  自分の起こした事件のことも調べているのだろうか……と思うけど、敢えて聞いてみることはしない。  けれど、帰って来て俊が使った後電源の落ちていたパソコンを立ち上げて、インターネットの検索履歴を表示してみると、そこには「世田谷区の殺人事件」とか「少年事件」等のキーワードが残されている。  また俊はインターネットで見つけた「ガンダム」や「スターウォーズ」のフィギアやグッズを買って来て欲しいとせがんだ。私が間違えて買って来ない様に、商品名や型番を詳しくメモに書いてくれる。  俊の書いてくれたメモを頼りにデパートへ買いに行くのだが、ガンダムのプラモデルの売り場へ辿り着いてみると、店の一角に山と積まれた種類の多さに驚いてしまった。  亜希子の目にはどれも同じ様に見えるのだが、俊のメモに書いてある型番と同じロボットはなかなか見つからない。遂には眩暈がして来てしまい、親戚の子供に頼まれたのだと言って店員に助けて貰うしかなかった。  俊が子供の頃お小遣いを貯めてやっと買って来た変身ヒーローの人形等を、母親は勉強の邪魔になると言って取り上げてしまったり、知らぬ間に捨ててしまったりしたのだという。  だから俊は小さい頃に観れなかったアニメやヒーロー物のDVDを夢中になって見て、それらのフィギアやプラモデルを欲しがる。  そしてまた一方で、俊の教養や知識の豊富さには驚かされた。  一緒にテレビのクイズ番組を見ていると、一般の教養を試す様な番組では殆ど全ての問題を正解してしまう。  歴史や地理、化学や物理に至るまで、大学の試験科目になっている教科の知識は特に凄く、クイズ番組に出場している知識人も敵わないのではないかと思えるくらいだった。  経堂のアパートであの夜激昂して亜希子を泣かせてしまって以来、俊は事件については何も語ろうとしない。亜希子も聞かない。お互いがもう無かったことにでもしているかの様に、全く触れもしない。  俊は毎日亜希子の帰りを待ちかねて、帰って来ると抱きついて来て、甘える様に食事や欲しい物をねだる。  亜希子は何でも俊の言うことを聞いてあげる。今はただ俊の我侭を聞いてあげるのが幸せだった。    3  このマンションに越して来て1ヶ月が過ぎた。7月も中旬に近づいて、日に日に陽射しが強くなって行くのが分かる。季節は既に夏真っ盛りと言う感じだった。  世間では次々と新たな凶悪事件や凄惨な殺人事件が続発していて、ワイドショーは慌しく報道を重ねている。俊一の事件はもう古い記憶として忘れ去られているみたいだ。  近頃俊は太ってきた。そりゃ一日中家に篭もって食べてばかりいるので当然といえば当然だけれど、プヨプヨしてきた。  面白がって俊のふっくらした頬を指で突付いてみる。柔らかい。  これからは栄養のバランスも考えてあげなくちゃ……。  俊は自堕落な生活を続けている。外に出られないので仕方がないということもあるけれど、近頃は昼間ずっと寝ているらしく、夜は亜希子が寝てからもずっと板張りの部屋に篭もって起きているらしい。朝になって亜希子が起きるとまだ部屋でパソコンをしていたりする。  亜希子が会社に行くのを玄関口で送ってくれることもなくなってきた。板の間のドア越しに「それじゃ、行ってくるね」と声を掛けると「うん、行ってらっしゃい」と返事はしてくれるけど。  そして亜希子が仕事を終えて帰って来ると、俊は六畳間に敷かれた布団で寝ている。暑いからエアコンを一日中点けっ放しなのは仕方が無いけれど、電気代が一人暮らししていた時の二倍以上になってしまった。  この頃から些細なことで口喧嘩もする様になった。亜希子は一日会社で仕事をして、帰りに駅前で買い物をし、帰って来ては部屋の掃除や食事の用意等、家事一切をしなければならない。  俊は一日中涼しい家にいてすることも無いクセに、何も手伝ってくれない。  スナック菓子やジュースの空き缶は食べた場所に放りっぱなしで、きちんとゴミ箱へ入れることもしない。  ただでさえ仕事のストレスを溜めて帰って来たところへ、部屋の散らかし放題な有様を見るとついイライラが募ってしまうのだ。  溜まりかねて「少しくらい協力してくれたっていいでしょう」と言うと「僕だって手伝いたいけど、外へ行けないから買い物は出来ないし、ゴミ出しだって出来ない。アキコがベランダに出ちゃダメだって言うから洗濯だって出来ないじゃないか」と言い返されてしまう。 「それでも部屋の掃除とか、お風呂の掃除だって出来るじゃない!」と言うと、プイとふて腐れた様に板張りの部屋へ入ってしまう。  亜希子には「少しは私の身にもなってよ」という気持ちがあって、ついつい当たってしまうのだ。  それでもその後部屋から出てきた俊と夕ご飯を食べ、二言三言言葉を交わすうちに喧嘩のことは無かったことにして、時にはその後愛し合うことでチャラになった。  そんなことが繰り返されて、亜希子と俊の日々は過ぎて行った。  ちょっと喧嘩してもすぐ仲直りして……そんなことの繰り返しにも慣れて来てしまうと、もう喧嘩をした後白々しく仲直りすることにも嫌気が差して来たのか、俊は亜希子が仲直りしようとしても、浮かない顔をそのままにして、部屋へ入ってしまう様になった。  どんな男女にだって付き合っていれば、いや結婚したとしても、倦怠期という物はある。結婚していないカップルの場合はそれでダメになってしまったり、結婚している夫婦だって離婚してしまったりすることもあるけれど、そうした危機を乗り越えてこそ、本当の夫婦の絆が出来て来るという物じゃないか。  夫婦……無意識のうちに自分と俊とのことをその概念で考えていることに気付いて驚いた。  そうだ。夫婦なんだ。お互いに相手がいないと暮らして行けない俊と私とは最早夫婦も同然なのだから。このくらいの倦怠期なんて当たり前のことだし、頑張って乗り切って行かなくちゃ。  俊は家事にも掃除にも協力してくれないけれど、もう文句を言うのはやめよう。亜希子は黙って俊に尽くすことだけを心掛けようと思う。  でも、更に月日が経つと俊はずっと不機嫌に黙ったままになってしまい、ろくに口も開いてくれなくなってしまった。なので喧嘩にさえもなりようがない。  当然ながらセックスもしない。仕事が終わって帰って来た時、俊がまだ六畳間で寝ているので、そっと板張りの部屋に入ってパソコンを開いて見ると、ブックマークに沢山のアダルトサイトが登録されている。  それにヘンな出会い系サイトや登録制の裏ビデオサイト等にもアクセスしているらしかった。  心配になって電子メールを開いて見ると、ヤフー等のサイトを通して登録するフリーメールアドレスを取得して、出会い系サイトで知り合った何処の誰とも分からない相手とメールのやり取りをしている。  そのアドレスで登録したアダルトサイトから、閲覧した料金の請求メールも沢山来ている。そんなのは無視しても大丈夫だと思うけど、凄く不快な感情に襲われてしまう。嫉妬とは少し違う気がする。それよりは酷く情けない様な感情だった。  部屋に置かれたゴミ箱には沢山のティッシュの固まりが放り込まれている。  そのひとつを摘み上げて顔の近くに寄せてみると、やっぱり俊の匂いがする……。  パソコンを取り上げてしまおうか、とも考えたけど、思えば一日中一歩も外へ出られない俊にとって、インターネットだけが世間と繋がる唯一の窓口なのだから、それは出来ないと思う。  どんなに夢中になったって、インターネットなんて所詮バーチャルなのだから。例え相手が女であれ、見知らぬ者同士が何を語ろうとそれがリアルに展開することはない。  もし自分は母親を殺して逃亡中の高校生だなんてことをメールに書いたり掲示板に書き込んだりでもすれば、この場所が特定されてしまうことは前にしっかり言い含めておいたから、大丈夫だろうと思う。        その日も仕事で遅くなって疲れて帰って来て、電気を点けるとまだ俊が寝ており、部屋の中は食べ散らかしたお菓子の包みや食べかけのカップヌードルで散乱した状態だった。 「お母さん……」  ビクッとして見ると、俊が眠ったまま呟いている。 「お母さん……お母さん……」  あの夜経堂のアパートで魘されていた俊が暴れ出したことを思い出して、そっと近付いて声をかける。 「ただいま……俊。私だよ……」  薄く目を開けて亜希子を見た俊は、顔をしかめて起き上がると、何も言わずにトイレへ入って行く。  仕方なく部屋を片付けていると、戻って来た俊が折角畳んだ布団にまたドテッと倒れ掛かる。 「まだ寝るの? どうせずっと昼間寝てたんでしょ」と言うと「う~ん、寝過ぎで眠いんだよ……」と言う返事「もう、いい加減にしてよ」と俊の下から布団を引っ張り出すと「うるせんだよババア!」と俊が怒鳴った。  そのままドタドタと板張りの部屋へ入ってしまう。  散乱した部屋に残された亜希子は呆然としてしまい、その場にへたり込んでしまう。  俊の生活は荒んでいる。