僕の生き霊(下)

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   第四章     1  その時進は夢を見ていた。それは誰かの首を締めて水の中に無理矢理沈めている夢だった。  近頃は徐々にだが自分が眠っている間に見ていた夢のイメージを思い出せる様になってきている。  そうだ……僕は人の首を締めて湯船に沈めていた……男の人だ、おじさんの様な……あの後頭、僕の手を放そうと必死になってもがいて……そうだ。あれはあの刑事だった。間違いない。あの所田刑事を無理矢理お風呂に沈めてしまう夢だった。  あの刑事には酷い目に遭わされたから、きっとこんな夢を見たんだ。 リアルな夢で、両手で締めていた所田の首の感触と、進の手をどうにかして解こうと手を後に回してもがいている所田の後頭や頭髪の感じが生生しく思い出される。  所田が暴れるので湯船から湯気がもうもうと立ち上り、その湿気た空気感までが実感として残っている様な感じだ。  進の容貌は尚一層老け込んで見え、目は落ち窪み頬はやつれ、まるで重病人の様な面持ちになっている。 栃木県警真岡署の刑事、所田義晴が自宅アパートの風呂場にて溺死したと言う出来事は、翌日地元の地方紙には写真入りで大きく報じられたが、全国紙には三面記事の小さな欄にそっと記載されたに過ぎなかった。 「ねぇ高本さん。コレってこないだ高本さんのこと調べに来てた刑事さんのことじゃないですか?」  と後輩社員の塩中が新聞を持って進のデスクへ見せに来る。  塩中も進のアリバイについて所田から聞き取りを受けていたので覚えていたのだ。  記事には昨夜未明、所田が自宅アパートの風呂場にて、浴槽に頭を突っ込む様な形で死んでいるのが見つかったとある。  発見された時には入り口のドアや窓は全て施錠されており、他者が入った形跡はなく、警察では事故か自殺の可能性もあると見て、調査しているとのことであった。  !?  進にはこの時初めて全てのことが分かった。  大垣彰と村麦実の事故に対する所田刑事の推理は間違ってなどいなかったのだ……。  所田刑事を殺したのは僕だ……。  そして、栃木の大垣さんを殺したのも、昭和台病院の村麦さんを殺したのも僕だ。ただ、僕が知らなかっただけだ……。 進の脳裏に、もうひとりの進の記憶が自分の記憶として甦って来る。  あの時……夜中ひとりでウィスキーを飲んでいた大垣彰先輩……そうだ、そうだった。進の脳裏に自分の記憶としてハッキリと思い出すことが出来る。  居間のソファで、見るとはなしに点いていたテレビを眺めながらくつろいでいた大垣さん。  そこへ何の前触れもなく居間のドアが開けられ、青白い顔に真っ黒な目をした男が無言で入って来たのだ。  大垣さんは僕の顔などすっかり忘れていたに違いない、いきなり見知らぬ奇怪な男がドカドカと入り込んで来たのだ。  その時の仰天振りは如何程の物だったろうか、もうひとりの僕はそのまま大垣さんの襟首をつかんでねじ上げる様にしてソファから立たせ、そのまま引き摺る様にして運び、窓を開けてベランダに出し、そしてそこから……驚愕の悲鳴を上げる大垣さんを、有無も言わせず欄干の外へ放り投げた……。 村麦さんの時は、空いている夜の東名高速を愛車のジャガーをひとり快調に飛ばしていたところに。僕は空から舞い降りて村麦さんの車を捉え、スゥッと車の中に忍び込んだ。  村麦さんの横に、誰もいるはずのない助手席に突然青白い顔をした僕が座っていたんだ。  その時の、今にも目玉が飛び出してしまいそうな村麦さんの表情もありありと思い出すことが出来る。 「どうしたんだお前! 一体どうなってるんだ!」  叫び声を上げる村麦さんの方へ身体を乗り出して、やめろと言う村麦さんを無視して僕はハンドルをつかんでグルグル回した……車はスピンして横滑りを起こし、前方が側壁にぶつかった衝撃ででんぐり返った。そして凄まじい衝撃が、村麦さんの絶叫と共に……。  身体がブルブルと震え出した。風邪を引いている訳でも寒さを感じている訳でもない、なのにガクガクと視界が揺れて上手く喋れないくらいに進の身体全体が激しく振動している。 「大丈夫ですか高本さん? どうしたんですか」 尋常でない進の様子を見て、塩中が心配そうに言う。 「う、うん。だ、大丈夫だから……」  慌てた様にトイレへ駆け込んで行く進の様子を、塩中は不審そうに見送る。  何が起こったのか! 僕は一体どうしてしまったと言うのか、一体僕にどうしろと言うのか!  トイレの個室に入った進は激しく身体をのたうたせながら、ベンキへ向けて何度も嘔吐を繰り返す。  しかしまさかそんなことが! そんなことがある訳は無いと必死に自分に言い聞かせている。  そうだ。そんなこと誰が聞いたってあり得る訳無いじゃないか、偶然だ。偶然に決まってる。たまたま僕の見た悪夢や、無意識のうちにしてしまった空想と、現実が重なってるだけだ。恐ろしい偶然が重なってしまった為に、僕はあらぬ想像力を働かせてしまっているんだ。  しかし、一方ではそんなことでは説明のつかない事実であることを、進自身の思考が、記憶が、確信している。もう逃れようが無いのではないか……。  ひとしきり嘔吐を繰り返し、もう出て来る物も無くなって咳込んでいると、進はふと背後の、トイレブースのドアの上から誰かが自分を覗き見ている様な気がして後を見上げた。  ドアの上をサッと黒い影が飛び退いた様な気がしたが、錯覚だったのかもしれない。     2  疲れているんだ。毎日の仕事と、あんな変人刑事の強引な取調べに付き合わされた為に。そうさ、精神的に参っていたんだ。ただそれだけのことだ。僕の生活の何が変わったって言うんだ。何も変わっちゃいないじゃないか。  もう僕を本気で殺人犯だと思う奴なんて誰一人いないんだ。そうさ、僕には関係ない、全ては何の関係も無いことだ。僕はどうかしてたんだ。こんなことにいつまでもかかずらっている暇は無いじゃないか。早く正気を取り戻さなきゃ……。  そもそも今僕はそれどころじゃないのだから、今日こそは昭和台病院の新しい医局長、滝川さんに取り入って、新しく参入して来ようとしている他メーカーと、僕とで提示する商品の価格設定の比較で注文先を決めて貰えるように、承知して貰わなくちゃならないんだ。  先任の村麦さんの子分だったからって、それだけで有無も言わさず契約を打ち切るだなんて、そんな無茶なことをされて溜まるもんか。  購入する備品について、僕と他社メーカーとの間で見積もり値段を出し合って、価格競争をさせて貰えれば、僕の方は今までの取り引きの実績からみて、会社の方でも絶対に負けない程の低い値段を出して勝負させてくれるに違いないんだ。 今日こそは滝川さんに何としてもそのことを了承して貰わなければ……。  と気合を入れて会社を出ると、進は一路昭和台病院へと向う。 いつもの様に受付けで来訪の旨を告げ、エレベーターに乗って4階の医局長室を訪問する。  ノックをして中に入ると、滝川は他社メーカーの営業マンと商談している最中だった。 「医局長、お忙しいところお邪魔してしまってすみません……」  進は滝川の大きなプレジデントデスクに歩み寄ると、その前に立っている他社メーカーの営業マンにも軽く会釈をし、滝川に向き直った。 「お願いします。是非とも我が社にも、今後のお付き合いを続けて頂けるチャンスを与えて頂きたく、今日もお伺いいたしました……」  と言って深々と頭を下げる。 「うん……」  と滝川は唸る様に言って、そこに控えている他社の営業マンの方へ目を向けて言う。 「どうかね、こちらは今後の契約について、その都度こちらの注文する製品について価格の見積もりを提出させて欲しいと言って来てるんだが」  少し戸惑った様な顔をして他社の営業マンは答える。 「はぁ、それは、滝川様の方でご判断なさるべきことですので、我が社としても、滝川様のご選択に応じて如何様にも対応を取らせて頂きたいと思いますが」 「そうか……」  進は驚く。今までは何を言っても取り付く島も無いと言った感じで拒絶されるばかりだったのに、ここへ来て滝川が始めて軟化の兆しを見せてくれた。 何故なのかは分からなかったが、偶然この他社の営業マンが同席していたお陰で、進にとって良い方へ流れが向いてくれたと言うのか。 とにかく進としては思いがけない嬉しさが込み上げて来る。  その他社の営業マンは重ねて言う。 「我が社としましては、こちらには新しく参入させて貰っている立場ですので、どちらがより好条件で医局長様のご期待に添える事が出来るのか、と言う点で判断して頂くことに依存は御座いません。どうぞ宜しくお願いをしたいと存じます」  と言ってその営業マンは進にも頭を下げる。  そう言われると進の方も慌ててその営業マンに居直り、こちらこそお願いしますと言う意味で頭を下げる。 「それでは、私の方は今日はこれで失礼いたしますので、今後とも宜しくお願いいたします」  そう言って男は部屋を出て行く。  滝川とふたりだけになった進は思わず「ありがとうございます」と立ったまま床に頭をつけんばかりに頭を下げて礼を述べる。  ついこの間まではそこに村麦が座っていたプレジデントチェアーに踏ん反り返った滝川は、少し困った様な顔をして進を見る。 「うう~ん、まぁ、私としても君の頑張りには少々参ったと言う感じかな、はっははは……」  滝川は何処か力無い様子で笑う。 「はぁ、恐縮の至りです」 「君は村麦さんの時にもそこまで屈服して仕えていたのかね」 「は、はぁ……」  そう言われるとさすがにちょっと恥かしい気がする。 「だけどねぇ君」 「はぁ」 「君のそこまでの仕事に対する熱意には感服するけれども、夜中に私の自宅の側まで来てずっと立ってたりするのはやめてくれたまえよ」  ギョッとした……。 「は、はぁ、と言いますと?」 「いやね、私はチラッと見ただけだったんだが、うちの女房が怖がってね、夜中中電柱の陰に立ってず~っとウチの方見てたって言うじゃないか」 「はっ……いっ、いえあの、どうも、とっとんだ失礼をいたいたしまして……申し申し訳、ありませんでした」 「いや、もうそういうのはやめてくれればそれで良いんだ」 心臓が高鳴っていた……。  滝川には今後のことを宜しくお願いしますと念を押して、医局長室を後にする。     3  せっかく危機を脱出して晴れ晴れとした気持ちになれるところなのに……街を歩いていても進はたちまち目眩を起こして倒れてしまいそうになる。  僕は……滝川さんのことも……いや、そんなことはない、僕が一晩中立って見ていただなんて、そんなことある訳はない、滝川さんが見たと言うのも、何かの見間違いだ、何かの見間違いだ!。  僕は大口の顧客からの契約解除と言う最大の危機を脱することが出来たんだぞ、喜ばなくちゃ、頸が繋がったんだ。これからも毎日仕事を続けて行くことが出来るんだ。  進は無理矢理その様に結論付けた。そうして悪い想像に引っ張られて浮かび上がって来ようとする恐怖を押さえ込む。  さぁ今日は良かったな。そして明日も仕事だ。何ら変わることも無い今までと同じ僕の日常が明日も明後日も続いて行くんだ。  何も心配することなんて無い。それは僕の気持ちの問題だけなのだから……。  慣れない心理カウンセリングなんか受けて、催眠療法なんか受けるから妙な妄想に浸るクセが付いてしまったんだ。  と言ってはみたものの、進の容姿は前よりも一層目に見えてやつれ果てて来るのだった。  今日等は美由と一緒にお風呂に入っていた時に、顔だけでなく枯れ木の様にシワの増えた進の身体を見た美由が思わず「パパー御爺ちゃんみたいだよー」と口走った。  そんな進に対する好江の心配も募り、ついに今度の休みに病院で人間ドックに入り、身体中の精密検査を受けることを約束したのだった。 そして……夜眠っている時には、相変わらずの夢が……進の意思に反して入り込んで来てしまう。  近頃見る夢は決まっていた。そう……あの幼い女の子の首を締めている夢。  それを夢の中の進は得も言われぬ楽しい気持ちでやっている。  進がしっかりと指に包んだ両手の中で、女の子の小さな首は締められて、可愛い顔を苦悶に歪めながらイヤイヤをする様に左右に振る。 「……可愛いね、苦しいかい? 苦しいんだね、でも苦しそうなその顔が、僕には堪らない快感なんだよ……出来るだけ長引く様に、より酷く苦しむ様に、微妙な感覚で首を締め続けてあげようね……ギリギリのところで死なない様に、こんな苦しみが続くくらいなら一刻も早く死んでしまいたいだろうけど、ギリギリのところで死なない様に、ほんのちょっとだけ息をさせて……君は何よりも可愛らしい存在なんだから、僕が両手で包んであげようね……」  眠っている進は魘されてそこから逃れようと、苦悶の表情を浮かべながら顔を左右に振る。 「やめろっ、やめろっ! うわあぁぁーっ」堪らずに絶叫して目を覚ます。  進の叫び声に驚いた美由が泣き声を挙げ、驚愕した様に好江が進の顔を見つめている。 「進さん……貴方、どうしたの?」  身体がブルブル振るえている。  夢の中で楽しんでいた自分の気持ちが、目を覚ますと自分への嫌悪となって跳ね返って来る。こればかりは眠りに付いている自分にはどうすることも出来ない。     4  ぼんやりと朝食を取っていると好江が心配そうな顔をして語り掛けて来た。 「ねぇ貴方。昨日はどんな夢を見たの?」  答えられるはずも無い。 「最近毎晩じゃない、美由も怖がってるし」 「ああ、ごめんよ」 「近頃の身体のやつれ方は尋常じゃないわよ、本当に何も自覚症状は無いの?」 「えっ? ああ、大丈夫だから、何かあれば、今度病院で検査した時に分かるさ……」  進の容貌の衰弱振りは尋常ではない。 「仕事の方が大変なの?」 「えっ、いや、そんなこともないんだけど」  そんな好江と進の様子に、美由も心配そうな顔をしてじっと見つめている。 「大丈夫だから、心配ないから……」  まるで老人の様にやつれ果て、元気のない様子で仕事に出かけて行く進の姿を、好江と美由は心配そうに見送る。  今日は大田区で開業している内科医に顔を出す予定になっている。  会社を出て中央線に乗り、神田から山手線に乗り換えた進は五反田駅で降りた。  駅前の大きな交差点で信号待ちをしていると、ふと車道を行き交う車の向こう側で信号待ちをしている人々の中に、何か気になる気配を感じて、それとはなしに目線を泳がせていた。  広い車道の向こう側まではかなりの距離があり、そこに立つ人たちの顔もハッキリとは判別出来ないのだが、何故か進にはそこに立っているそれだけはハッキリと分かった。  あそこに自分がいる……。  まるでこちら側にいる自分をそっくり鏡で写した様に、そこには同じ鞄を提げ、同じスーツを着た自分が、こちらを向いて立っていた。  顔だけが妙に青白く、まるで夜光塗料を塗った顔が暗闇の中で浮かび上がっている様にぼうっとしている。目が真っ黒で表情は無い。  ギョッとすると同時に脚がガクガクと震え出し、立っているのもままならなくなってしまう。  だが、確かめなければならない、両脚をしっかりと踏みしめて、信号が変わると同時に進は歩き出す。  いた、確かにいたのだ。進は自分を見た場所を目指して、先を急ぐ群衆の中を急ぎ足で向う。だが、その男を見つけることは出来ない。  やっぱり見間違いだったのか……でも確かにここに……辺りをキョロキョロしながら今来た反対側の歩道を振り返ると、いつの間にすれ違ったのか、車道の向こう側に立ったそいつがじっと進を見ている。 「あっ」  そいつは無表情に軽く片手を上げたかと思うと、そのまま踵を返して歩き去って行ってしまう。 