私は毎日仕事に行かなきゃならないから、規則正しい生活を送っているけれど、俊にはそれが無いから……毎日暇すぎる時間を持て余して、自堕落にも飽きて、一方ではまだお母さんのことにも意識を苛まれて、精神的におかしくなっているんじゃないだろうか。  この生活がこのまま何十年も続けられるとはとても思えなくなってしまった。日本人の平均寿命が80歳として、17歳の俊の人生はまだこの先60年もある。一生こんな生活を送って行ける訳はない……。  俊にはまだ将来があるのだ。このまま私と暮らしていたのでは、それをダメにしてしまう。  もしこのままの生活を続けて行って、時効というものが成立すれば、殺人の罪を問われることはなくなるだろう。以前は殺人事件の時効は15年だったけど、最近法律が変わって25年になったんだろうか。未成年の犯した罪でも時効の期間に変わりがないとしたら、25年の時効が成立した時には俊は42歳になっている。  もしその時まで隠れていることが出来たとしても、母親を殺した殺人者という事実からは逃れられない。そんな俊のことを、世間が受け入れてくれる訳もない。    そもそもそんな年齢になってしまったら、人生をやり直すことは出来ないだろう。  それでなくても俊はずっとお母さんを殺した罪の意識から、潜在的に逃れることは出来ないのではないかと思う。自分では気付いていなくても、寝ている時に夢を見て魘される日々が一生続いて行くに違いない。  男の人生。それはこんな狭い部屋に閉じ篭もってないで、世間へ出て自分の実力を、存在を認められること、将来お父さんの様な医者になりたかったと言っていた。今ならまだその夢を叶えさせてあげることが出来るんじゃないだろうか。 隆夫のことだって、私は辛い思いをしたけれど、私を踏み台にして将来会社を背負って立つエリートとして活躍する様になった。それで私は隆夫にとって立派に役割を果たしてあげたと思ってる。  一緒にいたいという私のエゴの為に、俊をこんな狭い部屋に閉じ込めておいて良い訳はない。  私が甘やかしている為に、太って毎日ゴロゴロと引き篭もっているけれど、俊は一生懸命勉強して来ただけあって、物凄い知識を持っている。優秀な能力を持った人間に違いないんだ。  こんなこと考えたくは無かったけど、頭の中でいろいろに巡らせた考えは、もう逃れられない結論に向かって収束してしまっている。  それは心の中では最初から分かっていたことかもしれなかった。でも、私はそれを見ずにいた。楽しかったから、俊を求めていたから、ずっと一緒にいたいと願ってたから、私はそこから目を逸らしていたんだ。  やはり警察に出頭して罪を償わせて、社会復帰が出来る様にしてあげなければならない。  でももう少し……いやもうそんな悠長なことは言ってられないんだ。だって俊はもうダメになりかけているんだから。こうしているうちにも益々この生活に嵌まり込んで、抜け出すことが出来なくなってしまう。どんどん歳を取って、そのまま取り返しが付かなくなる。  俊はますます四畳半に閉じ篭もる様になった。自分の部屋にベッドが欲しいと言ったけど、そこまでするともう本当に別々の生活になってしまうから、それだけは嫌だと言って買ってあげなかった。  俊の頼みにノーと言ったのは殆ど初めてだった。俊は自分の思い通りに行かないことが理不尽で納得出来ないという様に、亜希子を罵った。また殴られたり蹴られたりするのかと思ったけど、そこまではしなかった。  私がいないと生きて行けないという引け目があるから、暴力を振るうのは止めてくれたのかもしれない。そう思うと余計に寂しさが募る。  土曜日に亜希子は仕事があるからと言って家を出て、暑い中汗を拭きながら電車に乗り、日比谷にある都立の大きな図書館を訪れた。  俊が警察に出頭したら、その後どうなるのかと思い、過去の未成年が起こした殺人事件について、裁判の判例等を調べてみようと思った。  最初は要領を得なくてウロウロしてしまったけど、係りの人に聞いたり備え付けのパソコンで検索したりして、法律の本や事件の記録等、午後までかかっていろいろな本を読んだ。  未成年が事件を起こして警察に逮捕された場合、それはどんなに凶悪な犯罪であっても最初は家庭裁判所へ送られる。  でもそれが殺人事件の様な凶悪犯罪であった場合、そこから大人の刑事事件と同じ様に検事局へ送検されて、大人の事件と同じ様に裁判を受ける。  そしてその結果如何によって少年院に送られるか、刑務所に送られるのかが決められる。  刑務所の場合には少年刑務所と言って、大人の囚人とは区別され、少年専用の部屋に入れられるらしい。  過去の判例からすると、余程極悪な犯行で、情状酌量の余地の無い犯行でも無い限り、少年院に送られて長くても1年くらいの入院期間で退院出来る。少年刑務所に送られたとしても成人よりは短い服役期間で釈放される。  でももし……と亜希子は思う。もし俊が説得を聞き入れて、警察に出頭して、何年かの罪の償いをして、晴れて出所して来たとしたら。もう私の元には戻って来ないだろう……私のことなんて思い出しもしないのではないか……。  俊が私を頼りにしてくれるのは、飽くまでも今は自分が逃亡者だから、私がいないと生きて行けないからだ。  俊が出所してくる頃には、きっと40歳を過ぎている私のことなんて、相手にしてくれるはずがない。  世間へ出れば若くて綺麗な女の子なんて沢山いる。そんなことを考えていると、また隆夫のことが脳裏を過ぎる。  でも、私には俊の人生を束縛してしまう権利なんか無いのだから……。やっと普通の考えが戻って来た。一体私は今まで、何を夢見ていたんだろう。  そして、そうなれば私だってもう罪から免れられない。私も一緒に出頭して、犯人隠匿の罪に問われるんだ。  私も逮捕されて刑務所に入らなければならないだろうか。週刊誌やワイドショーの格好のネタになるだろう。  そうなればお父さんやお母さんも、お姉ちゃんも世間の笑い者にされてしまう。私がしたことの責任はそれ程重大だったんだ。勿論会社も辞めなければならないだろう。  お父さんとお母さんはどんなに悲しむだろう……ちょうどバブルが弾けた後で、最悪の就職難だった頃に私は父親のコネがあったとはいえ、10倍以上の倍率を潜り抜けて今の会社に採用された。お父さんはそれを凄く喜んでくれた。  お母さんは私がいつまでも結婚しないのを心配して、顔を合わせる度に「誰かお付き合いしてる人はいないのかい」って言うけれど、でも、そんなことも全て消し飛んでしまうくらいの事態に、私は落ち込んでいるんだ。  そうする覚悟が私にはあるんだろうか。でも、何よりも俊にとって一番良いことを考えてあげなければならないのだから。  俊は隆夫を失って抜け殻の様になっていた私の人生に、また意味を与えてくれた天使なんだから、私のことなんてどうなったって……。  他に選択の余地は無い。だけど、今更警察に引き渡すくらいなら、何故私はあの時俊を匿ったりしたの? 嫌、後悔することはよそう。だってあんなに楽しかったじゃないか。ほんのひと時だったけど、後悔する事なんかない。  警察に出頭する。それを俊に話すことは、別れ話を切り出すのと同じだ。  でもその前に、俊との最後の思い出が欲しい。出来ればそれだけで一生生きて行ける様な。胸の内にずっと入れておくことの出来る様な思い出が。  何をすれば、何処へ行けば一番の思い出になるだろう……。  いろいろ考えてみたけれど、旅行に行きたいと思った。そんなに遠くでなくても良い、近場の温泉に一泊でも良い、出来れば貸切のお風呂があるところで、二人で広い湯船に浸かってみたい。 「ねぇ俊。たまには外へ出て旅行でもしてみたくない?」  夕食を食べながら、テレビを見ている俊にさり気なく話しかけてみる。 「え~そんなのいいよ、誰かに見つかったらヤバイもん」 「また引っ越した時みたいに変装してさ、電車に乗る時は寝た振りとかしてればいいじゃない」 「う~ん。でも……」 「温泉とか行かない? 私とは親戚だってことにすればさ、誰にも疑われないし大丈夫だから」 「だけどいいよ、そんなリスク背負ってまで行くことないよ」 「そう……」  危険だからやめておこうというよりは、私と旅行することには興味が無いという感じだった。  食事を終えるとさっさと板張りの部屋へ入ってしまう。  仕方なく台所でひとり後片付けをしていると、溜まらない寂しさに襲われてしまい、気が付くと俊の部屋のドアを叩いている。 「ねぇ俊。話があるんだけど、ねぇ、俊、開けるよ」  返事が無いのでガラガラと引き戸のドアを開けると、俊はヘッドホンをしてテレビに向かったまま、こちらを見ようともしない。  近づいてヘッドホンを取ると、驚いて亜希子の方を振り返り「え? 何?」と素っ頓狂な声を出す。外れたヘッドホンからは大音量でゲームの音が流れている。 「話があるんだけど、ちょっといい?」  亜希子がいつになく真剣な表情をしているので「何だよもう」と言いながら亜希子の方へ向き直る。 「何?」 「うん。