慌てて追いかけようとしたが、既に信号が変り、双方から凄い勢いで車が走りだしてしまい、とても渡ることは出来なくなってしまった。  脚の力が抜け、激しい目眩に襲われた進はその場に身を伏せてしまう。  いた。確かにいた。そいつは青白い顔をして、マジックで書いた様な輪郭と、黒々とした目鼻のついた、マンガの様な顔をしていたけれど、あの顔は確かに僕だった……。  あいつが夢の中の僕なんだ。大垣さんを殺したのも、村麦さんを殺したのも、所田刑事を殺したのも、あいつだ。そしてそれは、僕なんだ……。 そして今度は、あの女の子を殺そうとしている。夢の中に現れる、僕に首を締められて苦しんでいるあの子。僕が、僕の意思で……あの女の子……僕は知らない、あの子は一体誰だって言うんだ。  進にはその女の子に対して「もしかしたら……」と薄々思い当たるところがあった。それを思うと身体中に寒気が走り、とてつもない恐怖で縛り付けられる思いだった。  それでもまだ、進は仕事を放り出す訳には行かない。  仕事だ、仕事をしなければ……生きて行けないんだから、例えどんな状況にあろうと、頭の中がそれどころじゃなかろうと。僕の人生に一番大切なことじゃないか、さぁ仕事をしなければ、好江や美由の為にも。  僕を苦しめ苛んでいるのは現実のことじゃない、いや少なくとも現実には説明のつかないことなんだ。  僕が住んでいるのはあくまでも現実の社会の中なのだから。そうだ、僕は責任を果たさなければならない。  この期に及んでもまだ進は認めたくなかった。自分以外の自分の存在だなんて、ある訳が無い。無いんだ……。  と必死の思いで立ち上がり、自分を叱咤して仕事に向う気持ちを取り戻した。そして訪問先の内科医へと向った。     5   そしてまた夜が来る……。 「今日はぐっすり眠れると良いわね」  心配そうに進の顔を見ながら、いつになく優しい好江は進の身体にそっと毛布を掛けてくれた。  そして電気を消して、進を労わる様に肩を抱きながら横に入って来た。  近頃あまり感じたことの無かった好江の体温が進の身体を包む。ああ……何やら懐かしい臭いだ……。 「好江……」と母親に甘える子供の様に進は福よかな好江の胸元に顔を押し付けて、ギュッと目を瞑った。  そんな進をいとおしむ様に好江は両手で包み込んだ。  そんな好江と進の願いも虚しく、眠りに落ちた進には、今夜もまた同じことをしている自分の視界が見えて来てしまう……。  幼女に馬乗りになって首を締めている自分……。 そんな夢の中の自分に対して、進は必死になって抵抗を始めた。近頃は毎晩見ているこの夢の中で、徐々にだが現実の進本人の意思が入り込める様になって来ていた。 「やめろ! やめろ! よせ! 僕は、僕がこんなことをする訳がない……こんなことをして楽しいだなんて、思うはずない……やめろ、やめるんだー……」  幼女の首を締めている自分の両腕を必死になって外そうともがいた。だが小さな首をしっかりとつかんでいる腕はビクともしない。  可哀相に女の子はギュッと両目を瞑って歯を食い縛り、イヤイヤをする様に顔を左右に振り続ける。  進は、身体を左右に振って反動を付け、幼女の身体から自分の身体を振り解こうと揺すった。すると、徐々にだが自分の肩が二重になってブレて行く様な気がして来た。  左右に揺することで二重写しの様に身体全体がブレて分離し始めたのだ。幼女の首を締めている自分と、自分の身体から離れようとしている自分。  進は思い切り力を込めて自分の身体を揺さぶった。そのうちにブレが段々激しくなり、ついには進の身体はまるで魂が身体から抜け出る様に、蛇が脱皮するかの様に本体からスッポリと分かれて行くではないか。  幼女の首を締めている自分の身体から抜け出ることが出来た進は、そのまま宙に浮いて離れ、首を締めているもうひとりの自分の姿を見た。  それは、やっぱりあの男だった。もうひとりの自分……青白い顔をして、真っ黒な目をして……無抵抗な幼女の首を締めている。  幼女はベッドに仰向けに寝ており、その男は上から圧し掛かる様にして馬乗りになっている。  そして、幼女のベッドの脇にいてその男の姿を見ることが出来ず、幼女の苦しむ原因が分からずに必死になって看病している母親は葵ちゃんだった。  葵ちゃん!……ああ、やっぱり、そうだったのか、あれから15年も経って、葵ちゃんも34歳になっているはずだけど、見間違える訳もない、紛れもなくこのお母さんは葵ちゃんだ!。  進は必死になって、葵ちゃんの娘の首を締めている自分の分身を振り解こうとするのだが、締めている腕をつかもうとしても、身体全体で体当たりしようとしても、抵抗無く身体がすり抜けてしまい、どうすることも出来ない。 「あなたっ、あなた! しっかりしてよ」  そのうちにヒステリックな声を上げて進の身体を揺り動かす好江に起こされてしまった。  目を覚ました進は、全身にびっしょりと汗をかいている。  進は期せずして激しい嗚咽を漏らし、滂沱の涙をほとばしらせて泣き始めてしまう。  驚いて目を覚ました美由も恐怖に慄いた目で進を見つめている。  僕が葵ちゃんを苦しめている……。あんなに大好きだったのに、誰よりも幸せを願っていたはずだのに、どうして僕は、こんなことするんだ!。  余りのことに驚愕の表情を浮かべながら、好江は泣いている進の顔を茫然と見つめている。 「進さん……どこか、精神科の病院に行って、看て貰った方が良いんじゃないかしら……」 「うん……」  こんなにも心配している好江と美由に、もう全てを打ち明けるしか無いんじゃないだろうか、だけど……。  もし真実をありのままに説明したとしても。到底事実として受け入れられる内容の物ではない。もし打ち明ければそれこそ何処か精神に異常が発生していると言うことになってしまう。  専門の医師に看て貰ったりすれば、精神異常と言う診断を下されてしまうに決まっている。  もしそうなれば、それこそ普通の家族生活を営んで行くことは無理だと言うことになり、家族を失うことにもなりかねないではないか。  でも、それじゃあ僕はどうしたら良いのだろう……。     6  昨夜の夢で判明した事実の為に強烈なショックを受けてしまい、進はもう仕事も何も手に付かなくなってしまった。  いつも通り会社へは出て来たが、営業の行き先も決めないままに当ても無くフラフラと会社を出る。 一体どうすれば良いんだろう……僕は葵ちゃんの娘を苦しめている……。  しかも、ひと思いに殺すのではなく、ジワジワと苦しめて……どうして? 何でそんな卑怯な真似をするんだ!?。  こんなことは許せない、どうしたら助けることが出来るのか。どうしたらアイツをこの世から消すことが出来るのだろうか……。 そして考えあぐね、苦しみ抜いた末に進の思いついた結論は、自分が死ぬば……と言うことだった。  アレは僕の分身なのだから、僕が死ねば、アイツも消えて無くなるに違いない。そうだ、きっとそうに違いない。  だけど、今僕が死んでしまっては、残された好江と美由はどうなる? 生命保険には貯蓄型も含めて二つ入ってる。二つとも加入したのが10年くらい前だから、死因が自殺だとしても保険金は降りるだろう。でもそれで二人が一生生活に困らないだけの金額になるのだろうか。それはちゃんと確かめておかなければならない。  もしそれが二人の今後の生活に充分な金額になってさえいれば……後はきっと、問題無いんだ。 そう思った進は踵を返してオフィスへと戻り、加入している二つの生命保険会社の担当者へと電話を入れて、自分が加入している保険の契約状況についてそれとなく説明を受ける。 そして、今進が死亡した場合に好江が受け取ることの出来る保険金を計算する。  これだけあれば……好江はきっと今のパートも続けて行くだろうし、マンションは売らなければならないとしても、しっかり者の好江のことだから、美由が成人するまではきっとやって行けるはずだ。  熱中して計算している進の姿を、オフィスに残っている倉橋俊子が好奇な目でじっと見つめていたが、進は気にすることなく計算したメモを見つめている。  そのメモ用紙をワイシャツの胸ポケットに入れて、進は鞄も持たずにオフィスを出ようと椅子を立つ。 その様子を見て奇異に思った俊子が「ちょっと、高本君……」と声を掛けてきたが、振り返りもせずに進はエレベーターに乗って行ってしまう。  進は夢遊病者の様にフラフラと外を歩き、御茶ノ水駅の前を通り越していた。  気が付くとJR線の線路と平行して流れる神田川をまたぐ聖橋に差し掛かっている。その橋を渡り、そのまま歩いて行く。  そこには大きな東京医科歯科大学の校舎があり、その向かいに広がる森の中に、湯島聖堂と呼ばれる中国の仏閣を思わせる巨大な建造物があった。フラフラと進はその敷地の中へ足を踏み入れる。  湯島聖堂は何百年も前に儒教の教えを広める為に五代将軍綱吉が建てたと言われる。古い中国の神社の様な建物で、広い敷地の中は厳かで都心とは思えない静寂に包まれている。  心を落ち着けるには良い場所である。進は以前からひとりで何か考え事がある時などに良く訪れていた。  まるで心ここにあらずと言った風情で進は人気のない森の道を歩く。  ……好江はあれだけのしっかり者だし、僕が死んだら保険金を受け取って、きっと立派に美由を育て上げてくれるだろう。それにきっと、押し掛け女房の様に僕の妻に納まってしまった様に、僕がいなくなっても新しく自分の糧になってくれる男をつかまえて、第二の人生を謳歌してくれるに違いない……。  そう思った時、ふいに涙がこみ上げて来た。それは悔し涙だった。コレが、こんなことが、今まで僕の生きて来た人生の終着点だと言うのか……僕が……僕が何故……。  静寂に包まれた森の中で、そんなことを思って進は声を押し殺し泣いた。  ひとしきり泣いた後、一方ではこんな考えも浮かんで来る。  コレは現実には誰にも想像出来ない事なのだから……例えこの先あの僕の分身が何人の人間を殺そうとも、誰にも僕の犯行だなんて立証することは出来ない。  それにもし、またあいつの犯した殺人を僕が犯人じゃないかと疑って警察が捜査をしようものなら、所田刑事みたいにまたあの分身が殺してしまうに違いないんだ……だから、現実の法律の中では、僕は絶対安全なんだ……。  だからその為に、僕や僕の家族を犠牲にすることなんて無いじゃないか……そうさ、僕は何にも悪くないんだから……何にも悪く無いんだから……。  だけど、僕はあの葵ちゃんの泣いていた姿を無視出来るのか? 可哀そうに、アイツの姿を見ることが出来ず、自分の子供が何故こんなにも苦しんでいるのか原因を知ることも出来ずに、あんなに心配そうな顔をして看病してた葵ちゃん……今何処にいるんだろうか……あの子の父親はいるんだろうか……。  僕は誰よりも葵ちゃんの幸せを願っていたのではないのか。あの頃……思い出すだけで胸がキュンとなる数々の葵ちゃんとの場面。 一緒にコーヒーを飲んで微笑んでいた葵ちゃん。実習で互いのノートを交換して確認しあっていた真剣な表情の葵ちゃん。一緒にバスで帰った、雨の日のあの葵ちゃん……。  僕は今、あの葵ちゃんを地獄の苦しみの中に陥れているんだ……。  ダメだ。やっぱり僕は死んでしまおう。一刻も早く……それしか無いんだ。  湯島聖堂の森を出た進は、聖橋とは駅を挟んで反対側の御茶ノ水橋へと向った。  駅の改札に向って客待ちのタクシーがズラリと並んでいるのとは反対側を通って御茶ノ水橋を渡り、神田川を過ぎてJR線の線路が何本も平行して通っている上に差し掛かる。 そこに立ち止まって、腰程の高さまである欄干の側に寄り、下を通る線路の列を見下ろしてみる。  遥か真下にそれぞれが複線になった上下線4本の線路が平行に連なっている。  やがてどちらからか電車が走って来るだろう……。この下を電車が通過している最中にここから飛び降りれば、それで良いんだ。  僕の身体がどんな風にぶつかって、どんな風に引っ掛かって、どんな風に電車の車輪に踏まれて……何処が千切れようと、何処まで意識があろうと、もう関係無いんだ。その時ここから飛び降りさえすれば、全ては終わるんだ。全ては……。  ……ただ。必死になって守ろうとしていた僕のささやかな幸せ、小さな家庭、好江、美由、ごめんよ、僕は最後までだらし無い男だったね。 カタンカタンと線路を踏む音を響かせて遠くから電車が向って来る。その速度に引き寄せられる様にして進は橋の欄干に手をついて身体を乗り上げる。  さあ飛び降りよう、この下を電車が通過し始めたら、ここから飛んで全てが終わるんだ。  やがてゴトンゴトンと大きな音を立てて電車が差し掛かって来る……。  よし……橋の下へ身を投げよう。 進は欄干の上に片足を乗せ、身を乗り上げて目を瞑った。そのまま身体を前へ傾げて落ちようとする、その時いきなり後から腕と肩をつかまれて思い切り後へひっくり返された。弾みで進は歩道に激しく倒れこんでしまう。 「やめなさい」  驚いて見ると黒い毛糸のスキー帽を目深に被り、目にはサングラスをして、口もとにはマフラーを巻いた奇異な風貌の大男が、転んだ進を見下ろしている。  驚いて見つめている進に向って男は言葉をかける。 「ちょっと貴方にお話があります。こちらへ来て下さい」  何のことだか分からずにキョトンとしている進の腕を取り、凄い力で立ち上がらせると、そのまま引きずる様にして駅の繁華街の方へ連れて行く。 「良かった、間に合って……」  喫茶店の席に腰を下ろしたその男は、顔につけていた帽子とサングラス、それにマフラーを外してやれやれと言う様に言った。  中から出て来た顔に見覚えがある様な気がして考えていると、どうやら周りに座っている他の客たちからもチラチラとその男に向って視線が集まっている様な気がする。有名人なのかな……と言う考えが過ぎった時、思い出した。  よく見ると右頬の上に縫い付けられた様な大きな傷跡がある。そうだ、その男の顔はテレビで見たことがある。霞里周安と言う霊能者だ。だけど何故、この人がこんなところにいるんだろう?。 「か、霞里さん……ですか?」  驚いて見つめる進に、その男はニッコリと笑顔を見せて頷く。それは紛れも無くテレビで見せている霞里周安の顔だ。 それはサングラスやマフラーを取って最初に見せた厳しい顔とは別人の様に柔和な笑顔だった。 「はい、僕ですよ、僕、分からないかな?」 「えっ?」 「確かに私は霞里周安ですけど、その前にも別の名前で貴方は私のこと知ってるでしょう?」 「えっ?」  進には何のことだか分からなかった。 「別の名前で、ホラ、貴方は最近私のこと思い出して会いに来てくれたじゃないですか」 「は?」  ますます分からなくなる。  周安はこれ以上ないと言わんばかりの笑顔を作って相好を崩し、優しい眼差しを向けてニコニコと進を見つめている。 「えっ、そんな、どなたでしたっけ?……」 「思い出してくれないなんて寂しいなぁ、それじゃヒントを上げましょう。貴方、小さい頃は九州の大分にいらしたでしょう」 「え、はい、そうですけど」 「小学校は浜永小学校でしたよね」 「はい……」  ニコニコと進に微笑む周安の顔を見ていると、何か脳裏にボンヤリとした物が浮かんで来た。  その面影、大きさも形も年輪を経て大分変わってしまっているけれど、その顔に幼少の次期を思い浮かべてみると……。 「あ……あ……」 「よーく思い出して下さい」 「あ、キミ、ショウタ……ショウタなのかい?」  うんうん! と嬉しそうに周安は顔を揺らして頷くと進の手を取って握り締めた。 「そうじゃあ、シンちゃん、懐かしいのう」  にわかには信じられなかった。