俊さ、ここへ来てからもう1ヶ月以上経つけど、部屋から出たのは明け方に一度海を見に行った時だけだよね、後はずっとこの部屋に閉じ篭もって。最近は私がいる時もご飯の時以外は出て来ないし、私ともあんまり話もしないじゃない」 「……」 「このままずーっと部屋の中に閉じ篭もってるだけってのも嫌じゃない?」 「ううん、どうして?」 「外に出てみたいと思わない?」 「思わない」 「どうして? 外の人たちと顔を合わせるのが怖いから?」 「そりゃだって、誰かに見つかったらヤバイもん……」 「でも、引越しの時は一日中新宿にいても全然平気だったって言ってたじゃない」 「そうだけど……」 「やっぱり誰かに見つかって、警察に捕まって刑務所に入れられるのは嫌?」 「……うん」 「でもねぇ俊。私思うのよ、俊はこのままではいけないって」 「えっ? それってどういうこと?」 「このままずっと、こんな閉じ篭もってるだけの人生を過ごしてはいけないと思うの」 「えっ?」 「それにこのままじゃ私ももう、俊とは暮らして行けないよ」 「嘘、何でそんなこと言うの」  途端に俊は表情を変えて、亜希子を咎める様な目をして来る。 「そんなこと言わないでよ、僕がどうなってもいいって言うの」 「私ね、図書館に行っていろいろ勉強して来たのよ。殺人事件を起こした場合はどんな理由があっても10年から20年くらいの懲役刑になるんだけど、俊はまだ未成年でしょう。だから少年院に入るか、もし刑務所に入ったとしても少年専用のところへ入れられてね、服役するっていうより更生して社会復帰出来る様に教育して貰うのが目的なのよ。俊がお母さんを刺してしまったことをちゃんと反省して、罪を償うっていう態度を見せれば、きっと少年院に入って、早ければ1年くらいで出て来れるんじゃないかと思うのよ。ねぇ、たった1年なんだよ。1年間我慢すれば、外へも自由に出られるし、私とも好きなところへ行ける様になるんだよ」  一生懸命に話す亜希子の言葉を、神妙な顔をして聞いている。 「そりゃ1年も俊と会えなくなるのは寂しいけど、でもそうすればお父さんみたいな医者になるっていう夢も諦めずに済むんだよ。俊は若いんだから、少年院や刑務所を出てからでも、頑張れば絶対実現出来ると思うのよ。ねぇ俊。私も一緒に行ってあげるから、ねっ、よく考えてよ」 「そんなの嫌だ……」 「だけどね俊……」 「ずっとアキコが匿ってくれるって約束したじゃないか!」  顔を真っ赤にして、目に涙を浮かべて訴える。 「アキコが守ってくれるって約束したじゃないか! いやだよ、行きたくないよ俺、そんなこと言わないでよ、ねぇ俺のこと追い出すなんて言わないでようお願いだから~」  亜希子の身体に縋り付くと声を上げて泣き出してしまう。 「追い出すなんて言わないでよう。追い出さないでよう……うう……」 「追い出すなんて、違うよ、そうじゃないのよ、ねぇ俊……」  まだ無理なんだろうか。もう少し時間を掛けなければダメなんだろうか。でももうそんなことを言っていたら……。  亜希子はただ俊を抱き、心配無いという様に頭を撫ぜてやることしか出来なかった。    4   7月も終わりに近付いて来た。今朝も亜希子は暑い陽射しの中を駅まで歩いて行く。  ホームに溢れんばかりの通勤客たちに揉まれながら、バックのお弁当箱が横にならない様に気を付けて電車へ乗り込む。  俊は相変わらずの引き篭もり生活を送っている。そして何日かに一度、亜希子が帰って来た時や明け方に、眠っている俊が魘されて「お母さん……」と寝言を言っていることがある。  この生活が永遠に続いて行けば良い、なんて思ったこともあったけど、その頃の楽しさは無くなってしまった。  電車に揺られてぼ~っとしながら見るともなく天井から吊るされた広告を眺めていると、その見出しが飛び込んで来る。 『母親を刺殺して逃亡中の高校生は今何処に? 明らかにされる少年の苛烈な家庭環境。鬼母の実態。母親は地元で大病院を経営する名門一族の娘だった……』  それは今日発売の週刊誌の広告だった。俊の事件を取材したルポライターの記事が掲載されているらしい。  八丁堀の駅を出てから急ぎ足に歩いて、最初のコンビニに飛び込み、雑誌売り場のラックの中に、その雑誌を見つけ、買って出る。 すぐにでも読みたいけれど、時間が無いのでバックの中へ詰め込んで歩く。  昼休み、いつもの様に会議室でみんなと一緒にお弁当を食べた後、逸る気持ちを抑えつつ、さり気なくその週刊誌を開いて読む。  電車の中刷り広告に宣伝されていたその記事は、最初のグラビアページの次の読み物ルポとして大きく扱われていた。 『母親を刺殺して逃亡中の高校生は今何処に?』  それは少年の父親に取材したというライターのルポで、これまでいかに少年がエリート意識の強い母親からガリ勉生活を強いられて、小学校から中学、高校と厳しい受験を経て来たかということが書かれており、妻を亡くして息子の行方を案ずる父親に同情する内容になっている。 『殺された母親は少年にとって鬼婆の様な存在であったようだ』という小見出しに始まる父親のインタビューは、次の様に語られている。 『……私は医者と言っても二流の私立大学の出身なものですから、これ以上の出世は望むべくもありません。このまま大学病院の一勤務医として生涯を終える他はないのです。妻の実家は地方で総合病院を経営しているものですから、私の不甲斐なさをいつも詰っていました。ですから息子のことは、私の様にはしたくないとの思いから、しっかり勉強させて国立大学に入れてやろうと躍起になっていた様です。全ては情けない私の責任なんです……』  そして少年の行方については、親戚や思いつく限りの友人に聞いてみても、目撃証言は愚か全く何の手掛かりもつかめていない状況であり、目下警察で捜索を続行していると書かれている。  その記事を読んでいて、亜希子には今も心に引っ掛かるものがある。あの時、経堂のアパートで俊が逆上した時に口走った『……グズでノロマな女だったんだよー……ぶっ殺してやってスッキリしたよ!』と言った言葉と、この週刊誌の父親の言葉『……妻は私の学歴が無いことに酷くコンプレックスを抱いていて、その気持ちを息子に対する厳しい教育で晴らしていたのです。鬼の様に厳しく息子に当たっていました……』と言う証言とが食い違っている気がする。  それにあの時俊は、自分が母親を刺したのは、母親が自分の成績が下がったことを笑ったからだ、とも言っていた。  教育熱心で息子の成績を上げようとしていた親が、成績が下がったからといって笑うだろうか。  俊と母親との関係には、何か他に隠されていることがあるのではないか……でもそれは俊に聞いても答えてはくれないだろう。  俊のお父さんに会うことが出来れば……と思うけど、もし父親と連絡を取るとしたら、私が俊を匿っていることを隠しておくことは出来ない。  お父さんはさぞ俊のことを心配しているに違いない。俊はお父さんのことは尊敬していると言っていた。俊はそんなお父さんのことをどう考えているんだろう……。  帰りの電車の中で吊革につかまり、暗い窓に映っている疲れた自分の顔を見つめながら、私に出来ることは何だろう……と考える。  俊を立ち直らせてあげなければならない『お父さんみたいな医者になりたい』という夢に向かってもう一度頑張って行ける様にしてあげなくてはならない。  俊が自分から警察に出頭して行くことが出来ないのだとしたら、お父さんに連絡を取って、事情を話して……そこで亜希子の考えは停止してしまう。  事情を話して……これまでの、あの経堂のアパートで俊に縛られてからの、全ての出来事を私は話せるのか……。  私は何故警察に通報しなかったのか、あの日、俊が仕事に行かせてくれた日に、何故約束通り誰にも言わずに買い物をして帰って来てしまったのか……。  そんなことまで話さなければならないとしたら……でも、そんなこと言っている場合じゃないじゃないか、私のことよりも俊のことを考えてあげなくちゃならないのだから。  普段の俊を見ていると、もう自分がやった事件のこと等は他所の世界の出来事で、まるで関係無いことにして忘れようとしている様に見える。  そこから俊を連れ戻さなくては。俊、貴方が殺したのは自分のお母さんなんだよ。  亜希子の脳裏にあの時、何度もノックするのを無視して、居留守を使ってそのまま帰らせてしまった母の丸い背中が思い出される。  顔を合わす度にお嫁に行かないのかって煩いけど、もしお母さんに何かあったりしたら、私は耐えられないと思う。  俊の悲劇は、そんなお母さんの愛情を感じることが出来ずに、殺意までも抱いてしまったことだ。  きっとお母さんだって、俊のことを思う気持ちがあってのことだったのではないのか、決して憎くてしていたのではなく、立派な人生を送らせてあげたいと思う気持ちから、していたことではないかと思う。  どうしたら俊にそのことを分からせてあげることが出来るのだろう。  俊の家の郵便受けに書いてあったお母さんの名前は、確か越川詩織さんだった。綺麗な名前だと思う。如何にもお上品な家柄で、清楚で麗しい印象を受ける。  詩織さん……あんなに可愛い俊君のことを、貴方はどうしてそこまで追いつめてしまったの? そんなに学歴が大事だったのですか? その為に自分が殺されてしまっては元も子も無いじゃないですか。本当にそんなに恐い鬼の様な人だったんですか?。  そんなことを考えているうちに電車は検見川浜駅へ到着する。まだ暑い夕暮れの街を物思いに耽りながら、通勤帰りの人波と共にマンションへ歩いて行く。  8月になって最初の昼休みだった。いつもの様に会議室で食事を終えた後、なんとなく携帯電話を開いて見ると、着信アリの表示が出ている。相手先を表示してみると「クリーニング」の文字。それは経堂にいた時に使っていたクリーニング屋さんの電話番号だった。  電話してみると、2ヶ月以上も前に出していた礼服が預けっ放しになっていると言う。 『訪ねてみたけどお引越しなさっている様でしたので……』  親切なクリーニング屋のおばさんの顔が浮かぶ。すっかり忘れていた。  仕事が終わると日本橋駅から銀座線に乗った。表参道から千代田線、代々木上原から小田急線と乗り継いで、以前通っていたルートを辿って経堂へ向かう。  帰りが遅くなると俊に連絡しようとしたけれど、俊はまだ寝ているのか、留守電に呼び掛けても出ないので、仕方なくその旨のメッセージを残しておく。  夕暮れの経堂駅へ降りる。引っ越してからまだ1ヶ月半くらいしか経っていないけど、検見川浜とは街並みがあまりにも違うせいか、懐かしい感じがする。  商店街に入って、よく買い物をしていたお店の前を歩く。時々オマケしてくれたお惣菜屋のおばさんにご挨拶したいけど、引越しのこと等を話さなければならなくなるといけないので、反対側をそそくさと歩いてやり過ごす。  そして商店街の外れ近くにあるクリーニング屋さんへ入る。 「ごめんください」と入って行くと「あら、どうも」とおばさんが出て来る。 「すいません、すっかり忘れてしまっていて、近頃引っ越したものですから」  わざわざ亜希子の住んでいたアパートまで訪ねてくれたお礼を言って、預けっ放しになっていた礼服の代金を払う。 「やっぱりあそこで事件があったので引越しなさったのかとは思ってたんですけどねぇ」  ちょっと戸惑ったけど「はい?」と少しとぼける。 「凄い騒ぎでしたわよねぇ、ビックリしましたよ、うちにも警察の方が聞きにいらして」 「そうでしたか……」 「亡くなられた奥さんはよくいらしてたもんですからね」 「えっ?」とその言葉に思わず食い付いてしまう。 「あの、よくここにいらしてたんですか?」 「ええ、もうずい分古いお客さんでしたよ、息子さんが小さい頃は一緒に来てたこともあったんですけどね」 「そうですか、本当に、お気の毒な事件でしたよね。それにしても、その奥様って、本当にそんな恐い感じの方だったんですかね?」  なるべく世間話の範疇を出ない様に気を付けながら聞いてみる。  おばさんはちょっと亜希子の顔を見ると、事件について報道されている事と照らしてのことだろうと察したのか、言葉を繋げる。 「いや、私が見た感じでは、物静かで育ちの良さそうな奥さんでしたけどねぇ……」 「そうですか、意外ですよね、そんな人が自分の子供さんにそんなに厳しくしていたなんて」  まだ何か喋ってくれないだろうかと思い、暫しおばさんを見つめながら次の言葉を待ってみる。 「もともとは名古屋の方にいらしてね、大阪の大学を出てからこちらへ来て、お子さんが出来るまではホラ、あそこの世田谷通りにある大学病院でお仕事なさっていたそうですよ、ご主人も同じ病院の先生だったらしいですけどねぇ」 「そうだったんですか、本当にとんだことでしたね。でも私が引っ越したのは、その事件のせいじゃなかったんですけどね」  と一応言い訳しておく。話好きなおばさんに、それじゃあどうして? と聞かれたらまた話が長くなってしまうので、礼服を入れた袋を受け取り、丁寧にお礼を言って店を出る。  そのまま駅へ戻ろうとしたけれど、ふと気になってもう一度店の方へ戻り、そのまま通り過ぎて商店街を抜けて行く。  信号を渡り、住宅地に入って、この前まで住んでいたアパートの方へ向かう。  俊の住んでいた家のある角まで来る。もうパトカーは止まっていない。  辺りに人影の無いことを確認してそっと側まで来た。  ハッと驚いた。そこにはもう家は無かった。取り壊されて瓦礫の山になっている。メチャメチャに壊された残骸の中に、大きな鎌首をもたげたクレーン車が少し斜めになったまま停められている。  表札が着いていた跡のある、敷地と外とを隔てる壁だけが残り、中は真っ暗で瓦礫の山になっている。その光景はとても恐ろしかった。  会社を出てから経堂まで来て、そこからまた引き返したので、マンションに帰り着くのはいつもより3時間も遅くなってしまった。  いつもなら私が帰って来てもまだ寝ていたり、起きていても自分の部屋に入ったままの俊が、今日はさすがにお腹が空いたのか「遅かったなぁ、もう腹ペコで死にそうだよ、何やってたんだよー」と部屋の中からドアをバンバン叩いてくる。 「ごめんね、急に残業になったから抜けられなくて、でも電話したんだよ、留守電にメッセージしたんだけど」 「知らねえよそんなもん」  バックを置いて急いで晩御飯の用意に取り掛かる。    5   次の土曜日。俊はまた明け方まで板張りの部屋に篭もっていたらしく、亜希子が起きて出掛ける用意をしていてもまったく目を覚ます様子は無い。  亜希子はいつもの様に会社へ行く時間に家を出る。昨夜俊には明日は仕事があるからと言っておいた。 近頃は休日に亜希子が何処へ出掛けて行こうと全く気にもしない。食べ物がありさえすれば良いと言う感じだった。 クリーニング屋のおばさんによれば、俊の両親は世田谷通りにある大学病院で共に医師をしていたのだと言う。  世田谷通り沿いにある大きな病院と言えば、豊橋大学病院しかない。今日はそこを訪ねてみようと思った。  経堂駅で降りて、農大通り商店街を住宅街に向かって歩く。8月に入ったばかりの陽射しは圧迫感があって、少し歩くとすぐに身体が汗ばんでくる。  蝉の声に包まれながらアパートに繋がる狭い路地を通り過ぎて、そのまま世田谷通りに出る。東京農業大学のバス停から成城学園駅行きのバスに乗り、世田谷通りを走って幾つ目かの豊橋大学病院前のバス停で降りる。  門を通って広い敷地を横切り、建物へ入ると長椅子が並んだ待合所になっている。  まだ10時前なのに、大勢のお年寄りが座っており、据付けられたテレビを観ている。  外来の受付へ行って保険証を出し、風邪で具合が悪いのですが、と告げる。 「お名前をお呼びするまでお待ちください」と言われ、空いている長椅子の端に腰を降ろす。  私の前にこれだけの先客がいるということは、どれくらい待たされるのだろう。でもここまで来たのだからしょうがないと思い、バックから文庫本を出して読みながら気長に待つことにする。  待ち始めて1時間くらいが経過しただろうか、「倉田さ~ん」と呼ぶ声に気付き「はい」と返事をすると椅子を立って診察室へ向かう。  内科の外来を担当する医師は初老で感じの良い男性だった。少し咳が出て頭がだるいという私の訴えに聴診器を当てながら「その他に目立った症状はありませんか」と聞かれたので「はい」と答える。  何処で切り出そうかとそわそわしていると、先生は早くもカルテにサラサラとボールペンを走らせて、これで診察を終わらせてしまいそうな気配だった。 「あ、あの、越川先生って……」黙っていては機会を逃してしまうと思い、思い切って口に出す。 「はい?」 「あの、以前に、お世話になったものですから、越川先生は、どうされてるかと思いまして」  初老の先生はジロッと亜希子の顔を見ると「ああ、退職されましたよ」と抑揚をつけずに言う。 「そうですか……、今はどちらにいらっしゃるかご存知ないでしょうか?」  今度は明らかに不審気な顔をして亜希子を見る「私はちょっと分かりませんね、次の患者の方がお待ちですので、どうぞ」と出口へ促されてしまう。  きっと知ってはいても事情が事情だけに教えては貰えないのかもしれない。  仕方なく診察室を出て「大した症状ではないですが一応出しておきましょう」と言って書いてくれた薬の処方箋を受け取る為に、また待合所の椅子に座る。  そこへ見知らぬお婆さんが近づいて来て、亜希子の隣に座ると声を掛けて来た。 「越川先生のお知り合いですか?」  さっきの話を聞いていたのだろうと思い、咄嗟に「は、はい、以前お世話になったものですから……」と内科の医師に言ったのと同じ言葉を繰り返し「どうしておられるのかと思いまして……」と言ってみる。  するとそのお婆さんは私が事件のことを知っていると合点したのか、顔を寄せて来て、声を潜める様にして言う。 「あの事件があったでしょう? 息子さんはまだ行方が分からなくて」 「……はぁ」 「この病院にいられなくなってね、どこか地方へ行かれたみたいですよ。