だが良く見るとその顔には、あのショウタの面影をハッキリと確認することが出来た。  貧乏で、いつも皆に苛められていたショウタ……あのショウタが……。  周安をテレビで見ていた時は名前も変わっていたし、風貌も同い年とは思えない程に貫禄があって見えたので、周安は進より少なくとも10歳くらいは年上だと思っていた。  それに、当時には無かった酷い傷跡が右頬の上にある。 まさかテレビで何気なく見ていた霞里周安が、あの苛められっ子のショウタだったなんて。仰天してしまった。 「で、でもどうしてここに? それに、さっきは、どうして僕のことを?」  進の頭の中にはまだ沢山のクェッションマークが乱舞している。  ニッコリと微笑んで周安は答えた。 「僕に謝りに来たじゃろう?」  それも進には、何のことを言っているのかサッパリ分からない。 「最近僕んごと思い出しち、昔僕に悪いことしたなぁち思うて、心ん中でごめんなさいっち、言うちくれたことなかったっけ?」  あ……言われてみれば……進には思い当たることがあった。瞬間脳裏にお姉さんのお古のブルマを履いて皆に囃し立てられて泣いている小学生のショウタの姿が甦る。 「そうじゃあ、それそれ、そんことでシンちゃん僕に謝りに来てくれたんじゃ、嬉しかったなぁ、昔ん友達が生き霊を発しち会いに来てくれるなんちこと、初めてやったけん」 「えっ? 生き霊?」 「そうじゃ……」  周安の発した「生き霊」と言う耳慣れない言葉に進は思わず聞き返した。 「生き霊って、何?」 「うん、人の想念ちゅうかね、精神的なエネルギーが何かのきっかけで物質化して他人の前に現れるっちゅうか、それは概して人に対する深い恨みとか、憎しみが呼び起こす場合が多いんじゃけどな」 「憎しみ?」 「でん僕んところに来ちくれたシンちゃんは憎しみじゃのうて、悪いことしたなっちゅう後悔の念の方じゃったんじゃけど、じゃけどな」 「何?」 「僕んところへ来たシンちゃんは謝りに来たんじゃけど、そん姿は深い邪心と怨念の方が強い意志を持っち具現化した様子じゃったから、そいやけん酷く気になっちしもうてね……」 「怨念?……」 「うん。そいで捜しちょったんや。本当はもっと早う会いに来ちょれば良かったんやけど、中々忙しうてな、せやけど、間に合うて良かったわ……」  進の手を包む周安の手はとても暖かい。柔和な目で見つめている周安の顔を見ると、進は言葉に詰まってしまい、顔を歪めて泣き出してしまった。 「うう……僕、どうしたら良いか分からなくってね、どうしてこんなことになっちゃったのか、とても怖くて、もう生きてはいられないと思ってたんだよう……」  もうそれ以上は言わなくても良いと言わんばかりに、周安は進に全てを察していると言う風に何度も深く頷いて見せる。   この人は……ショウタは、今まで誰にも話すことの出来なかったことを、全て理解してくれているんだ。  しかもまだ何も話して無いのに、もう僕の抱えている問題の大体のことは分かってくれている様な顔をしている……。  息せき切った様に進は今までの経緯、自分が抱えている問題を全て周安に語り始めた。  あの店で退行催眠を受けてから見る様になった不思議な夢のこと、夢の中で故郷に帰ったら翌朝母から僕が枕元に来たと言う電話があったこと、もう15年も会っていない大学の先輩と、仕事のお得意様であった病院の医局長が相次いで不思議な死に方をして、それが殺人であり進の犯行ではないかと疑って調べに刑事が来たのだが、その刑事までもが先日進の見た夢と同じ状況で死亡したこと、また街中を歩いていた時に自分の分身を目にしてしまったこと、そして今、かつて恋をしていた女性の娘を自分の分身が殺そうとしているらしいこと、そして自分は何としてもそれを止めさせなければならないと思い、自殺しようとしたのはその為だったこと……進はそれらのことを、まるで亀裂の入ったダムが水の勢いで決壊し、大量の水が流れ出てしまう様に、一気に話し尽くした。 進の話を目を瞑って聞いていた周安は、進が話し終わると口の中で何やら経文か呪文の様なことをブツブツと唱え、目を開き、ふーっと深く息をついてから話し始める。 「それらは全部、シンちゃんの発した生き霊の仕業なんじゃ。精神カウンセリングで退行催眠を受けたことがひとつのきっかけになって、シンちゃんは自分でん思いがけずに生き霊を発する術を習得してしもうたんじゃ。シンちゃんが心の中で他の場所にいる自分を強く瞑想することによって、その場所に自分の魂を送り出すことに成功してしまったんじゃよ」 「魂を送る?」 「せや、人には精神エネルギーっちゅう物があってな、それは僕らの様な能力を持った者には、その人を包んでいるオーラっちゅう色を持った光で見える物なんじゃけど、シンちゃんはそのオーラが大きく欠けてしまっているんじゃ」 「オーラ? 僕の精神のエネルギー?」  聞き慣れない言葉の連発に度々周安に問い質さなければ、進には周安の話を理解することが出来ない。 「普通ん人のオーラが、そん人の周りに満月んごと円を描いて取り囲んじょるとすると、シンちゃんのは三日月みたいに半分くらいの量が欠けて真暗になっちょるんじゃ」 「それじゃ、その欠けた部分って言うのが?」 「うん、そのもうひとりのシンちゃんになって、勝手に何処かをうろついちょるんじゃ」 「勝手に?」 「せや、そやかてそれはシンちゃんの持っちょる恨みを晴らす為なんじゃよ」 「僕の恨み? そんな、僕はそんなこと思ってないよ」 「でもそうなんや、退行催眠を受けたことがきっかけになっち、シンちゃんが無意識んうちに生き霊が解き放たれてしまったんじゃよ」 「そんな……僕の意思が? 僕の意思が葵ちゃんの娘を苦しめろって……生き霊に命令してるって言うの?」 「命令はしちょらんでも、代わりにやってくれとるんじゃ。シンちゃんの本性のな」 「本性って? 僕がそんなこと思ってる訳無いじゃないか」 「まぁ落ち着いち、僕ん言うことを良く聞くんじゃ」 周安はニコニコしながら心配無いと言う様に進を宥めながら話を続ける。 「ええかい、こげんなっちしもうたんはシンちゃんの普段の性格にも原因があるんじゃ。よう考えてみぃ、例えば昔のことを思い出しちみると、驚くくらい細かいことでん鮮明に思い出すことが出来るんやないか?」 「うん。それは、僕は昔からそうなんだけど、時々周りの皆がビックリするくらいに、僕だけが昔の出来事を凄く細かいところまで思い出すことが出来て、驚かれたりすることがあるよ」 「記憶力が良いっちゅうことは、つまり昔起きた出来事を忘れずにいつまでんちゃんと覚えちょるっちゅうことなんじゃ。そん時の心が受けた感情も、喜びもそうじゃけど、その中でん恨みは一番強い思いとしち残っちしまうものなんじゃ」 「そんな……恨みだなんて」 「それと、シンちゃんは家庭でも会社でも、周りと上手くやって行こうち努めて、いつも朗らかに事なかれ主義みたいに振舞おうと思っちょるじゃろ」 「うん」 「そん為に、人に対して敵意とか恨みを持つことがあったとしても、必死になっち自分の中に隠してしまおうちすることないか?」 「それは……(その通りだ)」 「人に対する怨念をその場で言い返して晴らしたりすることをせずに、自分の中に溜め込んでしまうタイプやと思わん?」 「思う……」 「恨みとか、特定の人物に対して憎しみを持った時に、それは無かったことにして忘れたつもりでいても、それはシンちゃんの身体の中に蓄積されちょるんじゃ。その行き場を失ったシンちゃんの怨念が、今度のきっかけで生き霊ちゅう形になって、身体の外へ飛び出しちしもうたんじゃ」 「そんな……」 「いいかい、シンちゃんの怨念は一番卑怯なやり方でそん人のことを苦しめようと考えちょるんじゃ。それで娘さんに取り憑いちょるんじゃ」 「そんな、そんな事を僕が考えたって言うの?」 「考えたんは生き霊じゃ。でん考える為に使うたんはシンちゃんの頭じゃ」 「アイツは僕の意志とは関係なしに勝手なことしてるんだよ。僕はそんな嫉妬深い人間じゃない。そんな十何年も前のことをいつまでも恨んだりする訳ないじゃないか」 「いいから良く聞いて、まずシンちゃん自身がそんことを認めることから始めんじゃったら何も出来んのじゃ。現にシンちゃんの生き霊はいるんじゃけに」 「あれは……僕じゃない、化け物だ」 「でもシンちゃんの中から出て来たんじゃよ、シンちゃんの分身じゃのうて何なんじゃよ」 「……」 「なぁシンちゃん。何よりもシンちゃんが生き霊の存在を、自分の怨念の存在を現実として認めん限り、生き霊を消すことは出来んのじゃ。生き霊を倒すには、まずその正体を暴いてやることから始めんとならん。そしてそれが出来るのは、シンちゃんだけなんじゃ」 「そんな……」 進としては絶対にそんなことを認めたくない。あんなに愛しく思っていた葵ちゃんのことを、僕が憎んで苦しめているなんて……そんなことは無い、そんなハズはない……そう思う。いや、思いたい。 「何よりも今一番危険が迫っちょるのはその女の子じゃ。早く助けてやらんと大変なことになる。なぁシンちゃん。今そん人がおる場所は分からんのか?」 「えっ? 葵ちゃんの? いや、それは……」  今葵ちゃんがいる場所……進は今までそんなことは考えたことも無かった……。 「僕は、15年前に栃木の大学で別れたきりで、一度も連絡も取ってないから……でももしかしたら、同じ大学を出て医者になった人が勤務してる病院を知ってるから、その人から卒業生の伝手を辿れば、分かるかもしれない……」 「じゃ早急にそん人を捜し出して、何としても居場所を突き止めるんじゃ、話の様子じゃと生き霊はすぐにそん娘さんを殺すことは無いかもしれんけど、急いだ方が良いわ、さ、すぐに始めようや」 「えっ? 今すぐに?」 「せや」  当然だよ。と言う様に周安は進の顔を見つめて頷いた。  15年間一度も連絡を取ったことの無い葵ちゃん。そう、あの時から……僕は一度も葵ちゃんと会うことはおろか口もきいていないんだ……。  進の脳裏に、あの朝のことが蘇って来た。大学の授業に出て来なくなった進を心配して、アパートの前まで迎えに来てくれた葵ちゃん……。  ドア越しに僕の名前を呼んでいた葵ちゃんの声……ドアをドンドン叩きながら……。 「高本クン! 高本クン! どうしたの、授業に来ないから皆心配してるよ! 遅れた分は私のノート見せて上げるから、ねぇ、学校に行こうよ、医者になるって夢諦めないでよ! ねぇ、高本クン!」  その時進は部屋の中で布団を被って目も耳も塞いでいた。悔しくて、苦しくて、情けなくて、とてもドアを開けて外へ出て行く気になんかなれなかった。 それっきり大学へも行かず、誰とも会わず。進は人知れず退学の手続きをして、アパートも引き払って来てしまったのだった。  その時は医者になると言う夢に挫折したと言うことよりも、もう生きて行く気力を全て失ってしまい、人生に絶望してしまった様な感じだった。 ……無かったことにしていた。かつて自分が医者になる夢を持っていたと言うことも、葵ちゃんのことも……。  僕が今葵ちゃんのいる場所を捜すって? そんなことはあり得ないハズだった。もう二度と、葵ちゃんに会うこと等は僕の人生には無いハズだった。あの葵ちゃんに……。  でも、苦しんでいる娘を心配してあんなに悲しそうな顔をしていた葵ちゃんを放っておいて良いのか?。  そんなことは考えるまでも無い、僕に助けることが出来るならば、どんなことをしてでも助けてあげなければならない。  自分ではどうすることも出来ないと諦めていたけれど、ショウタの力を借りれば生き霊から葵ちゃんの娘を救うことが出来るかもしれないんだ。  すぐにこの店を出て、葵の居場所を探す為に行動を起こさなければならない。  葵ちゃんの居場所が分かり次第ショウタに連絡を入れ、すぐにでも一緒に会いに行く打ち合わせをすると言うことになった。  二人が話終わって喫茶店の席を立つと、瞬く間に周りにいた客たちが近付いて来て周安に握手を求めたりサインをねだったりし始める。  周安は嫌な顔もせずに笑顔で応えて丁寧に一人一人に応じて行く。 「時間かかってしまうけん、シンちゃんひとりで早く行って」  と周安に追い払われる様に手を振られ、進は「分かったよ」と言って一人出口に向う。 「ねぇショウタ」  進はふと振り返って呼んでみた。 「なんじゃ?」  と周安は寄って来た客が差し出すシステム手帳や色紙にサインを書いてやりながら進の方を見る。 「ありがとう……」  周安はニッコリと笑い、いいからいいから……と言う様にまた片手を振って次の客から色紙を受け取りサインを書き始める。  懐かしかった。そうだ、確かに小学生の頃僕は友達から「シンちゃん」と呼ばれてた。それにショウタの口から聞く大分弁。テレビに出ている時は標準語で話しているのに。ショウタもきっと、僕といる間はタイムトリップしたみたいに小学生時代に戻っていたのかな。  だがそこにいるのはもうかつて皆に苛められて泣きべそをかいていたショウタの姿ではない。霊能力と言う頼もしい力を身につけて人格者になった、周りから尊敬される偉大な霊能力者になった男の姿だった。  少年時代に家庭が貧乏で苦労したショウタは、中学生から高校生時代には世の中を激しく憎む様になり、その頃の所謂不良になって、怒りにまかせて散々に周りの人間を傷付けた。  そしてある時そのしっぺ返しが来て、彼に恨みを持つ十数人の仲間たちからリンチを受け、重傷を負ってしまい、病院に入院した。  そして病院のベッドの上で何日も生死の境をさ迷って、危うく命を落としかけた時、自分の人生を考え直す啓示を受けたのだと言う。  退院してからは顔に大きな傷跡が残ったものの命を取り留めたことに深く感謝の念を抱き、それまでの荒んだ生活を捨て、心を入れ替えて一から出直すことに決めた。  その手始めとして自分の過去の非業を謝罪する為に母校の中学校を尋ねたところ、担任であった教師から修験道と言われる修行法を紹介された。  それは仏教と神教の隔たり無く霊山の中に篭もり、その山野の持つ霊力を自分の物として取り込むべく経文を唱えたり滝に打たれたりすると言う過酷な修行方法であった。かつて山伏と呼ばれる修行僧や出家して仏の道を決意した者等が選び通る道だったと言う。  ショウタは山に篭って修行する決意をした。  それくらいの覚悟が無くては、今までの非道を一掃し、心を入れ替えて出直す事等許されないと考えたのだ。  そして何と4ヶ月もの間、福岡県の英彦山と言う山に篭り、俗世との関わりを一切断った。そこで経文を唱えながら滝を浴びたり山中を駆け巡ったりする荒行を重ね、精神を叩き上げたのだと言う。  山を降りてからは霞里周安と言う法名を得て、真言宗に属する京都の神社に奉職を許された。  そこで神主としての仕事をする傍ら、修行を重ねていた周安に、この頃ある異変が起きた。  それは悩み事等の相談にやって来る者の話を親身になって聞いている時に、相手の持つ問題の原因や過去の因縁等が当人に説明されずとも分かってしまうことに気付いたのだと言う。 やがてそのことは次第に能力を増し、遂には相談者の前世の様子や、背後に連なっている守護霊の姿までもが手に取る様に見える様になった。  そのことが評判になり、周安に悩み事を相談しようと言う人たちが神社へ押し掛けて来る様になり、止む無く周安は神社の外にアパートを借りて、訪れる人々の相談事を聞く専門の部屋を設けることにした。  やがてテレビ局や雑誌社等も取材に来る様になって、気が付くと今の様な有名人になっていた。  そう言えば進も周安のそんなプロフィールがテレビで紹介されていたのを見たことがある様な気がした。  それからの周安は世の中で悩み苦しむ人たちの為に、自分の力で助けを与えることを生きる道として行こうと決めたのであった。  かつての自分の様に人生の疑問や迷いに悩み苦しんでいる人たちを救うことによって、自分の生きる意味を見出そうと考えたのだ。     7 周安と別れた進はすぐに会社へ戻り、郊外の私立病院に勤めている両際医科大学出身の医師に連絡を取り、電話を切るとすぐに出向いて午後にはその医師の元を尋ねていた。 だが相手に事情をそのまま説明したのでは変人扱いされかねないと思い、ただ単にあの頃の友人たちの消息を知りたいのだとだけ伝えた。  その医師からその場で両際医科大学のOB会に連絡を取って貰い、進と同じ代の卒業生を紹介して貰い、その伝手を辿って旧姓依野葵、現在は古内葵と言う名前になっている人物が勤めていると言う総合病院の所在を突き止めることが出来た。  葵は練馬区にある荘野総合病院と言うところで内科医として勤務していると言う。  進はすぐにその荘野病院に電話してみたのだが、葵は現在娘さんの看病の為に休職していると言うことであった……。  進は自分が大学の同級生であることを告げたが、その場で葵の連絡先を教えて貰うことは出来なかった。  仕方なく進は応対に出た担当者に自分の携帯電話の番号を教え、古内葵さんの方から至急電話をして欲しいと言う旨を伝えて貰える様に頼み、電話を切ったのだった。 果たして葵ちゃんは僕からの伝言を聞いて、自分から電話等して来てくれるだろうか……。  連絡を待つまでもなく葵が勤めていると言う荘野病院へ訪ねて行ってみようかとも思ったが、周安に相談したところ連絡も入れずに押し掛けて行ったのでは悪戯に相手を驚かせるだけだと言うことなので、その日は引き上げて葵からの連絡を待つことにした。  夕方になって会社に戻り、電車に揺られ、自宅へ向う帰路の途中も、胸ポケットに入れた携帯がいつ着信を告げるバイブレーションを発するかと思うと、ドキドキする様な、何かあり得ないことを想像して待っている様な、不安と期待の入り混じった気持ちを感じていた。  家に帰ると、その夜はもう美由は好江と共に風呂に入ってしまっており、進はひとり湯船に浸かって疲れを癒した。  その間も、背広のポケットに忍ばせた携帯のことが気になっている。  ……15年の時を隔てて、またあの葵ちゃんと言葉を交わすことが出来るんだろうか……。  風呂から上がると、携帯のことが気になりつつも何食わぬ顔をして、テレビを見ながら好江の出してくれたビールを飲んだ。 好江は世話女房で、とても優しい女だと思う。僕は好江の言いなりになって生きているのかもしれないけど、好江はいつも僕を大事にしてくれる……今僕の頭の中が始めての恋をした葵ちゃんのことで一杯になっているなんて思いもしないだろう。  好江は何も知らずに甲斐甲斐しく僕の為にツマミを作り、用意しておいた今日の話題を振って来る。  そんな好江にとても済まないと言う気持ちが湧き上がって来る。好江と結婚して以来8年。進が好江に対してそんな気持ちを抱いたのは初めてのことだ。  夕食を用意する為に好江がキッチンに入っているところを見計らって、進はそっと寝室に入って背広の内ポケットから携帯を取り出してみた。するとそこに「着信あり」の表示と共に見慣れない番号の着信履歴が残っている。  葵ちゃんだ……間違いないと思った。進はそこに並んでいる文字列にドキドキと胸が高鳴るのを感じる。  しかし今は自宅にいて、側に好江がいる。まさかここで掛け直す訳には行かない。だが、事は一刻を争う。急がなければならない……。  好江にはどうしてもコンビニで買いたい物があるので行って来ると言って、そそくさと携帯を持って外へ出た。  外に出ると少し夜道を歩いて近所の公園に入り、ベンチに腰掛けてポケットから携帯電話を取り出す。  先程の着信番号を呼び出し、その番号へ発信するボタンを押す。耳に宛てた携帯から相手の呼び出し音が鳴る……。震える思いで聞いていると、3コール目で相手に繋がった。 「もしもし……」  それは15年振りに聞く、葵ちゃんの声だった。 「今晩は……あの、高本進です」 「高本クン?」  胸がキューっと締め付けられるようになった。 「……うん」 「病院の方に連絡があったって聞いて、ビックリしてたんだけど……」 「あ、ああ、ゴメンね、突然で」 「うん……どうしたの?……」 「うん……実は、どうしても話さなきゃならないことがあって」 「えっ……何のこと?」 「葵ちゃん、娘さんがいるでしょ」 「うん」 「何か、今病気にかかったりしてない?」 「えっ? ……なんで?」 「実はね、話さなきゃならないことって、そのことなんだけど……」 「どういうこと?」  葵ちゃんは何か警戒心を持った様な言い方をした。 「葵ちゃんの娘に、関係のあることなんだ」 「どうして? 何で高本クンがそんなこと言い出すの?」 「電話じゃ上手く説明出来ないんだ。葵ちゃんのところに尋ねて行きたいんだけど」 「……」 「信じて、きっと、力になれると思うんだ」 「本当?」 「うん」 「私を助けてくれるの?……」 「!」  葵の声はとても心細く、消え入りそうなくらい弱弱しかった。それはまるで自分を助けてくれるなら誰でも良いからすがり付きたいと言うような、そんな気持ちの表れの様でもあった。  聞けば葵は大学を卒業後、彼女の地元であった埼玉県の大学病院に研修医として勤務し、そこの先輩であった古内と言う医師と結婚、娘も生まれたが2年前に離婚し、職場を今の病院に移して娘と二人で暮らしているのだと言う。  娘の名前は里瑠ちゃんと言って現在4歳。1週間程前から原因不明の高熱を発し始め、夜になると悪夢を見ている様にうなされ続けており、みるみる身体も衰弱して行くのだが、どんな検査をしてみても原因が分からず、昨日からは葵が勤務している病院の小児科病棟に入院しているのだと言う。  葵ちゃんは15年も音沙汰の無かった進から急に電話がかかって来たことに驚きを隠せず、また進が娘の病気のことを持ち出したことにも酷く驚いている様子だった。  進は今までの経緯をこのまま電話で説明しても、余りにも荒唐無稽であり、葵ちゃんに信じて貰える様に話す自信も無かったので、葵ちゃんには明日の朝病院を訪ねると約束をして、電話を切った。  葵ちゃんとの電話を切ってすぐに周安に掛け直しその旨を伝えると、周安は翌日の午前中のスケジュールを開けて進に同行すると言ってくれた。 何とも心強い味方を得ることが出来て、これで葵ちゃんを救うことが出来るかもしれないと思い、進は多少の希望を感じることが出来た。 進は携帯電話をトレーナーのポケットにしまうと、公園を出て急ぎ足で家へ戻った。  家に入ると心配した様に好江が待っていた。 「どうしたの進さん、何を買って来たの?」  と聞かれたが「うん、やっぱり無かったよ」と言って誤魔化した。だが好江は何か不審を感じている様な顔をしている。 「おっ、今日はハンバーグに野菜炒めまであるじゃんか、やったー御馳走だな」  と進は必要以上に元気に見せて、好江に心配を掛けない様にと、努めて明るく振舞っていた。     8  翌日の早朝。進は周安と新宿駅で待ち合わせた。  駅の広場で先に来た進が待っていると、周安は御茶ノ水駅の橋の上で会った時と同じ、顔が見えない様に扮装した姿で現れた。 「お早う、それじゃ行こうか」  新宿からJR線で高田馬場へ、そこから西武線に乗り換えて二人は葵のいる病院を目指した。 上りの通勤電車とは反対方向だったし、まだ通勤ラッシュの始まる時刻より遥かに早い時間だったので、電車の中は空いている。  家を出る時進は好江に、今日はちょっと遠くにある顧客を訪問するので早く出ると言って家を出て来た。会社には得意客を回って午後から出社する予定であると伝えるつもりだった。  葵ちゃんに教えられた最寄の駅からタクシーに乗り、二人は荘野病院へと向った。  その病院は自然に包まれた郊外の閑静な住宅地の中にあり、広い敷地の中に整然と白い建物が建ち並んでいる。  正面玄関でタクシーを降りた進は、その病棟を見上げた。 「ここに葵ちゃんがいるんだ……」 「さ、シンちゃん、早う」  そんな進の心情はお構いなしに周安が急ぎ足で中へ入ろうと促すので、進も慌てて後を追う。 受付けで来訪者カードに記入を済ませ、葵ちゃんの娘が入院している小児科病棟の場所と病室の番号を教えて貰い、向う。  本館から渡り廊下を通って小児科のある病棟へ入る。  病室の番号を確認しながらそそくさと歩く周安に付いて行きながら、葵ちゃんと娘がいるその病室が近付いて来るに連れ、進の胸はドキドキと高鳴る。  あの葵ちゃん……あの葵ちゃんが……もうこの側にいる……。 そして周安と進は目指す葵のいる病室の番号に行き着いた。 周安に促され、思い切って進がノックすると、中から「はぁい」と言う返事が聞こえた。 中からパタパタと扉に近寄る足音がしたかと思うと、進の前でガラリと扉が横にスライドして開く。 「……」  目の前に、進を見つめる34歳の葵の顔がある。この背丈、この顔立ち……。  「葵……ちゃん……」 ……それまでの進の脳裏には、20歳だった頃のあの、あの瑞々しくてどことなく幼さの残る美しい葵の面影がそのままに残っていたのだが、今この瞬間にそのイメージが15年経った現在の葵の姿にオーバーラップして入れ替えられる。 「高本クン……」  声は、殆どと言って良い程変わっていない、ここにいるのは、紛れも無くあの葵ちゃんだ。 「こんにちは、久し振り……」  葵は驚いた様な顔をして進の顔を見つめた後、進の横に立っている、季節外れのマフラーや帽子とサングラスで顔を隠した怪しい姿の周安に目を移す。 「こちらの方は?」 「あ、こんにちは、どうも、失礼します」  と言って周安は目深に被った帽子を取り、サングラスを外し、口元を隠したマフラーをグルリと外して素顔を見せて行く。 「あ……」  あれだけマスコミで話題になっているだけあって、葵も周安の顔を見てすぐに見たことのある人だと気付いた様子である。 「この方は霞里周安さんと言って、テレビとかで見たことあるでしょ、実はあの、僕の小学生の時の同級生なんだ」 「えっ、そうなんだ、でも……」  周安は進と並ぶ様に一歩前へ出ると、誰にでも暖かさを与えるあの柔和な笑顔を浮かべて言った。 「突然訊ねて来てしまってすみません。私は貴方と高本さんのお力にならせて頂きたいと思って、やって来たんです」 「……どう言うことなんですか?」 「はい、実はこれには特別な事情がありまして、娘さんのご病気に関係があることなんです」 「娘のですか?」 「どうですかお加減は? 大分お悪いですか? 娘さんにちょっとお会いすることは出来ないでしょうか」 「はぁ、はい、どうぞ」  葵は戸惑いを隠せない様子であったが、入り口の脇へ退いて二人を病室の中へ招きいれた。 室内のベッドには初めて見る里瑠ちゃんが小さな腕に点滴を刺したまま、寝息を立てて眠っている。見ると間違いなく、進が夢の中で見た、あの幼女の顔であった。  だが、里瑠ちゃんの顔は赤い発疹の様な物に覆われており、それがまた乾燥してひび割れ、所々がまばらなカサブタになっている。なんとも恐ろしい形相を呈している。  周安はしばしじっと里瑠ちゃんの様子を見つめると、額に手をかざして何かを探る様に目を閉じてブツブツと口の中で唱えている。  進が近付くと何かを察したのか、里瑠ちゃんは突然唸りを上げてむずかり出したかと思うと、おもむろに目を開く。  何事かと視線を泳がせてまどろんだ後、そこにいた進の顔に目を止めたかと思うと「きゃああああーーー!」と叫び声を発し火が付いた様に泣き始める。 「助けて! 助けて! いやぁ! 恐いよう、ママ、ママ恐い恐い恐いようわぁーんわぁーん……」 進の顔に何が見えると言うのか、慌てて側に来た葵が泣きじゃくる里瑠の身体を抱きしめる。 「大丈夫よ、大丈夫よ里瑠ちゃん、この人はね、ママのお友達なのよ」 「いやー恐い、助けてー! いやぁ、いやああああ……」  葵がなだめても、抱きしめて背中をさすってやっても一向に泣き止む気配も無く、一層声を張り上げて泣き叫び続ける。  一体どうしたと言うのか、訳が分からずに進の方を振り向いた葵は、困った様な、進に敵意を表した様な顔をして「お願い、高本クン、外に出て行ってくれる」と言った。  何か言いかけた進を制して周安が進に部屋の外へ出る様に促す。  周安に連れられて進は病室を出てドアを閉めた。中では泣き続ける里瑠の声と、あやしなだめている葵の声とがいつまでも聞こえている。  仕方なく二人は一階にある談話室で待つことにして、葵には里瑠ちゃんが落ち着いたら降りて来てくれる様にと伝えて来たのだった。 その病棟の談話室は10畳程の広さがあり、幾つかのテーブルが並び、それぞれに椅子が設置されている。  周安と進の他に来ている人はなく、椅子に座った進は。先ほどの里瑠ちゃんの反応にショックを受けてうな垂れてしまった。 「僕は……一体何てことを……」  と自分の頭を拳でガンガン殴る。  その進の腕を横に座った周安がつかんで殴るのを止めさせる。 「シンちゃん、大丈夫、大丈夫じゃけん」  一体何が大丈夫だって言うんだ……と言う思いで周安を見た進は、じっと見つめている周安の柔和な顔を見て、急激に心が安らかに落ち着いて行くのを感じる。  葵はようやく泣き止んだ里瑠のことを担当の看護師に言付けてから、一階で待つ進と周安のところへやって来た。 「葵ちゃん……大丈夫?」  神妙な顔をして席に着いた葵は進と周安に頭を下げた。 「私もう、何が何だか分からなくて……」 と両手で顔を覆ったかと思うと嗚咽を漏らし、指の間からポロポロと涙を流す。 「葵ちゃん……」  進は両手をギュッと握り締めて、苦汁のあまり唇を噛む。  葵は里瑠が一週間程前から、深夜突然高熱を出して夜泣きする様になり、息苦しそうにうなされていたかと思うと、時には呼吸が止まりそうになることもあるのだと言う。  進と周安は「やはり」と言う様に顔を見合わせた。 「調べても原因が分からないんです。単純な風邪の症状とは明らかに違うし、抗生物質を打っても効かない、かと言って新種のウィルスに感染した形跡も無いし、私もう、どうしたら良いのか分からなくて……」 「ごめんよ、葵ちゃん……それは、僕のせいなんだ……」 「えっ?」  何故進が自分に謝らなければならないのか、葵は訳が分からないと言う風に進を見つめる。 「何を言ってるの?」  そこで周安が進に助け舟を出す様に話し始める。 「こんなことを突然切り出しても医者である貴方にはとても信じられないことだと思います。でもいいですか葵さん。どうか私の言うことを信じて聞いて下さい」 「は、はい……」  葵はまだ訳が分からず不安そうな顔で周安を見つめる。 「今里瑠ちゃんが原因不明の病気で苦しめられているのは、霊障が原因なんです」 「えっ? れい、しょうって?」 「霊魂が及ぼす障害、つまり祟りのことです」 「そんな、一体誰の祟りだって言うんですか」 「それがシンちゃん。ここにいる高本さんなんです」 「高本クン? えっだって」 「はい、確かにこの人はまだ生きています。でも生きている人の霊が他人に祟ったりすると言うこともあるんです」 「生きている人の霊が?」 「はい、それはつまり、生き霊と言うことです」 「生き霊?」 「ごめん、葵ちゃん。僕は、僕は……」  いたたまれなくなった進は椅子から立つとその場にバッと土下座して床に頭を擦り付けた。 「ごめんよ、ごめんよ葵ちゃん。僕のせいで……僕のせいで……」  急にそんなことを言われても全く訳の分からない葵は唖然としてしまう。 