奥さんの御遺体は御実家の方が来て引き取ったらしいですけどね」 「そうだったんですか」 「ヨイ先生もあんなことになってしまってねぇ」 「はい?」 「ああ、ヨイ先生って言うのは亡くなられた奥さんのことなんですよ。昔ここに勤めていらした頃はまだ旧姓の予伊野と言うお名前でしたからね、もう20年くらい前ですかね、私たちはヨイ先生ヨイ先生って言ってね、綺麗な方だったんですよ」  すると不意に前の椅子に座っていたお爺さんが振り返り「ええ、そうでしたねぇ」と言って相槌を打つ。  予伊野と言う名前だったからヨイ先生……。 きっとこのお爺さんやお婆さんは、身体の調子を診て貰いにこの病院へ通いながら、ここで話し相手を見つけては世間話をして暇を潰しているのだろう。  それから暫くその二人がかつてここに勤めていたヨイ先生と越川先生のことをいろいろ話してくれた。それは二人が患者に対してどんなに思い遣りのある先生だったか、ということだった。  亜希子の目的は俊の父親である越川医師の居所を知ることだったのだけれど、それを知ることは出来なかった。そのかわりに俊の母親、詩織さんの旧姓を知ることが出来た。  遺体は実家の両親が引き取って行ったのだという。クリーニング屋のおばさんは詩織さんの地元は名古屋だと言っていた。  週刊誌には詩織さんの実家は大病院を経営していると書いてあった。  名古屋にある大きな病院で経営者の名前は予伊野。それだけの手掛かりがあれば詩織さんの実家の場所を調べることが出来るかもしれない。  病院を出て、来た時とは反対方向のバスに乗って成城学園駅まで行き、小田急線の急行に乗って新宿まで行く。  新宿に着くと繁華街へと向かい、今まで一度も入ったことのなかった「ネットカフェ」という物を探してみようと思う。  インターネットで詩織さんの実家の病院のことを検索してみようと思った。  家にあるノートパソコンは近頃すっかり俊に占有されてしまっているし、それにもし詩織さんのことを調べていることが俊に分かれば、また逆上されてしまうかもしれないから。そう思ってネットカフェで調べてみようと思ったのだ。 どうやらそれらしき大きな看板を見つける。入り口は狭い階段で、店は2階に上がったところにあるようだ。  こういうところは若い人が利用するところで、私の様な年配の女が一人で入るのは気が引けるけれど、しょうがないと思って中へ入る。  受付で料金を払うと、板で仕切った小部屋が並んでいる廊下を案内され、その中のひとつに入る。中はパソコンが設置されたテーブルと椅子しかない狭い空間だった。  パソコンのスイッチを入れてインターネットに接続する。  名古屋市にある総合病院で経営者の名前は予伊野……検索キーワードの枠に「名古屋市内」と「病院」と「予伊野」という言葉を書き入れて検索ボタンをクリックする……11件の情報がヒットした。  だがどれも名古屋市内にある病院に関するウェブページではあっても、名前に・予・伊・野・の三文字の漢字どれかが含まれているというだけで、それらしき病院の情報は出ていなかった。  そう簡単にはいかないかと思い、今度は名古屋市内という項目を抜いて「病院」と「予伊野」という言葉だけを書き入れてクリックする。  今度は600件以上のウェブページが表示された。   根気良く上から順に見ていくが、なかなか詩織さんの実家と思われる病院は見つからない。そのうちに目が痛くなり、肩も凝って来るし、時間も掛かるしで諦めかけた時に、愛知県日進市の予伊野総合病院。と言う項目のあるページを見つけた。  クリーニング屋のおばさんは名古屋にある病院だと言っていたけれど、正確には同じ愛知県内でも名古屋市の近隣にある日進市にある病院だったのだ。  予伊野なんて名前は珍しいし。愛知県内で予伊野と名のつく病院はこの一軒しかないみたいだから、間違いないのではないかと思う。 手帳にその病院の住所と電話番号を書き写す。母親の詩織さんの実家を訪ねて、もし御両親や親族と話をすることが出来れば、父親の越川さんの行方も分かるかもしれない。  それにまだそこまでは考えていなかったけれど、いざとなれば俊のことを詩織さんの御両親に相談するということも出来る……。  名古屋へは東京から新幹線で2時間くらいだし、その近くならそう時間も掛からずに行けるだろうと思う。  来週の土曜日は詩織さんの実家を訪ねてみようと思う。でも最初はまだ、自分の素性は隠しておいた方が良いだろう。出来ればこちらの素性は知られずに越川さんの居場所だけを知ることが出来ればと思う……。  俊は詩織さんの実家に行ったことがあるんだろうか、詩織さんの両親が健在だとすれば、それは俊にはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんなのだ。  家に帰って夕食を食べている時に、それとなく訪ねてみる。 「ねぇ俊」  話し掛けても俊はテレビの方を向いたまま返事もしてくれない。構わずに続ける。 「俊のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんたちってさ、まだ元気でいるの?」 「え、何で?」 「うん。ちょっと気になったから」 「どうでもいいじゃんそんなこと」 「そうだけど、これからずっと一緒に暮らして行くのなら、俊のことは何でも知っておきたいからさ」  そう言うと俊は少し態度を変えてこう答える。 「父さんの実家は青森らしいけど一度も行ったことないよ。母親の方は小さい頃何度かお祖母ちゃんが来たことあったけど、家には行ったことないし、顔もあんまり覚えてない」 「ふーん。そうなんだ」 それっきり俊は何も喋りたくないという様に黙ってしまう。  俊の言葉の通りだとすれば、俊は父方とも母方とも祖父母たちとは疎遠だったんだろうか。  次の土曜日。亜希子は俊に「毎週土曜が仕事で潰れてやんなっちゃうよ」等と言っておいて、いつもの出勤時間に家を出て東京駅から新幹線で名古屋へと向かった。  新幹線の窓を高速で景色が流れて行く。ぼんやり見ていると自分の中からまた「私は一体何をやってるんだろう……」という問いが沸き上がって来る。  こんなにまでして貴方のことを考えているのに、俊はもう私の存在すら見えない様に無頓着になってしまった。私は一体、誰の為に何をしようとしているのか……。  その一方で、コレはきっと自分の為にしているんだ。という思いもある。亜希子の中には、とにかく俊一をなんとかしてあげなければならない、という使命感の様な物がある。  新幹線で名古屋まで行き、そこから支線に乗り換えて予伊野総合病院に最寄の駅まで行く。名古屋から40分くらいかかった。  電車を降りると駅前のロータリーに並んでいたタクシーに乗り、運転手さんに「予伊野総合病院へ行って下さい」と言うと「はい分かりました」と言って車を走らせた。駅前の繁華街から郊外に出て、閑静な住宅地を10分くらい走ったところにその病院はあった。  表門の脇に「予伊野総合病院」と書かれたプレートが掛かっている。敷地に入ると4階建ての病棟があり、入り口の前は車寄せのロータリーになっている。  タクシーを降りて玄関を入ると世田谷の豊橋大学病院に比べて半分くらいの広さの待合所があって、外来の患者さんたちが座っている。 受付のカウンターに行って、そこにいた女性に声を掛ける。 「あのうすみません。こちらの院長先生にご挨拶することは出来ないでしょうか」  と言うと「どういった御用件でしょうか」と聞き返して来た。 「実は、世田谷の病院で生前詩織先生にお世話になったものですから、出来たらお線香を上げさせて頂けないかと思いまして」と用意しておいた言葉を繋げる。  受付の女性はふと考える様な顔をしてから「何処か出版社の方とか、マスコミの取材の方ではありませんか?」と聞いて来た。 「いえ、違います」と答えると「少々お待ち下さい」と言って奥へ行き、受話器を取り上げてオートダイヤルのボタンを押す。きっと院長先生に取り次いでくれているのだろう。  電話の相手に事情を説明した後、電話を切ってこちらへ戻って来ると「院長先生はお会いにはなれないそうなので、奥様が応対して下さるそうです」と言って亜希子を促すと表へ出て、病院の裏手にある院長宅への行き方を教えてくれた。  女性にお礼を言って、病棟の周りに整備されている芝生を横切って裏側へ回る。  院長の自宅は病院の敷地に隣接しており、それは病院と同じくらいの広さの土地に建つ日本風のお屋敷だった。  立派な鉄門を開いて中へ進む。庭園の中の石畳を歩いて玄関へ着くと、扉の脇にあるインターホンを押す。 「どちら様ですか」老婦人という感じの声だった。マイクに口を寄せてなるべく丁寧に答える。 「突然すみません。私以前世田谷の豊橋大学病院で詩織先生にお世話になっていた者なのですが、今日たまたま仕事の都合でこちらに来たものですから、ご迷惑でなかったら御参りさせて頂けないかと思いまして」  中で足音がして、扉が開かれる。