「ま、待ってよ、高本クン、それに周安さんも、私一体、何が何だか、さっぱり理解出来ないんだけど……」 「葵さん、貴方はかつて栃木県内の医科大学でシンちゃんと一緒に勉強していましたね」 「はい」 「その時一緒だった先輩の大垣彰さんが先日亡くなられたのは御存じでしたか?」 「は、はい、それは、私も連絡を貰ってましたから……」 葵は思いがけず出て来た大垣の名前を聞いて、何か居た堪れない様子になった。  周安はこれまでの経緯を葵に事細かに説明した。進が自分の生き霊を発する様になってしまった精神カウンセリングの退行催眠のこと、そこから始まって栃木の大垣彰医師の事故死と、進の大切な顧客であった昭和台病院の村麦医局長の不審な事故死。更にそのことで進を調べていた栃木県警の所田刑事までもが不慮の死を迎えたこと。それ等一連の事件と今まで進が見て来た夢との関連性。そして現在進が毎晩魘されている夢の中で、進が里瑠ちゃんの首を締めているのだと言うこと……。 そんなことをいきなり話されても、生き霊だなんて、葵がにわかに信じられなかったのは無理もない、だが、考えてみればあれだけテレビで持て囃され活躍している霞里周安と言う霊能者が、紛れもなく本人が、今現実に目の前に来ているのだ。それにさっき病室で進が入って来た時の里瑠の反応の仕方は尋常ではなかった。  周安の話を聞いていくうちに葵は衝撃を受けてしまい、驚きのあまり目を見開いたまま絶句してしまった。 「ごめんよ葵ちゃん。僕のせいで、こんな思いをさせてしまって……」  土下座して俯いたままの進は肩を震わせて泣き出してしまう。 「でも、それじゃ、それじゃどうすれば良いんですか? 里瑠の病気が本当に高本クンの生き霊の仕業なんだとしても、それをどうすれば里瑠の病気は治すことが出来るんです?」 「それは……除霊を行います」 「えっ?」 「里瑠ちゃんの身体からシンちゃんの生き霊を引き離して、シンちゃんの身体の中に戻します」 「でも、そんなこと……」 「ええ、普通は生き霊を除霊する場合、取り付かれた人から引き離した霊は形代と呼ばれる人形の形をした紙に縛り付けて川に流したり、または護摩焚きの炎に入れて燃やしてしまったりするんですが、そうしてしまうと生き霊を発した本人は精神のエネルギーを放出したままの状態になってしまいます。それではシンちゃんはやがて精神力を失って死んでしまいますので、今回は生き霊を発した本人であるシンちゃんにも儀式の場に同席して貰い、払った生き霊を元の場所、つまりシンちゃんの身体の中に戻すと言う方法を取りたいと思います」 「でっ、でも、そんなこと、本当に出来るのかい?」  と訊ねたのは進だった。 「うん。こげんやり方は今までには例が無いんやけど、今回は生き霊を発した本人が除霊の場に同席することが出来るんじゃから、やってみようち思うんじゃ。それに、生き霊を戻さんかったらシンちゃんはこれからずっと不完全な人間のまま過ごさなければならなくなって、みるみる衰えて1年もしないうちに死んでしまうと思うんじゃ……」 「そ、そんな!」  不完全な人間? あの化け物を自分の中に戻すだなんて、そう考えただけでも薄気味悪くて逃げ出したくなるのに、アイツを僕の中に戻さなければ僕は不完全だって言うのか? だったらずっと不完全なまま生きて行った方がずっと良いんじゃないのか……でも、それでは僕は長く生きられない……何て皮肉なことなんだろう。 葵の方は、医療では里瑠を救う手段が無い以上、どんなものにもすがりたいと言う気持ちだった。除霊でも何でも本当に里瑠を助けることが出来るのならと、周安に全てをお任せしますから、宜しくお願いしますと言う返事をした。  それには進も依存は無かった。こうなればもう何だってやらなくちゃ、どんなことしたって里瑠ちゃんを助けるしかないんだから。それも出来るだけ早い方が良い。  周安は具体的な除霊を行う日時と場所の相談に入った。  周安の言うには、除霊は神社等に祭られている神仏の力を借りてするものなので、然るべき寺社をお借りして、儀式を行う為には準備も含めて三日間はそこに篭もらなければならないと言う。  進は週末の二日間は空けられるとしても、どうしてもあと一日は会社を休まなければならない。好江には心身のリハビリの為に寺社で行われるセミナーにでも参加すると言えば誤魔化しが効くと思った。  進は次の週末の金曜日から日曜日までの三日間でやろうと提案した。 日程はそれで進めようと言うことになり、儀式を行う寺社は決まり次第周安から二人に連絡を入れると言うことになった。 「ねぇショウタ」 「なんじゃ?」  必要な打ち合わせが済んだ後、進はそっと周安に言う。 「お願いがあるんだけど、ちょっと葵ちゃんと、二人にして欲しいんだけど……」 「うん……」  周安は頷くと席を立ち「そしたら表で待っちょるけん」と言って外へ出て行った。  進は「ありがとう」と言って見送り、葵に向き合った。  初めて葵と二人きりになると、思いがけず気まずい空気が張り詰めてしまう。 「……葵ちゃん。せっかく、久し振りで会えたのに、こんなことになっちゃって、僕のこと憎んでるだろうね」 「どうして?」 「だって……」 「高本クンは、私のことを憎んでるの?」 「ううん、そんなことないよ! 本当だよ信じてよ、僕は……」 「分かってるよ」  葵は進にニッコリと笑って見せた。 「でも、ショウタ……いや周安さんは、僕の心の中に、葵ちゃんへの強い恨みが溜まってたから、僕の代わりに、生き霊が恨みを晴らしに来てるんだって、そう言うんだ……」 「そう」 「……ごめんよ、僕だってそんなこと、信じられないんだけど、でも……」 「謝らないで」 「えっ?」 「あの時のことは、私もずっと、思い出す度に心が痛んでたから……」 「えっ……」 あの時のこと……そう、葵ちゃんは確かに今「あの時のこと」と言った。あの時のこと……あの時のこと……。  顔を真赤にして、慌てて衣服を身体にあてがって進の脇を走り抜けて行った葵ちゃん……その姿が脳裏に過ぎる。 「いつか言いたいと思ってたの……ごめんなさいって……でも、今はこうして高本クンが私のこと助ける為に来てくれたことが、とても嬉しいよ……」 「葵ちゃん……」 「高本クン、助けて……」 テーブルの向こうから葵は進の手の上に自分の手をそっと重ねてきた。 「私にはもう、あの子しかいないんだもん……」  あれから……進がアパートに閉じ篭り、葵に何も語らないまま大学を辞めていなくなってしまってから……。  葵は大垣彰と付き合っていたが、大垣には葵の他にも複数の女がおり、葵が思っている程には大垣の方は本気ではなかった。  勉強が忙しかったこともあって、1年も続かないうちに自然消滅と言う形で終わってしまったのだと言う……。 その後葵は臨床実習を含む6年間の課程を修了して、医師国家試験にも合格した。  地元の埼玉県に戻り、研修医として勤務した病院で知り合った古内と言う医師と交際を始めたが、その時古内には妻子があり、葵が妊娠したのをきっかけに古内は前妻と離婚し、葵と結婚した。  だが、古内は2年もしないうちにまた新しい恋人を作った。その相手は葵が研修期間を終えて勤務していた同じ病院の新しい研修生だった。  その研修生と葵との間で争いが起こり、また古内が子供の養育費を払わないと言って押し掛けて来た前妻も加わって泥沼の様相となり、結局葵は離婚して里瑠を一人で育てることにしたのだった。  そんな話を聞いていると、何故こんなに素敵な葵ちゃんが、そんな人生を歩まなければならないのか……と言う思いがつのる。 葵は勉強や生活のことはしっかりしているのに、男を見る目だけは無かったのか……。もし僕と一緒になってくれていれば、絶対こんな思いはさせなかったのに……と歯噛みする思いだった。  葵ちゃんは男運だけは無いのか、それとも自分からろくでも無い男に惹かれてしまう性なのか……でも進にはそんな、しっかりしているようで儚気な葵のことが一層愛しく思えて来るのだった。 自分の顔のすぐ側にあの葵の顔がある。まさかこんな時が来るなんて、信じられなかった。  月日が経って年齢を重ねて来た葵の顔。でも進の目にはあの時のあの日のまま、その面影が二重写しになって見える。ああ、僕の好きだった葵ちゃん……その瞳、唇、抱きしめて思い切りキスしたい……。  進にとってはあの遠く手の届かなかった葵ちゃんが、今自分にすがる様な瞳を向けて助けを求めているんだ。 「生き霊とか、除霊とかって言われても、急には信じられないけど、正直まだ戸惑ってもいるけど、でも私本当にどうして良いか分からなかったのよ……私、高本クンが来てくれて嬉しかった。助けて、お願い、あの子が助かるなら、私なにをしてもいい……」  と言って横に来た葵は進の肩に額を付けて泣いた。進は葵の肩に手を回して抱き寄せた。  自分の身体に寄り添った葵の身体の重みを感じる。  その体温が、ほのかな香りが伝わって来る。 一瞬気が遠くなる様な陶酔に痺れるのを感じた時、思いがけず進の顔にニヤリと笑みが浮かんだ。  その時初めて進の意思が生き霊の意志とピタリと重なったのだ。そうか、進にも初めて分かった。僕はこうなりたかったんだ。 「復讐は成った!」  葵を抱きしめながら進は、今こそ生き霊と肩を組んで勝利の歌を歌い出したい気持ちになった。 「なにをしてもいい」  葵はそう言った。するとあんなことや、こんなこともして良いのか。あの時、屈辱と嫉妬にまみれた、あの思いのたけを全てぶつけて葵の中に注ぎ込んでやる! 今こそ葵の唇、葵の身体は全て僕の物になるんだ。 抱きしめた葵にキスしようとして顔を上げさせた時、葵はその進の顔が不気味に青白く目玉が真っ黒になっているのを見た。 「きゃあぁぁぁー!」 恐怖に慄いた葵は進の身体を突き飛ばした。床に尻餅を付いた進はその瞬間我に返る。  ハッとして気が付くと、葵が恐怖に慄いた目で自分を見つめている。 「ち、違う、僕は……違う、違う違う僕じゃないよ! 僕じゃないっ! 僕は、僕はっ……わぁああああ……」  頭をかきむしる様にして一目散に走り出した進は、談話室のドアをバーンと開け放ち、部屋の外へ出た。  廊下で待っていた周安は驚いた。  談話室を飛び出した進は階段へ向い、凄い勢いで駆け上がって行く。 「高本クン!」  中から葵の呼ぶ声が聞こえる。  周安も急いで後を追った。 進の心の中では、生き霊の意思とそれを認めたくない進の意思とが激しく葛藤していた。  僕は絶対にお前を許さない!『何言ってやがる、嬉しくて思わず笑ったクセに』進の顔がその内部の葛藤を表す様に青くなったり、目が黒くなったり、まだらに元に戻ったりして変貌し続ける。  病院の屋上へ出た進はそのまま縁へと駆け寄り、欄干をよじ登って外側の縁に降りる。  そのまま生き霊諸共飛び降りて息の根を止めてやるつもりだ。  ちくしょう、コイツと一緒に死んでやる、 こんな僕は……こんな僕は死んでしまった方が良いんだ……やっぱり僕が生きていちゃ、葵ちゃんを救うことなんか出来やしないんだ。 僕は何て卑怯なヤツなんだ……殺してやる。僕が死ねば僕の恨みも消えてお前も消えてなくなるんだ。そうすれば里瑠ちゃんも直って葵ちゃんも救われるんだ!。  決意を固めて飛び降りようとした時、搭屋から走り出て来た周安が叫ぶ。 「やめろ!」  振り向いた進が周安を見つめる。 「やめろっちゃ!」 「止めないでよ……もう、僕には分かったよ。やっぱり僕は、葵ちゃんを恨んでたんだ。生き霊がやろうとしてることはやっぱり僕の意志なんだよ……」 「違う! だってシンちゃんは、葵さんを助ける為にこうしてここまでやって来たやないか」  涙を流して進は激しく顔を横に振る。 「葵ちゃんを救うにはもうこれしか無いんだよ、僕が死ぬしか……僕が死んで生き霊と一緒にこの世から消えるしかないんだ」 「バカな、そげんことしたっち生き霊は消えたりしないんじゃ! シンちゃんが死んだっち何にも意味無いんじゃ! シンちゃんが死んだら、生き霊はそのまま怨霊になってこの世に留まり続けるだけなんじゃ。怨霊になった方がずっと救われないんじゃ! 生き霊を消すにゃ、シンちゃんの中に戻すより他に手はないんじゃ。せやから、僕も手ぇ貸すから、なぁ、生きて一緒に戦う勇気を持つんじゃよ、なぁシンちゃん!」 「うううう……ショウタ……うううううう」  進を勇気付けようとする周安の必死の呼びかけに絆されて、進はその場に泣き崩れてしまう。  葵の娘の里瑠の身体から生き霊を払い、進の身体に戻すと言う儀式は、周安の手配により都内にある牧挟不動尊と言う寺社の境内を借りて行うことになった。  儀式は三日間の日程で行い、周安と進は初日の早朝から入って準備を行い。葵と里瑠は二日目の午後から参加して儀式を執り行なうと言うことになった。  進はその週末の金曜日に有休を取る旨会社に申請を出し、好江には続く土日を利用して三日間の精神静養の為に牧挟不動尊で行われる禅の会に参加したいのだと言った。  それまでの好江ならば進が一人で三日間も家を空けること等許すはずも無かったが、近頃の尋常でない進の憔悴振りを心配していたので、そんなことででも進の容体が良くなるのならと、進の申し出を許したのであった。    第五章     1  その日の金曜日が来た。進は簡単な着替えと最低限必要な洗面用具だけを鞄に入れ、ひとり電車を乗り継いで周安の指定した牧挟不動尊へと向った。 牧挟不動尊は東京都の外れ、埼玉県との県境にある。 都心から離れ、2時間あまりを費やしてローカル線を乗り継いで辿り着いた小さな駅から、更にタクシーで国道を30分も走ったところにその入り口はあった。  それは都内とは思えない程鬱蒼と生い茂った森の中にあり、タクシーを降りてから林道を延々と歩いて行くと、やがて大きな山門が姿を現した。  そこへ一歩足を踏み入れると、築後三百年を経過していると言う境内は荘厳な雰囲気に包まれている。辺りに人影は無い。 進は周安から「私は本堂の中にいますから、来たらまず本堂の中へ入って来て下さい」と言われていた。  おそらくあの一番大きな神社の様な建物がそうなのだろう。そう思って近付いて行くと、中から微かにお経を唱える声が聞こえている。  正面に据えられている木造の階段を上り、重々しい扉を開くと、中は二十畳程の板敷きの広間になっており、正面の奥に御本尊である神像が祭ってあるらしかった。普段は畳敷きなのだが、今は儀式の為に畳を挙げ、全面板の間になっているのだ。  その中央で修行僧の様な法衣を身に纏った周安が腰を下ろして読経している。 「あの、お早う、御座います……」 進の声に気付いた周安は読経を中断し、進の方を振り返った。 「よう来たね、シンちゃん。さ、こっちに来て、まずは御本尊様にご挨拶しち……」 「うん、あ、はいっ」  ピンと張り詰めた堂内の雰囲気に気押されながら、進は靴を脱いで中に入った。靴下を履いた足に板張りの床が冷たい。  周安の横に習って正座をして座り、促されるまま正面に向って頭を下げ、顔を上げて奥に据えられている御本尊を見上げた。 この寺社の主として祭られているその巨大な神像を見て、進は思わず息を飲み、たじろいでしまった。それは……まるで、鬼だった。 大きな目玉が隈取りをした歌舞伎役者の様にギロリとこちらを睨み点けている。その右手には大きな剣を、左手には束ねた太い縄の様な物を持っている。そして背中には赤い炎が燃え上がっている様が彫刻されている。 「こん神様はなぁシンちゃん。不動明王様っちゅうんじゃ」 「ふどう……みょうおう様?」 「うん。いいかいシンちゃん。説明しちょくけん、除霊の儀式っちゅうんはな、僕がやる訳ではないんじゃ」 「えっ? それじゃ、誰がやるの?」 「段取りや進行を取り仕切るのは僕じゃけど、悪い霊を排除する力は僕たち人間には無いんじゃ。