現れたのは和服を着た上品そうなお婆さんだった。きっとこの人が詩織さんのお母さん。つまり俊のお祖母さんなのだろう。 「こんにちは、小石と申します……」  咄嗟に小石さんの名前を口にしていた。本当の名前は言わないでおこうと決めていたのだけれど、ここに来るまで適当な偽名が思いつかなくて、どうしようかと思っていた。 「突然お邪魔してしまってすみません」 「わざわざありがとうございます。それで詩織とはどういったご関係で……」 「はい、個人的なお付き合いではなかったのですけれど、私小さい頃から身体が弱かったものですから、よく病院で、ヨイ先生に、あ、予伊野先生に、診て貰っていたものですから……」  詩織さんが病院で患者の人たちからヨイ先生と呼ばれていたことを知っていらしたかは分からないけれど、詩織さんを慕っていた患者の一人だということを自分なりに設定して言ってみた。 「そうでしたか、それはどうも、遠いところをありがとうございます。詩織の母でございます」と頭を下げる。細く小さな身体が一層小さく見える。 「テレビでニュースを見て、もしかしたらと思いまして、病院に問い合わせてみたところ、やはり詩織先生だったと知りまして。今回仕事の出張で名古屋へ来る機会があったものですから」  スラスラと嘘を並べている自分に呆れている。名古屋へ出張だなんて、一体何の出張だというのか、そもそも亜希子は仕事で出張なんてしたことはない。 その時、奥へ延びている廊下の脇のドアが開いて、厳しい感じの老人がゴホンと咳をしながら出て来た。玄関に立っている亜希子をジロリと一瞥すると、無言のまま奥へ歩いて行く。  あの人がお父さんなんだろうか、つまり俊のお祖父ちゃん……。 お婆さんはそのことに気を止める風もなく、亜希子に少し待つ様に言って、中へ戻ると外出用の服を着て出て来た。 「詩織のお墓はここからすぐ近くのところにあるんですよ、私がご一緒いたしますので……」 「そんな、教えて頂ければ一人で行きますので」 「いえいえ、いいんですよ。わざわざ遠くから来て頂いたんですから、詩織もきっと喜ぶと思いますので」 ガレージに停めてある高級車をお婆さんが運転して行くのかと思ったが、お婆さんは屋敷の脇へ続いている小道を伝い、そのまま裏口を出ると亜希子を連れて車道の脇を歩き始める。 「もうすぐそこですから、いつでも御参りに行けますので」  と後から付いて来る亜希子を気遣ってくれながら歩いて行く。 暫く行くと車道の先に少し高台になった場所があり、そこに墓石や卒塔婆らしき物が立ち並んでいるのが見える。  霊園の門を入ると広い車寄せがあって、その脇に売店がある。  お婆さんと中へ入る。亜希子が店員に声を掛けてお線香とお花を買おうとしていると、お婆さんは慣れた様子で色とりどりの花の中から数本のイエローの薔薇を選んで買おうとしている。 「あ、私が買いますので」と言うのを「いえいえ、いいんですいいんです」と言ってお金を払ってしまう。  仕方なく亜希子はお線香だけを買い、お婆さんは店を出ると高台に広がる墓石の中を迷わずに道順を追って歩いて行く。  辿り着いたお墓は辺りでも一際大きな区画に建っており、立派な墓石には「予伊野家先祖代々之墓」と刻まれている。  綺麗な花束が活けられており、僅かに残ったお線香がゆらゆらと煙をたなびかせている。  お婆さんが墓石の前へ屈み込んで手を合わせる。 「詩織ちゃん。今日はね、東京からわざわざ患者さんだったって人が訪ねて来て下さったのでね、もう一度来ましたよ」と言う。  そして亜希子を振り返り「よくいらして下さいました。どうぞ御参りしてやって下さい」とイエローの薔薇の花束を差し出す。 「すみません。自分で買わなければならないところを」と言いながら花を受け取り、束を解くとふたつに分けて、墓石の両側にある花にそれぞれ足して活ける。 「ああ、黄色が入って鮮やかになった」と言うお婆さんの声を聞きながら、腰を降ろして合掌する。  見ず知らずの、生前一度も会ったことのない人のお墓に御参りするのは初めてだった。 ここで眠っているのは俊のお母さんなんだ……ということに感慨を持って冥福を祈る。 「まだ詩織が病院の方へ勤めていた頃といいますと、もう随分前のことになりますかね」  この前の週刊誌の記事によれば、詩織さんは職場結婚して、息子が産まれると同時に病院を辞めているということだった。  詩織さんが勤めていた頃に診察に掛かっていたとすれば、俊が17歳なのだから、少なくとも今から17年以上も前ということになる。  亜希子は今38歳なので17年前と言うと21歳である。詩織さんは44歳で亡くなったので、単純に計算すれば当時は27歳くらいだったはずだ。  言葉を返さなければと思い、こんな会話になった時の為に用意しておいたことを話す。 「うちは豊橋大学病院が一番近かったものですから。小さい頃から怪我をしたり、風邪を引いて熱を出したりした時はよく行っていたんです」 「そうですか、それじゃ詩織は貴方の担当医みたいになっていたんですね。もう一度お名前を教えて頂けますか?」 「あ、はい……私、小石と言います。東京で、建築関係の会社でOLをしています」  本当は職業も嘘を言おうかと思っていたのだけれど、後ろめたい気がして、思わず本当のことを言ってしまう。 これ以上生前の詩織さんのことについて質問されたらボロが出てしまうかもしれない。でもお婆さんはそれ以上のことは訊ねて来なかった。  さっきお屋敷にいた、おそらく詩織さんのお父さんの、一瞬亜希子をジロッと睨んだ顔が浮かぶ。  病院の受付の人は私がマスコミ関係の人間ではないかと問い質して来た。きっとお父さんは以前に事件のことを取材に来たマスコミの人間に不快な思いをさせられたのではないかと思う。それはあの週刊誌のルポを書いた記者だったのかもしれない。 「私はヨイ先生が結婚されて病院をお辞めになった後も、ご主人の越川先生には、お世話になっていたんです……」  その時フッとお婆さんの様子が変わった様に見えた。 「……」 お婆さんは何も言わずに黙っているので言葉を繋げてみる。 「越川先生も立派な先生でしたのに、あのご夫婦がこんなことになってしまうなんて、本当に……」 「何が立派なもんですかね。こんなことになっても未だに私たちに何の連絡もして来ないんですよ。詩織を引き取りに行った時だって挨拶にも出て来やしなかったんですから……」 それまでの物悲しそうな雰囲気からはガラリと変わった、厳しい口調だった。 「あの、でも越川先生と詩織さんとは……」 「そりゃこちらからも連絡を絶ってたということもありますけどね、幾らなんでも酷いじゃありませんか」 「……」  どういうことなんだろう……と思ったけれど、聞いてみることは出来ない雰囲気だった。 お参りを済ませ、霊園を出ると元来た道の方へ歩きかける。このまま何も聞き出すことが出来ずに帰ることになってしまうのかと思っていると、屋敷の側まで来てお婆さんが振り向いた。 「もしお時間が御座いましたら、家でお茶でも召し上がりませんこと?」 「はい、ありがとうございます。時間は大丈夫ですので、それじゃお言葉に甘えて少しお邪魔させて頂きます」  と返事をして、木戸を開けて入って行くお婆さんに付いて行く。  屋敷の中へ入ると、中はしんとしていて、さっき顔を見せたお爺さんのいる気配はない。  玄関から廊下を歩いて大きな居間へと通される。  10畳くらいはありそうな座敷に高級そうな絨毯が敷かれ、その上にソファとテーブルが置かれている。  見ると隣に襖の開いた和室があり、そこに設えられた仏壇に遺影と供物が添えられている様だった。 座っているとお婆さんが紅茶とクッキーを載せたお盆を持って来る。 「すみません。ありがとう御座います」  と言って紅茶に砂糖を入れ、そっとスプーンで混ぜる。 「あの、院長先生は、今日は……」 「さぁ、ごめんなさいね、さっきは失礼な態度を取ってしまいまして」 「いえ、そんな。あの……こちらの仏壇にも、御参りさせて頂いて宜しいでしょうか」  と隣の和室を見て言う。 「ああ、どうぞどうぞ、ありがとう御座います」  ソファから立って和室に入り、仏壇の前に正座する。線香を一本取り、火を灯して立て、リンを鳴らして合掌する。  目を開けて、正面にある遺影を見る。それは初めて目にする詩織さんの姿だった。  優しそうな、可憐な感じのするお嬢様の様な印象だった。目元が俊に似ていると思う。  ……貴方が詩織さんですか? 始めまして、私は亜希子といいます。貴方の息子さんを、どうにかして助けてあげたいと思って、今日ここへ来ました。貴方のお母さんに本当のことを言わないで申し訳ないと思うけど、きっと悪い様にはしませんから。だから見てて下さい……お願いします。と心の中で語り掛ける。 居間へ戻ると、詩織さんの遺影に御参りしたことで少し勇気も出てきたのか、思い切ってまた越川医師のことを口にしてみる。 