せやから、そん為に神仏の持っているお力をお借りしなければならないんじゃ」 「そうなんだ」 「うん。今回は僕が修行して来た修験道で崇めて来た神様ん中で、除霊の儀式には一番の力を持つち言われちょる、この大日大聖不動明王(だいにちだいしょうふどうみょうおう)様のお力をお借りしようと思うんじゃ。そん為に僕はこの場所を選んだんじゃ」 「……そうだったんだ」 「うん」  もう一度進はその恐ろしい形相の神像を見上げた。本当にこの神様が進の生き霊を葵ちゃんの娘から取り払う手助けをしてくれると言うのか。  進は周安が教えてくれた名を口に出してみる。 「だいにち?…」 「だいしょう」 「だいしょう」 「ふどうみょうおう」 「ふどう、みょうおう……」 「シンちゃんも名前くらいは聞いたことあるじゃろ? 仏法で最高の神様とされるお釈迦様のことを密教の間では大日如来(だいにちにょらい)様ち言うんじゃけど。不動明王様ち言うんは、その如来様の教えを俗世の人々に広める使命を帯びちょるんじゃ」 「へぇ、でも……」 「うん、どないしてこげな恐い顔をしておられるんかち言うとな、不動明王様の役目は仏様の教えに従わない邪悪な心を持った者を、無理矢理降伏させて従わせるっちゅうことなんじゃ」 「無理矢理?」 「せや、現世の僕たちはともすれば思いあがって、生きていることの感謝も忘れて神仏をないがしろにしてしまうじゃろう。そんな時に怒って僕たちに鉄槌を下して、力ずくにでもお釈迦様の教えを僕等に浸透させる為に、時として怒り狂うと言う恐ろしい神様なんじゃ」 「そうなんだ……」 「うん……でも誤解しないでな、確かにこの神様は下界の我々から見れば恐い神様かもしれんけど、そんお心は邪悪な心に捕らわれちょる哀れな者を救って上げようちゅう、優しい御慈愛に満ちておられるんじゃ」 「ふぅん……」  周安からそんな説明を聞いても、進の目にはその神像の爛々とした両眼に、まるで自分を射る様に睨まれている様な気がして、畏怖の余りまともに見ていられなくなってしまった。  本堂の中には周安の他に誰もいないようだった。儀式の為に周安は住職様に不動尊の境内を貸し切りにして貰ったと言っていたが、どうやら住職様はこの三日間周安に境内を開け渡し、他へ移られているらしかった。 周安は進を本堂の脇にある控室に連れて行き、そこに用意してあった白装束を渡すと進に着替えさせる。  周安はまず、儀式を執り行なう為に身を清めることから始めなければならないと言う。 「明王様に除霊の儀式に力を貸して頂ける様に、僕がお祈りを始めるから、明王様が快く僕たちに手を貸して下さる様にシンちゃんも身体を清めてお祈りを捧げなければならんで」 「分かったよ、どうすれば良いの」 「禊(みそぎ)を行うんじゃ」 「みそぎ?」  周安は進を連れて本堂を出ると、不動尊の裏手へ回ってそこから下に降りている石の階段を降りて行った。  進も後に付いて行くと、不動尊の敷地の裏手は切り下った小さな谷の様になっており、下の方から微かにバシャバシャと水音が響いて来る。  下まで降りてみると、山の上から流れて来た小川が切り立った崖を滝になって流れ落ちているのだ。  周安は進に、そのまま滝壺に入って水が落ちて来る真下に立つ様に指示する。  進は白装束のまま水の中へ入って行く。  滝が流れ落ちている中に立ち、両手を身体の前で祈る様に組み、ちょうど頭の天辺に滝の落下が当たる様にして目を閉じる。 遥か上から降り注ぐ山水が進の脳天にバチバチと音を立てて叩き付けられる。  身体全体がブルブルと震え、両脚を踏ん張っていないとよろけて転んでしまいそうになる。  5月に入ったとは言え水は冷たく、たちまちびしょ濡れになった白装束は水分を含んで重みを増し、全身が凍えてガクガクと震え始めてしまう。 その状態のまま周安は自分の言う言葉を復唱しろと言って般若心経と言う経文を大きな声で読み上げ始めた。  滝の向かいに立った周安が声を上げて読み上げる経文に続いて、進が真似をしながら言葉を続ける。 「觀自在菩薩~」 「くわんじざいぼさつ~」 「行深般若波羅蜜多時~」 「ぎやうじんはんにやはらみつたじ」 「照見五蘊皆空~」 「せうけんごうんかいく……」  進にはその経文の意味等皆目分からなかった。周安が読み上げる発音通りに自分が正しく言えているのかも分からなかった。ただただ周安の言う様に、自分が清い心を持ち、自分の中に巣食う邪悪な心を神様に追い出して貰う為にと、ひたすらそう願いながら、一心に声を張り上げて周安に続いて経文を復唱して行った。 進の耳にはバシャバシャと流れ続ける激しい滝の音が響き、ひたすらに精神を集中して瞑想の中に埋没するように努めた。 そうしていると心の内側に様々な思いが去来した。家で心配しながら待っている好江のこと、5歳の美由の可愛らしい笑顔、そして自分のこと、幼き少年時代、医者を志して栃木に一人暮らしして通った大学のこと、初めての恋だった葵ちゃんのこと……進の今までの短い人生のあれやこれやが走馬灯の様に脳裏を駆け巡り、浮かび上がっては消えて行った。それら全てを包み込む様に滝の水流が脳天から打ち付けられ、全てを洗い流すかの様に流れ落ちて行く。 「……觀自在菩薩(くわんじざいぼさつ)行深般若波羅蜜多時(ぎやうじんはんにやはらみつたじ)照見五蘊皆空(せうけんごうんかいく)……度一切苦厄(どいちさいくやく)……」  滝に打たれながらの読経の行は果てしなく続けられた。  やがて夜になった。周安と進は滝行を修了すると、再び石段を登って不動尊へと戻り、本堂の隣りに設けられている社務所へと入った。 進はそこで着替えを済ませ、台所で周安が用意してくれた白米と僅かな惣菜だけの食事を取った。 牧挟不動尊は森に囲まれているだけあって、夜になると辺りはシンと静まり返ってしまい、全くの沈黙の世界だった。 そんな中周安と静かに食事を取っていると、まるで何処か現実ではない異世界の修行の場に来ている様な気がして来る。  ふたりが箸を使う僅かな音だけが部屋に響いて聞こえている。 「この世にはなシンちゃん。善と悪としか無いんじゃ……」  食事を終えて周安の入れてくれた茶を啜っていると、周安が穏やかに、何の気なしに話し始めた。 「物理学の世界で言うプラスとマイナスと同じじゃ。よく世界は全てプラスとマイナスのバランスで成り立っているっち言うやないか」 「うん」 「人間の世界も同じなんじゃ。喜びと悲しみ、感謝と憎しみ、強い者と弱い者、楽なことと苦しいこと、勝ちと負け、それらが全て表裏一体になってバランスを取り合いながら、この世は成り立っているんじゃ……ただな、時としてそれが片方だけに片寄ってしもうて、バランスを崩してしまうことがあると、自然の摂理が働いてそのバランスを戻そうとする為に強い力が作用することがあるんじゃ。そん時に、人間にとって耐え難い苦しみや激しい変化が与えられたりするものなんじゃ……」 「それじゃあ今、僕の中で起こっていることも?」 「うん。おそらくシンちゃんは、今まで自分でも気付かんうちに、そのバランスを崩してしもうていたんやないかのう」 「それじゃ、僕はどうすれば良いんだろう……」 「取り戻すんじゃ、バランスを」 「どうやって?」 「……戦うんじゃ」 その時にはまだ、周安の言わんとすることが何なのか、本当のところは進には理解出来なかった。  食事を終えた二人は再び本堂の中に詰め、滝に打たれながら唱えたのと同じ般若心経の経典を、周安と共にご本尊に向って唱え続けた。  闇の中で蝋燭の炎にゆらゆらと照らし出された不動明王の神像は、昼間よりも一層の凄みを帯びて、進に迫って来る。  ふたりはそこで2時間程の読経を行った。その後再び社務所へと戻り、その夜は宿直室でふたり布団を並べて就寝した。  明日の午後には葵ちゃんが来る。里瑠ちゃんを連れて。葵ちゃん……まさか15年も経った今になって、まさかこんな事態になってまた葵ちゃんと関わりを持つことになろうとは、人の運命って、一体何なんだろう……。 「シンちゃん」 「えっ?」 「まだいろいろな雑念が心にわだかまっちいる様やな」 「うん……」  周安には進の心の内は全てお見通しなのだった。 「今はひたすら心を真っ白にしておくことに努めち、後は全て明王様のお計らいにお任せするんじゃよ」 「うん……」  いい加減に煩わしい……等とも思ってしまうけれど、それだけ僕のことを心配して集中してくれているのだからと、感謝せねばならないと思った。    そうして翌日になり、ふたりはまだ薄暗いうちに起きるとまずは境内を掃き清め、本堂を雑巾がけし、そこに宿っている神々たちに感謝を込めて隅々まで丹念に掃除をした。  そして今日は進は一人白装束で滝を浴び、昨夜繰り返し唱えたお蔭で半ば暗記してしまった般若心経を唱えた。  その間周安は本堂の前に大きな櫓を組んで護摩焚き行の準備を始めていた。 櫓の組み立てが済むと、周安は本堂に入り、用意してあった大きな白い和紙を広げた。  それは畳二畳分程もある大きな紙で、周安は墨汁と大筆を使ってそこに九角形の図柄を描き、その空白部分に一文字一文字念を込めながら文字を書き入れて行く。  臨・兵・闘・者・皆・陳・列・在・前。それは昔から法力を持つ術者が邪気を払う為に使う、九字と言われる呪文である。 午後になり、二人が社務所で昼食を取り終えて後片付けをしていると、遠くから微かに自動車のエンジン音が近付いて来た。 そしてその音は徐々に大きくなり、やがて林道の入り口に一台のタクシーが到着し、後部座席から里瑠を抱いた葵が降り立った。 葵は約束通り、周安に教えられた場所へと里瑠を連れてやって来たのだ。  里瑠に取り憑いた進の生き霊を取り払うだなんて、まるで現実離れした事だとも思うが、そんなことででも里瑠の容態が良くなるのならと、葵は半ば藁にもすがる気持ちでやって来たのだ。 静かな林道を眠ったままの里瑠を胸に抱いて歩いて行くと、やがて大きな山門が見えて来る。  その脇に山伏の様な出で立ちの周安が立って葵のことを出迎えてくれた。 「こんにちは、良く来ましたね、里瑠ちゃんは大丈夫かな?」 「はい、昼間のうちは発作も無いし、穏やかに眠ってるんです」  周安は葵を促して境内へと案内して行く。  葵は周安に連れられて本堂へと入る木の階段を登って行く。 入り口を開き、周安に連れられて里瑠を抱いた葵が本堂へ入ろうとすると、中で白装束を纏った進がご本尊に向かい一心に般若心経を唱えている。  進を見た葵は、中へ入れば里瑠がまた拒絶反応を起こして泣き出してしまうのではないかと思い、入ることを躊躇した。 「今なら心配いりませんよ、さぁ、大丈夫だからお入りなさい」  とニコニコ微笑みながら周安は促した。葵は恐る恐る中へと足を踏み入れる。  進の側へ来ても、里瑠は葵の胸でスヤスヤと寝息を立てて眠ったままだった。 「さ、ここに座って、あのご本尊様が貴方を救って下さることを信じて、お祈りを捧げて下さい」 「はい」  葵は胸に抱いた里瑠の背中に両手を回して、御本尊に向って手を合わせ、目を閉じて祈った。  進は葵の方を振り向きもせずに一心に読経を続けている。  隅の床に先ほど周安が作っていた九角形の図柄と呪文が書かれた大きな和紙が敷かれている。 「これからの段取りを説明します」 「はい」  緊張の面持ちで葵は周安の顔を見つめ返した。 「夜になるまで私は外で護摩焚きの行を行います。そして今回の除霊の為にお力を借して下さる不動明王様の霊力を充分に自分の身体の中に降ろしてから、ここへ入って来ます。そしてまず、里瑠ちゃんに霊障を与えているシンちゃんの生き霊を里瑠ちゃんから引き離します。里瑠ちゃんの身体から生き霊が離れたら、その時私が合図をしますから、すぐに葵さんは里瑠ちゃんを抱いてあの模様の中心に入って下さい」  周安の指し示した大きな和紙には九角形の図柄が描かれており、その九つの欄にそれぞれ臨・兵・闘・者・皆・陳・列・在・前の九文字が書き入れられている。 「その模様は結界と言って、生き霊が離れた時そこへ入ってしまえば、もう生き霊は里瑠ちゃんに取り憑くことは出来ません。それから後はシンちゃんの身体の中に生き霊を戻す為の儀式になります。良いですか、生き霊を完全にシンちゃんの身体の中に戻してしまうまでは、どんなことがあっても結界の外へ出て来てはいけませんよ」 「は、はい」 「良いですね、私が良いと言うまではそこから一歩も外へは出ないで下さい」 「はい、分かりました」  半ば半信半疑でここまで来てしまった葵だったが、ここまで手の込んだ準備がなされており、何より周安の真剣な眼差しを見ていると、これは本当のことなのだと、身体が引き締まる思いがして来る。  周安から見ても、そんな葵の真剣な眼差しに、何としても娘を救いたいと言う決意が表れていた。 周安は日暮れから護摩焚き行を始める為に外へ出て、葵は本堂の中で儀式の時間まで不動明王に祈りを捧げながら待つことになった。  相変わらず進は不動明王の神像に向かい一心に般若心経の読経を続けている。  会ってから一度も葵の方を見ようともしなかったが、葵にはかえってそんな進の後姿から直向な心が伝わって来る様で、頼もしく、また進のことが健気にも思えた。  堂内の隅に座った葵はそんなことを感じながら、進の様子をじっと見つめた。     2  いよいよ陽が暮れかかり、牧挟不動尊を包む森に夕闇が降り始めた。   周安は不動堂の前に設えた大櫓に火を放ち、 護摩木と呼ばれる特別な薪をくべて行く。  ボウと火の粉を散らして燃え上がった炎が、赤く周安の顔を照らし出す。  周安は手にした大きな数珠を両手でジャラジャラと弾きながら大声で真言と呼ばれる経文を唱え始める。 「ナウーマクサマンダーバザラ、ダンセンダ、マカロシャダソワタヤーウン、タラターカンマーンッ!」  周安の腹に響く様な低音でドスの効いた真言は本堂の中にも響き渡った。  葵はビクリとして外の方を見たが、入り口は窓のない扉に閉ざされており、外の様子を伺うことは出来ない。  進は何も聞こえないかの様に一心に般若心経を唱え続けている。 櫓の中に周安が次々に護摩木をくべて行くに連れ、炎は一層激しくなり闇の中にバチバチと音を立てて燃え上がる。炎に照らされて浮かび上がる周安の形相は、まさに恐ろしい不動明王像の姿が乗り移ったかの様であった。周安の唱える真言が闇に轟く。  本堂の中で進は一心に般若心経を唱え続け、葵は里瑠を抱きしめてその光景を見つめている。  やがて周安の唱える真言の声が、数珠を鳴らすジャラジャラと言う音と共に本堂に近付いて来る。  その声は本堂の入り口の木の階段を登って来た。葵が見ると勢い良く扉が開け放たれ、そこに鬼の形相の周安が仁王立ちになっている。 「ああっ……」  その怒りに満ちた様な凄まじい形相に思わず葵は声を上げた。  周安は右手に大きな数珠を、左手には長いロープの様な注連縄を持ち、そのまま大声で真言を唱えながら中へ入ると扉を閉める。  周安は数珠をかけたままの右手を懐へ入れ、中から真言の書かれた護符を取り出すと自分の入って来た扉の境目にバーンと貼り付けた。 「ナウマクサマンダーボダナンアジナンジャーヤーサラバサトウバージャヤドギャテーイーソワカ、ナウマクサマンダーボダナンボクオンマーユラギャランデーソワカ……」  周安はそのまま大声で真言を唱えながら部屋の隅を歩き回り、ジャラジャラと数珠を鳴らしては懐から護符を出し、本堂の中にある全ての扉や窓の境目にバーンと貼り付けて行く。  そして最後に葵の前に立ち、眠っている里瑠の頭に手をかざしたかと思うと、数珠と注連縄を掛けた両腕を胸の前で組み合わせ、ひと際凄まじい声で九字の呪文を唱えながら、印と呼ばれる形に指を素早く組み変えて行く。 