「病院でヨイ先生が越川先生とご結婚なさると聞いた時には、きっとヨイ先生は幸せになられるのだと思っていましたのに」 「うちの主人は、あの男が詩織と結婚したのは、うちの病院が目的だったと思っているんですよ」 「はい?」  意外な返事が返って来たので驚いてお婆さんの顔を見る。 「私も今思えば、本当にそのとおりだったんだと思いますよ。あの男の何とも慇懃にへりくだった態度には不快な物を感じていましたから。それを詩織は、自分への愛情だと勘違いして、主人はきっとそのことを見抜いていたんだと思います。詩織はそれまで満足に男性とお付き合いした経験も無かったので、信じてしまったのだと思います。今となっては私どもが詩織のことを厳しく育て過ぎていたことが、いけなかったのかもしれないと後悔しておりますが」 「そんな、あの越川先生が? 本当にそうなんでしょうか」  亜希子はまた一度も会ったことのない越川医師のことを知っている様な嘘をついた。でももしこの方向で話が進んでくれれば、現在の越川について何か情報が得られるかもしれない。 「詩織はあの男に殺された様なものなんですよ」 「はい?」 「そりゃ私たちがあの男のことを認めなかったばっかりに、詩織は俊一を国立大学に入れようと無理をしたのかもしれませんけれど。でももしあの男とさえ一緒になっていなかったら、こんなことにもならなかったと思うんですよ」  ……週刊誌のルポによれば、詩織さんは俊一を学歴が低かった為に出世の出来ない越川医師の様にはしない為に、俊に対して厳しい態度で勉強させていたのだと書いてあった。  でも本当の目的は、俊を一流の大学に入れることで両親に越川との結婚を認めて貰うことだったというのか。  だとすれば、もし詩織さんの御両親が越川医師の学歴とか出身についてとやかく気にしていなかったとしたら、詩織さんもそんなに一生懸命に俊の教育に当たる必要も無かったということではないのだろうか。 「そうだったんですか……そんなことは全然知りませんでしたけど。でもヨイ先生は越川先生と暮らして、幸せじゃなかったんでしょうか。ヨイ先生にとっては越川先生はいいご主人だったのではないんでしょうか」 「あの男は、身の程を知らない人ですよ」とお婆さんは吐き捨てる様に言う。 「詩織はねぇ、そんな子供を叩いたり出来る様な子じゃなかったんですよ。小さな頃から大人しくてね、物静かで優しい子だったんですよ。詩織がテレビや新聞で言っている様な酷いことを我が子にしていたなんて私にはとても信じられないんですよ。私はね、もっと早くに詩織のそんな状況を分かってあげることが出来ていたらと思うと、悔やまれてね。主人があの男との結婚を認めなかったものですから、私もおいそれとは詩織に会いに行くことも出来なくてね。それで詩織の方も意固地になってしまいましてね、ずっと断絶した様な形になっていたんですよ。ああ~せめて私にだけは何か相談してくれてたらねぇ。こんなことにはならなかったかもしれませんのにねぇ。そんな風に思うと悔やんでも悔やみきれないんですよ……」  と着物の袖口からハンカチを出して目元を拭う。 「はぁ……本当にあの男を信じてしまったばっかりにねぇ……」  そうだろうか……という言葉が浮かんで来る。お婆さんのことが不憫でならないという気持ちに変わりはないけれど。 「それに、何処にいるのかも分からなくなってるお孫さんのことも心配ですよね」 「……私どもにはもう、孫も亡くなっていないものだと思っております」 「!」 「まだ俊一が小さい頃は、私は主人に隠れてこっそり会いに行ったりもしていたんですよ。その頃はねぇ、主人と娘夫婦が上手くいっていないとはいえ、孫でしたから、それはもう可愛いと思う気持ちが強かったですけど、こんなことになってしまってはねぇ……もう孫というよりは、一人娘を殺されて、その犯人ですから……」 「!……」  亜希子は絶句して何も答えられなくなってしまう。   越川医師を見つけることが出来なかった場合には、詩織さんの御両親である俊のお祖父さんとお祖母さんに相談するという選択肢も持っていたのに、それは叶わなくなってしまった。  このお屋敷を見て、俊がもしこんなお金持ちの家に引き取られれば、勉強して医者になる夢に向かって頑張れるかもしれない……と思ってたのに。  でもそのことを抜きにしても亜希子には、この老夫婦には俊のことを任せる気にはなれないと感じている。 紅茶も無くなり、もうこれ以上話を聞きだすことは出来ないかなと思いつつ、最後にもう一度聞いてみる。 「そう言えば越川先生も豊橋病院はお辞めになられたみたいですけど、どうされているんでしょうね……」 「さぁねぇ、千葉の方の診療所にいるって先日来た週刊誌の方が言っていましたけど、私たちにはもう関係のないことですから」  千葉!……越川医師は私と俊が暮らしているのと同じ千葉県内の診療所にいる!?。  でも千葉県といっても広いから、それだけで居所を突き止めるのは難しいと思うけど、何か運命的なことを感じてしまう。  「そ、そうなんですか……」  と言葉を濁し「今日はありがとう御座いました」と言って立ち上がる。それからもう一度御参りさせて下さいと言って詩織さんの仏前に向かい、リンを鳴らして手を合わせる。 最後まで挨拶に出て来なかった院長のことを詫びるお婆さんに丁寧にお礼を言って、屋敷を出ると病院の方へ戻り、タクシーで元来た支線の駅へと向かう。  猛スピードで車窓を風景が飛び過ぎて行く。名古屋から新幹線のぞみに乗った。夕方5時前には東京に着く。 車窓の風景と重なって、あの可憐で儚げな微笑みを浮かべていた詩織さんの遺影が浮かんでいる。  あんなに優しそうな顔をした人が、俊の成績を上げる為だからって、本当に殴ったり蹴ったりしたんだろうか……。  お母さんによれば、詩織さんは物静かで大人しい性格で、人を怒ったり叩いたり出来る子ではなかったという。  両親の反対を押し切って越川医師と結婚した詩織さんは、その後両親の思っていた性格とは違う本性を現したのだろうか。   そしてもうひとつ驚いたのは、詩織さんの御両親が越川医師を憎んでいるということだった。  いや、憎んでいるというよりは蔑んでいるという方が正しいだろうか。お母さんの越川医師に対する言動は、酷い偏見の様にも感じられた。上流階級の優越意識とでもいうものだろうか。 あれこれと考えているうちに東京駅に着いた。外はまだ夕暮れが始まる一歩手前という感じだった。  すぐには京葉線には乗り換えず、八重洲口を出て飲食店がある通りへ入り、またネットカフェを探して入る。  今回の検索キーワードは「千葉県」「診療所」そして「越川康弘」しかし検索すると千葉県内にある診療所は何百とあって、その中から越川医師が勤務している診療所を見つけ出すことは出来そうにもない。せめて診療所のある市の名前だけでも分かれば……。 インターネットで見つけることが出来ないとしたら。他にどんな手があるだろう……よく雑誌等に広告が載っている興信所という物に依頼すれば、と思うけど、それにはきっとこちらの身元を知られることになってしまうから、やめた方が良いと思う。  そうだ、雑誌といえばあの週刊誌の越川医師のインタビューを書いた記者ならば、越川医師に直接会って話を聞いたのだろうから、今の居場所も知っているかもしれない。  あの週刊誌を出版している雑誌社に問い合わせてみれば……いやそれだってこちらの名前とか仕事を教えなければならないだろうし、どうしても越川医師の居場所を探さなければならない納得のいく事情がなければ教えて貰えないだろう。そもそも雑誌の記者に接触するなんてとても危険なことだ。 どうしたら良いのだろう。もしかしたら事件のことをテーマに取り上げている匿名の掲示板等を検索すれば、何か情報が得られるかもしれない。  と思い今度はキーワードの枠に「世田谷区」「母親を殺害」「高校生」「掲示板」と入れてみる。  すると過去に起きた今回の様な事件の記録やルポの他に、少年犯罪や凶悪事件に関する掲示板の案内も多数表示された。  その中から今世間で話題になっている「スクープ広場」という掲示板の名前をクリックしてみる。  その掲示板はジャンル別にいろいろなカテゴリーに分かれており、そこから更にそれぞれの専門分野や特定の社会問題についてテーマが分かれている。それぞれについて感心のあるユーザーたちが匿名で書き込める様になっている。 数あるカテゴリーの中から「少年犯罪」という項目を選び、表示してみると様々な事件の名前が並んでいる。  数ある表題を目を凝らして見ていくと、「世田谷区で起きた高校生の母親殺し」という表題があった。  クリックしてみると、それはやはり5月に俊の犯した事件についての掲示板だった。投稿者たちは様々に自分の意見や考え等を書き込んでいる。  その何百と言う書き込みの数に驚いた。今ではそれ程世間の話題にはなっていないと思ってたのに、ここではこんなにも反応が多く、それぞれにこの事件に対して何らかの思いを抱いている人がいる。  