「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陳! 列! 在! 前!」 途端に火が付いた様に里瑠がぎゃーと泣き声を上げて身をよじる。 「さーあ、高本進の霊よ! 速やかにこの娘の中から出て行けーえ!」   ドーンと脚を踏み鳴らすと同時に周安は里瑠に向って掲げた数珠をグルグルと振り回し、バァッと宙に向って振り払う様にブン回した。 途端にバァーンと雷が落ちた様な衝撃音と閃光が部屋の中で炸裂し、気を失った様に里瑠がガクリと葵の胸に崩れ落ちる。 「さぁ! 今です、葵さん! 結界に入ってっ!」 「はいっ!」  里瑠を抱いた葵が転げ込む様にして和紙に書かれた結界の中心に入った。  何処からともなく「おおおおおお~」と言う人のものとも獣のものとも思えない奇怪な咆哮が発せられ、辺り一面に響き渡る。  周安は闇に向って数珠を振り回して真言を唱え上げる。 「ナウ~マクゥサマンダァボダナン~アビラウンケーンッ!」  まるで本堂の中を見えない何者かが暴れまわっている様に、壁や扉に向って何かがぶち当たるドタバタと言う音が響き渡る。  まるで何者かが外へ出ようとしても出られずにもがいている様である。 「高本すすむーっ!」  脇目も振らず一心に経文を唱えていた進に対して、周安が名を呼びつける。 「……」  その声で進が沈黙し、一瞬本堂の中は静寂に包まれる。外で焚かれている護摩の燃える音だけがパチパチとかすかに響いて聞こえている。 周安はまるでご本尊の代理人であるかの如く進の正面に仁王立ちになり、もの凄い形相で進を睨みつけている。 「おぅ! 高本進よ。今こそテメェの恨みを聞いてやろうじゃねえか」 「えっ?」  思わずキョトンとした顔をして進は目を開いた。目の前には不動明王の神像よりも恐い顔をした周安が立ち、進を睨みつけている。 「言ってみろコラァ! テメェの正体晒してみろよ! さぁ言えっ!」 「えっ、でも、僕は……」  あまりの変貌振りに、進には目の前に立っている鬼の様な形相の坊主が周安だとはとても信じられなかった。 「テメェは一体どう言う了見でこの人をこんなに苦しめてるんだ」 「違う、僕は、葵ちゃんを苦しめようなんて思ってないっ」 「嘘つけェ!」 周安はいきなり進の胸倉を締め上げて、凄い力で身体を引き摺り起こした。  進は目を見開いて周安を見る。 「現にこの里瑠ちゃんはこんなに苦しめられてるじゃねぇか! コラァ! よく見ろ! この子を苦しめてんのはテメェ以外の誰でもねぇんだよう!」  ズダーンと音をたてて進の身体は床に叩き付けられる。 「そんな……」  結界に入った葵がグッタリしたままの里瑠を胸に抱き、周安の余りの強行に恐れ戦いた様子で見つめている。  周安は物凄い形相で進のことを睨みつけ、ドスの聞いた声で恫喝した。  事情を知らない者が見ればまるでヤクザが脅しを掛けている様な迫力だった。 「さぁ! テメェの本音を白状してみろ!」  床に倒れた進の胸倉をつかみ、高く持ち上げると、凄い力で床に叩き付ける。  ドダーン!  叩き付けられた腰を手で押さえながら、周安の凄まじい迫力に涙目になってしまった進は、恐ろしさの余り震え出してしまう。  とにかく何か言わなきゃ、何か言わなきゃ殺されるのではないかと思い、どもりながらも無理に言葉を発し始める。 「……ぼ、僕は、そもそも僕は……この人のことをあんなに好きにならなければ……こんなことには、ならなかったんです」 「ああ? 何だとっ? 声が小さくて聞こえねえんだよ! もっと大きな声でハッキリ言ってみろコラァ!」 「は、はいっ! そもそも僕はっ、この人のことをっ! あんなに好きにならなければーっ! こんなことにはーっ! ならなかったんだぁーっ!」  半ば自棄になった進は頬に涙を流しながら叫ぶ。 「この人と言うのは誰のことだぁーっ!」 「それはこ、ここにいるっ! 依野葵さんのことですーっ!」  結界の中で里瑠を抱きながら、葵はじっと進を見ている。 「そうか、テメェはそんなにこの人のことが好きだったのか!」 「は、はいっ! ……大好きだったよう。だからあんなことになった時……」 「あ? あんなこととはどんなことだ?」 「……」 「言ってみろ! あんなことってなぁ何だよ! 一体何があったんだっ!」 「あ、葵ちゃんが、葵ちゃんが……研究室で、……」 「ああっ? 何だ? 聞こえねえんだよっ! ちゃんと喋らねぇかコラァッ!」  周安が足を上げて進の顔を踏みつけにした。そのままダーンと音を立てて進の顔が床に叩き付けられる。  進は恐怖に耐えながらもやっとのことで言葉を搾り出す様に言う。 「だから葵ちゃんがっ……葵ちゃんが……研究室で……研究室で!」  結界の中にいる葵は思わず耳を覆ってしまう。 「研究室でどうしたぁーっ!」  堪えきれずに進は泣き出してしまう。 「テメェで言えねえんなら言ってやろうか、研究室で他の男とまぐわってたんだろうが!」 「……」 「それをお前が見たんだろうが」 「はいっ……」 「その相手をお前はどうした?」 「……」 「あ? どうした? 言ってみろ、そのことでテメェはその相手の大垣彰と言う人間を一体どうしたんだ? あ? 言ってみろ、言ってみろよコラァ!」 「……」 「どうした? 言えねぇのか? 隠したって分かってんだぞっ! 明王様には何だってお見通しなんだぞ!」  微かに首を横に振りながら、進は戦慄いている。 「言えねぇんなら言ってやろうか、お前がなぁ、殺したんだよお!」 「違う、違う、違う違う……」  進は目をギュッと瞑って激しく首を振る。 「僕じゃない! 僕がそんなことする訳ないじゃないか」 「嘘つけ! お前以外の誰がやったってんだ! さあ言ってみろ! お前が大垣と言う男をどれだけ憎んでいたか白状してみろーっ!」 あまりに理不尽に怒鳴りつける周安に、進も逆上してしまい、声の限りに怒鳴り返した。 「大垣の野朗はわざと僕が見る様に仕向けたんだ! 僕が葵ちゃんのこと好きなのを知ってて……アイツはわざと葵ちゃんとセックスしてるところに僕が来る様に仕向けたんだ~うっうっ……なんて卑劣なヤツなんだ。お坊ちゃん育ちで女にもてるからって良い気になりやがって、自惚れたイヤな奴だったよ、死んでざまァミロだ! そうさ、僕が殺してやったのさ! あいつのマンションから突き落としてやったんだ! あの時研究室でアイツは僕に見られても気にしてないフリしてこう言いやがった。よっ、ご苦労さんだってさ、葵ちゃんは僕の顔見ると真赤になって、慌てて飛び出して行ったよ、僕の葵ちゃん……あんなに可憐で可愛らしかった葵ちゃんが、あんな汚いヤツに……ちくしょううううちくしょううううぅぅぅ~~地獄に落ちてせいぜい苦しめば良いんだ。あんなに僕を苦しめて、僕の人生を台無しにした報いだ! あーっははははははは……」  進の笑い声は、進の口から出ているだけではなかった。宙全体に、本堂全体を揺るがす様に反響し、それに連れて暗闇から進と全く同じ様に口を動かしながら泣き喚いているもう一人の高本進の顔がボウッと現れた。  それは青白い顔をしてギョロリと黒く光るビー球の様な目をしている。そして叫び続ける進と一緒に恨みの言葉を激白する。 「きゃああああ」  葵は里瑠を抱きしめて目を閉じてしまう。  周安は生き霊の姿を睨みつける。 「正体を現したなっ、昭和台病院の村麦医局長と栃木県警の所田刑事を殺したのもお前の仕業だなっ!」 「わーははははは……村麦は自分が上の立場だからって、散々僕のことコキ使いやがって、子分だなんて言われて素直に言うこと聞けるヤツが何処にいるかってんだぁ~~あの刑事は、僕が触れて欲しくないことを暴き出して、人を殺人者呼ばわりして僕の生活をメチャメチャにしようとしやがったんだぁ! どうして、どうしてそっとしといてくれないんだよぉ~」 宙に漂いながら進と同時に激白する生き霊は、血の涙を流しながら吠え続ける。 「葵ちゃん~~葵ちゃん~~僕は本当に君のこと愛していたんだよ~お~」 「やめて、お願いもうやめて高本クン」  耳を覆って葵が叫ぶ。 「ちくしょうう。あの時は胸を焼かれるくらい苦しくて、あんなに声を出して泣いたことは無かったんだぞぅ、後にも先にも……ちくしょう、ちくしょうちくしょううぅぅ……」  生き霊は葵に迫る。結界の中で里瑠を抱きしめて震えている葵に向って激白する。 「きゃああああ!」 巨大化した青白い生き霊の顔が、葵が胸に抱いた里瑠諸共飲み込んでしまいそうなくらい、大きく口を開けて目前に迫って来た……。 「……僕が一体お前の為にどんな思いをして来たと思ってるんだ! あれから僕はアパートから一歩も外へ出ることが出来なくなった! 医大を中退したのもお前のせいだ! お前のことなんか好きにならなければあんなことにはならなかったんだ! 僕だって立派な医者になって、村麦みたいに豪勢な生活をしていたはずだのに、どうしてくれるんだ。僕がこんな侘しいサラリーマンをしてるのはお前のせいだ! 僕の人生を返せ! 元に戻せっ! 僕の為に大金を払って医大に行かせてくれた両親にだって会わせる顔が無いじゃないかぁ!」 「いゃーっ、お願いもうやめてーっ!」  数珠を激しく振り回しながら葵と生き霊の間に周安が立ち塞がる。 「いい加減にしろコラァ! テメェは逆恨みするにも程があるんだよぉ、分からねぇのかあっ!」  周安の振り回す数珠からまるで強風が発せられているかの様に生き霊の顔が怯み、煽られて空中で歪む。 「ちくしょおぉぉぉっっ……お前を苦しめてやるぅっ! 僕にあんな思いをさせた報いだ……葵ちゃん……好きだったようう~殺してやりたいくらい……どんなことよりも、僕はあの時、あのことが……それだけで僕は自分のことが何も出来ない木偶の坊みたいに思えてしまったんだよう~おう~」 「ノウマクサラバタタギャテイビャク~サラバボッケイビャク~サラバタタラタ~センダマカロシャダ~ケンギャキギャキ~サラバビ ギナン~ウンタラタ~カンマン……」  ブツブツと真言を口にしていた周安が進の側に近寄り、数珠を持った手を高く掲げたかと思うと「カーッ!」と言う気合と共に進の前に振り下ろした。 「臨兵闘者皆陳列在前……」  目にも留まらぬ速さで組み合わせた両手の指の形を変え、印を踏んで行く。 「エィイーッツ!」  ドーンと凄まじい音を響かせて周安が床に足を踏み込むと同時に進は沈黙し、ハッと我に返った様に周安を見上げる。 「ショウタ……僕は?」 「シンちゃん。これが本当のシンちゃんの正体なんじゃよ」 「違う! 違う、僕は違うよ、信じてくれよ、葵ちゃんの娘を苦しめるだなんて……僕が、そんな訳ない、僕は葵ちゃんを恨んでなんかない、医者になんかなれなくたって、今のままで充分幸せなんだよ、お金持ちじゃなくたって、社会的地位なんかなくったって、僕にだって家庭があるじゃないか……それが僕の人生なんだよ。本当だよ僕は人を苦しめたりはしないよ」 必死に訴える進とは裏腹に、宙に浮遊する生き霊は恐ろしい形相をして叫ぶ。 「違う! 嘘をつくな! 僕はこの人を死ぬ程恨んでるんだ!」 「違う! 僕はそんな人間じゃない、大好きだった人を苦しめようなんて思うはずないじゃないか」 「僕がうだつが上がらないのは全部この女のせいだ! イライラする毎日、ストレスばっかり溜めて毎日我慢して、それは全部あのことのせいだ! どうせ僕は女にもてない、仕事だって一生平社員だ。女房の尻に敷かれて平凡な取るに足りない生涯を送って死ぬだけじゃないか!」 「それの何処がいけないんだ! 神様に与えられた運命を受け入れて自分の人生を精一杯生きることが、何がいけないんだ! それが一番の幸せなんだぞ」 「心にもねぇこと言ってんじゃねえよ! 誰が言ってるんだぁ、そんなのは僕の言葉じゃないーっ」 周安と葵の見守る前で、進と生き霊は凄まじく罵り合う。  汗びっしょりになり、涙を流しながら嗚咽に耐えて、進は自分に負けじと叫ぶ様に声を張り上げた。  そんな進に助け舟を出す様に周安が活を入れる。 「頑張れ! シンちゃん! 今こそ自分が救われる為に、葵さんを救う為に神仏に祈るんじゃ! 心から祈りを込めてお助けを乞うんじゃ!」 「ごめんなさい、ごめんなさい、僕は自分の人生が冴えないことを全て葵ちゃんのせいにしていました。僕は卑怯な男です。この前も欲望に駆られて卑怯な振る舞いをしようとしました。こんな自分は絶対に許せません。僕はそんな人間ではありません、どうか僕をお助け下さい。僕を本来の僕に戻して下さいお願いします……」  そんな進に生き霊は更に攻撃を加えて来る。 「嘘つけよ~僕の中は恨み辛みでいっぱいじゃないか~」 「与えられた仕事に感謝して、妻と子供がいることに感謝して、これからは周りのこと全てに思いやりを持って生きて行こうと思います。だからどうか里瑠ちゃんを助けて下さい。この子は健康に生きて行く権利があるのです。僕の様な卑怯な人間に邪魔されては行けない。神様仏様、力を貸して下さいお願いします。この世に生まれ出たことに感謝して、これからも自分の人生を受け入れて精一杯生きて行きたいと思います……觀自在菩薩 (くわんじざいぼさつ)行深般若波羅蜜多時(ぎやうじんはんにやはらみつたじ)照見五蘊皆空(せうけんごうんかいくう)度一切苦厄(どいちさいくやく)舍利子色不異空(しやりししきふいくう)空不異色(くうふいしき)色是空……」  進は一生懸命に般若心経を唱える。心から邪心が消えて行く様に、心の底から慈愛に満ちた気持ちになれます様に、心から願いを込めて祈る。  暗闇に浮かぶ生き霊の顔が強風に煽られる様に歪み、苦しみ始める。 「うう……うゎああああっ……」  顔を歪め、苦しみながら宙を舞う様にのたうつ。  そして進の身体に引き寄せられ始める。逃れようとして必死にもがきのたうつ。 「シンちゃん! 負けるな、今こそ生き霊を自分の中に取り戻すんじゃ!」 その声に励まされて、進は一層声を張り上げて経文を唱えた。 「般若波羅蜜多時(はんにやはらみつたじ)照見五薀皆空(せうけんごうんかいくう)度一切苦厄(どいちさいくやく)舍利子色不異空(しやりししきふいくう)空不異包(くうふいしき)包即是空(しきそくぜくう)空即是包(くうそくぜしき)受想行識(じゆさうぎやうしき)亦復如是舍利子(やくぶによぜしやりし)是諸法空相(ぜしよほふくうさう)不生不滅(ふしやうふめつ)不垢不淨(ふくふじやう)不増不減(ふぞうふげん)是故……」  中空を顔を歪めながらのた打ち回る進の分身が強風に押し返される様に後ろ向きに引き寄せられ、進の身体と同化してしまいそうになる。  進の読経が続き、生き霊は「ギョエー……」と苦しみ悶え、苦悶の叫びを上げながら進の中に引きずり込まれて行く。  生き霊が震えながら進の身体に重なった瞬間。周安は持っていた注連縄の束を解いて真言を唱えながら進の身体に投げ付け、グルグル巻きにして行く。  まだ進の身体に同化しきれずのたうつ生き霊諸共、周安は進の身体をギュウギュウと縛り上げて行く。  その時、凄まじい恐怖と苦痛が進の全身を襲う。それは自分から抜け出てしまった怨念を吸収することの苦しみだった。他者に対して自分が発した強烈な敵意が自分に向う場合、その威力は倍になって返って来るのだ。  縄で縛られ動けなくなった進は床に倒れ込み、転げまわって苦しみ悶える。進の身体から逃れようともがく生き霊の姿が二重写しの様に進の身体からブレて見える。  同化されまいと進の中でのたうつ生き霊と、清い心に改心したいと念ずる進の念とが激烈な衝突を繰り返し、それが耐え難い苦痛となって進の身体を打ちのめしているのだ。 