中には『母親を殺すなんて言語道断だ、死刑にしろ』なんて恐ろしい書き込みもあるけれど、見たところ大方の意見は俊に同情的で『子供は親の欲を満たす道具ではない』とか『自分のやりたいことも出来なかった彼が可哀想だ』等の同情的な意見が多い。 見ていくと、俊の名前や父親の勤めていた病院の名前等は少年事件なので伏せられているはずなのに、中には『この少年の実名を知ってる』とか『少年の写真を入手しました。アップします』等のドキリとする書き込みがある。そのリンクを開いてみると、既に掲示板の管理者によって削除されているのか、写真が出て来ることは無かった。  けれど、投稿者がアップしたばかりの頃はここに俊の写真が掲載されていたのかと思うと怖くなった。  マスコミの報道では事件の詳細や個人名は伏せられているけれど、当事者たちの近親者や知り合いだった人は知っている訳だから、中には『俺は知ってるぞ』とか『私は同級生でした』等と情報を暴露している書き込みもある。  俊のことをそのまま苗字と名前を書かずに『越〇俊〇』という様な形で書いているいやらしい書き込みもある。  報道からは当事者たちを知ることが出来ない一般の閲覧者たちは、関係者だけが知っている情報にひどく興味を惹かれるのか『誰か知ってる人教えて』とか『写真持ってる人いたらアップしてくれ』等と煽っている書き込みもある。  それに呼応して当人たちのことを知っている人が競い合って情報を暴露している様なところがあった。 恐いと思いつつ、何か越川医師に関する情報はないかと、延々と続く書き込みをスクロールしながら目を凝らして見て行く。 そして、その中にこんな書き込みを見つけた。 『この少年の父親は地元でも昔からダメ医者で有名、学歴も低く大学病院のお荷物的存在だった越〇さん。今は追放されて某県の僻地にある〇辺〇村の診療所で隠密生活を送ってるんだとさ……』 某県の僻地にある〇辺〇村……これが本当なのかは分からない。でももし千葉県内に「〇辺〇」に当てはまる名前の村があるとしたら……。 再び検索キーワードに戻り、今度は「千葉県内の村」と書き込んで検索してみる。  ズラリと並んだ村の名前の中に「〇辺〇村」という文字列に適応する村の名前がひとつだけあった「芳辺谷村」更に検索を進めてみるとその村にある診療所はひとつだけ「芳辺谷村会沢診療所」。 住所も掲載されている。それは会沢さんという医師が個人で経営している診療所らしかった。  だが、そこに勤務している医師の名前までは記載されていない。越川医師はここに勤務しているんだろうか。手帳を出してその診療所の住所と電話番号をメモする。  時計を見ると7時になってしまった。そろそろ帰らなければ、また俊がお腹を空かせて怒っていることだろう。    6  東京駅から京葉線に乗って、検見川浜へ着いた時には夜の8時を回っていた。  マンションへ帰ると、俊は居間で寝転んでテレビを見ながらスナック菓子を食べている。 「ただいま」と声を掛けても返事は無い。  亜希子は黙って手を洗い、洋服を着替えて俊の散らかした部屋の中を片付ける。  ひととおり部屋を片づけて、二つのカップにお茶を入れて居間のテーブルに置く。  俊はお茶には見向きもせず、テレビを消して板張りの部屋へ行こうとするので、声を掛ける。 「ねぇ俊。私今日ね、仕事があるって言ってたけど、本当は新幹線に乗って、愛知県の日進市にある詩織さんの実家まで行って来たんだよ」 「えっ?」 「俊のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会ってね、詩織さんのお墓参りをして来たの」 俊はビックリした顔をして亜希子を見る。 「ええっ、何で?」  自分の身に関係のあることには敏感に反応するのだ。 「大丈夫だよ、俊がここにいるってことは秘密にしておいたから」 「何でそんなことしたの? アキコは何て言って行ったの?」 「以前に詩織さんにお世話になっていましたって、患者さんだったことにして、御墓参りさせて下さいって言っただけだよ」 「何で?」 「お父さんのことが知りたかったから。詩織さんの実家へ行けばきっと何か分かると思ったから」 「何でそんな余計なことするんだよ!」 「余計なことじゃないよ、ねぇ俊。お父さんと連絡が取れるかもしれないんだよ」 「えっ! そんなのダメだよ」 「こんな暮らしが一生続けて行けるなんて俊も思ってないでしょう?」 「何でだよ、大丈夫だよそんなの」 「だって俊はまだ17歳なんだよ、これからまだ何十年も人生があるんだよ」 「そんなの分かってるよ」 「分かってないよ。こんな狭い部屋に閉じ篭もって時間を無駄にしてばっかりいていい訳ないよ、これからだって医者になる夢を叶えることが出来るんだから」 「そんなの出来る訳ないじゃないかよ」 「なんでよ、大丈夫だよ! 俊はまだ若いんだから、少年院に入ったって、その後でまだ時間は幾らでもあるんだから、ねえ俊!」  いつにない亜希子の剣幕に気圧されたのか、俊は黙ってそっぽを向いてしまう。  何とか勇気付ける言葉を掛けてあげたいと思うけど、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが俊のことを心配していたよ……とは言えない。 「……ねぇ俊、私びっくりしたんだけど、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんはね、俊のお父さんのことを、お母さんをたぶらかして結婚した悪い人だって言ってたんだよ」 「えっ、違うよ、そんなことない……」 「俊はそう思う?」 「……」 「ねぇ俊、お母さんは本当に俊にそんなに無理矢理勉強させてたの?」 「……」 「週刊誌や新聞に出ていたことは、本当なの?」 「……うん」  その話を持ち出されるのは俊にとって触れて欲しくないことだとは思うけど、どうしてもそこから逃れることは出来ないのだから、今こそしっかり問い質しておかなくてはならない。 「お父さんはそんな厳し過ぎるお母さんのこと、注意してくれなかったの?」 「……」 「俊はお母さんは嫌いだったんでしょ、でもそんなお母さんのことを止めてくれなかったお父さんのことはどう思ってるの?」  黙りこくっていた俊は、亜希子がいつまでも目を逸らさずに見ていると、観念したようにボソボソと話し始める。 「お父さんは……凄い人なんだよ。とても努力して人の為に一生懸命医療活動してる、立派なお医者さんなんだよ……だから僕も勉強して、お父さんみたいなお医者さんになりたかったんだよ……」 「俊は、お父さんのことは尊敬してるんだね」 「父さんは、出たのが私立の低い大学だったから、病院に入ってからも凄く苦労して、出世も出来なくて、でも周りの人たちから信頼されて、大変だからって他の人が引き受けなかった小児科の担当もして、毎日夜中まで仕事して、どんなに疲れてても休まないで、自分に厳しくて、僕もそんなお父さんみたいになりたいと思ってたんだ……でもダメだったけど……」 「そんなことないよ」 こんなに素直に話をしてくれるのは久しぶりだった。亜希子は思う。俊はお父さんは立派な人だと思っているのだ。だから俊だって、詩織さんが無理矢理にでも入学させようとしていた国立大学になんか行かなくたって、お父さんの様に努力して、権威なんか無くっても誠実な医者になって生きて行きたいと思ってたのに、詩織さんは俊を一流大学に入れることでしか両親に自分の結婚を認めさせることが出来ないと考えて、俊に厳しく当たっていたのだ。その為に俊は犠牲にされてしまった。 「ねぇ俊、本当にお父さんと連絡が取れるかもしれないんだよ」 「やめてよそんなこと」 「どうしてよ」 「ダメだよ絶対に! ねぇやめてよお願いだから!」 「だからどうしてよ」 「だって……僕、あんなことして」 「大丈夫だよ、お父さんならきっと俊の力になってくれるよ」 「ダメだってば!」  隣の住人に聞こえてしまうのではないかと思うくらい大きな声だった。 「どうして? 俊、お父さんは立派な人なんでしょう、それならきっと……」 「お父さんに会わせる顔なんかないもん……だって、僕は取り返しのつかないことして、父さんの人生をメチャメチャにしちゃったんだよ。父さんに許してくれなんて言える訳ないじゃないか」  俊一が警察に出頭出来ない一番の理由は、父親に対する罪の意識なんだろうか。  母親を殺したことで俊が唯一罪の意識を感じているのは、父親に対してだったのかもしれない。それ程俊はお父さんに申し訳ない気持ちで一杯だったのだ。  いずれにしても愛知県にいる祖父母が俊を助けてくれる可能性はない以上、力になって貰えそうな人はもう父親以外にはいない。  俊がどう思おうとも、どうしても一度越川康弘という人と連絡を取ってみなければならないと思う。 (下巻へ続く)
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