「ナウーマクサマンダーバザラ、ダンセンダ、マカロシャダソワタヤーウン、タラターカンマン……」  周安が数珠をジャラジャラと打ち鳴らしながら真言を唱えるに連れて、暴れていた進は次第に動きを弱め、やがて気を失った様に動きを止めてしまう。 「ナウ~マクゥサマンダァボダナン~アビラウンケン……」 「高本クン……」 その様子を、結界の中で里瑠を胸に抱きながら葵はじっと見つめている。     3  やがて本堂の外で鳥たちがさえずる声が聞こえ始め、締め切った扉や窓の隙間から朝日が筋となって本堂の中へ差し始めた。  注連縄で縛られ床に転がされている進はまだ気を失っている。  その横で周安は不動明王の神像に向って読経を続けていた。  結界の中の葵は心配そうに床に倒れた進を見つめている。胸で眠っている里瑠の顔は醜い発疹やカサブタがすっかり取れて、元のスベスベした子供らしい肌に戻り、安らかな顔をしてスヤスヤと眠っている。  気を失って倒れていた進の身体が僅かに動く。  ハッとして葵が見ると、進は「う~ん」と呻く様に声を発して身をよじる。するとあれだけがんじ絡めに縛られていたはずの注連縄が触れもしないのに自然にハラリと解けて行くではないか、驚きのあまり葵は目を見開いてしまう。  周安が読経をピタリと止め、進の方を振り返る。  目を閉じたまま進は縄が解けて自由になった両腕を「う~ん」と上にバンザイする様にして伸ばし、眩しそうに顔をしかめて薄く目を開く。 「………」 「高本クン?……」 「えっ?」  葵の声に呼ばれた進は目を擦りながら葵の方を見る。そして不思議そうな顔をして起き上がる。 「葵ちゃん……」  それから自分のことをじっと見つめている周安の方へ視線を移す。 「ショウタ……」  そんな進の様子を見た周安はニッコリと微笑んでウンウンと頷いて見せる。 「良かった……もう大丈夫」 「えっ……」  と進はまだ訳が分からないと言う風に自分の両手を見たり、顔を触ったりして確かめ、ボンヤリと辺りを見回しながら立ち上がる。  そしてフラフラと歩いて行き、本堂の入り口の大きな扉をガラガラと開け放った。  闇に包まれていた本堂の中が眩い朝日に満たされて行く。  余りの眩さに目を開けていられないくらいだ。  ようやく目がなれて進は外を見上げると、抜ける様な青空が視界よりも広く広がっている。 「あっ、凄い、お外に行ってみたい!」  振り返ると、すっかり元気になった里瑠が結界の中にいる葵の胸から飛び出して入り口に立つ進の脇を走りぬけ、木の階段を降りて境内の庭へ飛び跳ねながら走って行く。 「ねぇママーママ来て、凄いよ! お花がいーっぱい、広いお庭だよ~」  外からの里瑠の声に呼ばれて葵もフラフラと立ち上がると、進の横へ来て外を見る。  見ると昨日は全く気に止めなかったが、境内の中は色とりどりのたくさんの花が溢れんばかりに咲き乱れている。 「高本クン……大丈夫?」  葵は進の顔を見つめた。進の顔もすっかりやつれたところが無くなり、血色も良くなり活き活きとしている。 「うん」  葵を見てニコリと笑った顔はもう健康そのものだった。 「葵ちゃんは?」 「うん……大丈夫」  進は堂内から二人を見守っている周安の方を振り返った。 「ねぇショウタ、ショウタが僕を縛った縄を解いてくれたの?」  その問いに周安は首を横に振り、床に落ちたままの縄を拾いながら言う。 「こん縄は邪悪な物だけを縛ることが出来るんじゃ。シンちゃんの心から邪悪な物が消えたけん、それで自然に解けたんじゃ」  その言葉に進も思わず不思議そうに縄を見てしまう。 「ママ~早く来て、ねぇ里瑠ちゃんにお花取ってよ~早く早くぅ~」 「はいはい、今行くからねー」  里瑠の声に葵も本堂を出て階段を降り、里瑠の待つ庭へ向って駆けて行く。  その様子を見つめている進の胸に、嬉しさが込み上げて来て一杯になる。 「高本クン」  庭で里瑠ちゃんと遊んでいる葵が進の方を振り返って言った。 「なに?」 「ありがとう」  進は顔を横に振って笑顔で答える。  抜ける様な青空と眩い太陽が、静かな森の中に佇む牧挟不動尊を包んでいた。 その日は無事に里瑠ちゃんからの除霊と、生き霊を進に戻す儀式が出来たことを感謝し、お力を貸して下さった不動明王様へのお礼をする為に、三人は並んで御本尊に向ってお昼まで読経を捧げた。 それからすっかり元気になった里瑠ちゃんと葵を先にタクシーで送り出した後、残った進と周安は護摩を炊いた櫓の燃えカスや、本堂の床から儀式の為に上げてあった畳を元に戻したりして後片付けした。 最後の片付けを終えて陽も暮れかけた頃、後は住職様を待つばかりになって、ふたりは静かな本堂に座っていた。 「ねぇショウタ、いや周安様」 「ふふ、ショウタで良いっちゃ」 「でも」 「良いって」  今の進には、ショウタがあの小学生の頃、苛められっ子で泣き虫だった頃の様には全く見えない。尊い修行を積まれ、偉大な力を持った霊能者周安がここにいる。  でも、進のそんな思いとは裏腹に、周安にニコニコと柔和な笑顔で相対されると、こちらから気楽に話しかけたくなる様な空気を醸し出しているのだった。  それこそがまさしく周安と言う名に価する彼の徳なのかと進は思う。 「ねぇショウタ」 「うん?」 「本当にありがとう」 「うん」 「命の恩人だよ」 「ふっ、そげな、オーバーじゃて」 「でもさ」 「なに?」 「いや……これで良いのかなぁと思って」 「何がじゃ?」 「いや、僕と里瑠ちゃんはこれで救われたけど、その、僕が殺してしまった大垣さんと、村麦さんと、所田さんのことが……」 「うん、もうそれは、どうすることも出来んことじゃ」 「でも」 「確かにそれはシンちゃんの中に潜んでいた邪悪な心が犯してしまった罪かもしれんけど、この世の法律では、それを立証して裁くことは出来んのじゃから」 「だけど僕は……」 「そうやな、シンちゃんはそん罪を、これからも背負って生きて行かにゃならんのやな」 「どうすれば良いんだろう……」 「シンちゃんはどう思う?」 「やっぱり、ご遺族に、お詫びしに行かなきゃ……」 「うん、でも遺族の方だって、いきなりシンちゃんが訪ねて行って、御主人は私が殺しましたなんち言うても、ヘンな人が来たと思うち迷惑を掛けるだけなんじゃよ」 「そうか……それもそうだね、だけど」 「シンちゃんに出来ることは、これからもあの時神様に誓った様に清い心で生きてくことと、死んでしまった方たちには、人知れずご供養することだけなんじゃよ」 「……」  やがて山門の下に車が到着する音がして、二人は住職様を出迎える為に本堂を出て下へと降りて行った。  二人は戻って来た住職様に丁重な礼を述べ、牧挟不動尊を後にした。    4  三日振りに自宅に戻った進を見て、出迎えた好江と美由は目を疑うばかりだった。  あの老人の様にやつれ果てていた進が、まるで青年の様に若返って帰って来たのだ。  テーブルに乗り切らない程の手料理を用意して待っていた好江はただ「よかった」と何度も繰り返し、笑顔で涙を流した。 翌日から仕事に復帰した進は他人から見れば勿論のこと、進自身も前とは別人の様になった自分を感じる。  妻がいること、娘がいること、そして仕事があることがこんなにも素晴らしい事だったとは。  そして出会う物、今自分が目にする物全てにありがとうと言って感謝したい気分になっている。  相変わらずの満員電車に揺られて顔を歪めながらも、進は楽しくてしょうがないと言う風にニコニコしている。  傍から見ればかなりヘンな人間と思われているに違いない。 いつもの様に御茶ノ水駅を降りる。  いつもの様にオフィスビルに入り、いつもの様にカウンター脇に設置してあるタイムレコーダーにタイムカードを差し入れ「お早うございます」とオフィス全体に響く様な挨拶をして自分のデスクへと向う。  そこへ総務の倉橋俊子がやって来た。 「お早う高本君」 「お早う御座います」 「なんだか近頃すっかり調子良さそうじゃない」 「そうですか」 「もしかしてまた好江ちゃんと愛が燃え上がっちゃってたりしてねっ、二人目のお子さんも近いんじゃないかしら、まさかもう出来ちゃってたりして」 「煩いんだよ……」 「えっ?」 「煩いんだよ、いつもいつも……いい加減にしろよっ!」  ……驚いたのは進の方だった。気が付くより先に言葉が唇を迸り出ていた。  俊子はビックリした顔をして目を見開いて進を見ている。まるで信じられない物でも見た様な顔だ。 「い、いえあの、私そんなつもりじゃ……」 「あ、すいません」  思わず進も謝っていた。  見るとその時オフィスにいた他の社員たちも、始めて聞く進の大声に茫然とした様に静まり返っている。  その空気に俊子は居た堪れなくなってしどろもどろになっている。 「ごめんなさい、あの、私……」  とぎこちない風に歩いて進のデスクから去って行く。  進の方も気まずくなってしまい、そそくさと鞄を持ってオフィスを出てしまった。  午後の営業を終えてオフィスに戻って来た進は、俊子のいる総務へ立ち寄り、小さな菓子折りを持って俊子のいるデスクへと来た。 「あのう、倉橋さん……」 「は、はい」  と進に気付いた俊子もぎこちなく返事をした。 「コレ、営業先のお客さんから頂いちゃったんですけど、名古屋のお菓子らしいんです。良かったら、皆さんでご一緒にお茶の時にでも、どうぞ」  差し出された菓子折りを受け取って俊子は戸惑った様に進を見る。 「あ、ああ、そうですか、それはわざわざどうもありがとうございます……」  と大げさに笑顔を作って見せた。  俊子に菓子折りを渡した後、営業部の自分のデスクに戻っていた進のところへ、お茶と進が持って来たお菓子を皿に乗せて俊子が来る。 「ありがとう高本さん。コレ美味しいですよ、高本さんも食べてみてよ」 「あ、はい、ありがとうございます」  と進も笑顔で受け取ると、俊子は総務課の方へ戻って行く。 「高本さん」と俊子は言った。恐らくもう二度と以前の様に「高本君」と呼ぶことはないだろう。  自分が怒鳴ったことで俊子さんは傷ついただろうか、きっと傷ついただろう。でもそのお蔭で僕の彼女に対する不愉快な心は晴れて、 きっとこれからはお互い気持ち良く円滑な関係を保って行けるだろう……。 今までの進だったらあんな言い方は絶対にしなかったはずだ。  あの生き霊が僕と同化したお蔭で……嫌、それは違う。アイツは元々僕の中にいた者なんだから。それを僕が無理に封じ込めていただけなんだから、元々アレは、僕なんだから……。  アイツは……ここにいる。僕の中に、そしてこれからは僕が世間に負けない様に生きて行く為に、力になってくれるに違いない。  そう、僕が表で、アイツが裏で、でも確かに僕等は表裏一体。  周安が言っていた様に、全てはプラスとマイナスなんだ。善と悪、強さと弱さ、表と裏、僕とアイツ……。  進の顔つきも以前とは少し変わっていた。  どちらかと言うとタレ気味だった目尻が少し吊り上がった様な感じになった。そのパッチリと開いた目がいくらか悪びれた印象さえ与える。  進は営業の間を縫って世田谷区成城の村麦の家を訪ね、改めて祭壇へ線香を上げた。  その時家にいたのは村麦の妻則枝だけだったが、葬式が終わってこれ程日が経っているのに、尚夫の為にご焼香に来てくれる友人は貴方だけだと言って進の来訪を喜んだ。 そんな村麦の妻に進は申し訳ない気持ちで一杯になったが、自分が殺した村麦に対する罪の意識の様な物は、不思議と浮かんで来ないのだった。  それから大垣彰と所田義晴の墓参りをしようと思い、週末を利用して栃木県真岡市を訪ねた。  遺族に会うつもりは無かったのだが、大垣彰の墓石に手を合わせているところへ、偶然妻の圭子が小学生の二人の子供を連れて来てしまった。 「主人の、お知り合いの方ですか? 遠いところをありがとうございます」  と感謝され、深々と頭を下げられたのには恐縮してしまった。  大垣の残したまだ2年生の男の子と1年生の女の子を見ていると胸が押し潰されそうになる。 「僕は……大垣さんに、お詫びを言う為に来たんです……」  思わず口走っていた。 「は? お詫びと言うのは?」 「はい、実は僕は……」  まさか御主人を殺したのは僕なんです……とは言えなかった。 「生前に僕は、御主人のことを、酷く憎んでいたことがあったものですから……」 「主人を憎んで? ですか、でもそれは一体どう言ったことで?」 「はい……御主人は学校の成績が良くて、容姿も端麗で、お家柄もとっても良かったものですから、僕は、その、妬んでいたんです。羨ましくて、僕は、とても卑怯な男だったんです……」  言っているうちに涙がこぼれて来る。 「どうも……申し訳ありませんでした」  歯を食い縛って頭を下げる進をじっと見て、圭子は驚いてしまった。 「いえ、そんな、いいんですよそんなことは、貴方はとても正直な方でいらっしゃいますね」 「いえ、僕は、そんなことではないんです」 「私は、とても嬉しく思います。主人のことを、そんな風に思って下さる方がいてくれたことを、誇りに思います」  建ち並ぶ墓石の周りを走り回り、遊んでいる二人の子供たちと圭子の前で、進は頭を下げたまま上げることが出来なかった。 そして所田義晴刑事の墓を訪れるべく、墓の所在を教えて貰おうと、生前所田が勤務していた栃木県警所轄の真岡署を訪ねることにした。  真岡署は真岡鉄道の真岡駅からバスに乗り、県内から茨城県へと流れる美しい五行川を渡ったところにあった。  前が広い駐車場になっており、三階建ての古びた署舎が建っている。  ここであの刑事さんは何十年も勤めていたんだ……。  中へ入り、受付けの担当者に来訪の旨を告げると、奇異な目で進のことを見つめたかと思うと奥へと向かい、進の方をチラチラと見ながら上司らしき人に相談している。  するとその上司らしき男が席を立ってやって来た。 「あのう、所田さんにはお世話になったので、是非ともお墓に詣でさせて頂きたいのですが」  と言うと。 「そうですか、所田さんのお墓はですね、遠縁に当たるご親族のお墓に合葬されていまして、ちょっと遠いですよ」  と、所田の親族の墓のある場所を教えて貰うことが出来た。 それは真岡市から私鉄を乗り継いで3時間余りも行った那須郡のうら寂しい町外れにあった。  人気のない墓地の中を歩き回って探し、所田家の墓石を見つけた。  墓石の側面に並んで彫られた名前の末端に、義晴と言う名前を見つける。  ああ……あの刑事さんが生きていた名残りを残す物は、もうこの小さな名前だけなんだな……と思うと、うら悲しい思いが込み上げて来る。  生前のあの薄汚れた所田の風貌を思い浮かべながら、線香を上げて合掌した。  周安の言う様に、人が死んでも霊魂が永遠に行き続けているものなのだとしたら、今こうして墓参りに来ている進のことを、所田の霊は今何処かで見ているのだろうか。  所田の霊は進のことをどう感じているのだろう……。  そう思った時、進の脳裏に閃く物があった。それは「所田は進のことを恨んで等いない」と言うことだった。  それどころか、今こうしてはるばる訪ねて来てくれたことを喜んでくれている……。  勝手な解釈と言われればそれまでなのだろう。だが、何故か進はそう確信出来る気持ちになってしまうのであった。  周りの人間から奇異な目で見られながらも、進の生き霊の犯行を殺人事件として立証する為に孤軍奮闘していた所田。   警察官としての人生最後の大舞台として、この事件に命を賭けていた所田の戦い。  寂しい墓地に風が吹きすさび、進の捧げた線香の煙をたなびかせて行く。                             了
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